第19話「消された痕跡」

朝のコンビニで買ったコーヒーが、デスクの上で冷めていた。一口も飲んでいない。


瀬尾はその横に広げたノートを見ていた。恵美の名前の横に、いくつかのキーワードが並んでいる。カーテン。睡眠薬。手紙。松原の証言。どれも個別には決定的ではない。だが並べると、一つの輪郭が浮かぶ。


確認すべきことがある。瀬尾は携帯電話を取り、セントラル管理の番号を呼び出した。


三回のコールで応答があった。若い男の声だった。瀬尾は名前と立場を告げ、橋本邸のセキュリティログの保全状況について尋ねた。


「ログデータの保管期限は、契約では九十日です」


九十日。事件からすでに二ヶ月以上が過ぎていた。


「期限を過ぎるとどうなりますか」


「自動的に上書きされます。復元はできません」


瀬尾はペンを握り直した。野崎に解析してもらったログ——邸内のパネルから送信された停止コマンドの記録。あの証拠が消える。


「保全の延長は可能ですか」


「住人の方からの書面による依頼か、裁判所からの保全命令があれば」


住人。つまり恵美。


「一つ伺いたいのですが」瀬尾は言った。「最近、同じログについて別の方から問い合わせはありましたか」


受話器の向こうで、キーボードの音がした。


「……申し訳ありません、お問い合わせの内容については個人情報の関係でお伝えできません」


断られたことが、答えだった。問い合わせがなければ「ありません」で終わる。答えられないということは、誰かが聞いている。


「わかりました。ありがとうございます」


電話を切った。指がまだ受話器の形を覚えていた。


瀬尾はデスクの上のノートに、今の通話の内容を書き加えた。「ログ保全期限: 90日。上書き・復元不可。住人の書面依頼 or 裁判所命令。先行問い合わせあり(個人情報で回答拒否)」。


ペンの先が止まった。先行問い合わせ。安西の可能性もある。管理会社の人間として業務上の確認をしたとも考えられる。だが安西はすでに担当を外されている。業務上の理由はない。


恵美がログの存在を知っている。保全期限を確認している。穏やかな妻が、証拠の消え方を調べている。


その日の午後、千鶴から電話があった。


「先生」


声がこわばっていた。前回会ったときの、自分の意思でカップに触れていた千鶴とは違う声だった。


「橋本さんの奥さんが、家に来ました」


瀬尾の手が止まった。


「いつですか」


「昨日の夕方です。突然、インターホンが鳴って。菓子折りを持ってきて……最初は何の用かわからなかった」


千鶴は一度言葉を切った。受話器の向こうで、呼吸を整えている音がした。


「玄関で包みを渡されて。お父様の裁判のこと、心配でしょう、って。それから少し世間話をして、父の体調はどうですかとか、ちゃんと食べていますかとか。父のことを気遣ってくれているのかと思いました」


「それだけですか」


「帰り際でした。靴を履いて、振り返って——そのとき初めて、あの人の声が変わった。『お父様のためにも、これ以上騒がない方がいいと思うの。そっとしておいた方がいい』って」


瀬尾はペンを持ったまま、ノートに何も書けなかった。


「千鶴さん、そのとき恵美さんの様子はどうでしたか」


「笑ってました」千鶴の声が低くなった。「ずっと笑ってた。でも——目が違った。口は笑ってるのに、目が笑ってなかった。父の面会に来たときの奥さんとは別の人みたいだった」


葬儀のときと同じだ。あの冷静さ。あの穏やかさ。目だけが違う。


「菓子折りを受け取ったとき、手が触れたんです。指がすごく冷たかった」


千鶴の声が小さくなった。


「あの人が帰った後、鍵を閉めて、しばらく動けませんでした」


瀬尾は目を閉じた。菓子折りという体裁。穏やかな笑顔。世間話。そして最後に振り返って——あれは気遣いの言葉ではない。


「千鶴さん、すぐに連絡をくれてありがとうございます。今日は外出を控えて、何かあったらすぐ電話してください」


「先生」


千鶴の声が震えた。


「あの人は、何を怖がっているんですか」


瀬尾は答えられなかった。受話器を耳に当てたまま、窓の外を見ていた。向かいのビルの壁だけが見えた。


電話を切った後、瀬尾はノートの新しいページを開いた。


恵美の行動を時系列で書き出した。カーテンの発言。書斎に入らなかったこと。手紙への無反応。そしてここ数日——管理会社への問い合わせ。千鶴への接触。ノートのページが、恵美の名前で埋まっていく。


ペンが止まった。


村瀬の顔が浮かんだ。面会室で橋本の家族について聞いたときの、あの反応。千鶴の名前では拳を握った。怒りだった。だが恵美の名前が出たとき——目をそらした。あれは怒りではなかった。何か別のものだった。


瀬尾は翌日、拘置所に向かった。


受付で面会申請書を書きながら、ペンの先が紙の上で一瞬止まった。恵美の動きを村瀬に伝えるべきか。伝えれば村瀬は動揺する。だが村瀬だけが知っていることが、まだある。


面会室の村瀬は痩せていた。前回会ったときより、頬の線が深くなっている。蛍光灯の光が、顔の影を濃くしていた。瀬尾は挨拶を済ませ、単刀直入に切り出した。


「恵美さんが、千鶴さんに会いに行きました」


村瀬の目が動いた。


「『お父様のためにも、そっとしておいた方がいい』と言ったそうです」


村瀬は何も言わなかった。だが右手が膝の上で握られるのを、瀬尾は見た。千鶴の話題のときとは違った。握った手が、すぐにほどけた。力が入らないように見えた。


「村瀬さん。橋本さんの奥さんについて、ずっと聞きたかったことがあります」


村瀬は瀬尾を見ていた。瞬きをしなかった。


「事件の夜——橋本さんと口論したとき。奥さんの話は出ましたか」


長い沈黙があった。面会室の時計の秒針が、壁の中で音を立てていた。


「橋本が——言いました」


村瀬の声は低かった。


「『妻にはもう隠せない』と」


瀬尾のペンが止まった。


「私が千鶴のことを問い詰めたとき、橋本は最初、とぼけました。だが追い詰められて——顔が変わった。焦っていました。『やめるつもりだった。妻にはもう隠せない』と」


村瀬は自分の手を見ていた。


「あの男が焦っていたのは、私に殴られることじゃなかった。妻に知られることだった。あの瞬間——私は思ったんです。この家で、苦しんでいたのは千鶴だけじゃない」


瀬尾は書けなかった。ペンを持ったまま、村瀬の顔を見ていた。


「だから、先生に奥さんのことを聞かれたとき——言えなかった。あの人も被害者だと思った。夫が何をしていたか、薄々知りながら、あの家にいた人だと」


村瀬の声が途切れた。


「今でもそう思いますか」


村瀬は答えなかった。右手がもう一度膝の上で握られ、そしてまたほどけた。何かを掴もうとして、掴めないような動きだった。


「わからなくなりました」


沈黙が落ちた。村瀬は目を閉じた。


瀬尾が面会カードを片づけかけたとき、村瀬が言った。


「先生。千鶴は——元気ですか」


恵美のことを聞かれた直後に、娘の名前が出た。瀬尾はカードを持ったまま、村瀬を見た。


「元気ですよ。自分で動き始めています」


村瀬はうなずいた。それ以上は何も言わなかった。


面会室を出た瀬尾は、廊下の窓から差し込む光の中で立ち止まった。


ノートを開き、村瀬の言葉を書き写した。「妻にはもう隠せない」。橋本の手紙の文面が並んだ。「すべてを打ち明けなければならない」。橋本は恵美に向かって、二つの方法で告白しようとしていた。口頭で。そして手紙で。どちらも届かなかった。


村瀬は恵美を被害者だと思っていた。だから語れなかった。


だが恵美は今、証拠を消しにかかっている。


事務所に戻ったのは六時を過ぎていた。窓の外は暗くなり始めていた。蛍光灯のスイッチを入れ、コートを椅子の背にかけた。冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、一口飲んでからデスクについた。


恵美の行動をもう一度並べた。


管理会社への問い合わせ。千鶴への接触。カーテンの発言。手紙への無反応。書斎を避けたこと。セキュリティログの保全期限は、あと数週間で切れる。


ペンが紙の上で走った。線が一本の矢印になった。すべてが恵美を指している。穏やかな妻が、初めて牙を見せた。


だがその牙が向いているのは、瀬尾ではなかった。


痕跡そのものだった。

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