第20話「疑惑の方程式」
痕跡を消そうとしている。その事実が、朝の光の中でも消えなかった。
瀬尾はデスクに向かい、ノートの新しいページを開いた。恵美の名前を円で囲み、そこから伸びる線を一本ずつ書き加えていく。カーテン。セキュリティ操作。千鶴への接触。ログの問い合わせ。どの線も恵美に戻る。
だが感情で決めつけるわけにはいかない。残っているのは恵美だけではない。安西悟。管理費の上乗せ請求を橋本に見抜かれ、契約解除を迫られていた男。セキュリティシステムの操作権限を持つ人間。動機もある。
まず、安西を潰す。
瀬尾は携帯電話を手に取り、セントラル管理の代表番号を呼び出した。安西の直接の連絡先は知らない。受付の女性に名前と用件を告げ、安西への取り次ぎを依頼した。
三分ほど待たされた後、聞き覚えのある早口の声が出た。
「あ、瀬尾先生。いや、お久しぶりです」
「安西さん、お忙しいところすみません。一つだけ確認させてください。事件のあった夜——十月十二日の夜ですが、どちらにいらっしゃいましたか」
受話器の向こうで、安西が息を吸う音がした。
「いや、それは——なんでまた急に」
「確認です。安西さんのためでもあります」
沈黙があった。爪を噛んでいるのかもしれない、と瀬尾は思った。
「あの晩は、別の物件にいました。桜ヶ丘ハイツっていうマンションで、三階の部屋が漏水してて。夜の九時頃から対応してました」
「何時までですか」
「日付が変わる頃まで。いや、もっとかな。報告書を書いて、管理人室を出たのが一時過ぎだったと思います。同僚の中村も一緒でした」
「中村さんの連絡先を教えていただけますか」
安西は連絡先を教えた。声が少し震えていた。瀬尾は礼を言って電話を切り、すぐに中村に連絡した。
中村は落ち着いた声の男だった。
「ええ、覚えてます。十月十二日の漏水対応ですね。安西さんと二人で九時過ぎから作業しました。十一時過ぎまで一緒にいて、僕は先に帰りましたけど、安西さんは管理人室に残って報告書を書くって言ってました」
「管理人室の入退室記録はありますか」
「カードキーで開錠する仕組みなので、記録は残ってるはずです。管理人の田島さんに聞けばわかると思います」
瀬尾は田島にも連絡を取った。入退室記録を確認してもらうと、安西のカードキーは21:07に入室、翌1:23に退室となっていた。
ノートに書き加えた。「安西——21:07〜翌1:23 桜ヶ丘ハイツ管理人室。同僚の証言あり、カードキー記録あり」。
安西が消えた。
金銭トラブルはあった。動機はあった。だが安西は事件の夜、橋本邸から離れた場所で漏水と格闘していた。セキュリティシステムの操作権限は持っていても、物理的にそこにいなかった。
次は千鶴だった。
千鶴の証言——橋本不動産に私物を取りに行き、帰りに父とすれ違った。だが口頭の証言だけでは法廷では足りない。客観的な証拠が必要だった。
千鶴の元後輩・宮田が持参した情報がある。橋本不動産の社屋にある防犯カメラの映像。千鶴が辞めたとき、ロッカーの荷物をまとめて送ってくれた宮田が、今度はカメラ映像の存在を伝えてきた。瀬尾は宮田を通じて映像データの提供を受けていた。
パソコンの画面に映像を映した。暗い通りに面した社屋の入り口。タイムスタンプが右下に走っている。22:54:31。街灯の光が歩道を照らし、人通りはなかった。22:54:48。画面の右端から、暗い色のコートを着た女性が現れた。足が速い。顔は俯いているが、体格と髪型は千鶴だった。22:55:08に入り口のドアを開け、鍵を回す仕草が見えた。中に入る。
映像を早送りした。23:27:42。同じドアが内側から開き、千鶴が出てきた。小さな紙袋を右手に持っている。一瞬立ち止まり、通りの左右を見た。それから足早に画面の外へ消えた。
22:55から23:28。約三十三分間。犯行推定時刻の23:00から23:10の間、千鶴は橋本不動産の社屋の中にいた。橋本邸から社屋までは車で十分以上かかる。徒歩なら三十分。
瀬尾は映像を巻き戻し、もう一度再生した。入室のタイムスタンプ。退室のタイムスタンプ。千鶴の歩き方。出てきたときに左右を確認する仕草。二度確認して、三度目は千鶴の顔の角度だけを追った。
ノートに書いた。「千鶴——22:55入室、23:28退室。橋本不動産社屋の防犯カメラで確認。犯行推定時刻のアリバイ完全成立」。
千鶴に電話をかけた。
「千鶴さん。橋本不動産の防犯カメラの映像を確認しました」
受話器の向こうで、千鶴の呼吸が止まった。
「事件当夜、22時55分から23時28分まで、あなたが社屋内にいたことが映像で確認できます。犯行時刻にあなたはあの場所にいませんでした」
長い沈黙があった。瀬尾は待った。
「……そうですか」
声が震えていた。それは安堵なのか、別の何かなのか、瀬尾には判別できなかった。
「千鶴さん。あなたはもう、疑われる立場にはいません」
千鶴は答えなかった。受話器の向こうで呼吸が乱れていた。
「でも——父は、まだ」
「わかっています。村瀬さんのことは、私が」
千鶴は何かを言いかけて、やめた。受話器の向こうで鼻をすする音が聞こえた。しばらく間があって、声が戻った。
「宮田に、お礼を言わないと」
「ええ」
「ありがとうございます、先生」
電話を切った後、瀬尾は椅子の背にもたれた。窓の外は暗くなり始めていた。いつの間にか、午後の光が傾いていた。冷蔵庫のミネラルウォーターを取りに立ったが、ボトルを手にしたまま飲まずにデスクに戻った。
デスクの蛍光灯をつけた。ノートを手前に引き寄せ、ページを戻した。
安西——アリバイ確認済み。消去。
千鶴——アリバイ確認済み。消去。
村瀬——セキュリティ操作パネルの暗証番号を知らない。消去。
橋本本人——被害者。消去。
残ったのは一人だった。
瀬尾はペンを置き、ノートの上に並んだ断片を目で追った。
セキュリティ操作パネルの暗証番号を知っていた。邸内に住んでいた。カメラを停止する操作は、住人用の暗証番号で実行されていた。管理会社の業務用コードではない。
カーテンの状態を知っていた。報道にも検証報告書にも記載のない情報。「報道で見ました」と言ったが、嘘だった。
駐車場の足跡。24センチ。村瀬の27センチではない。千鶴でもない。安西でもない。
橋本の手紙。「すべてを打ち明けなければならない。私がしてきたことを——」。橋本は恵美に向かって告白しようとしていた。夫のハラスメントを知りながら耐えてきた妻に。
村瀬の証言。口論の中で橋本が言った言葉。「妻にはもう隠せない」。
松原の証言。忘年会で若い女性社員と親しくする夫を、表情を変えずに見ていた恵美。「見慣れてる感じだった」「怖い人だった。怒らない」。
管理会社への問い合わせ。ログの保全期限を確認していた。千鶴への接触。「そっとしておいた方がいい」。痕跡を消しにかかる人間の行動。
すべてが、一人の人物を指していた。
瀬尾はペンを取り直した。恵美の名前を囲んだ円の周りに、一つずつ証拠の項目を書き加えていく。セキュリティ操作。カーテン。足跡。動機。手紙。証言。行動。七つ目を書き終えたところで、ペンが止まった。
恵美の言葉が残っていた。「十時頃には飲んだ」「飲むと朝まで目が覚めない」「何も知らない」。
睡眠薬。
恵美が事件の夜に起きていたことを、直接証明する証拠がない。セキュリティの停止コマンドは23:11に送信されている。恵美が操作したとすれば、その時刻に起きていたことになる。だがそれは推論であって、恵美が「私は眠っていた」と言い続ける限り、操作パネルに触れたのが恵美だという直接の証拠にはならない。
ノートを閉じかけて、また開いた。ログの保全期限。あと数週間。セキュリティの停止コマンドのログが消えれば、操作パネルから暗証番号が使われたという事実そのものが消える。
瀬尾はデスクの引き出しから用紙を取り出した。裁判所への証拠保全命令の申請書。ペンを走らせ始めた。
恵美の嘘を崩す前に、まず証拠を守らなければならない。ログが消えれば、すべてが振り出しに戻る。
窓の外は完全に暗くなっていた。蛍光灯の白い光がノートの上に落ちている。恵美の名前を囲んだ円が、ページの中央にあった。そこから伸びる線が、七本。
セキュリティ操作。カーテン。足跡。動機。手紙。証言。行動。
七本の線はすべて、同じ場所に戻っていた。
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