第16話 余波
おれは、世にいう「桜田事変」の現場に偶然居合わせた。上巳の総登城日、人出の多い辰の刻、各大名が城内に入る場所であり、武鑑を片手に見物人が集う桜田門前。隠そうにも口止めしようもない状況だ。
討たれたのは、尾張様・水戸様をその剛腕で封じ込めていた幕閣筆頭、大老井伊掃部頭様。賊はその水戸様家中の者だった。こんなことまで白日の下にさらされた。
この事変の話は、その日のうちに江戸中を駆け巡った。各藩もこぞって早飛脚を飛ばしただろう。数日のうちには、日本中の知るところとなるはずだ。
「この日を境に、世間の空気が変わった気がする」
桂さんはそういった。
「力で世を動かせる、と思う者が出てくるだろうな」
なにしろ、朝廷、御三家、親藩と、誰も逆らえなかった時の大老が、一日にして退場したのだ。こんな事例をみてしまったら、正義のためには暴力も辞さずと、誰しも思うことだろう。
「それに幕閣も、これまでのようには振る舞えんだろう」
井伊様の後の幕閣は老中久世様、安藤様が担うようになった。だが、この新幕閣は長州に、「長州様のご意見頂戴」といってくるようになったのだ。外様の意見を聞くなんて、これまでの世ではありえない。すっかり様変わりという感じだ。もっとも、強権を振るえば賊に襲われるとなれば、幕閣も遠慮せざるを得ないのだろうが。
こんなことをいい合えるのも、しばらく経ってからのことだ。当日は興奮と恐れで、とても落ち着いてはいられなかった。
「松陰先生の
そんな中でも、志道さんは軽口を叩いていた。
「今日の会読会は中止だ、と村田先生に伝えてきてくれ」
桂さんからは、冷静に申し付けられた。
おかげでおれは、野次馬あふれる中をおっかなびっくりで外出する羽目になった。
「そうですか、わかりました」
当の村田先生は、いかにもこの先生らしく、無反応だった。
帰り道の桜田門前は何事もなかったように静かだった。総登城日にも関わらず辺りには人っ子一人いないのが、かえって不気味に感じた。
藩邸に戻ると、桂さんは静かに書見をしていた。この人も、まるで何もなかったように落ち着いていた。
おれは、首尾を報告した。このとき、おれは気になったからと、つい余計なことを聞いてしまった。
「桂さん。さっきは、本当にやったのか、と呟いていましたが、知っていたんですか」
「そんなことをいっていたか?まあ、知っているといえば知っているし、知らないといえば知らない」
桂さんは書見台に目を落とした。見事にお茶を濁されてしまった。
「このことは内密にしておいてくれよ」
書見台から目線を離さず、桂さんは静かに呟いた。
おれは思わず身が震えた。
事変後の江戸藩邸はこんな桂さんの調子で、まるで何事もなかったようだった。だが、時勢は長州にこんな態度を許してくれなくなっていた。
幕閣は、井伊大老の幕府専制体制を転換、「公武合体」を模索するようになった。
水戸の過激派は、「尊王攘夷」という言葉を掲げ始めた。もとは水戸藩だけの言葉だったが、今では朝廷尊重、異人排除を象徴する便利な言葉になった。おれの周りにも尊王攘夷に共感する者が増えてきていた。
国元でも、日和見から転じて幕政に積極的に関わるべきだ、との意見が出始めていた。
「面倒なことになってきた」
桂さんは、ことあるごとに嘆いていた。
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