アンチドーピング

 厨房からフロアへと流れ込んだクスノキとその他スパイスの白煙が、天井で緩慢に回るシーリングファンによってゆっくりと撹拌され、少しずつカフェの空気が元の気怠さを取り戻し始めた頃だった。

 強烈な清涼感と甘い香りは今も微かに僕の鼻奥にへばりついている。だが、先ほどまでの眼球を突き刺すような刺激は薄れ、特区特有の臭いが再びガラス戸の隙間から侵食を始めていた。

 カラン、とドアベルの音が響いた。ガラス戸が開き、茹だるような熱波と共に店内に雪崩れ込んできたのは、タイトな黒いTシャツ姿のシズだった。その上に羽織っている白衣は太陽光を受けると全て反射するようで輝いて見えた。

「アチチ、アチ、アッツ……!」

 彼女はうわ言のように悲鳴を漏らしながらカフェに入るなり、周囲の目など一切気にすることなく、冷房の効いた冷たいタイルの床へとその豊かな下半身をベターッと這わせた。

 分厚い赤い鱗に覆われた蛇の尾が、ひんやりとした床材の潜熱を貪るように波打つ。変温動物であるラミアの彼女にとって、太陽が真上から容赦なく照りつける特区の昼下がりのアスファルトは安いビーチサンダルだと溶けてしまうほどの灼熱地獄だ。彼女は腹の鱗から直接冷気を吸収し、だらしなく至福の表情を浮かべている。

「シズ様、わざわざ一番暑い時間帯に来なくてもいいじゃないですか。赤外線センサーで見たら表面温度がタンパク質の変性温度に近いですよ。目玉焼きが焼けるアスファルトだって、知っているはずです」

 厨房の入り口から、呆れたようにロカが瞳を細めて言った。

 シズは床に豊かな蛇の下半身を押し付けたまま、気怠げに片手をひらひらと振る。

「薬局が暇なんだもん……それに、リリーの経過観察しなきゃ。外なんて出たくないでしょ、こんな日差しだし。ロカちゃん、とりあえず冷たいお茶ちょうだい。氷たっぷりで、死ぬほど……あ、いや、普通に冷たいやつ」

「オーダー受理しました。ハス茶の氷増量、直ちにお作りします」

 あのジャッカルの刑事が残していった嵐のような疲労と緊張が、シズの登場によってようやく完全に上書きされた気がした。

 カチャカチャと氷の鳴る涼しげな音と共に、ロカが結露した巨大なグラスを差し出す。シズは蛇の尾を引きずりながらカウンターについて、それを奪い取るように受け取ると一気に喉の奥へ流し込んだ。

「ぷはっ……生き返る。ホントに焼きヘビになっちゃうとこだった」

 ようやく人心地ついたのか、彼女は医療従事者としての真面目な顔つきを取り戻し、フロアの奥、薄暗いテーブル席へと視線を向けた。

 蛇に睨まれたリリーが、ビクッと肩を揺らす。その反応はたぶん、銃火器を携行していて明らかに警察に属しているケルンがきたときにすべき反応だったように思う。

「さてさて。お姫様の様子はどうかな」

 シズはグラスをカウンターに置き、リリーの座るテーブルへと滑り寄った。僕も中華鍋を拭って壁に掛けて、布巾を手にして何気なくその後を追う。

 あの夜、裏路地でフェンタニルが混入された電子タバコを吸わされ、危うく命を落としかけた昏倒騒ぎから一週間が経過していた。僕が見た限りでは順調に回復していて、素人ながら身体の方は特に問題なさそうだった。

「リリー、ちょっと腕見せて」

 シズが隣の椅子に腰掛けながら声をかけると、リリーは素直に頷き、Tシャツの袖を肩口まで捲り上げた。

 傷一つない滑らかで張りのある二の腕だが、そこにはひどく不釣り合いな半透明の丸いパッチがぴたりと貼り付けられていた。あの後に来た往診医の指示を受けてリリーが薬局の奥底から引っ張り出して交付した医療用の貼付剤だ。表面には7/7と印刷されている。

「かぶれたり、痒くなったりしてない?」

「はい。たまに少しだけ、チクチクするような気はしましたけど、気にならない程度です」

「オッケー。まあ、ずっと貼りっぱなしだったからね」

 シズはその半透明のパッチの端を爪先で器用に摘むと、ゆっくりと、肌を傷つけないように慎重に剥がし始めた。

「あの夜ナルカンで急場は凌いだけど、その後のリバウンドが怖かったからね。これは持続的に拮抗薬を皮下吸収させるためのパッチ。オピオイドの受容体をブロックするだけじゃなくて、穏やかな抗ドパミン作用もあって。脳の奥底……側坐核から前頭前皮質へと繋がるドパミンの報酬経路の異常な発火を抑制するの」

 シズの口から、専門的な医療用語が淀みなく紡がれる。

「単回投与で、しかも代謝の早いアルチバだろうから、身体的な依存は形成されてないと思う。でも、リキッドに何をどれくらいカットして混ぜてたか分かったもんじゃないし、念には念を入れてね。これで丸一週間。今日でおしまい」

 ペリッ、という微かな音を立てて、パッチが完全に剥がれ落ちた。リリーの完璧に造形された白い肌には、パッチの丸い形に沿って痛々しいほどくっきりと赤い円形の痕が残っていた。薬剤の刺激と粘着テープによる軽い炎症らしい。

 シズは残った薬効成分が誰かに触れないよう、パッチの粘着面同士をピタリと二つ折りに合わせてから小さなゴミ箱へポイと捨てた。

「その赤い痕も数日すれば自然に消えるから気にしないでいいよ」

「はい。ありがとうございます、シズ先生」

 リリーがホッと安堵の息をついて袖を下ろした。シズは問診を続けるように人差し指を立てた。

「で、一応副作用のチェックね。便秘や下痢はしてない?」

「はい、大丈夫です」

 リリーは少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら答えた。この特区のきな臭い環境でしばらく過ごしたとて、彼女の高貴な羞恥心はまだ完全には染まりきってはいないらしい。蓮の花はどこまでも蓮なのだろう。

「オッケー。あと……ドパミンを弄る薬だからね。ちょっとホルモンバランスに影響が出ることがあるの。胸が張ったり、母乳が出そうになったりはない?」

 その言葉が落ちた瞬間、リリーの動きが完全に凍りついた。

 伏せられた長い睫毛が限界まで見開かれ、みるみるうちに首筋から耳の先まで、茹でダコのように真っ赤に染まっていく。

「え……ぁ……っ」

 声にならない微かな空気が、彼女の半開きの唇から漏れた。

「え? あるの? 腫れてるなら放置するとマズいかも。ちょっと触って確かめていい?」

 シズがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、ソファの上で豊満な体をさらに乗り出すようにして長い指をリリーの胸元へ伸ばそうとする。爬虫類特有の長い舌もチロチロと覗かせている。

「ない! ないですからっ!」

 リリーは涙目になりながら悲鳴を上げ、両腕を交差させて自分の豊かな胸を隠すように力一杯抱え込み、ズルズルとソファの端まで後ずさった。

 僕はため息をつき、手元にあったラミネート加工済みの硬いメニュー表を丸めると、シズの後頭部をスパーンと軽く叩いた。

「あいたっ」

「シズ先生、セクハラですよ」

 僕が冷ややかな声で窘めると、シズは痛くもない後頭部をさすりながら、ケラケラと喉の奥で笑った。

「冗談だよ、冗談。高プロラクチン血症のサインがないか、念のため聞いたの。反応を見る限り、腫れても痛んでもないみたいだし、よし、大丈夫だ。これで本当に治療終了。お姫様、もう夜の歓楽街で変な煙吸わされないように気をつけてね」

「……はい」

 リリーはまだ顔を赤くしたまま、警戒を解かずに小さく頷いた。

 シズの処置が終わり、カフェの空気が少しだけ弛緩した。僕は食事と経過観察を終えたリリーとコーヒーを飲もうと思ってロカに声を掛けようとした。

 だが、その時だった。

「……さっきの警察の人が言っていた『消えたVIP』」

 ぽつりとガラス玉が床に落ちて転がるような、静かで、ひどく張り詰めた声が響いた。

「私かもしれないです」

 僕は動きをピタリと止めた。シズも、冗談めかしていた縦長の蛇の瞳孔をスッと細め、ゆっくりとリリーの方へ向き直る。

 カウンターの奥で待機していたロカだけが、事態の深刻さを理解していないように「そうなんですか?」と首を傾げていた。

 リリーは両手を膝の上で固く握り締め、俯いたまま言葉を紡ぎ始めた。

 彼女は自分がいったいどこから来たのかという、決定的な身分こそ口にしなかった。だが、その語り口にどうしようもない血の呪縛と、逃れられない運命への諦観が滲み出していた。

「私の人生には最初から『選択肢』なんてありませんでした。敷かれたレールの上を、ただ真っ直ぐに歩くことだけが求められて。最終的には国のためにあり続けるだけ……それだけが、私の存在理由なんです」

 彼女の新緑を思わせる柔らかな瞳が、悲しげに揺れる。

「家族が……親が私を、わざわざこの特区にある大学へ送ったのはきっと、多種族が入り乱れて、欲望とドブの匂いが渦巻くこの底辺の街を私に見せるためです。人間の醜さや、魔族との間に横たわる深い溝を見せつけて……私に、人間を嫌いになってほしかったんだと思います。そうすれば、私が国のために人間を憎み、彼らの思い通りに動く都合の良い飾りになると信じて」

 安全なガラスの城から、あえてドブ川の縁へ近付かせてその下水の臭さに絶望させる。それが、彼女に課せられた高等教育の真のカリキュラムだったのだ。

「だから……逃げたんです。ただの、反抗でした。ただ、嫌になってしまって」

 彼女は唇を強く噛み締めた。

「でも……」

 リリーはゆっくりと顔を上げ、僕とシズを交互に見つめた。

 その瞳にははっきりとした、確かな熱が宿っていた。

「ヨウさんに会ってしまった。シズさんのように、無条件で助けてくれる人たちがいることを知ってしまった。こんなに泥臭くて、息が詰まるほど暑くて、倒れるくらい危険な街なのに……私はこの街を嫌いになんてなれません」

 彼女の声が、震えながらも芯を持ってカフェの空気を振るわせる。

「まだ、ここに居たいんです」

 それは切実で、そしてどこまでも甘ったるい告白だった。

 オーナーやシズからすれば、それは間違いなく「恵まれたお姫様の贅沢な我儘」でしかない。帰る場所がある人間の、いつでも安全圏へ戻れる保証があるからこその、気安い感傷だ。

 だが、僕はそれを嘲笑う気にはなれなかった。

「……そうか」

 僕は静かに、なるべく平坦な声で答えた。

「まあ、また、一緒にご飯に行こう。まだリリーに案内したい美味いメシがいっぱいあるからな」

 同情でも説教でもない、ただの同室者としてのささやかな肯定だ。僕だってあるべき場所から逃げ出して、この街の澱の中に埋没することを選んだ人間だ。理由はどうあれ、逃げ出したいという渇望と、この不快感に満ちても心地よい猶予にしがみつきたいという弱さを、誰が責められるだろうか。

 シズも肩をすくめ、尖った蛇の尾をヒラヒラと揺らした。

「ま、ウチみたいな薬屋としては気前よく現金払ってくれる上客はいつでも大歓迎だしね。危ない橋を渡らないためにクスリの知識も少しは教えてあげるよ」

 リリーの顔に、パッと花が咲いたような安堵の笑みが広がった。

 その時だった。

「あのさ、ウチの宿を厄介事の隠れ家にしないでくれる?」

 冷徹で、感情の読めない平坦な声が店の奥から投げかけられる。

 いつの間にか、裏庭へと続く鉄の扉の前にニュート・カフェのオーナーが立っていた。

 相変わらず、肌にぴったりと張り付く紺色の水着にチープな水玉模様のビーチサンダルという出で立ちだ。プールから上がったばかりみたいで、黒髪からはポタポタと絶え間なく水滴が落ちている。

 リリーがビクッと肩を震わせ、先ほどまでの決意が嘘のように萎縮して俯いた。

「……すみません。ご迷惑をおかけしました。すぐに出て行きます」

 蚊の鳴くような声で謝罪し立ち上がろうとするリリーの前に、オーナーはビーチサンダルをパタパタと鳴らしながら歩み出て立ちふさがった。オーナーは無造作に手を振るって、自分の濡れた身体から滴り落ちる水滴を、リリーの美しい鼻筋の上へピチョンと吹っ掛けた。

「アタシはそんなこと言ってないわよ」

 リリーが驚いて顔を上げる。

「もうすぐ新規の宿泊客のチェックイン時間なの。こんな中途半端な時間にチェックアウトして、清掃の業務フローを引っかき回さないでくれる? 迷惑なのよ」

 オーナーは振り返ることなく、カフェの隅にある階段の方へと足を進める。チェックアウト後の清掃なんて、今まで入った試しがない。

「それに、あんたが前払いした三ヶ月分の料金はきっちり頂くわ。ウチの宿に返金ポリシーなんて気の利いたものはないからね。それと延泊は一切受け付けないから。その三ヶ月の間に、自分の帰る場所くらいちゃんと自分で決めておきなさい」

 階段の薄暗がりへと消えていくその背中と残された言葉は、実質的な滞在許可であった。オーナーなりの、ひどく不器用でツンデレな配慮だった。常々、オーナーは本当に甘いと思う。もしそれにぶら下がるようなことがあれば情け容赦なく蹴り落とすのも納得するが。

 リリーの目に、みるみるうちに大粒の涙が浮かび上がる。彼女は階段の方向に向かって、深く、深く頭を下げた。

「はいっ。ありがとうございます……!」

 その震える声を聞きながらも、僕は静かに思考を巡らせることに没頭し、上の空になっていた。

 二階のドミトリー、ベッドの下の奥には僕に割り当てられた小さな防犯金庫がある。

 その中には、特区に流れ着いた日に買い求めたウイスキーのボトルが眠っている。決して安いとはいえないが、酒屋でなら容易く手に入る代物だ。揮発を防ぐために、初日に開けたっきりキャップの周りにはパラフィルムが何重にも巻かれたままだ。

 封を切れば、あのウイスキーの強烈なヨードとピートの香りが鼻をくすぐる。僕はその瓶が空になるまではここに留まるつもりだ。

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