第2話 壊れた天秤
洞窟から帰還したアルトは、ギルド専属の治癒魔導師によって「修復」された。
そう、彼は「治療」ではなく「修復」されるのだ。意識を失うほどの出血をしても、翌朝にはケロリとした顔でギルドの食堂に現れる。
「おはよう、カイル」
パンを口に運びながらアルトが声をかける。昨日、死の淵を彷徨ったはずの少年は新品のシャツに着替え、傷跡さえも治癒魔法で消え去っていた。
だがカイルの顔は死人のように青白い。昨夜、リアが泣きながら「あんなの、人間じゃない」と漏らした言葉が耳を離れないのだ。
「……アルト。しばらくは、休まないか」
「どうして? 傷はもう塞がったし十分動けるよ」
「身体の問題じゃないんだ。お前、自分が死にかけたって自覚があるのか?」
アルトは不思議そうに瞬きをした。
「自覚……? ああ、血を流しすぎると意識が遠のくのは分かってるよ。でも、死んでないし痛くない。だから問題ないよ」
会話が噛み合わない。
カイルにとっての「痛み」は、恐怖や忌避すべき対象だ。しかし、「痛みがない」アルトにとって世界とは損得勘定だけで動く合理的なものだった。
その日の依頼は、森に住み着いた狂暴な猿魔獣の群れの討伐だった。
数は二十体以上。本来なら囮を使い慎重に数を減らすべき案件だ。
「僕が囮になる。みんなは後ろから仕留めて」
作戦会議を無視して、アルトは森の奥へ突き進んだ。
猿魔獣たちが一斉に飛びかかる。鋭い爪がアルトの背中を、腕を、太ももを裂く。
「アルト! 戻れ!」
カイルの叫びを、アルトは聞き流した。
彼は自分の腕が切り刻まれても一歩も引かなかった。むしろ、爪が食い込んでいるその瞬間に猿の首を正確にへし折っていく。
自分の肉が削げ、真っ白な骨が見えていても、アルトの剣筋は一切乱れない。
――痛みに怯えて体がすくむことがないからだ。
「ははっ、これなら外さない」
自分の腹に爪を立てている猿の頭を、アルトは至近距離で叩き潰した。
返り血で金髪が赤く染まり、足元の草が真っ赤な池に変わる。
遅れて駆けつけたカイルとリアが目にしたのは、無惨に積み重なった魔獣の死体と、その中心で「内臓がこぼれ落ちそうになりながら」も平然と次の標的を探している少年の姿だった。
「……あ、ああ……」
リアは杖を落とした。
凄惨な光景。だがそれ以上に恐ろしいのは、致命傷を負いながらアルトの表情が「凪」のように静かなことだった。
「終わったよ。ほら、全部倒した」
アルトが振り返り、こぼれかけた自分のわき腹を無造作に手で押し込む。
グチャリ、という生々しい音が静かな森に響いた。
「アルト……お前、それは……」
「大丈夫。……あ、でも、ちょっと目眩がするな。カイル、肩を貸して」
崩れ落ちるアルトを、カイルは思わず抱きとめた。
温かい。
アルトの体温は間違いなく人間のそれだった。流れている血も自分たちと同じ赤だ。
なのに抱きしめたその感触は壊れた人形のように冷たく、無機質な恐怖をカイルに植え付けた。
「……化け物かよ」
カイルの口から、無意識に言葉が漏れた。
アルトの耳には届かなかったが、その場にいたリアの心には呪いのように深く刻まれた。
これが、『暁の風』が壊れ始める序曲だった。
痛みを知らない英雄は、自分が仲間の心をどれほど深く切り裂いているのか、まだ露ほども知らない。
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