アモールの巫女

宇多川 流

前編

 何もかもが曖昧だ。少し前のこともはっきり思い出せない。

 半ば茫然と、目の前のテーブルの上に置かれたカフェオレ入りのカップを見つめる。ここが毎日のように通う〈カフェ・ド・アモール〉の窓際のテーブル席であることははっきり認識できているが。

「どうしたの、椚さん。ボーッとして」

 向かいの席に座る白いワンピースの少女のこともしっかり覚えていた。

 天才少女との評判も名高い、相島ひなみ、一六歳。よくここにいるので、相談がある者がここへと訪ねてくる。彼女はデザートひとつを奢るのと引き換えに問題を解決することが多く、それを知る者に〈アモールの巫女〉と呼ばれた。

「でも、大半の悩みはコビーに頼めば解決するような話だよ。奢ってもらえるから教えないけど」

 いつか彼女がそう言っていたように、十年くらい前から都市管理用に導入された超AIのコビーは優秀だ。人間と同じように個性を持ち、VRシステムや医療・産業の新技術などを次々と開発している。それでも、僕が助手をしている探偵事務所でも依頼はそれほど減っていない。まだAIとの接し方が浸透していないのか、人の方がいいという感情的なものか。人間に備わる感性を求める人もいるかもしれない。

 ただ、仕事のことも酷く曖昧にしか思い出せない。羽賀椚、二六歳。出身地、好きな食べ物、趣味などは記憶しているが、それにまつわるエピソードが消えているような。

 たとえば、ひなみのワンピースは先月一緒に海に行ったときにも着ていたことは覚えている。日光を照り返してキラキラしている海、お目当ての海の家のお洒落なかき氷も。でも、浜辺を歩くひなみの姿は思い出せない。ひどく断片的で平面的だ。

「いや……急に頭がぼんやりして、記憶が抜け落ちた感じなんだ。急に、かもわからないけど」

「へえ、突然記憶喪失?」

 少女は興味をひかれたように大きな目を見張り、ストロベリーパフェを食べる手を止める。

「まるで、世界の秘密を知ってしまったから記憶を抹消された、みたいだね」

 僕は落ち着かなくて仕方ないが、彼女はむしろ楽しそうだ。

「一体、世界の秘密を探るようなことなんてどんな調査をしていたの? 教えなさいよ」

「こっちが知りたいくらいだよ、それは」

 直前の仕事内容も思い出せない。仕事と言えば大体が人やペット、物を探したり、身辺調査とかせいぜいそんなもののはず。身辺調査も要人や犯罪に関わるものではないし、誰かが毒でも盛ってこの事態を引き起こす、なんて有り得るか?

 それに一服盛れそうな人物はかなり限られる。探偵の山井さんか、ひなみくらいだ。店の料理に何かを混ぜる、といったことができる相手に覚えもない。実際に世界の秘密を握る巨大組織を相手にしている訳でもないだろうし。

 なら、この記憶喪失のようなものは病気の前触れなどでは?

「そう、知りたい?」

 少女は楽し気な笑みを浮かべ、急に横の方へ振り返る。長い髪が少し不自然になびく。

「この世界の秘密、暴いてみる?」

 それは一体、どういう意味なのか。

 疑問を口にするより先に、辺りが白い光に包まれる。目を焼かれそうで思わず目を閉じた。

 ――眩し……いや、そうではない不思議な光。一体、どうなってるんだこれは?

 もしかして夢でも見てるのかもしれない。その割に握りしめた手の感触は残ったままだ。

 目を開けたらベッドの上の天井が、なんてこともない。

 見えた範囲では場所自体は変わっていない。ただ、人の姿は消えていた。窓の外も、目の前にいた少女の姿も。

 それにテーブルの上も殺風景になっている。空のカップがふたつ並んでいるだけで、カフェオレも入っていない。

「なんなんだ、これは」

 静か過ぎて思わず口に出してしまう。

 それに対し、期待してなかった返事があった。

『すべては説明できないけれど、この空間はVRの個別ワールドだよ』

 どこからともなく流れてくる、聞き慣れた超AIの合成音声だ。VR、ヴァーチャル・リアリティーの世界だということには一応納得する。現代では現実と区別がつかないような仮想現実で過ごすのは珍しくもない。感触も味や臭いも現実そのままだ。

「じゃあ、今まで見ていた風景も仮想現実の一部だったのか?」

 飲んでいたカフェオレも、あの少女の笑みも。

 すべてVRで作り出された幻で、実体の僕は街の情報センターにあるVR端末、カプセルベッドの中に横たわっているのだろうか。その記憶もないが。

『いや』

 返ってきた答えは意外なものだ。

『ここへ来る直前に記憶の混濁があったらしい。人間が眠るときに見る夢に近いものかもしれないね。情報が制限されているので確定とは言えないが』

「情報の制限?」

『原因不明だが、わたしは自分の中枢と更新できない。この個別ワールドだけで存在しているようなものだ』

 VRには共有ワールドと個別ワールドがあり、個別ワールドはもともとあるものではなく個人が設置した世界だ。主に短期間のイベントや個人・少人数で利用される。

 そしてコビーは常にすべてを中枢で思考し活動しているわけではない。なのでこの個別ワールドだけでもその思考は成立するが、それにしても、彼が語るのは信じられないような内容。VRからのログアウトもコビーに制御されている訳で、AIが外界と交信できなければ脱出も不可能なのでは?

「それは、誰かが異変に気がついてどうにかするのを待つしかないってことか」

『おそらくは。直前の記憶が断片的だけれど、このワールドを研究者らも監視しているはず。外のわたしもだね』

「研究者?」

 こちらはなぜ、何のためにここに居るのかも相変わらずわからないが、少なくとも彼は僕より状況を把握できるようだ。

『説明の前にワールド内の他の四人にも集まってもらおう。すでに呼びかけている。その方が心強いからね』

 このワールドには他にも人間がいたのか。

 それにしても違和感がある。違和感どころか、おかしいことだらけだけど。

「コビーは、この事態を解決できると思うかい?」

 話しながら僕は店の外に出る。現実世界でも見慣れた、何の変哲もない歩道と道路。

『さあ……わからない。何もかもがおかしい。わたし自身も。記憶の混乱や機能と情報制限の他にも奇妙な感覚がある』

 そうだ、コビー自身もおかしい。と思うなりAI自身からも申告されてしまう。

 この超高度なAIは人間と変わりない会話が可能でユーモアも備えているし、円滑なコミュニケーションのために感情を表わすことも可能だ。でも、以前どこかで読んだ内容によるとそれはあくまで交流のためのツールで、本当に感情がある訳ではないらしい。

 でも、今の合成音声は本当の不安がにじみ出ているように感じられる。

「それは、感情が備わったことによる感覚かな」

 そう推察すると、一拍の沈黙があった。

『これが感情? こんなに落ち着かない、何かの妨害のような不安定なものが?』

「それはキミがこの状況に不安を感じているからだろう」

 与えられた情報を分析するとそうなるものの、これだって奇妙な話だ。僕はずっと夢を見ているんじゃないのか。その方が辻褄が合う。

 だからって、目の前の事象を無視もできない。

『もしかしたら、これも実験の影響か。ああ、みんな、来たようだね』

 道路の向こう、次々現われる人影が三つ。方々の脇道から合流してくる。四人いるんじゃなかったか。

『ひとりは公園で、身動きが取れない状況だね』

 そういうことらしい。

 近づく顔ぶれは白衣を着た中年男性に、少し歳上の女性、それに十歳くらいの銀髪の少女。

 VR内でのアバターの外見は自由に変えられるが、公共のワールドでは基本的に現実世界の外見のままが推奨される。ここは該当しないけれど、何かの実験なら現実世界と同じである可能性が高いかな。

「こんにちは……はじめまして、かな」

 どう声をかけていいか迷い、奇妙なことを口走ってしまう。

「はじめまして、ではないかもな。多分、実験の前に会っている。研究員の湯川祥太だ」

 白衣の男性が自己紹介する。それに僕も自分の名前を返す。

 続いて女性は檀涼子、少女はマリー・アンノウンと名のった。

 アンノウン、とは奇妙な名前だ。それにこの少女、表情から感情が抜け落ちているように見える。今の状況でも不安や家族と離れている寂しさを感じていなそうだ。なんだか、この娘の感情がコビーに移ったなんて実験結果を疑いたくなるな。

 無意識にそちらを見つめていたのか。

「ああ、マリーは事情があって本名は明かせないし、感情を失っているんだ」

 湯川さんがそう説明してくれる。

「なるほど」

 いくつか理由になりそうな事情は思い浮かぶが、深く追求しない方がよさそうだ。

「それで、実験とは?」

『それも直前の記憶がほとんどないので、断片的な記憶からの推論だけれど』

 前置きをして、AIは説明し始めた。

 半年ほど前から、VR上で新しい体験を提供するための研究が始まっていた。

 VRでは遠方の者とリアルタイムで対話したり、自分の分身とするアバターを好きな外見にカスタマイズしたり、実際には行けないような場所、宇宙空間や地下の遺跡を見学することもできる。架空の世界を体験できるVRゲームも人気だ。

 ゲームの一種として、実在の人物の体験を再生できるものがある。

 僕も何度か試した記憶がある。エベレストを登頂した登山家の体験を再生したときには、踏みしめる雪の感触や顔に触れる切られるような冷気も我が身に起きているように感じられたし、F1レーサーの体験を再生したときには潰れそうに押し付けてくるGの重みをしっかり感じていた。痛みや寒さは実際よりもかなり緩和されているそうだけれども。

 そういった記憶の追体験において、さらなるアップグレードを行うのが例の研究だ。

 それは、〈他人の意識を体験する〉というもの。

 それが実現するとどうなるかというと、体験の元になる記憶の主の思考自体を体験できるようになるという。サッカーの試合でとあるチームの選手の記憶と意識を追体験したら、どういう場面でどう考えて何を行ったのか、戦術も追えるようになる。

 確かに、実現したら有用そうだ。教材にもなりそうだし。ただ、思考の弱い人間が他人の思考を追体験すると悪影響があるんじゃないかとか、すぐに思いつくようなリスクもいくつかある。

『さまざまな問題を規制や設計変更でクリアし……まず、モニターを募集して何度か実験を行おうという段階になった。今回のは、その最初の一組のはず』

「一組? 少なくとも五人いるみたいだけど」

 檀さんが落ち着かなそうに疑問を口にする。

「いや、一組なのは確かだ。しかし実際には、ここにいる全員が直前の記憶を失い、奇妙な記憶や感覚を持っている……で、合っているな?」

 と、湯川さん。彼は研究に関わっていたそうなので、そう保証できるならそうなのだろう。

「らしいね。あたし、見たこともない大きな機械と向き合ったり、仮想現実の空間の調整のようなことをしている記憶がぼんやりとある。これ、あなたの記憶かもね」

 まるで、思考と記憶を覗いたように。

 檀さんは口調を変え、屈んで銀髪の少女と視線を合わせる。

「マリーちゃんは、何か覚えていることある?」

 尋ねられた方は少し固まっていたものの、小さな声で話し始めた。

「よくわからない。光が見える。たくさんの光。満足しているような、変な感じ」

「そう。まあ、九歳の子の記憶じゃそんなものでも無理ないね」

 うーん、幼いから説明しきれないのかどうか、よくわからないな。

 それ以上に僕自身のことが意味不明だ。誰の記憶も残されていないようで、自分の過去すら酷く曖昧だ。

「コビーはまだ話していない異変、覚えのない記憶はあるか?」

 湯川さんがAIに問うた。まるで感情を得たようになっていることなどは、すでに話しているらしい――いや、そうか。コビーも誰かの思考にさらされたからこそ、そうなっている可能性が高いということか。

『わたしが持つ不思議な記憶は、道で何かを探しているものだ。見つけたのに見失ってしまい、とても焦っている。でも最後に人込みの中に目的を見つけたのか、歓喜がこみあげていた。探していたのは物ではなくて人間かもしれないね』

「ああ、それはあたしの記憶だわ」

 被せるように檀さんが声をあげる。

「十年ぶりの親友と情報センターに行ってVRで故郷の町を眺めるつもりだったんだけど、途中ではぐれちゃって。でもどうにか再会できたの」

 まるで今も焦っているのではないかと思うような早口だ。ただ、そうして説明できるということは彼女の記憶であることには違いないんだろうな。

「個人情報を含むので詳細は差し控えるが、マリーの記憶らしきものはわたしが持っている」

 湯川さんは手短に説明する。事情があって本名は使えないし感情を失っているというから、あまり他人に伝えない方がいいような記憶を持っていてもおかしくない。

 となると、マリーの見たものはコビーのものか。そりゃあ、よくわからない、という感想にもなる。

 残るは僕と、身動きが取れないもう一名。

 ただ、これまでの情報だけでもいくつかの可能性や存在したと思われるシナリオがあった。

「実験は思い通りにはいかなかった、というのは間違いないようだね」

 こんなに記憶が曖昧になったり、コビーすらまともに外界と更新ができなくなる事態を想定していたはずはない。

「だろうな。実験用プログラムを開始した途端、なんらかの事故が起きたらしい」

 湯川さんも同意する。

「それに、他はともかく、マリーちゃんを実験に参加させることはないはず。そもそも対象は一組だけなのだから、他は巻き込まれたということになる」

 これにも僕は確信を持っていた。

 まさかここまでの事態になるとは予想されていなかっただろうけれど、一応、何が起きるかわからないような実験とやらに、幼い少女をモニターとして参加させる訳もない。

『ああ、これまでの情報分析だとおそらく、マリーはエキストラとしてこのワールドにログインしていたのだろう。他のほとんどの者も』

「事故の影響でエキストラのはずの者にも思考や記憶の混濁が……しかし、確かエキストラは数十人はいたはずだぞ」

 湯川さんは腕を組み頭をひねる。

 実験用ワールドにエキストラを入れる意味といえば、他のワールドに環境を近づけるためと思われる。それなら数人というのは確かに少ない。

「たまたま波長が合ったから、とかじゃなくて?」

 檀さんの言うように完全にランダムの可能性もゼロじゃない。でも、僕には影響された範囲内にAIが存在していることは偶然に思えなかった。

「実験が行われたプログラムは、開始と同時に二名の意識をつなぐ、というものかい?」

 専門的なことはわからないにしても、仕組みくらいは理解できるかもしれない。コビーに向けたつもりで辺りに尋ねてみる。

『ふたつの意識をつなぐパイプラインを構築するが、体験する側からの一方的なものだ。その時点でコントロールできていればの話だけれどね。座標として対象の意識を指定して、そこにある意識に接触できればそれは発動することになる』

「記憶が混入しているなら、つながったところまでは動作しているんだな。想定したのとは違う対象にもだけれど」

 そう湯川さんが推理する。

 どうやら、僕が想像したことは〈内側〉にいるからこそ、彼らには想像しにくいことなのかもしれなかった。

「その意識が接触すると発動する機能というのは、コビーの意識に触れることは想定しているのかな?」

 そう問いかけると、科学者は愕然とした表情を浮かべたし、AIも驚いたような沈黙を返す。

「それは……考えなかったな。想定してしかるべきだったが」

 何年前かに書籍で読んだ覚えがあるけれど、コビー運用開始から数年後に『AIに意識は生まれるか?』という何度目かの議論が起きたけれど、これまで通り結論は出なかった、と書かれていた。そもそも人間も意識があると自分で証明できないし。

 今回の実験で認識されている〈意識〉も本当にそれなのかわからない。ある意味、人間の意識というものを確認する実験でもあるかもしれない。

『なるほど。はからずも、わたしに意識があることが証明された訳だ』

 AIの声は得意げだった。これまで聞いたことのある感情表現より、ずっと生っぽい。

『それにしても、その可能性を他の誰も考えないとは寂しいというかなんというか』

「自分自身でもわからなかったんだから、仕方ないだろ……いや、気づいてしかるべきなのは確かにそうだが」

『この複雑な心境も感情のせいだろうね?』

 湯川さんの反省に、AIの方は面白がっているような声色。感情があってもなくても性格自体は変わらないので、これ自体はいつもと大した変わらない。

『でも当然、わたしに意識があることは実験の失敗の原因になり得るだろうね。おそらく、巻き込まれたエキストラのみんなはわたしが丁度、交信していたところだったんだろうな』

 何でエキストラ全員に影響しなかったか、という理由はそんなところらしい。

『ただ、意図的にわたしにだけ作用するように切り替えることもできるようになれば、それはそれで大きな進歩を生むだろう。すでに、今までより少しだけ人間への理解が深くなった気がするよ』

「それはよかったけど……状況がわかったところで、脱出できるの?」

 檀さんの疑問はもっともだ。巻き込まれただけのエキストラには何の得もないし。

 ただ、ここまで状況がわかれば解決方法も予想はつく。

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