無痛の英雄

@jtkp5xumwj

第1話 鉄の味と、赤い雨

 その少年には、生まれつき「それ」が欠落していた。

「アルト逃げろ!そいつはCランクの魔獣だ!」

 冒険者ギルドの若手パーティ『暁の風』のリーダー、カイルが悲痛な叫びを上げる。湿った洞窟の奥、巨大な鎌のような前足を持つ「ブラッド・マンティス」が、獲物を狙う鎌を振り上げていた。

 アルトと呼ばれた少年は逃げなかった。それどころか腰のなまくらな短剣を抜き、無防備に一歩前へ踏み出した。

 ――ギチリ。

 マンティスの鎌が、アルトの左肩を深く切り裂いた。

 肉を断ち、骨を削る鈍い音が響く。カイルと魔導師の少女リアは息を呑んだ。普通なら絶叫と共に崩れ落ちる一撃だ。

 しかし、アルトは眉ひとつ動かさない。

 返り血を浴びた顔を拭いもせず、彼はただ自分の肩に食い込んだ鎌を見つめていた。まるで服の糸がほつれたのを確認するかのような、無機質な眼差しで。

「あ……、また服がダメになった」

 アルトの声は平坦だった。彼はそのまま鎌が刺さった状態の左肩を支点にして、マンティスの懐へ潜り込む。

 マンティスは逃げられない。自分の鎌が深く刺さりすぎているからだ。それはアルトにとって好都合だった。

「これで、逃がさない」

 アルトは右手の短剣を、マンティスの柔らかい複眼へと突き立てた。

 魔獣が激しくのたうち回り、アルトの体を引き裂かんばかりに振り回す。それでも彼は傷口を広げることも厭わず何度も、何度も、淡々と短剣を突き刺し続けた。

 やがて巨躯がどさりと地面に沈む。

 静寂が訪れた。

「……終わったよ。カイル、リア」

 アルトが振り返る。

 その姿は、凄惨の一言だった。左肩からはドクドクと鮮血が溢れ、わき腹もマンティスの足で抉られ内臓が見えかけている。

 それなのに、彼は穏やかに微笑んでいた。

「アルト、お前…その体……」

 カイルは駆け寄ることもできず、その場で立ち尽くしていた。

 普通の人間なら気絶しているか、死んでいるはずの重傷。それを負いながらアルトは平然と歩いてくる。

「ああ、これ? 大丈夫だよ、痛くないから」

 アルトは自分の傷口を無造作に触り、確認するように言った。

 その言葉を聞いた瞬間リアは口元を押さえ、その場に膝をついて吐いた。

「痛くない」ことがこれほどまでに恐ろしいことだと、彼女は初めて知ったのだ。

 痛覚とは生命を維持するための警告装置だ。それを持たないアルトにとって、自らの欠損は「道具の破損」と同じ意味しか持たなかった。

「リア、大丈夫? 気分が悪いの?」

 アルトが心配そうに、血まみれの手を伸ばす。

 リアはその手から逃げるように後ずさった。

「来ないで……お願い、アルト。その格好で、そんな風に笑わないで……!」

 アルトは差し出した手を、所在なげに止めた。

 なぜ拒絶されたのか、彼には理解できない。

 自分は仲間を守った。敵を倒した。痛みがないから、誰よりも効率的に戦える。

 滴り落ちる自分の血が、地面に赤い水たまりを作っていく。

 アルトはそれをぼんやりと眺めながら、ただ首を傾げた。

(ああ、やっぱり少し血を出しすぎたかな。……これじゃ、明日の依頼には行けないかもしれない)

 彼が気にしているのは、ただそれだけだった。

 自分を怪物を見るような目で見つめる仲間のその瞳の奥に宿った「恐怖」と「絶望」に彼はまだ気づいていなかった。

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