第21話 長井雅楽
「しかし久坂君はえらい剣幕だったな。お前は聞いていてどう思った、利助」
桂さんはようやく去ったか、と酒で喉を潤した。桂さんがおれのことを名前で呼ぶのは珍しい。おれを気遣う余裕もないようで、よほど堪えたようだ。
「はい。まず、長井様とはどのような方ですか?このような建白を作られるとは、相当にご聡明の方のように思いました」
「そうだな」
桂さんは長井様のことを教えてくれた。
長井雅楽、大組の家柄で今は直目付に就いている。文政二年生まれで四十三歳。桂さんより十四歳上、おれから見れば二十二も上だ。我らが殿と同年で、一時期小姓や奥番頭をされていたこともあり、お二人は大変親しい間柄だそうだ。容姿涼やか、弁舌爽やか。剣の腕もたち、若い頃より藩を背負って立つ男、といわれてきたらしい。
「なぜ長井様のことを一番に聞く?利助も松門だから、久坂君の意見に賛成なのだろう?」
「はい、心持ちは久坂さんに賛同します。しかし、なぜ航海遠略策が藩論に採用されるのか、そのあたりがわからないと、ひっくり返そうにも返せないと思いまして」
おれは思ったことを答えた。
「僕もそこが一番気になった。推測するに、今の世情をお嘆きになった殿が、我らが幕閣に関与するための策を出せ、と仰せになったのではないかな。それを受けた長井様が、今の幕閣に寄り添った策を編み出した、といったところか」
なるほど。長州が世に出る手始めに、まずは幕閣に意見できる立場を得るということか。そのための策だとすれば、腑に落ちる。
「つまり、まず幕閣に口を出せる立場になろう、ということですか」
「僕が勝手に想像しただけ、だけどな。殿は自ら、ああええ、こうせえ、という方ではない。長井様に策を出させて、そうせえ、という形をとられたのであろう」
御政道とはなんともややこしいものだ……。
「殿のお考え、ということであれば、ひっくり返すのは容易ではないですね」
「お考えを変えるには、なにかしらのきっかけがいるだろうな。まあ、待てば海路の日和あり、だ。国元の様子を探りながら、時勢の変化を待つことにしよう。ありがとう伊藤君。君と話して頭が冷えたよ」
どうやら桂さんは落ち着きを取り戻したようだ。桂さんは残った酒を飲み干し、おれは徳利を片付けて、部屋を出た。
それからしばらくは、桂さんの待つ「きっかけ」は起きなかった。
この後すぐ、桂さんは国元の周布様から文を受け取ったようだ。周布様は、長井様の知恵にいたく感服。来原さんなど国元の諸氏もこぞって長井様を称賛している、と桂さんはいっていた。
五月、水戸の激派が、イギリス公使館が置かれている高輪東禅寺に侵入。オールコック公使を襲撃するも失敗して、多数の水戸脱藩浪士が自害、処刑される、という東禅寺事件がおきた。世の攘夷派は、さすがは水戸、と騒いでいたが、桂さんが待つ「きっかけ」にはならなかった。
七月、長井様が江戸に入られた。表向き、殿の参勤入府に先立つ露払い、とされていたが、幕閣に航海遠略策を周旋に来た、というのは公然の秘密だった。
久坂さんは、長井様と入れ替わりで桜田の藩邸を追い出され、麻布下屋敷に配置換えになった。久坂さんは反長井派の結成を画策するも、賛同するのは松門の若手など一部に留まっていた。
おれ?もちろん、久坂さんに賛同しているが、桂さんの手子である以上、表立って活動するわけにはいかなかった。桂さんと同じく隠れ反長井派、という感じだった。
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