第12話「白蛇のお姉さんが、いつも俺を見ている件」
百鬼荘に白音が来て、三日目の朝。
悠真は違和感に気づいていた。
正確に言うと、初日から気づいていた。二日目にはっきり認識した。三日目の今日、「気のせいではない」と確信した。
白音が、悠真を見ている。
ずっと。
朝、キッチンで卵焼きを焼いていると、食卓に座った白音がこちらを見ている。
昼、洗濯物を干していると、縁側に座った白音がこちらを見ている。
夕方、部屋でコードを書いていると、廊下の向こうから白音がこちらを見ている。
夜、風呂から上がって髪を拭いていると、階段の下から白音がこちらを見ている。
(視線が、ずっとある)
(何なんだろう、これ)
白音は物静かな性格だった。澪より口数が少ない。二十代後半くらいに見える。髪は黒くて長くて、着物を着ている。目が少し大きくて、瞳孔は普段は人間と同じだが、感情が動くと縦に細くなる。
悪い人ではない、というのは数日で分かった。
ただ、視線が、常にある。
(エンジニアの職業病で、視線みたいな「異常」に気づきやすいのか)
(それとも、本当に見られているのか)
(後者だ、確実に後者だ)
朝食を終えたキッチンで、悠真はみつきに相談した。
「みつきさん」
「ん?」
「白音さん、俺を見てません?」
「見てる」
即答だった。
「ずっと?」
「ずっと」
「気のせいじゃなく?」
「気のせいじゃない。昨日、数えたら、一日で百二十七回見てた」
「……数えたんですか」
「暇だったから」
「暇でも数えなくていいです」
みつきがけらけら笑った。
「でも気にしなくていいんじゃない? 白音さん、悪い人じゃないし」
「気にならないほうが無理です」
「じゃあ聞いてみたら?」
「直接?」
「直接」
(それができたら苦労していない)
(紅さんの過去の友達に、いきなり"なぜ俺を見ているんですか"と聞けるか)
「……ちょっと考えます」
「考えてるうちに見られ続けるけどね」
(それは、そうだが)
---
昼過ぎ、庭に出ると、縁側に白音が座っていた。
紅と並んで。
紅と白音が、お茶を飲みながら話していた。二人ともいかにも日本的な光景で、京都の町家の一場面みたいだった。九尾と白蛇が縁側で抹茶を飲んでいる絵は、たぶん美術館に飾れる。
悠真が通り過ぎようとすると、白音が顔を上げた。
また、視線が合った。
「……悠真くん」
珍しく、白音が声をかけてきた。
「何でしょう」
「……少し、お話してもいいかしら」
(ついに来た)
(来るなら来い、もう覚悟はできている)
「どうぞ」
悠真は縁側に座った。紅が少し面白そうな顔をしていた。
白音が湯呑みをそっと置いた。
「……私、あなたのことを見てたでしょう」
「気づいてました」
「……やっぱり」
白音が少し俯いた。
「ごめんなさいね」
「いえ。理由を教えてもらえると助かります」
白音が顔を上げた。少し、迷うような目をした。
「……私、ずっと、人間の男性が、苦手だったの」
(思ってた話と違う)
「……白蛇って、ちょっと種族的に、人間の男性と縁が深いことが多くて。昔話でも、蛇になった女と人間の男の話が多いでしょ」
「清姫伝説、とかですか」
「そう。ああいうの。昔の白蛇は、人間の男に騙されたり、捨てられたり、裏切られたりしてきた。だから——」
白音が湯呑みを見た。
「白蛇の一族には、人間の男性不信みたいな、そういう性質が刷り込まれてる」
「なるほど」
「だから、私、男性が苦手。近づくと、反射的に警戒してしまう」
「俺のことも?」
「……最初の夜は、そうだった。怖かった。紅が信頼している人間、と聞いても、どうしても信じられなくて」
(だから初日、特に視線を感じたのか)
(監視されていたわけだ、ある意味)
「でも、見ているうちに——」
白音が少し微笑んだ。
「悠真くんは、男性っぽくないのね」
(え)
「いや、男性じゃないということじゃなくて。なんというか、"人間の男"として振る舞わない人、というか」
(どういう意味だ、それは)
「……褒められてますか、それ」
「褒めてるの」白音が少し笑った。「悠真くんは、誰に対しても、丁寧に、静かに、相手の話を聞く。女性だから特別扱いするわけでもなく、妖怪だから警戒するわけでもなく。ただ、住人として接する」
「普通のことですよ」
「普通のことなのに、できない人が多いのよ。特に、男性は」
(……そうか?)
(いや、思い当たる節がある。前の現場で、女性の先輩を下に見る男性エンジニアが何人かいた。俺は気にならなかったが、気になっている人間が多い業界なのは事実だ)
「だから、見ていたの。観察していた、というか」
「……研究対象ですか」
「そういう感じ」白音がまた少し笑った。「でも、三日見て、だいたい、わかった。悠真くんは、信頼できる人」
「……ありがとうございます」
「こっちこそ、観察していて、ごめんなさいね」
「いえ」
紅が横で、コーヒーを飲みながら言った。
「だから言ったでしょ、悠真くんは普通じゃないって」
「九尾の言う"普通じゃない"は、意味が違う気がします」と悠真。
紅がにやりと笑った。
「……褒め言葉よ」
「どこがですか」
「全部」
---
午後、白音が悠真の部屋に来た。
「少し、お邪魔してもいい?」
「どうぞ」
白音が入ってきて、畳に正座した。所作がきれいだ。妖怪というより、どこかの家の上品なお嬢さんに見える。
悠真はノートPCを閉じた。
「何か、用ですか」
「昨日の話の続き、をしたくて」
「続き?」
「私が、なぜここに来ることを選んだのか」
白音が少し間を置いた。
「……新宿で、紅が言ってくれたこと、嬉しかった。でも、正直、迷っていたの」
「迷っていた?」
「百鬼荘の話は、昔から聞いていた。"人間が一人住んでいる、変な家"って」
「噂になってるんですか」
「妖怪の中では、少し有名よ。管理人が強すぎて陰陽庁も手を出せない、でも人間が一人いる、どうなってるんだ、みたいな」
(世間話の種にされているのか、百鬼荘)
「それで、半分好奇心で、ここに来ることにしたの」
「残り半分は?」
「……紅を信頼してるから。紅が守ろうとする家なら、きっと大丈夫、と思った」
(紅さんのこと、ちゃんと信頼してるんだな)
「白音さんと紅さんは、どういう関係ですか」
白音がしばらく、視線を畳に落とした。
「……百年くらい前、同じ山に住んでいた」
「百年」
(妖怪の時間軸は、人間のそれとは違うな)
「私は山奥の古い社にいて、紅は山の別の場所にいて。最初は、別々に暮らしていたの。でも——ある時、人間たちが山を切り開いて、私の社を壊そうとした」
「……」
「私は逃げる選択肢があったけど、社と一緒に消えることを選ぼうとした。そこにいたい、と思っていたから」
「それで?」
「紅が来て、私を連れ出した」
(紅さんが、助けた)
「それから、二人で山を下りて、しばらく一緒に暮らしていた。でも、そのうち別々の場所に移って、連絡も取らなくなって、お互いに別の人生を生きてきた」
「今回、新宿で再会した」
「そう」白音が少し微笑んだ。「再会というより、紅が、私を見つけに来てくれた」
「紅さんは、どうやってあなたのことを知ったんですか」
「……新聞を見たのね、きっと。白い人影、という表現で」
「はい」
「昔、紅に言ったことがあるの。"私が死ぬときは、きっと白い人影として最後に目撃される"って。少し、感傷的な冗談だったんだけど」
「紅さんは、それを覚えていた」
「覚えていたのよ、たぶん」
白音の目が、少し潤んでいた。
(紅さんって、覚えてるんだな、そういうの)
(新聞記事を見て、白音さんの危機だと気づいて、助けに来た)
(確信犯で試してくる紅さんと、友達を百年覚えてる紅さん、同じ人なんだよな)
「……いい話、ですね」
「ふふ、そう?」
「はい」
白音がしばらく、畳を見ていた。
「悠真くん」
「はい」
「私、ここに来て、良かったわ」
「それは良かったです」
「紅がいるからだけじゃなくて、あなたがいるから」
「俺が、ですか」
「そう。あなたがいるから、この家は、"人間と一緒に暮らせる家"なの。それは、私みたいな男性不信の妖怪にとっても、すごく大きいこと」
(……そうか)
(俺、自覚がなかったが、そういう役割もあったのか)
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
白音が立ち上がった。
「また、お話ししてもいい?」
「どうぞ」
「観察はやめるから」
「それは助かります」
白音が少し、いたずらっぽく笑った。
「……たまには見るかも」
「やめてください」
「ふふ」
白音が部屋を出ていった。
---
夕方、ましろが悠真の部屋に来た。
「おにいさん、白音さんと何話してたの?」
(なんで知ってるんだ)
「昔の話を、少し」
「ふーん」
ましろが悠真の隣に座った。いつもの位置だ。
「ましろも、白音さんと話した」
「何を?」
「ましろのこと、すごく喜んでくれた。"久しぶりに子どもを見た"って」
「白音さん、昔の妖怪ですからね」
「ねえ、おにいさん」
「何ですか」
「白音さん、きれいな人だね」
「そうですね」
ましろが少し、考えるような顔をした。
「おにいさんも、きれいだと思う?」
「きれいだと思います」
「……」
ましろが少し、黙った。
「……ましろも、大人になったら、きれいになれる?」
(え)
(急に何の質問だ)
悠真は少し考えた。
「……ましろさんは、今のままで、十分かわいいですよ」
「大人になったら?」
「大人になっても、ましろさんはましろさんだと思います」
ましろが少し目を丸くした。
「……変わらないの?」
「変わる部分もあるし、変わらない部分もあると思います。でも、どっちでも、ましろさんはましろさんです」
「……むずかしい」
「難しいですね」
「でも、おにいさんがそう言うなら、いい」
ましろがにこっと笑った。
今日は、目も笑っていた。
(ましろさんの笑顔、最近、ちゃんと笑顔の日が増えてきた気がする)
(最初の頃は、温度のない笑顔が多かったが)
(俺が、気にするようになっただけかもしれないが)
---
夜、澪が部屋に来た。
「……白音と、話してた」
「はい」
「……長かった」
「三十分くらいですかね」
「……長い」
(怒ってるのか)
(いや、怒ってるというより、拗ねている、という感じか)
「何の話をしていたか、聞きたいですか」
「……別に」
「話しますね」
「……聞きたいわけじゃ——」
「昔の話と、俺がどうして信頼できると思ったか、みたいな話でした」
澪が少し黙った。
「……信頼、できる?」
「できる、と白音さんは言っていました」
「……それは、そうだけど」
「澪さんはどう思ってますか」
「……私が、一番、信頼してる」
即答だった。
(即答だった)
「ありがとうございます」
「……別に、礼を言われることじゃない」
「嬉しかったので」
澪が少し視線を逸らした。
「……悠真」
「はい」
「……白音は、きれい」
「そうですね」
「……大人の女の人、きれい」
(今日、ましろさんとも同じ話題になった気がする)
「悠真は、大人の女の人、好き?」
(危険な質問だ)
(どう答えても地雷な気がする)
「……好きというか、あまり意識したことがないです」
「……意識したことない?」
「はい。人を見るとき、年齢で分類しないので」
「……どういう基準で見るの?」
「信頼できるかどうか、話が合うかどうか、一緒にいて落ち着くかどうか。そういうのです」
澪がしばらく、悠真を見ていた。
「……それ、澪はどう?」
(直球できた)
「……信頼できるし、話が合うし、一緒にいて落ち着きます」
澪が、少し耳を赤くした。
「……そう」
「そうです」
「……よかった」
廊下の温度が下がった。
でも今回は、急激じゃなかった。
「……冷えた?」
「少し」
「……ごめん」
「謝らなくていいですよ」
「……深呼吸、する」
澪が深呼吸した。温度が、少し戻った。
「……悠真」
「はい」
「白音と話すのは、いい。でも——」
澪が少し迷った。
「……私とも、話して」
「……話してますよ、毎日」
「……毎日、話したい」
「話しましょう」
「……うん」
澪が立ち上がった。部屋を出る前に振り返った。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
澪が部屋を出た。
悠真は、しばらく、ドアを見ていた。
(毎日、話したい、か)
(あれ、今日、澪さんから告白っぽい台詞を二つもらった気がする)
("私が、一番、信頼してる"と、"毎日、話したい")
(どっちも、冷静に考えると、結構、な)
(考えると、恥ずかしくなってくるから、やめよう)
---
深夜。
悠真が廊下に水を汲みに行くと、縁側に人影があった。
白音だった。
月を見ている。
「眠れないんですか」
「……少しね」
白音が振り返った。
「悠真くんも?」
「少し考え事をしていて」
「座る?」
「お邪魔でなければ」
悠真は縁側に座った。白音の隣。少し距離を置いて。
月が、きれいだった。
「……悠真くん」
「はい」
「澪が、あなたを好きなこと、気づいてる?」
(え)
(単刀直入に来た)
「……たぶん」
「"たぶん"?」
「……ちゃんと、言葉で言われたわけではないので」
「雪女が、言葉で言うのを待ってたら、百年待つわよ」
「百年」
「雪女の一族は、感情表現が不器用。"好き"の一言を言うのに、百年かかる一族もある」
(百年待ちたくない)
「……どうすれば、いいですかね」
「言ってあげて、あなたから」
「……俺から?」
「雪女は、待つのが苦手なくせに、待つしかない種族なの。だから、誰かが最初に手を差し出してあげないと、いつまでも手が出せない」
「……参考になります」
「紅にも言わないでね」
「なぜですか」
「紅は、自分で気づく人だから」
(この人も、紅さんのこと、ちゃんと理解しているんだな)
「……ありがとうございます」
「いえ」
白音がまた、月を見た。
「私、この家に来て、本当に、良かった」
「何度目ですか、その台詞」
「今日、三回目くらい」
「覚えておきます」
白音がふっと笑った。
「悠真くんも、この家に来て、良かった?」
「……良かったです」
「ふふ。良い返事」
しばらく、二人で月を見た。
(紅さんと白音さんは、長い友達だ)
(澪さんとは、違う形の関係だ)
(ましろさんとも、みつきさんとも、違う)
(この家は、色々な関係が、同時に存在している)
(それが、落ち着く)
(そういう家だ、百鬼荘は)
しばらくして、白音が静かに言った。
「悠真くん」
「はい」
「私、あなたに何かあったら、絶対に助けるから」
「……え?」
「百年前、紅が私を助けてくれた。今、あなたがいることで、私と紅はまた一緒にいられる。だから、あなたに何かあったら、私は絶対に動く」
「……ありがとうございます」
「お礼じゃないの。約束」
「……約束」
「ええ」
白音が少し、微笑んだ。
(この家に、また一人、俺を守ろうとしてくれる人が増えた)
(俺は、何もしてないのに)
(いや、何もしていないということはない、か)
(ただ、ここに、いるだけで)
(それが、アンカー、ということなのかもしれない)
---
岬悠真、百鬼荘生活十二日目。
白音に「観察してた」と告白された。人間の男性不信の話を聞いた。紅と白音の百年前の話を聞いた。ましろに「ましろもきれいになれる?」と聞かれた。澪に「毎日話したい」と言われた。白音に「絶対助ける」と約束された。
それ以外は——
静かな一日だった。
こういう日も、悪くない。
(澪さんに、俺から手を差し出すとしたら、どうすればいいんだろう)
(明日から、少しずつ、考えよう)
---
*【第13話「冷蔵庫の中身が、毎朝消えている件」に続く】*
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