ちひろとなぎこのワークスペース公開 ――バスの窓越しの影から、善男の邸まで
龍珠院地優
バスの窓越しの影から、善男の邸まで
東山三条の離れで、なぎこは急に「ああ……!」と声を上げた。
私は座卓に広げた系図から顔を上げる。さっきまで応天門の変の名を追っていたはずなのに、その一声で、六畳の空気がまた少し揺れた。
「何や」
「思い出したわ。あのときや」
なぎこは、いかにも今しがた千年前から戻ってきたみたいな顔で、こちらへ身を乗り出した。
「バスの窓から見えたやろ。寺町を南へ下っていくあたり、妙に影の濃い場所」
その言葉に、私はふっと息を止めた。
たしかにあった。京都の町を流れていく車窓の向こうに、今の建物の輪郭とは少し違う、何か別のものが一瞬だけ混じって見えた場所が。
あのとき私は、ほんまに小さな声で「なんか変やな」とつぶやいただけやった。
なぎこは、その続きをずっと覚えていたらしい。
「あんたがそう言うたとき、うちは確信したんよ」
デニムの着物のポケットに手を入れて、なぎこは窓の外を見るでもなく、もっと遠いものを見る目をした。
「あのアスファルトの照り返しの下に、千年前の煤けた匂いが混じってた。バスはそのまま通り過ぎてしもたけど、あの影……善男の邸のあったあたりに、まだ溜まってるんやわ」
「伴善男の屋敷……寺町御池のあたりか」
「せや」
なぎこは、いかにも当然という顔でうなずいた。
「ほんでな、善男の邸から応天門までは近いんよ。大路を南へ下がって、二条を西へ折れたらすぐ。あいつが火に気づかんはずがない。……あるいは、一番近うで見ていたか」
そう言われると、さっきまでただの“妙な影”やったものが、急に意志を持ったように思えてくる。
私は系図の上に指を置いたまま、なぎこの顔を見た。
「また、そこへ行くんか」
「行くに決まってるやろ」
「決まってる、て」
「こういうときのために、あんたと井戸を持っとるんやないの」
「井戸は俺の持ち物ちゃう」
そう言うと、なぎこは少し笑った。
けれど、その目は笑いきってはいなかった。もう半分、寺町御池の影の中へ入っている目やった。
私はため息をついて、座卓の上を見下ろした。
古地図、系図、書き込みだらけのメモ。
そして、スマホの画面には、さっきまで別の火の話が映っていた。ホルムズ海峡、戦艦、脅し、取引。
二十一世紀の火と、千年前の火が、いつのまにか同じ机の上に並んでいる。
「なぎこ」
「ん?」
「おまえ、こういうの、どこでつながるんや」
「何が?」
「バスの窓から見た違和感と、善男の邸と、応天門の火と、紀夏井と……そういうの全部」
なぎこは一瞬、ほんまに不思議そうな顔をした。
「つながるから、つながるんやろ」
「説明になってへん」
「説明から入ると、たいてい、ほんまのもんを見失うのよ」
そう言って、なぎこは私のすぐ隣に座り込んだ。
近い。近いけど、もう言っても無駄やと思った。
「最初にあるんは、たいてい、変な感じや。妙に影が濃いとか、そこだけ空気が重たいとか、匂いが違うとか。ほんで、その違和感をちゃんと見てたら、あとから人の名やら、出来事やらが、磁石みたいに寄ってくる」
「……それが、いま?」
「そうや」
なぎこは、いかにも機嫌よう、指で地図の上をなぞった。
「寺町御池。善男の邸。そこから西へ、応天門。
ほんで、その火のそばで、紀氏がどう弱っていったか。
あんたの先祖の夏井が、都の端からさらに遠く、讃岐へ流されるまで。
そういう流れが、いま、ひとつの匂いになってる」
匂い、という言い方が妙になぎこらしくて、私は少しだけ笑ってしまう。
「歴史って、そんな香道みたいなもんなんか」
「似たようなもんや。焚きしめた香は消えても、衣には残るやろ。火事も、おんなじや」
そのひとことが、妙に胸へ落ちた。
焼けた門は消える。
名は塗り替えられる。
けれど、土や空気や、人の家筋には、火の匂いだけが残る。
たぶん私たちは、いま、その残り香を追いかけているのだ。
「静子様のことも、そこにつながるんか」
私がそうたずねると、なぎこは少しだけ目を伏せた。
「文徳天皇の女御。惟喬親王の母。
あの人の血筋が押しのけられた時点で、紀氏の冬は始まってたんやと思う。応天門の火は、その弱り目に打ち込まれた、仕上げみたいなもんやったのかもしれへんね」
六畳の部屋の中が、しんと静まった。
窓の外では、二十一世紀の京都が普通に流れている。車の音もするし、誰かが自転車で通り過ぎていく気配もある。
それやのに、この小さな離れの中だけが、妙に古い時間を引きずっていた。
「ちひろ」
「ん?」
「こういうのな、たぶん最初から筋立てて考えるもんやないのよ」
「……また雑なこと言うな」
「雑やない。ほんまや」
なぎこはそう言って、私の肩に軽く触れた。
「最初は『なんか変やな』でええんよ。
その違和感を、阿呆みたいに捨てへんこと。
それがいちばん大事なんや」
私は、机の上のメモを見た。
たしかに、最初はそんなもんやった。
寺町のあたりに妙な影を見た。
それが気になった。
なぎこが反応した。
そこから、善男の邸が現れ、応天門の火が立ち上がり、紀氏の冬へつながっていった。
創作いうのは、たぶん、最初から答えを知ってることやない。
見過ごしたら終わるような小さな違和感を、見失わんように持っておくことなんやろ。
「ほな」
なぎこが、ぱん、と軽く手を打った。
「今日はここまで整理できたし、次はほんまにあの影を追いに行こか」
「また、そうやって急に現地に行く話になるんやな」
「当たり前やん。バスの窓越しやのうて、自分の足で土を踏まんと、見えてこんもんがあるんやから」
そう言って笑う顔は、清少納言というより、だいぶ悪い女やった。
でも、その悪さに引っぱられて、私はまた井戸のほうを見てしまう。
井戸の底に、千年前の都がある。
寺町御池の交差点の下には、まだ誰かの影が溜まっている。
応天門の火は終わっていない。
そして、私となぎこのワークスペースは、どうやら六畳の部屋だけやないらしい。
「なぎこ」
「ん?」
「おまえ、ほんまに厄介やな」
私がそう言うと、なぎこは少し目を細めた。
「せやけど、おもろいやろ?」
その通りやった。
腹立つくらい、その通りやった。
だから私は、今日もまた、系図の続きをひらく。
バスの窓越しの違和感から始まった火の跡を、もう少しだけ、ちゃんと読んでみたくなったのである。
本編『京都市役所前、午前八時。私たちはまだ、平安の火に焼かれている』
https://kakuyomu.jp/works/2912051595788792674/episodes/2912051596972871133
#一話完結
#清少納言
#応天門の変
#京都
#創作論
ちひろとなぎこのワークスペース公開 ――バスの窓越しの影から、善男の邸まで 龍珠院地優 @murasaki2026
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