久遠のバネッサ -皇帝のご寵愛-【外伝・短編】

@Vane_Kuon

第1話「雪国のバー」

昔々、もしくは、はるか遠い未来の話。

こうであったかもしれない日本。


東北の雪深い街の片隅に、バー「皇帝こうていのご寵愛ちょうあい」はありました。


かつてこの店は、有名な大人の社交場でした。

各地の採取師が集まり、物資や情報を交換し、酒を飲み、喧嘩を楽しむ。

夜ごと笑い声と怒鳴り声が響き、それはそれは盛況だったのです。


しかし、遠隔地同士でやり取りする手段が発達した現在、この地まで足を運ぶ採取師は減ってしまいました。


今では、閑古鳥が鳴いています。


伝統も、愛着もある店でした。

けれど、オーナー兼店主マスターであるサムは、悩んだ末に閉店を決意します。


最後に一度だけ、パーティを開こう。


そう決めたサムは、古い馴染み客に連絡を取り、酒や料理の仕込みを進めていました。


最後のパーティを来週に控えた、とある日の夕刻。


開店の準備を終え、一服していたサムが壁の時計を見て煙草をもみ消しました。

看板代わりのランプを点けようと、カウンターをくぐったその時です。


目の前の扉が、勢いよく開きました。


一度来店した客の顔は、必ず覚える。

それがサムの自慢でした。


けれど、長身の自分を見上げている金髪の娘に、見覚えはありません。


「あなたが、このバーの店主さんですか?」

「ああ、そうだよ。ご用は何だい、お嬢ちゃん」


お嬢ちゃん、と呼ばれた金髪娘は、一瞬だけ表情を固くしました。

しかしすぐに、にこりと笑みを浮かべます。


「この店を畳むと聞いて、やってきたのです」

「そうかい。しかし、ここはお嬢ちゃんのような若い娘が楽しめる店じゃないが」

「いえ。今日は、お客として来たのではないのです」


金色の髪を軽く揺らし、緑の瞳を輝かせながら、娘は言いました。


「この店を、買い取りに参りました」

「……はぁ?」


サムは、何の冗談かと思いました。


しかし、金髪娘は本気のようです。

きょろきょろと店内を見渡し、柱や壁、建具の具合まで、勝手に確認し始めています。


完全に気を抜かれていたサムは、ようやく口を開きました。


「お嬢ちゃん、ちょっと待ってくれ」

「はい?」

「ああ、何と言うか。……聞きたいことがあるんだが」

「何でしょう」

「まず、君は何者なんだ?」

「あ」


娘は、今さら気づいたように目を丸くしました。

それから、にぱっと白い歯を見せます。


「すみません、申し遅れました。バネッサと申します。以後、お見知り置きを」


◇ ◇ ◇


バネッサと名乗った金髪娘が提示した金額は、法外なものでした。


こんな田舎の、潰れかけのバーに、なぜこれほどの値をつけるのか。

当然の疑問が、サムの頭をもたげます。


「この金額なら、もっと都会の一等地でも店を出せるだろうに」


「でも、私はここを残したいのです、サムさん」

「できれば、その理由を聞かせてもらえるか」

「私の大事な方の、思い出の場所なのです。それと……」

「なんだ」


「『皇帝のご寵愛』って響きが好きなんですよ」


サムは、最初は断るつもりでいました。


ところがバネッサは、翌日も、その翌日も店にやってきました。

そして、妙に礼儀正しく、妙にしつこく、店を譲ってほしいと懇願するのです。


結局、サムは根負けしました。


そもそも、店は畳むつもりだったのですから。


「金は、最初の金額の半分でいい」

「え、良いんですか」

「金に困っているわけじゃないんだ」

「嬉しいですー。それでは、お言葉に甘えます」

「店の名前は、……残してくれるんだよな」

「はい、もちろんです」


バネッサは胸を張ってうなずきました。


「それと、建物全体が傷んでいるので、多少の改修工事をしようと思っています」

「それはありがたいな」

「あと、……差し出がましいお願いがあるのですが」

「なんだい」


「サムさんには、今のままマスターとして残っていただけないでしょうか」


サムは、少しだけ黙りました。


今さら、他人に仕えるというのも妙な話です。

けれど、店を閉めた後に何をするかなど、何も思いついていませんでした。


それに、この奇妙な金髪娘が、いったいこの店をどうするつもりなのか。


少しだけ、見てみたい気もしました。


「……当面は、週契約でなら受けよう」

「ありがとうございます、サムさん」


バネッサは、ぱっと顔を明るくしました。


◇ ◇ ◇


「では、契約書もこの通りということで。早速、明日から工事の人間をよこしますね」


「ああ、すまないが、明日から一週間ほど遠出する。閉店の案内状を送ってしまった人たちに会って、お詫びと挨拶をしてこようと思うんだ」

「なるほどです。では、工事はそれまでに終わらせておきますね。楽しみにしていてください」

「……一週間で?」

「はい」


バネッサは、当然のように笑いました。


契約金は、すでに入金されていました。

バネッサは「新装開店のビラも作らなきゃですね」などと陽気に言っており、サムも、なんだか愉快な気分になってきます。


これで良かったのかという不安が、ないわけではありません。


けれど、時代は移り変わっていく。

自分はただ、その流れに少し乗り遅れていただけなのかもしれない。


そう思うことにして、サムはこの奇妙な娘に、店の未来を任せることにしました。

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