第12話 台所の上
零列の最奥、見えない暗がりの向こうで、誰かが静かに笑った。
ぞっとするほど小さな笑い声だった。
男とも女ともつかない。近いようで遠い。倉庫全体の壁の裏から同時に聞こえたみたいな、不自然な響きだった。
「……撤収」
榛原が、白い紙の舟を握ったまま低く言う。
「今すぐ?」
湊が問うと、風見が即答する。
「今すぐ。零列が“母親の申請群”を出してきた時点で、ここはもう確認場所じゃない。巻き込み場所になる」
天井から張りついていた無数の封筒が、まだぱたぱたと口を開閉している。
そのたびに白い紙片が一枚ずつ落ちてきて、床に母の字が増えていく。
代理受取を申請します
受取人変更を再申請します
子どもはまだ知りません
見ているだけで頭が重くなる。
どれが本物で、どれが零列の増幅なのかわからない。
「湊、足元だけ見て」
風見が懐中時計を片手に、もう片方で白い紐を巻き取る。
「紙は踏んでもいい。でも読もうとしない」
「踏んでいいんですか」
「今は紙の気持ちより命優先」
榛原が円の外へ一歩出る。
その瞬間、棚の奥の暗がりがゆっくり蠢いた。
誰かがいる。
そう思った。けれど顔は見えない。ただ、配達バイクの排気ガスみたいな、濡れた金属の匂いだけが濃くなる。
榛原は振り返らないまま言った。
「呼ばれても返事するな。
母親の声でも、ひよりの声でも、俺たちの声でも、今ここでは“続きの言葉”を待て」
「続きの言葉?」
「普段の呼び方じゃなく、内容があるまで動くなってこと」
その説明の途中で、すぐ頭上から声が落ちてきた。
――湊。
母の声だった。
今度はさっきよりはっきりしている。台所から呼ばれるみたいな、平日の夕方の声。
湊の足が止まりそうになる。
だがその直後、声はちゃんと続いた。
――上は見ないで。右の高いところ。
風見と榛原が同時に顔を上げた。
「……今の、誘導じゃない」
風見が言う。
「場所指定だ」
「台所上のことか」
榛原が白い舟を開く。
小さな折り紙の底に、さっきまではなかった赤い追記が増えていた。
みぎ いちばんうえ
「ひよりちゃんも同じこと言ってる」
「なら信じる」
榛原が即断する。
「戻るぞ。次は旧宅だ」
◇
倉庫を出るまで、三人は一度も後ろを振り返らなかった。
零列の入口の鉄扉を閉めた瞬間、内側から紙が一斉に擦れる音がした。
誰かが扉の向こうへ寄ってきているみたいだったが、榛原は無視してレバーを下ろす。
がこん、と重い音。
壁の搬送口が閉じる。
ようやく、地下の返却便係まで戻ったとき、湊は全身の力が抜けた。
「……あそこ、毎回あんな感じなんですか」
「毎回なら俺は最初の一週間で辞めてる」
榛原が言う。
「辞めてないけど」
風見がぼそりと返す。
「辞められてないだけだ」
そのやり取りだけで、この二人が似た種類の人間だとわかった。
机の上の黒い封筒は、まだ白い紐の中にあった。
だが銀文字が、また少し書き換わっている。
立会必須
前任者同席推奨
その下に新しく、
家族便三通目確認後開封
「……増えた」
湊が呻く。
「家族便、まだ三通目があるのか」
「あるんだろうね」
風見は母宛ての封筒を机の端へ置いた。
零列で拾わなかったのに、なぜかそこにあることに、今さら突っ込む気力はなかった。
榛原は旧宅から出た鍵束を机に並べる。
物置 / 台所上 / 机右
「右の高いところ。
ひよりちゃんの指示とも合う」
「じゃあ台所上からですね」
「そう」
風見は時刻を見る。
午前二時を少し回っていた。
「今から行く」
湊は目を瞬く。
「え、朝じゃなくて?」
「朝まで待つと、零列が“母親の代理受取申請”を整理し始める」
榛原が言った。
「整理されると、どれが本人の意思で、どれが倉庫の増幅かわからなくなる」
「つまり今がいちばんマシ」
「そういうこと」
湊は頷くしかなかった。
◇
旧宅跡の駐車場に着いたとき、夜の住宅地は静まり返っていた。
街灯の下、あの古い郵便受けだけがぽつんと残っている。
昼間よりさらに場違いで、けれど今はそれがある方が自然に思えた。
「郵便受けは開けない」
榛原が先に言う。
「今は玄関じゃなくて台所を探す。
家族便は、“前に開いた入口”とは別の場所から入れることがある」
「どうやって」
「しまった人間の癖を辿る」
榛原はそう言って、駐車場の中ほどへ進んだ。
何もないアスファルトの上。
だが彼は迷いなく、ある一点で立ち止まる。
「ここが流し台の前」
「わかるんですか」
「配達員は家の間取りを意外と覚える」
風見も辺りを見回しながら、足先で地面を軽く叩いた。
「そこから右手に冷蔵庫。
その上が吊り戸棚だったなら、“いちばん右の上”はこの辺ね」
何もない空間に、二人が位置を割り出していく。
湊も記憶を辿る。
古い台所。
壁付けの流し台。
換気扇。
その上に並ぶ戸棚。
右のいちばん奥には、子どもの自分たちが届かないようなものを母がしまっていた。
「……ここです」
湊が指した空間で、空気が少しだけ揺れた。
次の瞬間、夜の駐車場の真ん中に、半透明の台所が現れる。
完全な家ではない。
壁も床も曖昧だ。
けれど、流し台と吊り戸棚だけが、夕方の台所みたいな色で浮かび上がっている。
「毎回思うけど、慣れないな……」
風見が小さく呟く。
「慣れたら終わりだろ」
「それ前にも聞きました」
「いい言葉は何度も使う」
榛原がそう言って、台所の輪郭の前に立つ。
吊り戸棚の右端。
たしかに、そこに小さな鍵穴があった。
「台所上の鍵」
風見が鍵束から一本選ぶ。
銀色の細い鍵。タグには台所上。
だが差し込もうとしたところで、湊の耳に小さな声が届いた。
――お兄ちゃんじゃないとだめ。
ひよりの声だ。
「待って」
湊が言う。
「たぶん、俺がやります」
「理由は?」
風見が訊く。
「母さんが隠した場所だから。
俺たちに見つからないようにしたんじゃなくて、“俺に見つけさせるため”だった気がする」
言ってから、自分でも驚いた。
でも、そうとしか思えなかった。
榛原は数秒だけ湊を見て、それから鍵を渡す。
「開けるとき、名前を呼ばれても返事するな」
「わかってます」
「見慣れた台所の音がしても振り向くな」
「それもわかってます」
「母親に謝りたくなっても、先に謝るな」
その注意だけは、湊はすぐに頷けなかった。
榛原の目が少しだけ柔らかくなる。
「向こうが“受け取ったこと”を先に確認しろ。
謝罪は、そのあとで間に合う」
湊は小さく息を吐いた。
「……はい」
鍵を差し込む。
するりと入った。
回す。
かち、と軽い音。昼間の玄関のときよりずっと小さい、日常の戸棚の鍵の音だった。
戸棚の扉がゆっくり開く。
中には、古びたお菓子の空き缶が一つだけ入っていた。
青い花柄。
見覚えがある。母が裁縫道具や薬を入れていた缶だ。
「……これ、うちにあった」
湊が手を伸ばすと、缶の表面は少しだけ温かかった。
ついさっき、誰かが台所に立っていたみたいに。
蓋を開ける。
中には、封筒が一通と、小さなカセットテープが一本入っていた。
封筒の表には、母の字でこう書かれている。
湊へ。先にテープを聞いてください。
湊の喉がひどく詰まった。
「……俺宛てだ」
「家族便三通目」
風見が低く言う。
「ようやく出たね」
榛原はカセットテープを見て、眉をひそめた。
「再生機、係にあるか?」
「ある」
「なんで」
「昔の便で使うことがある」
「ほんとに何でもあるな、あそこ……」
湊は封筒を握ったまま、しばらく動けなかった。
母が、自分に宛てて残したもの。
しかも“先に聞いてください”と指定している。
零列の母宛て封筒。
代理受取申請。
承認されなかった変更。
そして、今これが出てきた。
「戻ろう」
風見が言う。
「再生は返却便係で。
ここで聞くと、たぶん“家の中の声”に引っ張られる」
「……そうですね」
湊は缶の中身を丁寧に抱えた。
そのとき、半透明の台所の奥――本来なら勝手口があるはずの場所で、かちゃん、と小さな音がした。
三人とも振り向く。
見えないはずの勝手口の輪郭が、一瞬だけ浮かぶ。
その向こうに、誰かの影。
エプロン姿。
後ろ姿。
小柄な女の人。
「母さん……?」
思わず湊が呟いた瞬間、その影は振り返らなかったまま、右手だけを上げた。
“まだ”というように。
あるいは、“先に聞きなさい”というように。
次の瞬間、台所の輪郭ごと消える。
夜の駐車場だけが残った。
◇
返却便係に戻ると、榛原は棚の奥から古い携帯用カセットプレイヤーを持ってきた。
「ほんとにあるんだ……」
「あるって言っただろ」
「この職場、過去の亡霊の備品多すぎません?」
「亡霊って言うな。現役のも混ざってる」
榛原がそう返し、風見がイヤホンではなく小さな外付けスピーカーを繋ぐ。
「三人で聞く」
「立会ですね」
「そう」
テープを入れる。
再生ボタンを押す。
少しの空回り音のあと、ざっ、とノイズ。
そして、母の声が流れた。
『……湊。これを先に聞いているなら、たぶん私は、うまく説明できないまま何かを受け取っています』
湊は椅子の背を握った。
たしかに母の声だ。
いつもの優しい調子なのに、少しだけ息が浅い。
『あなたにはまだ見せない方がいいと、最初は思っていました。
でも、それではまた“あとで”になる。
だから、聞いてください』
テープの向こうで、何か紙をめくる音がする。
『あの日、ひよりが先に返事をしてしまったあと、私は榛原さんに相談しようとしました。
けれど手紙を出す前に、もう一通届いたのです。
私宛てに。
そこには、“母親が代理受取すれば、子どもは通常の記録へ戻せる”と書いてありました』
風見が顔を上げる。
榛原の表情が硬くなる。
テープは続く。
『私は、それを信じました。
でも受け取ったあとでわかりました。あれは訂正ではなく、保留でした。
子どもの行き先を戻す代わりに、母親が“届かなかった側の控え”になるだけだったのです』
湊の呼吸が止まる。
『だから、もしこの先、私が二重に見えたり、話したことと違うことを書いたりしたら、その一部は“控え”です。
本当の私が全部言っているとは思わないでください』
ノイズ。
少しだけ、母の声が遠くなる。
『それでも、台所の上にこれを残します。
次は、あなたのお父さんの机の右です。
そこに、榛原さんが持ってきてしまった最初の伝票の写しがあります』
風見と榛原が同時に顔を見合わせた。
「持ってきてしまった?」
湊が呟く。
榛原が眉間を押さえる。
「……写しを取ってたのか」
テープの最後、母の声が少しだけ柔らかくなる。
『湊。
“あとで”を今度はやめてください。
ひよりと、あなた自身のために。
それから――』
そこで、母の声が一度途切れた。
次に流れたのは、母ではない声だった。
低い。
聞き覚えのない、少し機械じみた声。
『代理受取者 柊志保。控え記録を確認します。』
風見が即座に停止ボタンへ手を伸ばす。
だがその前に、スピーカーから最後の一文が流れた。
『控え原本は、すでに父親が持ち出しました。』
ぶつ、とテープが切れた。
室内が静まり返る。
湊が最初に口を開く。
「……父さんが?」
榛原が低く言った。
「そういうことか」
「何がですか」
「未記録の配達処理者」
彼は、机の上の家族写真を見た。
「たぶん、最初から“係”だけじゃない。
おまえの父親も、この誤配に関わってる」
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