泥濘みで雨宿り

 今日は朝からロカが忙しなく厨房を動き回っていた。客からの注文をこなしつつも、合間を見てはスパイスやハーブの類を戸棚の奥へとしまっていく。

「ロカちゃん、今日って何かあるの?」

 どうも落ち着かなくて、僕は手の空いた隙に聞いた。

「今日はペストコントロールとクリーニングの日ですよ! オーナーからバウチャーを渡すように言われているので、こちらをどうぞ」

 そう言って、ロカは僕に二枚の紙切れを渡す。ニュート・カフェのカフェスペースで使える商品券だ。日割りした一日分の宿泊費に相当するなけなしの金額へ、迷惑料としていくらか上乗せされた額面になっている。ビールと簡単なおつまみくらいなら十分に賄えるだろう。一枚は僕に、もう一枚は一緒に下りてきたリリーの分だった。

 それよりも僕の脳内に渦巻いていたのは、またやらかしたという自分への呆れだった。ニュート・カフェは安宿の部類に入るが、両生類であるオーナーが自身の皮膚を汚れや感染症から守るためか、衛生観念にはわりと気を配っている。おかげで、南京虫や黒光りする特大の不快害虫に遭遇することはたまにしかない。

 その代償として、月に一度の二十日は大掃除の日と定められ、真昼からチェックイン開始までの時間は何人たりとも館内に留まることを許されなかった。例外は生物ではないため警備として居残るロカくらいだ。

「……前もよね? 人間のDDT燻製なんて虫も食べないわよ」

 フロアの片付けを手伝っていたオーナーが、不機嫌そうに口を挟んだ。この街の生ぬるい空気にすっかり慣れきった僕は日付や曜日を気にしない生活を送っている。そのせいで、こうした定期イベントを自分では覚えていない。いつもこうやって直前に他人から教わる羽目になる。ついこの間なんて、昼過ぎまで寝ぼけていたせいで警告を無視したと見なされ、危うく部屋ごと燻されそうになった。

「あのう、差し支えなければ、裏庭で……」

「ダメ。今日はアタシも用事があって外出するから防犯的にね……他の客に示しがつかないし」

 ピシャリと言い放ち、オーナーは自分の作業へ戻っていく。取り付く島もなく、これ以上はどうしようもなかった。自分の部屋だけを締め切って居座り続けることは不可能ではない。しかし、それを強行すれば殺虫剤の煙から逃げてきた館内のあらゆる生き物が、唯一清浄な空気が残る僕の部屋へ集結することになる。

「仕方ない。リリー、ここにはいられないみたいだ。ちょっと部屋を片付けよう」

 所在なさげに立ち尽くしていたリリーを連れて、僕らは二階のドミトリーへと駆け上がった。業者が入ってくるまで、残された時間はあまりない。

 部屋に入ると、まずは壁に取り付けられたスイッチから万年稼働のクーラーをオフにする。ここからは時間の勝負で、冷気が完全に逃げてしまう前に作業を終わらせたい。僕は自分のベッドへと向かい、低い位置で腰を屈めながら、湿気をたっぷり吸い込んだ重いマットレスを引き剥がした。思わず老人のような掛け声を漏らしつつも、なんとか奥の壁へと立て掛ける。

 途端に目に入ってきたのは直視したくない現実だった。ベッドの下には多種多様な、この世のほとんどの汚れを内包した吹き溜まりが広がっていた。前回の大掃除でマットレスを上げておかないとこんなザマになる良い例だ。こんな上で寝起きしていた自分が嫌になりながら、真っ直ぐにそれにピントを合わせないよう努めて、僕はリリーの方を向き直る。

「ホコリが舞うから先に出てて。リリーの分も僕がやっておくから。荷物は最小限にして、あとは防犯金庫に入れておいて」

「あ……ごめんなさい。ありがとうございます……」

 申し訳なさそうにボディバッグを抱えて部屋を出て行く彼女を見送り、今度は反対側の上段ベッドに手を掛ける。動かすたびに特有の甘い匂いがふわりと舞うマットレスの裏からは拍子抜けするほど清潔な底面が現れた。上段であるという物理的な条件を加味しても、十分すぎるほどに綺麗だった。

 甘い匂いに引き寄せられて虫が集まる、といった都合の悪い性質はないのだろう。目につくのは以前の宿泊客たちが残した正体不明のシミばかりで、足が多いタンパク質はほとんど転がっていないようだった。先ほどの自陣の惨状と比べてしまい、余計に惨めな気持ちになる。

 ひとしきりの始末を済ませて、僕は身軽な格好で一階へ降りた。出入り口の付近ではリリーが手持ち無沙汰に佇んでおり、玄関を通っていく防護服とガスマスク姿の清掃業者を不安げに見送っている。

 ロカの働きでカフェの椅子はすべてテーブルの上に上げられており、蛍の光でも流れてきそうな普段は見慣れない閉店後の無機質な空気が漂っていた。

 ロカに聞いたらオーナーはとっくにタクシーでどこかに出て行ったのだという。いざ外へ出ようとリリーの方を向いた瞬間、ハッとして僕は足を止めた。

 ガラス戸を隔てた向こう側には相変わらず茹だるような熱気と無秩序な喧騒が広がっている。しかし、彼女の目には外の喧騒が明らかな恐怖として映っているようだった。

 立ち姿だって、柳のようなしなやかさを失い、ひどく強張ってプラスチックのオモチャのように不自然だ。

 無理もない。ついこのあいだ、この安全で生ぬるい宿を一歩出た歓楽街の裏路地で、得体の知れない薬を吸わされて意識を奪われたばかりなのだ。シズと往診医に検分してもらって問題ないと太鼓判を押されたとて、それは体だけだ。

「大丈夫だよ」

 ほんの気休めにでもなればいいと思った。あの日、二人でナイトマーケットの屋台を巡っていた時のように、少しでも彼女の肩の力が抜けてくれたならと願わずにいられない。

「行こう。僕から離れないで」

 それが少しだけ彼女の背を押したらしい。リリーは僕の目を見てから、顔に貼り付けたような作り物の笑みを浮かべた。踏み出した彼女の一歩はずっしりと重たく感じられた。

 ガラス戸が開いて現れた熱の壁を切って前に進む。今日は影が見当たらない曇り空で、強烈な日差しがないだけ慈悲に感じられた。そのぶん、落とし蓋をされたように空気が重い。

 湿っぽい空気の中から僕は色々な臭いを感じ取ったが、その中で意識を引いたのは土埃の香りだった。ペトリコールの臭いだ。水気を帯びた空気が地面の金気を拾い上げて知らせてくれる。

 先を急ぎたかったが、なかなか難しかった。外には出られたものの彼女は僕の服の袖を掴んで離そうとしない。それでぎこちない二人三脚の格好になってしまい、足を取られて転びそうにもなる。そうして、もたついている間にどこか天も機嫌を損ねたのかポツポツと水滴が落ちてきた。

 瞬きの度に刻一刻と雲が重なって黒くぶら下がる。そうやって雨雲は滑り込むように僕の頭上に移動してきて、遂に堪えきれずに底が抜けたような土砂降りを落としてきた。臭いの立ち上がりから、てっきりまだ大丈夫だと思っていたが見立てが甘かったらしい。

 熱帯とはいえ、あるいは熱帯だからこそ雨が冷たく感じる。絶え間なく浴びせられ続ければ容赦なく体温を交換して地に返していく。

 最寄りのモノレール駅まではいつもなら歩いて十数分で着く距離だ。光が乱反射して白濁した視界の中では数メートル先も見通せなくなった。こんな雨量では傘があったところで意味がなく、他の誰もがあるがままに受け入れて後のシャワーと着替えを計算に入れている。リリーに身を屈めてもらい、僕が覆いかぶさるようにして水量を減らすので精一杯だった。

 一歩ずつであっても前に進まないと、どこにも行けない。今までの積み重ねが無為になってしまう気がして、引き返すという選択肢が欠落してしまった。踏み出すたびに水を吸ったスニーカーのインソールが不快な音を立てる。

 雨よけになるような高架はまだ先だ。いつもなら手を挙げれば程なく掴めるはずのタクシーは見当たらない。先に夕立に遭っていただろう地区に配車を吸い取られて枯渇しているのだろう。

「リリー、大丈夫? もう少し頑張れる?」

 叩くような雨音に呼応するように僕の声も大きくなる。彼女が暗色のTシャツを選んでいたのは助かった。水気を浴びて重たくなったシャツが必然的に垂れて身体の曲線を浮かび上がらせる。答える間もなく彼女は弱々しく首を振った。

「分かった、どっか入ろう」

 やっとブロック一つ進んで、ちょっとしたカフェを見かけた。まだ開業してから新しいようで、今流行っているシアトル系のコーヒーを売っているからリリーが入っても馴染めそうな場所だった。軒先に掲げられているメニューをしっかりとは読めなかった。

 ドアを押しのけて入ると、エアコンの冷気が僕らを吹き付ける。堪えきれず僕はクシャミをぶちまけた。単に寒さだけでなく、店の中に漂う人工的な甘い匂いに鼻腔をくすぐられたからだ。

 あの、安っぽいラズベリーの香料に加えて、あらゆる人工香料が少しずつ漂っている。客の一人は手元で、吸い口からまだうっすらと蒸気の煙が立つ電子タバコを弄んでいる。

「いらっしゃい」

 店員はぶっきらぼうで、明らかに歓迎していない声色をしていた。ふと、僕の腰にリリーの尻尾が巻きついていることに気がついた。それは失った体温を補うため、というよりはもっと切実ですがり付くようだった。

 僕の袖を掴む力が強まったのか、それとも低体温で血管が絞られたのか、彼女の指先は白く血の気が引いていた。きっと、僕が感じた臭いにも気がついたのだろう。

「リリー」

 特に言わなくても聡明なリリーには伝わった。僕の腰に巻かれた尻尾が解かれて床に向く。圧迫感こそなくなったが僕はどことなく寂しさを覚えた。

「ご、ごめんなさい」

 それを見た客の一人が鼻で笑う。断じて彼女は売り物ではないのに、ショーケースを覗き込んで値踏みをするような目線だった。そんな彼らの無遠慮な邪推に、どうしてだか僕は落ち着いていられなかった。

「コーヒーを二つ。ホットで」

 僕は断りもせず空いている席に座った。最初はリリーの方が遠慮がちだったが、僕が促して向かい合って座った。

 運ばれてきたコーヒーは作り置きをしているみたいで、ペーパードリップのサーバーから並々と注がれた。底面ヒーターで朝から過熱され揮発成分を出し尽くしたコーヒーの味なんて知れていて、一口飲んだきりそれ以上はカップを持つ気にすらなれなかった。

 コーヒー豆それ自体は上等なものらしかった。それだけに彼らの怠慢と傲慢に嫌気がさしてくる。僕はリリーにカップに入った温かい泥水を飲まなくていいと言った。せいぜい冷えた指先を温めるくらいしか役に立たないだろう。いま必要なのは、この雨を凌ぐだけの権利でしかない。

「……ああいうのでした。私が、吸ってしまったのは」

 震えそうになる声をぐっと堪え、彼女は静かに言った。店内を満たすチープなBGMの音を突き抜けて、その声は僕の耳に届いた。

 視線の端では壁際の席に陣取った二人組の男が、また口から白煙を吐いた。今度はストロベリーの臭いが、エアコンの冷風に乗って僕たちのテーブルまで漂ってきていた。

 リリーの顔は青ざめていたが、あの夜のようにパニックを起こしているわけではない。自分の内側にある得体の知れない記憶と、目の前の現実を必死に結びつけようとしているようだった。

 僕は舌打ちを一つ噛み殺し、クリームダウンを起こして濁ったコーヒーから手を離した。

「話したくないなら、無理に言わなくていい」

 僕はなるべく平坦な、彼女を刺激しないような声色を作って言った。

 けれどリリーはふるふると小さく首を横に振り、真っ直ぐに僕を見つめ返した。

「ヨウさんには知っていてほしいんです。私がどうして、あんな風に倒れていたのかを」

 彼女はカップの縁を指先でなぞりながら、言葉を探すように息を吐いた。

「同族だったんです。私に声をかけて、それを勧めてきたのは」

 それを聞いて、僕は目を伏せてしまった。特区の雑踏の中で同族の存在がどれほど心強かっただろう。

「カフェで色んな話をして……これを吸えばもっと街に馴染めるって、貸してくれて。一口深く吸い込んだ途端に、目の前が真っ白になって、手足の感覚がなくなりました。そしたら、男の人たちが三人、近づいてきて」

 薬で意識を混濁させ、仲間を引き入れて身ぐるみを剥ぐ。古典的で底意地の悪い手口だ。

「彼ら、私のポケットを探り始めて……バッグも奪い取ろうとして。そのうちの一人が、私の体に……触ってきたんです」

 リリーはきゅっと唇を結んだ。恐怖を思い出したからではない。自分の中で起きた不可解な現象を、どう説明すべきか迷っているようだった。

「声も出なくて、ただ必死に『嫌だ』って、それだけを頭の中で強く念じました。そしたら……私の中に、どろどろとした熱いものが、一気に流れ込んできたんです」

 彼女の言葉に、僕は小さく眉をひそめた。

「周りにいた男の人たちや、同族の女の人が……急に、糸が切れたみたいにバタバタと地面に倒れ込んだんです。私に触れていた手も全部離れて、みんな白目を剥いて、干からびたみたいに痙攣していて」

 僕は息を呑んだ。サキュバスは人間の精気や欲情を吸収して糧にするというシズの言葉が脳裏をよぎる。普通なら空気中に漂うものを皮膚呼吸のように取り込むはずだ。だが、もしも極限状態に置かれた彼女が、無意識のうちに接触した相手の精気を限界を超えて『強制的に』吸い尽くしてしまったとしたら。

 あの日、安宿の床で彼女が異常な高熱を出して倒れていた理由が、パズルのピースのようにカチリと嵌まった気がした。キャパオーバーになるほどの暴力的な捕食だった。それは、ただのサキュバスが持てるような防衛機制には思えなかった。

「その瞬間だけ……私、すごく頭が冴えたんです。体が内側から燃えるように熱くなって。今のうちに逃げなきゃって思って、夢中で走り出しました」

 彼女は自分の手のひらをじっと見つめている。自分が何をしてしまったのか、自分自身でも完全に理解できていないのだろう。

「でも、少し走ったら、今度は自分が内側から焼け焦げるみたいに熱くなって……息をするのも苦しくて。もう駄目だって思った時……道の向こう側に、ヨウさんの顔が見えたんです」

 リリーは顔を上げ、柔らかい瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。

「ヨウさんの姿を見た途端、私……心の底から安心してしまって。どうしても立っていられなくなって……そこから先のことは、目が覚めるまで何も覚えていません」

 静かな喫茶店の中に、彼女の微かな吐息だけが落ちた。

 トラウマのフラッシュバックに怯えるのではなく、自分の身に起きた事実をありのままに整理し、僕という存在に預けてくれたのだ。

「……そうか」

 僕は短く答え、彼女の震える指先から視線を外した。

「よく、自力で逃げ出してくれた。無事でよかったよ」

 ただそれだけを、心の底からの本音として口にした。彼女がどんな力を持っていようと、この特区で生き延びて僕の前に辿り着いたという事実だけが重要だった。

 リリーは一瞬目を丸くし、それから、張り詰めていた表情をふわりと緩ませた。安堵のあまり、ぽろりと大粒の涙が彼女の頬を伝い落ちる。彼女は慌てて手の甲で目を擦ったが、一度堰を切った涙は止まらなかった。

 僕は彼女を泣かせたままにして、店内の空気を改めて見渡した。

 甘ったるいVAPEの煙に巻き取られて、僕たちを面白半分に眺める下世話な視線がぶつかる。底の方では煮詰まった、ひどく酸化したコーヒーの臭いが漂っていた。

 彼女が勇気を出して過去を整理したこの場所に、これ以上無遠慮な連中と同席させるのは無粋だ。

「出よう」

 僕は立ち上がり、コーヒーの代金としてポケットから適当な小額紙幣を取り出すとテーブルの上に置いた。

「え……でも、まだ雨が」

「止んできたよ。こんなところにいるくらいなら、濡れて帰った方がマシだ」

 僕が言い捨てると、リリーはコクリと頷き、弾かれたように席を立った。

 ガラスのドアを押し開けると、外はまだ雨が降っていた。だが、先ほどまでのバケツをひっくり返したようなスコールは嘘のように収まり、細い糸のような小雨に変わっている。

 熱く焼け焦げていたアスファルトが急速に冷やされ、特区の街路にはむせ返るようなペトリコールの匂いが充満していた。土埃と金気が混じったような、植物の息吹を感じさせるその匂いは喫茶店の中の安っぽい人工香料よりはずっと僕の鼻腔に馴染んだ。

「……ごめんなさい、ヨウさん。私のせいで、ろくに雨宿りもできなくて」

 隣を歩くリリーが、少しだけ照れくさそうに肩をすくめる。

「気にしなくていい。どっちみち、コーヒーが不味かったしな」

 僕が鼻で笑うと、リリーもつられたように小さく笑い声を漏らした。

「でも、少し冷えただろ。帰ったら熱いシャワーを浴びよう。バウチャーもあるし、なにかロカに温かいものでも作ってもらってさ」

「はい……!」

 幸いにも彼女の返事は弾むように明るかった。

 水たまりを避けながら歩くうち、リリーがごく自然な動作で、僕のシャツの袖口をきゅっと摘んだ。さっきのように恐怖に駆られてすがりつくような力強さはない。ただ、はぐれないように、確かめるように触れているだけの微かな重みだ。

 僕はそれを振り払うことはせず、彼女の歩幅に合わせて少しだけ歩くペースを落とした。

 湿った熱帯の空気の中で、彼女から微かに漂う甘い匂いが、雨の匂いと混ざり合って不格好に溶け込んでいく。

 このどうしようもなく治安が悪くて、息が詰まるほど暑い特区の泥濘みの中で。彼女にとっての唯一の安全地帯になれているのだとしたら、この危うげな同居生活も、もう少しだけ続けても悪くないような気がしていた。

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