RE:ここにいた みずほ

味噌煮込みポン酢

ここにいない わたし

第1話

 いつの間にか、教室にも家にも、落ち着ける場所がどこにもなくなっていた。


 クラスでは、誰とも目を合わせられない。

 話しかけられることもないし、たまに声をかけられても会話は続かない。


 授業中。

 色のない教室に、教科書をめくる音だけがやけに響く。

 その中で、


 ――邪魔。

 ――なんであいつが。

 ――いなくなればいいのに。


 誰のものか分からない言葉だけが、耳の奥に残り続ける。


 家でも同じだった。


 義兄は優秀で、完璧で、そのまま将来が約束されているような人間。

 義両親は比べることすらしない。

 そもそも、私を見ていない。


 呼ばれることも、一緒に出かけることもない。

 期待もされないし、叱られることもない。

 私の部屋があって、私はそこにいるだけ。


 何日か、連絡もせずに帰らなかったことがある。

 怒られるか、心配されるか。

 そんな小さな反抗のつもりだった。


 でも、戻ったときに義父に言われたのは、一言だけ。


「帰ってきたのか」


 それだけだった。

 帰ってきた事実を確認しただけの、そんな声。


 ――ああ、そういうことか。


 そこでやっと理解した。

 あの人たちにとって、私は家族じゃない。

 ただ、引き取ったまま置いているだけの存在なんだ。


 それから、学校の空き教室に入り浸るようになった。


 机も椅子もそのまま残っているのに、誰も来ない場所。

 寒々とした、誰にも必要とされていない部屋。


 壁際の席に座って目を閉じると、何もないのが少しだけ落ち着く。

 それでも、耳の奥の声は消えない。


 誰も来なければいいと思う。

 そう思うのに、同時に、誰かに見つかればいいとも思ってしまう。


 矛盾している。

 そんなことくらい、ちゃんと分かっている。


 ***


 その日、ドアが少しだけ開いた。


「あら?

 こんなところで何してるの?」


 ──先生との出会いは、そんな風にして訪れた。


 顔を上げる。

 入口に立っていたのは、見覚えのない人だった。

 黒いパンツスーツに、真っ直ぐな黒髪。

 明るい雰囲気。

 私とは別の世界の住人みたいに見えた。


 だから、何も答えなかった。

 別に、話す必要もないと思ったから。


「そっか」


 先生は、それ以上は追及しなかった。

 ただ入り口近くの机に腰掛けて、しばらくそのまま。


「……まあ、ひとりでいられる場所って、必要だよね」


 独り言みたいに言って、立ち上がる。


「またね」


 そのまま出ていった。



 次の日も、私は同じ場所にいた。

 またドアが開く。


「やっぱりいた」


 昨日と同じ人だった。


「みずほさん、だよね。名簿で見た」


 また昨日と同じ席に座ると、そう言った。


 勝手に名前を言われたのに、不思議と嫌じゃなかった。

 先生はそれ以上何も言わなかった。

 私も、何も答えないままだった。


「じゃ、またね」


 しばらくして先生は立ち上がり、出ていく。

 あとには、また私だけが残った。



 それから、先生は毎日やってきた。

 話すこともあれば、何も話さない日もある。


「夜、寝れてる?」


「……まあ」


「ごはんは?」


「普通」


 それくらいのやり取り。


 それでも、少しずつ話すようになった。

 家のことや、学校のことを、言える範囲で。


 先生は否定もしないし、評価もしない。

 ただ聞いている。


 ときどき、相槌の間が長い。


 考えているのか、

 ただ見られているだけなのか、

 分からない。


 でも、その沈黙は、なぜか嫌じゃなかった。

 気づけば、先生が来ないかなと思うようになっていた。


 そんな関係が、しばらく続いた。


 私はいつもの空き教室の、同じ場所にいる。

 先生がやってきて、一言二言話して帰っていく。


 帰り際は、決まって「またね」



 いつの間にか、

 私は先生に会うために学校へ行くようになっていた。



「寒いね、手。ほら」


 そう言って、先生がそっと自分の手で、私の指先を包んだ日があった。


 五月の終わり。

 風が強くて、手が冷たくなっていた頃。


「あ……」


 驚いたのは一瞬だけ。

 そのぬくもりが、どうしてかひどく嬉しかった。


 それからだった。

 先生は、たまにそうやって自然に触れてくるようになった。


「うん、頑張ったね」


 ちょっとしたことで、頭を撫でてくれる。


「今日は顔色悪いね、大丈夫?」


 そう言って、おでこに軽く手を当てる。


 ほんの一瞬。

 それだけなのに──体の奥が、じんわり温かくなる。



 六月の後半。

 先生の都合で、会えるのが二日に一回になった。


 その頃にはもう、

 私は先生と話す時間を心待ちにしていた。

 先生といると、冷たかった教室が明るくなって、

 あたたかくなる気がした。



 七月。


「先生、今日も来てくれてありがとう」


「ううん。来たいから来てるだけ。会えると嬉しいよ」


 言葉だけじゃない。


 先生の手が、私の頭に触れたとき。

 肩を軽く支えてくれたとき。


 ほんの一瞬なのに──胸の奥が、ドクンと大きく跳ねる。


 もっと触れてほしい、なんて。

 そんなこと、恥ずかしくて言えなかったけど。


 先生が帰ったあとの教室で、

 肩に残るぬくもりを思い出して──ひとりで泣いた。



 誕生日には、小さなブレスレットをくれた。


 先生の指が、私の手首にそれを巻く。

 肌が触れた、その一瞬だけで、胸がいっぱいになる。


「……先生、わたし……」


 言いかけて、飲み込んだ。


「うん?」


「ううん、なんでもない……」


 でも、あのとき。

 私はもう、ちゃんと分かっていた。


 ──わたし、先生が好きなんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る