第20話 航海遠略策

 それは、年も明け、万延が文久と改元された二月の夜だった。

「桂さん、「航海遠略策」のこと、聞いていますか?」

 顔を真っ赤にした久坂さんが、桂さんの部屋に乗り込んできた。

「いや、知らん。それにしても久坂君、何をそんなに怒っている?」

「こんな下らん、長州を貶める策が、藩論になるというのです。上は何を考えているのです。まったく馬鹿げている」

 久坂さんは国元からであろう文を、目の前の畳に叩きつけた。


 航海遠略策。久坂さんの話によると、国元の直目付、長井雅楽様が建白された策とのこと。その内容はこうだ。

(一)破約攘夷は異国との戦につながり、かつ異国と戦になれば必ず負ける。 

(二)鎖国は島原の乱以降の幕府の祖法だ、というのはまやかしである。

(三)往時天朝ご隆盛の時は、京に鴻臚館が置かれた。通商は、我が国が異国に覇を唱えていることの証である。

(四)よって朝廷は、幕府に攘夷撤回、即時開国を命じなければならない。

(五)朝廷が開国を唱えさえすれば、幕府・諸藩は全て従う。朝廷の斡旋こそが、海内一和につながるのである。

 要は、幕閣の公武合体政策に賛成だ、朝廷は幕府を後押しせよ、という内容だった。


「長井は、異国と戦になれば必ず負ける、だから攘夷を捨てろ、といっているのです」

 久坂さんは畳に拳を打ちつけた。

「近々、長井がこれを藩論として我が殿に建白する、というのです。我が殿は長井に騙されているに決まっています」

 久坂さんは、もはや長井様のことを呼び捨てにしていた。

「松陰先生は我々に何を教えたか。利助、覚えているだろう?」

 おっと、矛先がこっちに向いてきた。

「はい。我が国は清国のようになってはならぬ、ということです」

「そうだ」

 危ない、間違わなくてよかった。


「清国は武を示さず、イギリスに舐められて蹂躙され、いまや国を乗っ取られているではありませんか。長井は我が国を異国に売り渡す気なのです」

 久坂さんは、自分で自分の火に油を注いでいた。

「なるほど、国元ではそういうことになっているのか」

「桂さん、そういうこと、ではないですよ。今すぐ長井を潰さなければ、長州が長井に潰されますよ」

 久坂さんは続けざまにいった。

「桂さんも尊攘派と付き合っているのでしょう。桂さんが公武合体に寝返ったと知れば、水戸の激派の連中なんか、即刻桂さんを襲いにきますよ」

 久坂さんは桂さんの痛いところを突く。

「ふむ、そうなるか」

 桂さんはそこで初めて笑みを消した。

「それは困る」

「それは困る、ではないですよ。一緒に長井を潰しましょう」

 ぐずぐずしている暇はない、と久坂さんが迫る。

「潰したいのはやまやまだが、藩論に採用される流れに棹さすのは厳しいな」

「桂さん……」

 あきれたのか、もどかしいのか、久坂さんは情けなさそうにしていた。

「僕は航海遠略策のことは今聞いたばかりだ。僕も国元の様子を調べてみるから、また今度話しさせてくれ」

 桂さんの気持ちは、まずいことになった、が半分と、久坂面倒くさい、が半分、といったところか。

「わかりましたよ、桂さん。ただ、僕はたったひとりでも長井を潰しにかかりますからね。いや、ひとりではないな。利助、お前も込みで松門一派をまとめて反長井でいきますから」

 そういい捨てて久坂さんは去っていった。これから飲みに行くのだろう。今日の久坂さんは大荒れに違いない。おれは、連れられて飲みに行く人たちのことを気の毒に思った。

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