第13話 父の机の右

 テープが止まったあとの静けさは、これまででいちばん重かった。


 返却便係の蛍光灯が、じ、と小さく唸っている。

 机の上には、母からの封筒と、聞き終えたばかりのカセットテープ。

 そしてその横に、まだ白い紐の中に置かれたままの黒い封筒。


 家族便三通目確認後開封


 銀色の文字が、まるでこちらの会話を待っているみたいに冷たく光っていた。


「……父さんが持ち出したって、どういう意味ですか」


 湊はようやく声を出した。

 自分のものと思えないくらい、掠れていた。


 榛原蓮司はすぐには答えなかった。

 代わりに、停止したカセットプレイヤーのボタンを見つめる。


「言葉通りなら、“控え原本”を物理的に持ち出したって意味だ」


「控えって、母さんが受け取った“保留の記録”ですよね」


「たぶんな」


「じゃあ父さんは、それを知ってた?」


「少なくとも存在には気づいてたはず」


 風見梓が母の封筒を指先で整えながら、静かに続ける。


「問題は、“知っていて隠した”のか、“隠すしかなかった”のか、そのどっちか」


 湊は机の縁を握った。

 父の顔を思い出そうとする。

 新聞を読む横顔。

 帰宅の遅い平日。

 声は低くて、家では口数が少なかった。

 怒鳴る人ではなかった。けれど、何を考えているのか子どもにはわかりにくい人だった。


「……父さんが、俺たちを守ろうとした可能性もあるんですか」


 榛原が少しだけ目を細める。


「ある」


「ないって言わないんですね」


「今はまだ、ないって言えるだけの材料がない」


 その言い方が、ありがたくもあり、怖くもあった。


 風見が鍵束を持ち上げる。

 残っているのは一本。


 机右


「次はこれ」


「今からですか」


「今から」


 風見も榛原も、迷わなかった。


「“あとで”をやめろって、テープで言われたばかりだろ」


 榛原の言葉は、厳しいのに不思議と責める響きがなかった。

 湊は小さく頷く。


「……行きます」


     ◇


 旧宅跡へ向かう道は、昼よりもずっと静かだった。


 夜の住宅地。

 閉じた雨戸。

 信号のない横断歩道。

 遠くで一度だけ鳴く猫の声。


 だが湊には、その全部が少しずつ、昔のままに戻りかけているようにも見えた。

 公園の鉄棒。

 坂道の角。

 歩道橋の下の自販機。

 忘れていたはずの細部ばかりが、夜の中で妙にはっきりしている。


「父さんの机、どこにあったか覚えてる?」


 風見が歩きながら尋ねる。


「居間の隣の小さい部屋です。書斎ってほどじゃないけど、父さんが家計簿とか手紙とか置いてた場所」


「右の引き出し?」


「うん。鍵付きだった気がします」


 その瞬間、胸の奥で何かがつながった。


 台所の吊り戸棚。

 玄関の小物入れ。

 そして父の机の右の引き出し。

 家族それぞれが、“誰かに見つからないようにしまった場所”が、まるで順番に呼び出されている。


「家族便って」


 湊がぽつりと言う。


「ひとつの家の中で、みんなが別々に“隠した”結果でもあるんですね」


 風見は少しだけ驚いたようにこちらを見て、それから頷いた。


「そう。

 受け取らなかっただけじゃない。

 受け取ったあと、しまい込んだものも未配達になる」


 榛原が前を向いたまま言う。


「柊家の件が長引いてるのは、それだろうな。

 兄は“あとで”って隠した。

 母親は代理受取の控えを隠した。

 父親も原本を持ち出して隠した」


「ひよりは?」


 湊が聞くと、榛原は短く答えた。


「たぶん、ずっと待ってた」


 その一言が、いちばん痛かった。


     ◇


 旧宅跡の駐車場に着くと、郵便受けはまだそこにあった。


 夜の街灯に照らされて、古びた緑色の箱が鈍く光っている。

 だが今夜は、前みたいに投函口が勝手に動くことはなかった。


「玄関も台所も開いた。次は書斎」


 風見が低く言う。


「家の骨組みが呼び戻されやすくなってるはず」


 湊は目を閉じ、旧宅の間取りを頭の中でなぞる。


 玄関。

 廊下。

 左に居間。

 その奥、引き戸一枚分だけ仕切られた小さな部屋。

 父の机。電話。分厚い辞書。年賀状の束。


「……ここ」


 駐車場の中央より少し奥。

 湊が指した場所で、夜気がかすかに揺れた。


 次の瞬間、薄暗い部屋の輪郭が立ち上がる。


 壁までは完全に出ない。

 けれど、畳の端、低い本棚、卓上ライト、そして木製の机だけが、そこに“あったこと”を思い出すみたいに浮かび上がった。


「出た」


 風見が小さく呟く。


 榛原は机の前にしゃがみ込み、鍵穴を確認する。


「右の引き出し。

 鍵、合いそうだな」


 湊は鍵束から最後の一本を取った。

 タグには机右。


 だが差し込む直前、机の上に何かがあるのに気づく。


「……写真立て」


 半透明の机の上に、小さな写真立てが置かれていた。

 中の写真はぼやけて見えない。

 けれどその前に、白い灰が少しだけ散っている。


「灰皿?」


 榛原が眉をひそめる。


「お父さん、吸ってたのか」


「いや、家では吸わなかったはずです」


「じゃあ誰かがここで煙草を」


 言いかけたところで、湊の耳にかすかな擦れる音が届いた。


 紙をめくる音。

 机の右側からだ。


「……開けて」


 今度は、声だった。

 低い男の声。

 父に似ている。

 けれど完全には一致しない。


 風見がすぐに言う。


「返事しない」


「わかってます」


「でも開ける」


 榛原が補足する。


「今のは阻止じゃなくて、誘導の可能性が高い。

 机右を指定してきてるなら、順番は合ってる」


 湊は鍵を差し込んだ。


 かち、と軽い音。

 昼間の台所の戸棚よりも、ずっと乾いた、古い木の鍵の音だった。


 引き出しを開ける。


 中には、封筒ではなく、薄い茶色の書類ケースが入っていた。

 ゴム紐で留めるタイプの、古い事務用ケース。

 表に父の字で、ただ一言だけ書いてある。


 見つけたら、榛原さんより先に読まないこと。


 三人とも黙った。


 最初に口を開いたのは榛原だった。


「……感じ悪いな」


 風見が思わず吹き出しかけ、すぐ真顔に戻る。


「知り合いだったの?」


「顔は見た。二、三回だけ」


 榛原はケースを見つめたまま言う。


「相談文をもらう前に、向こうから局に来たことがある。

 “うちに変なものが届いたんですが”ってな」


「父さんが?」


 湊が驚く。


「俺は最初、ただのクレームかと思った。

 でも、あの人は封筒を開けてないのに、“中で返事を待ってる感じがする”って言った」


 背筋が寒くなる。

 あまりにも、この一連の現象を正確に言い当てている。


「つまり父さん、かなり早い段階で気づいてた」


「そして誰にも全部は言わなかった」


 風見が静かに言う。


 榛原は書類ケースを受け取る前に、湊へ視線を向けた。


「お父さんの指示通りにする。

 まず俺が読む。

 そのあと必要なところを、おまえたちに出す」


「必要なところ、だけですか」


「全部読むと、今のおまえは父親側に引っ張られるかもしれない」


「父親側?」


「“家族を守るために隠した側”の論理だよ」


 榛原の言葉は冷たいようでいて、実際にはかなり慎重だった。


「柊家の誤配は、善意だけでも悪意だけでも回ってない。

 だから、誰の理屈に先に乗るかで、次の手が変わる」


 湊は悔しさを飲み込み、頷いた。


「……お願いします」


 榛原がケースを開く。

 中には三つのものが入っていた。


 一つ目。

 役所の住民票みたいな薄い写し。


 二つ目。

 母宛てのものと同じ形式の、赤い印字の入った控え票。


 三つ目。

 小さな録音機用のマイクロカセット。


「またテープ」


 風見が言う。


「家族、記録を残す派ね」


「文字だと混ざるんだろう」


 榛原はまず住民票の写しを見た。

 その瞬間、顔色が変わる。


「……どうした」


 風見が訊く。


 榛原は少し黙ってから、その紙を湊へは見せずに言った。


「お父さん、“柊ひより”の戸籍上の記録が消え始めてることに気づいてた」


 湊の息が止まる。


「消え始めてるって」


「写しの日付が、事故の直後だ。

 その時点で、家族票の記載に揺れがある。

 ある版にはいる。別の版にはいない。備考欄だけ残る。……そういう状態だ」


「そんなこと、現実に」


「現実じゃないことが起きた結果だろ」


 榛原は次に、赤い印字の控え票を見る。


 母のと似ている。

 だが今度は宛名が違った。


「……やっぱりか」


「何が書いてあるの」


 風見が聞く。


 榛原は紙を持ち上げ、二人に見える向きへゆっくり回した。


 そこには、機械的な文字でこう印字されていた。


 代理受取申請書

 受取人変更先:柊 弘志


「父さんの名前……」


 湊が呟く。


「母さんだけじゃなく、父さんも受け取ろうとしたんだ」


 榛原は小さく頷く。

 だが、その下の結果欄を見て、さらに低い声になる。


 審査結果:条件付き承認


「母親のは不承認だった」


 風見の声が硬くなる。


「でも父親のは通った?」


「条件付きでな」


「条件は?」


 榛原は目を走らせ、読み上げた。


「原本一時保管義務。家族への直接説明禁止。係外への相談禁止。」


 湊は思わず言った。


「そんなの……受け取ったら、何も言えなくなるじゃないか」


「たぶんそれが条件なんだろうな」


 榛原は吐き捨てるように言う。


「子どもを“通常記録へ戻す可能性”と引き換えに、父親を保管係にした」


「保管係」


「控え原本の持ち出しを許可する代わりに、説明させない。

 つまり、家の中で父親だけが全部知って、でも言えない状態にした」


 風見が目を伏せる。


「最悪の条件」


「だからあの家は、みんな別々に隠すしかなかった」


 榛原の言葉に、湊は胸の奥を強く掴まれた気がした。


 父は黙っていた。

 母は何かを隠した。

 自分は“あとで”にした。

 ひよりは待った。


 誰か一人が悪い物語なら、どれだけ楽だっただろう。

 でもこれは、たぶんそうではない。


「マイクロカセット、再生できる?」


 風見が聞く。


「係にアダプタがある」


「本当に何でもありますね……」


「返却便係を何だと思ってるんだ」


「過去が溜まる場所」


 湊がそう返すと、榛原は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


「……まあ、だいたい合ってる」


 そのときだった。


 半透明の書斎の奥、本棚のあたりで、かすかな物音がした。

 誰かが立った気配。


 三人が同時にそちらを見る。


 薄暗い部屋の輪郭の中、背の高い男の影が立っていた。

 スーツ姿。

 細いフレームの眼鏡。

 顔はよく見えない。けれど、その肩の線と立ち方を、湊は知っていた。


「……父さん」


 影はすぐには消えなかった。

 こちらを見ているようで、でも目は合わない。


 右手に、何か白いものを持っている。

 封筒だ。


 父の影はそれを机の上へ静かに置いた。

 それから、口を開く。


 声は聞こえない。

 だが唇の動きだけは読めた。


 まにあわなかった


 湊が一歩踏み出す。


 その瞬間、榛原が鋭く肩を掴んだ。


「行くな」


「でも!」


「今のは記録の残響だ。追いつけない」


 父の影は、机の上の封筒を指先で押しやるようにしてから、ゆっくりと薄れていく。


 最後に残ったのは、白い封筒だけだった。


 現実の机の上に、たしかに一通ある。


「……増えた」


 風見が低く言う。


 さっきまでなかった封筒。

 表に、父の字で短く書かれている。


 開封は、四人で。


「四人?」


 湊が言う。


 風見、榛原、自分。

 それで三人だ。


 では四人目は誰なのか。


 榛原が封筒を裏返し、短く息を呑んだ。


「……まずいな」


「何が書いてあるんです」


 榛原は一拍置いて、答えた。


「四人目は、すでに一度ここに来ている」


 その言葉と同時に、駐車場の隅の郵便受けが、遠くでかちゃん、と鳴った。

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