煙草屋万吉 江戸日記 第3話「夫婦煙管(めおときせる)」
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第3話 夫婦煙管(めおときせる)
江戸湾に初秋の小春陽がきらめくと、日本橋室町の魚河岸の堀には戻り鰹を積んだ艀が数珠つなぎになった。その丸々と太った身を盤台に積んだ魚売りを、御府内の料亭から立ち食いの寿司屋までが今や遅しと待っていた。
江戸っ子が一番に好むのは「ゴリ」と呼ばれる身の硬い春先の鰹で、いわゆる初鰹である。これに対し、秋の脂がのった柔らかい戻り鰹を「モチ」と呼んで過ぎゆく夏を感じ取った。
しかし善七店の面々は、誰もがおあずけを喰っている。炊事をする井戸水が、使えなくなっていた。天秤棒で桶をかつぐ水売りから買う手もあるが、食材から器まで洗うにはあまりに高くつく。
「まったくよう、トンマな猫だぜ。どうして井戸になんぞ、落っこちやがったんだ。軽業師みてえな身のこなしが、猫の取り柄じゃねえか」
裏店一の鰹好きで通っている大工の熊蔵は、昼下がりの一力屋の上がり框で愚痴と煙を吐き続けている。
「しかたあるめえ。井戸で溺れちまった猫が成仏するのは勝手だが、俺たちまで病んで具合が悪くなっちゃ、たまんねえや。井戸の浚えが終わるまで後一日。モチ鰹と灘酒は辛抱するんだな」
伯耆の国から入ったばかりの煙草の葉“大山”を包丁で刻む万吉も、口惜しげに舌打ちをした。すきっ腹に熊蔵の吐き出す煙がこたえたが、気がかりになっているのは今朝の井戸浚えだった。
善七店の井戸に浮かぶ猫の死体をお政が見つけたのは、昨朝の六刻半(午前7時)。どこも朝餉の支度が始まる刻限だけに、井戸端は火事場のような騒ぎになった。
井戸の蓋のわずかな隙間から足をすべらせた猫は、善七店を通り道にしている老いた雄だった。その死体を差配役の勝次が長い竹柄杓ですくい上げた。
猫が嫌いな勝次は、眉をしかめて辟易としている。その横でたすき掛けしたおやえが猫を包む油紙を広げて、南無阿弥陀仏と両手を合わせた。
「そういや、近頃は飛び跳ねる姿をとんと見なかったものねえ。あたしの足元と似たようなもんだ」
お政はときおり鰯の尻尾を餌にやっていた猫に自分の老いを重ねて、ため息を吐いた。
だが、悠長に構えているわけにいかないのが江戸の井戸浚えである。
さっそく勝次は井戸替え屋の喜兵衛を呼び出したが、浚えは長屋総出でなければできない。僻村の石積み井戸とちがって、狭い裏店に安普請した井戸は木桶を四つ重ねて地中に埋めている。この中を掃除するのだが、職人の上げ下ろしには店子が力を合わせねばならない。
しかも善七店界隈は水が悪く、名主の善意で念入りな井戸に仕上げられていた。
井戸底に炭と砂、小石を三層に敷き詰め、簀の子板にかすがいを打って抑え込み、水を濾して飲みやすくする所作は、江戸で指折りの井戸替え屋である喜兵衛ならではの知恵だった。
喜兵衛の先祖は泉州の桶師で、明暦三年(1657)の江戸大火の直後、上方から一攫千金を狙ってやって来た。その技量を受け継いだ喜兵衛の井戸替えには、公儀からの用命も少なくはない。喜兵衛のごま塩の頭に本藍染の半被が、老舗の面目を語っているようだった。
喜兵衛の井戸替えには、職人の上げ下ろしに手間と暇がかかった。おかげで旦那が仕事に行けない裏店の女房たちは勝次を目の敵にした。
「これじゃ、うちの人は三日も出面(でづら/日銭)が稼げないじゃないか。ちょいと差配さん、長月(9月)の店賃は払えないからね」
「おいおい、勘弁しておくれよ。それじゃ、やぶ蛇だぁ」
泣きを入れる勝次を横目に、万吉と熊蔵は喜兵衛が伴って来た弟子の太市に腰縄を結んだ。太市は水を弾くように菜種油を染ませた衣に着替え、備えは万端である。
五尺五寸(157㎝)ほどの華奢な体は、狭い井戸底の仕事に好都合だった。切れ長の目元が若衆歌舞伎の役者のようで、長屋の女房たちは「いい男だねぇ」と秋波を送った。
「太市は、井戸師になって七年目でよう。ようやく十九の今年、使い物になったぜ。だけど、男としちゃ半人前でぇ。酒も煙草も飲まねえ、色里にも行かねえ。沈香も炊かず屁もひらずってのは、こいつのこった」
井戸浚えの段取りをつけた喜兵衛は、股引のどんぶりから煙草入れを取り出した。
いかにも職人らしい地味な木綿の煙草入れだったが、いぶし銀の豆煙管は愛用した年月を物語っていた。気づいたおやえが一力屋から煙草盆を持ってくると、喜兵衛は豆煙管で炭火を吸い込んだ。
井戸に水を送る通樋(木製の水道管)はすでに堰き止められて、底には取り替える炭や砂利、簀の子板が降ろされている。
熊蔵は喜兵衛の煙管しぐさに気を取られたが、万吉は太市の表情に目を止めた。井戸浚えの道具を腰に吊りながら、どことなく憂いを浮かべ、遠い目をしていた。
「どうしたい、太市つぁん。具合でも悪いのかよ」
万吉の声に、はっと正気に戻った太市は
「そ、そんなこたぁねえ。大丈夫でさぁ、任しておくんなせえ。それじゃあ、お願いしやす」
と井桁を乗り越えた。
滑車を通した吊り縄がゆるゆると動いて、太市の体が井戸底へ降ろされた。それを見計らったように、喜兵衛が口を開いた。
「ちょいとばかり、太市の気がめえる事が起こっちまってよ。四日前、あいつ一人で井戸浚えした京橋の甚六店で、その夜に殺しがあったのさ。ここの井戸に沈んだのは猫だがよ、甚六店は指物師の男だったのよ」
喜兵衛の吐き出した煙が、語気の荒さにのって乱れた。
京橋の岡っ引きの見立ては、指物師は酔っぱらって夜中に井戸へ落ちた溺死だったが、あくる日、八丁堀の定廻り同心が血相を変えて喜兵衛の店にやって来た。遺体の検分をすると殺しと疑う傷があったため、太市に井戸替えの間の動きを一刻(2時間)ほども問い詰めたと喜兵衛は毒づいた。
「けっ、井戸の底にいるのに、外の事なんぞ、こちとら知るわけねえ。そう言い返えしゃあいいものを、太市はだんまりを決めちまって、自身番へしょっ引かれそうになっちまった。そいつを勘弁してもらうのに、俺は難儀したぜぇ」
ふた口吸っただけの煙管の雁首を、渋い顔の喜兵衛は竹の灰吹きで叩いた。勢いあまって灰吹きから飛び出した吸殻が井戸脇の水溜りで音を立てると、それをきっかけにして見守る店子たちも八丁堀役人をなじった。
万吉は井桁の中を覗いた。丸に喜の字を白く抜いた半被が、きびきびと動いている。太市の動きは、今しがたの腑抜けたようすとちがっていた。
「井戸の中が性に合ってるってことか……変わった野郎だな」
万吉へ覆いかぶさるように覗き込む熊蔵の声が井戸に響くと、一瞬、手を止めた太市が上を見上げた。ほの暗い底で、二つの目が光を放っていた。
寒気を覚えた万吉は井桁から身を起こすと、後ろに立った勝次が熊蔵の筒袖の襟を引っ張った。熊蔵よりも五寸(15㎝)低い背丈は、背中にぶら下がって見えた。
「熊蔵さん、仕事の邪魔をしちゃなんねえよ。井戸水が戻らねえと、モチ鰹を食えるのはますます遅くなっちまわ。喜兵衛さんの話じゃ、半刻(1時間)ごとに太市つぁんを引き上げなきゃ、井戸の底じゃ息苦しくなるらしい。それまでは一服しときな。おやえさん、私の奢りで竜王煙草をお手伝いのご主人たちにふるまっておくれ」
途端に縄を手にしている亭主たちから、「おおっ」と歓声が巻き起こった。日頃は、安い端っ葉の煙草しか楽しめない庶民に、竜王煙草は高値の花である。
勝次の太っ腹に女房たちが顔を見合わせると、おやえは力こぶを作って答えた。
「がってんだ。それなら差配さんの気前に免じて、御代は半値でいいよ」
「おいおい、そいつぁ、売り損じゃねえか」
と万吉がとがめた時、井戸の底から金槌の音が響いた。
けたたましく走る音に、男たちは吊り縄を手から離して井桁を取り囲んだ。炭と砂利を敷き詰めた井戸の底に、太市は簀の子板を鎹で打ちつけていた。一尺(30㎝)の南部鉄の鎹を六本も打ち込むのである。
「さすが、喜兵衛さんの直弟子だ。手際が早いねぇ。これなら二日もかかりゃしないよ。ねえ、喜兵衛さん」
嬉しげに振り返った勝次に、豆煙管をくわえたままの喜兵衛は腑に落ちないといった表情を返した。
「太市の野郎……やけに焦ってやがる。いってえ、どうしたってんでぇ」
喜兵衛の言葉に万吉の勘がうごめいた。それに呼応するかのように、万吉に煙管を渡しながらおやえがつぶやいた。
「おまえさん。太市さんは、もう女を知ってるわよ。だって、着替えて井戸に降りる前、片づけた太市さんの股引から、あたしと同じ白粉の匂いがしたんだもの。喜兵衛さんの眼力にも節穴はあるんだねぇ」
万吉の胸の中で、何かが騒ぎだした。
ふと見ると、黒い鎹が一本だけ井戸端に残っていた。
井戸浚えが首尾よく終わった翌朝、善七店には香ばしい煙が立ち込めていた。藁を焼く七輪の前には、よだれをたらす熊蔵がしゃがみ込んでいる。
赤い炎が、百文(4200円)をはたいて買った戻り鰹の赤身を焦がしていた。熊蔵の半日分の出面(日銭)である。
鼻の利く店子の女房たちは、羨ましげに腰高障子戸から顔を覗かせた。針仕事のわずかな稼ぎを糧にしている後家のお政にもモチ鰹は高値の花で、唾を呑みこみながら熊蔵に嫌味を投げつけた。
「ちょいと熊さん。そんなに煙を出してると、火の見番の半鐘が鳴っちまうじゃないか」
熊蔵は煙が目に染みるのか、豆しぼりの手ぬぐいでまぶたを拭きながら言い返した。
「てやんでぇ、いつもお政さんの焦がす鰯の方がよっぽど煙を上げてらぁ。鰹のたたきが食いてえなら、お裾分けをもらいてぇと素直に言えばいいじゃねえか。ちょいと手伝ってくれよ。たたきは、藁で炙った身を井戸水でギュッと冷やさなきゃならねえ。一杯、汲んでくんねえか」
熊蔵が井戸枠へ首を振ると、バツが悪そうにしていたお政は途端に表情を変えて、「ええぃ、しかたないね」と足取りも軽く井戸に駆け寄った。
井戸水は底の炭や砂利に濾されて、思いのほか澄んでいた。
「へぇ、一日経つと落ち着いて、きれいな水になるもんだねぇ」
「おう、そうともよ。今朝も俺が炭火を熾し始めた六刻(午前6時)前に、井戸替え屋の太市がやって来てよ。井戸の中をまんべんなく覗いてやがった。どうかしたのかって訊くと、
『水の濁りがねえか、確かめてやす』だと。井戸端に忘れてた鎹も、きっちり持って帰ったよ。あいつぁ、生真面目な男だぜ」
熊蔵は炙り上がった鰹の身を空の手桶に入れると、腰が曲がってきたせいで井戸の竹柄杓に手こずっているお政を助けてやった。
「へぇ、なんだかんだ言っても仲がいいわねぇ。お政さんと熊蔵さんは親子みたいだ」
ふいに飛んで来た声に熊蔵たちが振り向くと、朝餉の洗い物を手にするおやえが笑っていた。
「おっ、おやえさん、たわけたことを言うんじゃねぇよ。こんなひねくれ者の婆さん、お断りだぜ」
「なんだってぇ。やい、熊公。図にのるんじゃないよ。この善七店一番の古株は、あたしなんだからね。ほかの店子たちがこんなに小さい頃から、あたしゃ面倒を見てるんだ」
竹柄杓を井戸の中に投げつけようするお政と、それを差し止める熊蔵が押し問答になった。その隙を狙って長屋のひさしから鰹を狙っていた三毛猫が飛び降り、手桶をひっくり返して奪い去った。
「うおっ、待ちやがれ、こん畜生」
弾かれたように熊蔵が駆け出すと、腰砕けになったお政が井戸端でしゃがみ込んだ。
「生類憐みは終わったってのに……まったく、この裏店は猫に祟られちまってるよ」
おやえは見えなくなった熊蔵の背中にため息を吐くと、炊事用の井戸水を汲もうとした。すると井戸底まで届く陽射しの中に、玉虫色の光が揺れた。
「なにかしら……」
お八重の器用に手繰る竹柄杓が、その光を掬った。柄杓の水の中にあったのは、七宝焼の笄(こうがい)だった。
目を細めるおやえの脇から、お政が柄杓を覗き込んだ。
「こりゃお宝じゃないか。おやえちゃん、井戸神様のお恵みだよ。あたしとおやえちゃんで、モチ鰹を買う銭に変えちまおうじゃないさ」
緑から青、そして赤へと見かけによって変化する笄にお政は目を丸め、竹柄杓から取り出した。金縁の上等な仕立ては、店子の嫁たちが髷に刺せるような物ではなかった。
その時、おやえが笄の裏に目を止めた。
「お政さん、待って。『お太ふく』って焼き込みがある。どういうことだろ……これ、ちょいと預かるよ」
「ちょ、ちょいとぉ、おやえちゃんったら、もう」
歯噛みするお政を放ったままお八重が一力屋へ戻ると、いなせな唐桟の着流しに羽織姿の万吉に鉢合わせた。今朝は上方の旅から戻った近江屋の佐平治に、きき煙草の席へ呼び出されていた。
「血相変えて、どうしたてんでぇ。裏店で、ひと悶着あったか」
「それが、こんな物が井戸に落っこちてたの。ここの店子が持つような笄じゃないよ。なんだか気味が悪くってさ」
万吉の瞳が、おやえの手に光る玉虫色の笄に釘づけになった。ひと目見るなり、万吉にもおやえの言い分が読めた。
おやえが立ち聞きした熊蔵の話を伝えると、万吉の顔に赤みが射した。
「……七宝焼きってなあ、京が本場だったな。都合がいいや。これがどれほどの物か、上方帰りの佐平治様に訊いてみようじゃねえか」
曇り顔のおやえの肩に手を置く万吉の脳裡には、昨日、不審に思った太市の横顔がよぎっていた。
京橋の近江屋は三つの酒蔵と間口四半町(20m)の表店の棟を合わせると、ゆうに六百坪に及ぶ大店である。ゆえに日頃から公儀の贅沢奢侈の咎めを受けぬよう、主人の佐平治は番頭から丁稚の暮らしぶりにまで質素倹約を言い渡していた。
ただ、自身の趣味である煙草だけは凝り性で、世間の目から隠れるようにきき煙草を楽しんでいる。この日も万吉は、人目を忍ぶ離れの間に招かれていた。
そこは池泉回遊式の庭園にたたずむ庵で、下男が小舟を漕いで乗りつける。
障子戸の前まで案内した下男へ万吉が心づけの銀小粒を握らせると、座敷から聞き覚えのある声がした。
「気配りが行き届いておるのう、一力屋」
すべりの良い障子戸が音もなく開くと、八畳間の上座に同心の新藤帯刀が座っていた。驚いたことに、元・辰巳芸妓の愛染が下座で控えている。
「こ、こいつぁ、いってぇどうしたわけで……」
「どうだね。きき煙草の座興にはもってこいだろう、万吉つぁん」
佐平治が真顔で立ち尽くしている万吉を手招きして、障子戸を静かに閉めた。座敷の真ん中に置かれた蒔絵の盆には、大小さまざまなキセルが並んでいる。どうやら佐平治が上方土産に入手したらしい。勘の働く万吉は、この場が八丁堀役人の新藤へのまいない(賄賂)であることも悟った。
「新藤様は好事家でねぇ。ますます煙草に入れ込んじまって、深川の廓で遊ばれる日は愛染さんから買っておられるそうだ。てえことで、今日の刻み葉は愛染さんが扱っている品物を揃えてもらった」
佐平治の口ぶりから察するに、愛染と初顔ではないようである。
「一力屋さんにはお邪魔でしょうが、煙草商いの指南に近江屋様よりお招きを頂きました。あちきは道具には疎うございますが、芸妓の頃に廓に出入りする諸国の葉っぱの行商人と馴染みになったおかげで、煙草にはいささか目利きが立ちまする」
愛染の白い手が押し出す朱塗りの煙草盆には、刻み幅や色味の異なる煙草葉が五つの山を作っていた。かしこまった物言いは新藤の肝煎りで近江屋へ出入りしている証しと、万吉は思った。
「なるほどねぇ。新藤の旦那も人が悪いや。めっきりうちへ顔を出してくれねえと思ったら、愛染さんとシッポリでやしたか」
万吉が冷やかすと、新藤は咳払いをして抗弁した。
「これ万吉、無粋であるぞ。拙者は、そのような色目を愛染に使うてはおらん。あくまで、 亡き上田景勝様の忘れ形見の寛太を育てた礼として贔屓にしておるのだ。それよりも近江屋、さっそく上方のキセルを試そうではないか」
愛染との関係をはぐらかす新藤に、若気の芝居下手が覗いた。万吉は笑いを噛み殺しながら座布団へあぐらを組むと、キセルに視線を落とした。
石川五右衛門に由来する極太の手綱キセル、二尺(約60㎝)の紅色羅宇があっぱれな花魁キセル、侠客好みの南部鉄キセル、珍しい信楽焼きの陶キセルなど、佐平治は職人の人柄や腕前まで薀蓄がましく説いた。
珍妙なキセルの揃えに万吉が目移りしていると、愛染が声を弾ませた。
「あら懐かしい、七宝焼きの羅宇とは贅沢でありんす」
うっとりとする目元がとらえていたのは、玉虫色の羅宇を持つ二つ銀のキセルだった。芸妓の頃に廓の花魁が吸っていたのを、愛染は思い出していた。
途端に、万吉は息を呑んだ。右手の指が、袂へしまっていた笄を取り出していた。
万吉を凝視する佐平治の目が光を帯びた。
「その笄、七宝のしつらえが煙管と瓜二つじゃねえか……偶然にしては出来すぎだね。それとも、いわくつきの代物かい。万吉つぁん」
佐平治の問いに、万吉は右から左で訊き返した。
「旦那様、それは京で仕入れたキセルですかい……ひょっとして、お太ふくてえ小間物屋じゃありやせんかい」
「ああ、洛中の五条にある店だが、そんな名じゃねえ。伏見屋てえ老舗だよ。そのお太ふくてのは……」
佐平次の問い直しが終わる前に、万吉の手が笄の裏へ焼き付けられた文字を披露していた。その字並びに佐平治が首を捻ると、愛染が口を開いた。
「“お多福”ならまだしも、お太ふくとは謎かけのようでありんすねぇ。まるで合言葉のようでやす」
その時、新藤の細い眉がピクリと動いた。勘が冴えた新藤の癖である。
「合言葉か。うまい言い分じゃのう、愛染……それにしても一力屋。おぬし、尋常ならざる顔つきぞ。その笄、どのような素性の品だ」
新藤の右手が七宝煙管に伸びると、佐平治がにんまりとして煙草盆を引き寄せた。
「新藤様には叶いませんなあ。万吉つぁん。こいつぁ七宝ならぬ、尻尾をつかまれたよ」
ありていに申し上げろと、佐平治は万吉へ目顔で言っていた。
万吉は、笄を井戸から掬い上げたおやえの話を打ち明けた。さらに善七店の井戸浚えと職人の太市が、どこか引っかかると付け足した。
しばし聞き耳を立てる三人の間に、庭で鳴く百舌鳥のさえずりが走った。
語りながら、万吉は太市が今朝方に井戸を覗き込んでいたのを思い出した。もしや、太市が落としたのでは……そう気づいた時、煙草に火をつけて一服吸った新藤が口を開いた。
「その太市とは、ひょっとして井戸替え屋の喜兵衛配下の者か。ならば指物師の吾助殺しの疑いで自身番に呼ばれた若造よのう。あの件は今、吾助の女房のおふくに疑いありと北町奉行所で評定にかかっておる……待てよ。太市の“太”に“おふく”で、お太ふくか」
新藤の吐き出す煙が、ゆっくりと渦を巻いた。
池からの流水を受ける鹿威しが甲高い音を鳴らした。百舌鳥が叫んで、飛び立った。
「あちきの勘では、その二人の合言葉でありんすねぇ」
笄を見つめる愛染の言葉が、静まった庵に響いていた。
明け六刻(午前6時)の愛宕山の上を飛んで来た雁の群れが、上野の不忍池へ向かっていた。
大川の土手にススキが茂る季節。ようやく見頃になった浅草の正燈寺(しょうとうじ)や品川鮫洲の海晏寺(かいあんじ)へ早朝から紅葉狩りに出かけるのが、江戸っ子の粋な習わしである。そのおかげで、七刻(午前8時)前から一力屋も繁盛していた。
物見遊山に煙草はつきもので、万吉は手提げにできる煙草盆を損料屋(江戸時代のレンタル業)の三割五分の値で貸し出した。むろん刻み煙草と抱き合わせの商いで、狙いは近江屋佐平治の紹介で仕入れた山城(京都)煙草の広めである。
万吉が揃えた煙草盆は、蒔絵や細工をほどこした贅沢品ではない。何の変哲もない紅い漆塗りで、いわゆる廓の使い古しだった。元の辰巳芸妓である愛染を通じて手に入れた煙草盆のボロを万吉とおやえで修繕した代物だったが、廓らしい色と形が大当たりし、男たちの噂を呼んだ。直した六十枚の煙草盆が連日出ては戻りし、おやえは手入れに四苦八苦していた。
帳場には、順番待ちの客をさばく万吉が貼りついている。
「さすがは、万吉つぁんだ。理にかなった売り方だぜ」
善七店の熊蔵や亭主たちも、賑わう店先にやって来た。客たちの中には小競り合いを起こす渡世人風の男もいたが、騒ぎにならぬようにと万吉は巨漢の板前 太助を呼んで目配りさせていた。
「品川は俺の在所でぇ。鮫洲の海晏寺は、高尾をしのぐ紅葉の名所だよ。生まれ育った茶屋もあるから寄ってくんねえ」
つぶさに海晏寺の美しさを伝える太助を人だかりが囲んだ時、それを割るようにして長身の男が店先に立った。いかり肩までは五尺(150㎝)ほど、太助に優るとも劣らない体躯におやえの目が止まった。歳の頃は、四十歳そこそこに見えた。
「おい、姐さん。一力屋の万吉つぁんは、どこにいなさる」
男の渋い声が響くと、一瞬、客たちが静まった。銀鼠色の着流しの上に、播磨屋の文字を白く抜いた藍染半被をまとっていた。おだやかな口調だが、声音は威圧するような太さだった。
「万吉はあっしですが。どちらさまでしょうか」
「私は堺町で損料屋を商ってる、播磨屋九兵衛だ。あんた、でたらめな値で煙草盆の貸し出しをやってるらしいな。うちに横槍を入れてもらっちゃあ、困るんだがね」
播磨屋の名を聞いて客たちがどよめいた。播磨屋は小さい物はふんどしから、大きな物なら屋形船まで貸す御府内でも評判の損料屋である。
九兵衛が店内に睨みをきかすと、客たちはおじけづいたように手にした煙草盆を帳場へ戻した。まるで歌舞伎の助六のにらみである。
「ちょいと待っておくんなせえ。煙草盆の貸し借りには、御公儀の御定めも御触れもねえでやしょう。横槍は、そちらじゃござんせんかい」
万吉も店先を荒らされたとあっては沽券にかかわるとばかり、帳場から立ち上がった。
ただならぬ気配に、客たちは蜘蛛の子を散らすように出て行った。静まった土間で対峙する万吉と九兵衛の間に、おやえが歩み出た。
「ようござんしょう。播磨屋さん、ここは一つ、自身番の親分さんを呼んで、どっちが間違っているのか白黒はっきりさせようじゃありませんか」
空っぽになった店に、九兵衛が「なにをざれ事を」と不敵な笑いをこぼした時
「ならば、俺が吟味してしんぜよう」
と聞き覚えのある声が暖簾を割った。左肩を赤房十手で鷹揚に叩く新藤帯刀が立っていた。見廻りのさなかに煙草を吸いに来たらしく、新藤は二本差しを帯から外して上がり框へ座った。だが、切れ長の目はまばたきもせず、九兵衛の長身を見上げている。
「これはこれは、一力屋さんは八丁堀の御役人様が贔屓筋でしたか。くだらない商いの作法で御公儀の御手をわずらわすなど、滅相もないことでございます。では、また日をあらためて参りますよ。一力屋さん」
見廻り同心の不意打ちに九兵衛は動じなかったが、一瞬、ひきつった頬を万吉は見逃さなかった。深く頭を下げて去るしたたかな九兵衛を、新藤はとがめもせずに放念した。
しかし、二人の鋭い視線は九兵衛の背中をじっと見据えている。
万吉と新藤は何を考えているのか、気になるおやえに太助の声が飛んできた。
「なんでぇ、あの野郎……おやえさん、塩を撒いておきやしょう。験が悪いですぜ」
太助の大きな手が、土俵入りする関取のように粗塩を表店に高く撒いた。塩をかぶった軒の雀が飛び立つと、その行く手を見ていた熊蔵が火消し桶の陰に立つ男に気づいた。
「ありゃ、太市じゃねえか。あの野郎、何をつっ立ってやがんでぇ」
すると堺町へ戻って行く九兵衛が太市に手を振り、傍へ呼びつけた。何事かを太市の耳へ囁く九兵衛に熊蔵が首をかしげていると、肩越しに香ばしい煙が流れた。
「やはり怪しいのう……万吉、あの“お太ふく”の謎解きをそろそろはじめようぞ」
煙管をくゆらせながら暖簾を上げる新藤の横に、万吉が立っていた。
「へい、あっしの勘も走ってやす。あの玉虫の笄は、下っ端の太市が買える物じゃねえ。おやえも、キッパリ言い切りました」
「ふっ……ならば、おやえ。疑わしきは播磨屋かのう」
銀杏髷を撫で上げる新藤に、あやえが自信ありげに頷いた。
店先の熊蔵と太助は、危うげなやりとりにゴクリと唾を呑み込んだ。
翌朝から新藤は堺町の目明し長吉を差配して播磨屋九兵衛をつけさせ、聞き込みも命じた。
紋付袴を嫌って仕立てのいい唐桟を誂える九兵衛は、日本橋の越後屋にも出入りする着道楽である。足元の雪駄も鹿革張りの底に銀の尻金を打ち、五日に一度は吉原へ通っていた。
しかし、色里はあくまで商いの大口客のもてなしのためで、九兵衛自身は女淫に耽らず、病死した妻の菩提を弔っている。その人となりが、播磨屋の評判に一役買っていると長吉は新藤に伝えた。
「気にくわぬのう。あの羽振りのよさと、女好きする顔。ましてや一力屋に乗り込んできた折の凄みは、渡世人も顔負けであったぞ」
晩秋の風に冷える一力屋の店内に、新藤の吐き出す煙と声がただよった。万吉も同じ山城煙草を銀キセルの火皿に詰めながら、煙草盆の炭火を吸った。
上がり框には、おやえが室町の小間物屋に値踏みさせた玉虫の笄が置かれている。
「驚きましたよ、新藤様。一両(10万円)近くもする京七宝だってんだもの。あたしなんか、富岡八幡様で一年中お百度踏んだって買えやしないよ」
うらやむおやえの嘆きに、万吉はキセルをくわえたまま聞こえぬふりである。
苦笑いする新藤が、火吹きに雁首を打ちつけて言った。
「この笄を太市が裏店の井戸に落としたとすれば、もらったのか盗んだのか、二つに一つ。だが、あの律儀で脆そうな若造が盗みをやれるとは思えぬ。そこで俺は三日前の播磨屋と太市の仲を察し、愛染にひと働きをしてもらっている。そろそろ、ここへやって来る頃ぞ」
「ええっ、愛染がですかい」
煙を喉につまらせた万吉が、大きな咳払いした。その名を聞くだけで機嫌をそこねるおやえに恐る恐る目を向けた時、愛染が暖簾の向こうから現れた。
「新藤様、万吉さん、お待たせをいたしやした。こちらは、一力屋の女将様でござりますか。お初にお目にかかりやす。愛染にありんす」
匂い立つような芸妓姿の愛染は、おやえも惚れ惚れするほどの色香を湛えていた。だが、気を取り直したおやえは居ずまいを正すと、愛染の前に正座して額づいた。
その口調は、態度と真反対だった。
「ようこそ、いらっしゃい。うちの亭主がお世話になってるそうで。でも、ありがとうは言わないよ。あんた、商売敵だからね。むさ苦しい店先だけど、どうぞ上がってよ」
おやえの女将然とした受け答えに、愛染の顔つきも引き締まった。二人の間に見えない火花が散ると、新藤はあわててキセルを床に置いた。
「おい、二人ともやめぬか。これでは俺の面子がなくなるではないか」
「ちょいと新藤の旦那。そもそも愛染さんをうちの亭主に合せたのは、旦那でしょうが。それに手伝い仕事があるなら、まず万吉の妻のあたしにも頼むのが筋ってもんでしょう」
鼻息が荒くなるほど腹を立てると、誰かれなく八つ当たりするのはおやえの悪い癖である。
「ば、馬鹿野郎、八丁堀の旦那に何てぇ口をききやがる」
「うるさいよ。あんたは口を挟まないで。これは、あたしの意地なんだ」
もはや収まりのつかないおやえに、万吉が深いため息を吐いた。
だが、うつむく新藤はそれを聞きながら、ほくそ笑んだ。
「わかった、わかった。よし、おやえにも頼むとしよう。だが、その前に愛染の話を聞こうではないか。俺は愛染に、甚六店の井戸で死んだ吾助の女房のおふくをつけさせた。井戸替えをした太市との仲を探れとな。して愛染、いかがであった」
愛染はおやえの視線を外し、ひと息すると、信玄袋から朱色の羅宇キセルを取り出した。そして、お気に入りの薩摩煙草を火皿に詰めながら口を開いた。
「あの笄は、おふくに骨抜きになっている播磨屋九兵衛が与えた物。だけど、おふくは不見転(みずてん)でやす。ねんごろになった吾助を見限って、播磨屋九兵衛を誘って後妻を狙いながら、うぶな太市の筆おろしも楽しむ。体を売る女郎の方がまっとうでありんす。どの男も、おふくの夫婦キセルに騙されてやんす」
炭火をキセルで吸い込む愛染の眉間が、深い皺を刻んだ。おやえと向かい合っても揺るがなかった表情は見る間に一変した。色里に生きてきた女の意地が、そこに顕れていた。
「夫婦キセルとな……万吉、それはいかなる物ぞ」
「へい、それは……」
万吉が答える前におやえが立ち上がり、店裏から二又の鉄キセルを持ち出した。
二本の吸い口が左右に大きく開くが、その火皿は一つだけ。廓の遊女と贔屓客が楽しむキセルでもあった。
「この形、何かに似てる……あっ、太市さんが井戸の底板に打ってた鎹(かすがい)だ」
おやえの記憶に万吉は声を失くし、指先から煙管を落とした。
新藤が薄笑いを浮かべて、万吉の耳にささやいた。
「さて、万吉。ようやく、おやえの出番がきたようだ。実は、おやえと愛染は張り合わせるつもりだったのだ。おなごの勘は、競わせると冴えるらしいからのう」
夫婦キセルを見つめる面々の前で、煙草盆の炭がはぜた。
おやえと愛染は、どちらともなく視線を合わせていた。
元禄15年(1702)の初霜にぬかるんだ道が振り売りたちの足を遅れさせ、御府内の表店は五刻(午前8時)前になっても静かだった。善七店でも、掻い巻きにくるまったままのお政が腰高障子戸から半身を出しては引っ込めしつつ、蜆売りの小僧を待っている。
しかし、五刻の捨て鐘が鳴ると長屋はいきなり物々しい雰囲気に包まれた。
葺屋町の自身番に詰める目明し弥彦と下っ引きの栄治が、井戸替え屋の喜兵衛を引っ立ててやって来たのだ。その後ろには、朝に弱い長屋差配の勝次がしかめっ面で従っている。
五尺八寸(175㎝)の弥彦は朝餉の支度に精を出す長屋の女房たちを押し分け、井戸端で黒鉄の十手を抜いて叫んだ。男前ではないが、はなだ色の股引に上背のある体躯は筋骨たくましい。
「いいか、ようく聞け。御公儀の命で、これから井戸浚いをする。わけはまだ言えねえが、底板を検分することになった。ついちゃあ、今日は水の入り用を辛抱してもらわなきゃなんねえ」
しゃがみこんだまま弥彦を見上げていた面々は、つい先日浚えたばかりじゃないかと文句をつけたり、買い水の銭がかさんでしまうと長いため息を吐いた。
だが、お政は顔色を蒼くしてつぶやいた。
「ひ、ひょっとして弥彦親分は、あの玉虫の笄を捜してんじゃ……まずいよ、まずい。あたしとおやえさんが拾っちまったと判れば、お咎めを受けちまうじゃないか。お、おやえちゃんはどこだい」
うろたえるお政が善七店の木戸まで見渡した時、おやえはそこから四町(450m)離れた京橋甚六店の木戸脇にいた。
「夜討ち朝駆けじゃないけどさぁ、なにも明け六つ(午前6時)から見張らなくてもいいじゃないか。この冬寒の中を、あたしゃ小袖に裸足だよ。まったく、しもやけができちまう」
ドテラと足袋を出し忘れたと肩を震わせながら愚痴るおやえの隣では、古代紫の頭巾をかぶった愛染が冬合羽を羽織っている。
冷えた空気に響くおやえの声を、愛染が小声でたしなめた。
「おやえさん、声が高うござんす。おふくの見張りはあちき一人で大丈夫でやんす。どうぞ一力屋さんへ戻って、火鉢に当たりながら商いをなさいましな」
「てやんでぇ、あんたに引けを取るわけにはいかないよ。もちろん煙草屋だって、負けないけどさ」
無気になるおやえが冷えた草鞋の指先をこすり合わせた時、裏店の奥の腰高障子戸が静かに開いた。
人の気配に二人が息を殺すと、井桁柄の紺絣を着た艶っぽい女が現れた。新藤から手渡されていた人相書きからおふくと判ったが、その後ろから現れた人影におやえは声を洩らした。
「あっ、太市さんじゃないか。今朝は善七店に喜兵衛さんと行ってるはずじゃ……」
おやえたちは昨日新藤から、目明し弥彦に命じて喜兵衛と太市へ善七店の井戸底をあらためさせると聞いていた。おそらく夜明け前に太市は喜兵衛のもとを抜け出し、それをおふくに告げたのだろうと愛染は察した。
おやえの声に驚いた太市が絶句している隙に、おふくは弾かれたように木戸へ突進した。
江戸長屋の裏店は袋小路で、逃げ道は木戸口しかない。甚六店とて同じだが、おふくの足は女だてらに速かった。
「ちくしょう。そこを、おどき」
おふくは、逃亡を止めようと愛染が差し出した三味線の布包みを弾き飛ばした。転がる三味線と弦の切れる音がおふくの下駄音に入り混じり、木戸番の老爺が小屋からあわてて飛び出して来た。単衣の袷せが乱れているのは、どうやら朝寝坊をしたらしい。
「な、なんでぇ。女だてらに朝っぱらから喧嘩か? おめえさんたちゃ、どこの者でぇ? おっ、太市じゃねえか。おめえはしばらくここへ入れちゃなんねえと、自身番から釘を刺されてんだ。吾助が井戸で死んじまった詮議だって、まだ終わってねえと聞いてるぜ」
老爺が振り返ると、太市は観念したかのように裏路地へ座り込んだ。
おやえは懐に手を入れると玉虫色の七宝笄を取り出し、太市の前にしゃがんだ。おふくに逃げられた愛染は、眉をしかめている老爺となりゆきを見守った。
「善七店の井戸にこれを落としたのは、太市さんだろ。この笄に彫りこんである“お太ふく”……太市さんとおふくさんの合言葉に見えたけど、あんたは人をあやめるような柄じゃないと思うんだよ」
裏返した笄を目にする太市は、その場に泣き崩れた。月代の青さが、太市の若気を際立たせた。
早合点した老爺が、気を高ぶらせて叫んだ。
「やっぱり、おめえが吾助をやったのか。こうしちゃ、いらんねぇ。自身番まで行ってくらぁ」
途端に、木戸の外から聞き憶えのある声が響いた。
「それは無用じゃ」
新藤帯刀が、おふくを後ろ手にして連れていた。おふくの細く剃った眉はゆがみ、肌の張った美貌も蒼白になっている。
善七店の井戸が検分されると知ったおふくは、必ず播磨屋九兵衛に知らせるだろう。そう読んだ新藤は、京橋のたもとで網を張っていたと告げた。
「この女、素直に従ったものの、吾助殺しにはだんまりを決めておる……これよりおふくと太市の両名を連れて詮議いたす。おぬしは甚六店の店子たちが騒がぬよう、差配役に伝えて口を封じておけ」
動揺する木戸番の老爺に、目つきの据わった新藤が命じた。
ようやく裏店へやって来た豆腐売りが、そのようすに首をすくめて通り過ぎた。
新藤たちが甚六店を出発した五刻半(午前9時)、万吉は堺町の播磨屋九兵衛を訪れていた。間口が六間(11m)、土間二十坪の瓦葺き家屋には、江戸で名の通った損料屋の風格が漂っている。
二日前、奉行所より九兵衛に臨時見廻り同心・新藤帯刀の印形を押した書状が届いていた。
書面には、紅葉狩りの煙草盆貸し出しの値については、播磨屋と一力屋の双方で折り合いをつけ揉め事を収めよとあった。万吉はそのためにやって来たと九兵衛は察し、急な訪れにも座敷へ通した。むろん書状は表向きで、万吉に九兵衛の急所を突かせるのが新藤の狙いだった。
しかし、一力屋で恥をかかされた九兵衛は折り合う気など毛頭なく、茶の一杯さえ供さない。それどころか、途方もない話を万吉へ持ちかけた。
「どうだね、一力屋さん。あんな葺屋町の脇で小さな煙草商いをやっても繁盛しないさ。私が銭を投じてあげるから、一緒に日本橋室町で上等な煙草屋を構えないかね。あんたは二分、あたしは八分の出銭でもいい。それで、今の一力屋は支店にして私が仕切るってのはどうだい」
これ見よがしに、九兵衛は金箔蒔絵の煙草盆を引き寄せた。銀キセルの雁首には細工が刻まれ、鶴と亀が浮かんでいる。詰める煙草葉の色合いは、高値の薩摩霧島にちがいなかった。
炭置きを吸ったキセルの火皿がたっぷり煙りを吐き、檜造りの欄間を抜けて苔庭へ流れた。反り返ったような羅宇が、万吉を小商い者の分際と見くだしているようだった。
だが、万吉は動じることなく鼻先で九兵衛を笑った。
「ふっ……とうとう尻尾を出しやがったな、播磨屋。おめえが一力屋を手に入れたいのは、善七店の井戸を見張るためだろ。井戸底に打ちこんだ夫婦キセルが、気づかれねえようになぁ。そうする内に吾助殺しの濡れ衣を太市に着せて、また、おめえの手は汚さず、おふくに始末させる腹だろう。うぶな太市を、おふくの色仕掛けで引き寄せる。そこで、吾助の酒癖の悪さや殴る蹴るに泣いてるとおふくがすがれば、太市は惚れた一心で、吾助殺しの身代わりだって引き受けるだろう。おめえとおふくが夫婦の契りを交わしてるなんざ、これっぽっちも知らねえでよ。だがよ、今頃、善七店の井戸底はもう浚えちまって、おめえたちが吾助殺しに使った夫婦キセルが見つかってる頃だ、九兵衛。いやさ、遊里での通り名は太兵衛さんよ」
立ち上がりながら銀鼠唐桟の胸を張る万吉に、九兵衛はキセルを噛んだまま声を失った。
お太ふくの太は、太市ではなく、太兵衛。それを探り当てたのは、おやえと愛染だった。ぶつかり合う二人だったが、互いに煙草屋で、九兵衛の通う吉原遊里には顔が利く。仲見世や揚屋を手分けして訊き込むと、九兵衛は馴染みの廓に仮の名・太兵衛で通していた。
それは亡き女房を慕う播磨屋九兵衛の美談を商い向けに守るためで、ついでに玉虫笄の“お太ふく”の謎も解けたと万吉は九兵衛に投げ返した。
その時、手代の声が座敷の障子越しに響いた。
「旦那様、口開け(店開き)の刻でございます。朝の御達し(朝礼)をお願いいたします」
音もなく開いた障子戸から万吉が現れ、怪訝な表情の手代にささやいた。
「播磨屋さんはたいそうお疲れのご様子だが、もうすぐ自身番へ出かけることになるから、支度をしてあげねえとなぁ」
悪の素性を見抜かれた九兵衛は火の消えたキセルをくわえたまま、一寸たりとも動かなかった。
「て、てえへんだ、万吉つぁん。太市とおふくが相対死に(あいたいじに/心中)しちまったい」
一力屋の戸板を激しく叩く音が、熊蔵のうわずった声とともに早朝の善七店へ響き渡った。驚いた野良犬が、半町(55m)先から吠えている。
まだ明け六刻半(午前7時)、裏店は炭火の煙が立ち込める朝餉時である。腰高障子戸から飛び出して来た女房たちは飯を喉に詰まらせながら、互いの顔を見合わせた。台所でへっついの炭火を熾そうとしていたおやえも火吹き竹を放り出し、慌てて表戸を開けた。
「相対死にだってぇ。いったい、どうしてよ。太市さんとおふくは、昨日から葺屋町の自身番にいるはずだろう」
冷え込む店先に肩で息をする熊蔵が立っていた。必死に駆けて来たらしく、白い鼻息を弾ませている。
「それがよ、見つけたのは永代橋の橋番(橋の渡り賃を回収する番人)なんでぇ。橋桁に引っかかって大川に浮いてたんだと。永代の広小路に寝かされた二人の手が荒縄で結ばれてるのを、俺は今しがたはっきり見たんだ。番所の見立てじゃ、橋番に見つからねえように丑三刻(午前2時頃)に飛び込んだらしいぜ。冷えた夜中の大川に落ちりゃ、心の臓もイチコロでだってよ」
大工の熊蔵は、夜明け前に深川材木町の普請場へ向かっていた。永代橋のたもとで番所提灯がしきりに動くようすに気づくと、そこには苦々しげな表情の新藤帯刀が立ち、傍らで面目なさげな目明し弥彦と下っ引きの栄治がうなだれていた。
熊蔵の話におやえが首を捻ると、素早く鈍色の唐桟に紺献上の帯を巻く万吉が帳場に現れた。大筋を聞いた万吉は、事のなりゆきを確かめようと自身番へ新藤を訪ねる腹だった。
一昨日、善七店の井戸端で太市とおふくは、目明し弥彦が井戸底から抜いた夫婦キセルを新藤帯刀から検分された。吸い口を削って矢じりのように尖らせた夫婦キセルだった。
おふくは神妙な受け答えで吾助を殺した凶器と認め、太市はそれを隠すために井戸底へ打ち込んだと白状。そのまま葺屋町の自身番へ引っ立てられ、詳しい詮議が始まったのだった。
これで播磨屋九兵衛が御縄につけば普段の暮らしに戻れると、万吉もおやえも胸をなでおろしていた矢先である。
「そいつぁ、岡っ引きの連中に手抜かりがあったにちげえねえ。おそらく一度、二人を家に帰したんじゃねえか。日のかかる長い御調べには、着替えが入り用だと聞いたことがある。とりわけおふくは月のものがあるから、女ふんどしだろ」
下世話な万吉の口ぶりも聞こえないほど、おやえは落ち込んでいる。
熊蔵が上がり框へ駆け寄って、万吉に告げた。
「万吉つぁん、その通りだ。橋番の親父が盗み聞いたところじゃ、弥彦親分はおふくを甚六店へ、栄治は太市を井戸替え屋まで連れたらしいが、まぬけな奴らで、どっちも厠を使いてえとせがまれて手縄をほどいちまった。一寸、目を離した隙に行方をくらましたと、弥彦親分が言いわけをしたそうでぇ」
それを聞いたおやえは天井を見上げて、大きなため息を吐いた。
「やっぱり……あたしは、どうも気にかかったんだよ。あの日のおふくの言葉がさぁ」
帯を貝ノ口に結んだ万吉はおやえの声に手を止めると、煙草盆の前に座った。万吉の手がキセルと刻み煙草に伸びると、熊蔵も物欲しげに上がり框へ腰を下ろした。
「どういうこったい、おやえ。おめえ、俺にはこれっぽっちも、そんなこたあ言わなかったじゃねえか」
「男には分からない女同士の胸の内……あたしも愛染も、つい情を許しちまったんだよ。おふくはどうにも運の悪い、かわいそうな女さ。幸せになることに飢えちまって、善悪二人のおふくがあの女の中にいる気がしたよ」
二日前の朝、甚六店から善七店での井戸検分に引っ立てられたおふくは、おやえと愛染に挟まれながら歩いた。新藤は三人から五間(10m)ほど離れて、太市を連れた。口裏を合わせるかも知れない二人を引き離し、朝っぱらから下手人に町衆が騒がぬよう御縄も打たなかった。
逃げる気配のないおふくはおやえたちに目もくれず、路面に残る轍や草鞋の跡をなぞるように歩いた。
五刻半(午前9時)の日本橋にさしかかった時、魚河岸の真上で舞うトンビがピーヒョロロと声を上げた。おふくがふっと青い空を見上げて、口を開いた。
「トンビか、久しぶりにちゃんと声を聞いたよ。いいねぇ……あたいもトンビになりたいよ。生きるのがつらい江戸なんて、子どもの頃から、ふいっと飛んでおさらばしたかった」
魚を売りに走る数人の棒手振りが、橋の真ん中で立ち止まる三人の女を邪魔だと言わんばかりに睨みつけた。血走る男たちの目つきが、おふくの言葉をおやえたちの胸に刻んだ。
おやえが腹の据わった顔で、おふくに訊いた。
「旦那殺しは磔だ。その覚悟、あんたはとっくにできてるって顔だね」
おやえの太い声に、浅蜊売りの男が目を丸くして通り過ぎた。
おふくはそれを気にせず、自身の素性を吐露した。佃島の貧しい漁師の子で、女衒に売られた身の上だった。飯盛り女の頃、知り合った吾助と一緒になり、これで人並みの幸せを得られると思った。健気な女房を可愛がる吾助は煙草好きで、しとねに入ると一緒に夫婦キセルを吸った。だが、そんな暮らしも長くは続かなかった。
酒乱の吾助は豹変すると手がつけられないほど暴れ、博打にも溺れた。おふくは腹いせに色里へ立ち、男たちを茶屋へ誘い込んだ。そして太兵衛と知り合った。ねんごろになる内、太兵衛が妻に先立たれた播磨屋九兵衛と知ったおふくは、自分の不運を変える賭けに出た。
九兵衛の後妻になるための吾助殺しだった。それがおやえの感じた、二人目のおふくだった。
「六つの歳にお父つぁんが時化の海でいなくなった後、おっ母さんから女衒に売られたんだって……兄弟も人買いに連れてかれたってさ」
おやえの長い話しが終わると、静まった土間へ万吉のキセルから細い煙が立ち昇っていた。熊蔵はおふくの境涯に顔をしかめ、煙草葉を火皿へ詰める手を止めたままだった。
やるせない表情の万吉が、キセルの雁首を竹の火吹きに打ちつけた。
「だからって、亭主をあやめることわりにはならねえ。それに九兵衛と示し合わせて吾助を殺ったのも、尋常なしわざじゃねえ」
それは分かってると無言で頷くおやえに、熊蔵は切ない顔でつぶやいた。
「だけどよ、どうしておふくは、そんな来し方を打ち明けたんだろうな」
すると、おやえは店裏へ入り黒い塊を持って来た。万吉夫婦がしばらく使っていない、夫婦キセルだった。
「おふくは、あたしと愛染に向かって言った。『あんたたちが羨ましいよ。二人とも煙草のいい匂いがしてる。あんたは鉄漿(かね/お歯黒のこと)を塗ってるから旦那持ち、そっちの芸妓の姐さんは独り身だけど、惚れたいい男がいそうだ。どっちも、本当の夫婦キセルを楽しんでる気がするよ』だとさ。もちろん、あたしたちが煙草屋稼業ってのは、おふくに言ってないよ」
その時、店先に長屋の女房たちのざわめきが聞こえて、新藤が一力屋の暖簾をたくし上げた。善七店の連中は息を殺しておやえたちの話を聞いていたらしく、新藤の後ろにいる目明し弥彦に追い払われた。
「本当の夫婦キセルのう……おふくにとっちゃあ、吾助と睦み合った頃の寝煙草が、幸せの至りだったわけか。まぁ、仏になった後では、どうでもいいことだが」
二本差しを外した新藤は店の中を見回すと、座っている熊蔵に帰れと顎を振った。ここから先は立ち入るなと、尖った目元が言っていた。
首をすくめた熊蔵が去ると、新藤は腰に提げた堆朱の煙草入れを外しながら上がり框にあぐらを組んだ。目明しの弥彦は店先で睨みをきかし、人目を封じていた。それも新藤の指図と万吉は察した。
新藤は一力屋の煙草盆から竜王の刻み葉を取り出し、羅宇キセルの火皿へ詰めながら語った。
「やはり、あやつらは相対死にの口合せができておったようじゃ……太市は俺が連れて歩く間、ずっと井戸替え屋の喜兵衛のことばかり口にしおった。己が沙汰を受けても、喜兵衛の商いに障りがないよう取り計らって欲しい。若い女から相手にされない己を、おふくは男にしてくれた。だから、騙されても悔いはなかった。後生だから喜兵衛を頼むとすがりおった。だが雇った者が罪を犯せば、あるじも吟味される。ましてや喜兵衛は、太市の親代わりだ。俺がそう返した途端、太市は立ちくらみがすると言い、日本橋のたもとに座り込んだ。束の間であったが、おそらく、あれが二人の仲で申し合わせた相対死にの合図にちがいない」
その時におふくが橋のたもとへ目を凝らしていたのを、おやえも憶えていた。
気丈夫なおやえが声を震わせた。潤んだ瞳からこぼれる涙に、手にした夫婦キセルが濡れていた。
「おふくも太市さんも、意気地がないよ。そりゃ江戸で生きてくなら、一寸先は闇だよ。だけど、独りぼっちじゃないんだ。裏店の人たち、棒手振りの兄さん、木戸番の親爺さん、飯屋の女将さん、誰だって話くらい聞いてもらえる。それが江戸の宝物じゃないか。みんな、必死で生きてんだ。そんな世の中を鼻で笑ってるのは、あこぎなお侍やぼろ儲けしてる札差だけだよ」
おやえの涙声が耳に痛いのか、新藤は顔をしかめて町衆の口ぶりになった。
「言っておくが、俺はあこぎじゃねえぞ。おう、弥彦。裏店へ回って、壁に耳を当てて聴いてる奴らをここへ連れて来な。まったく、家へ帰れと命じたのに気配が消えてねえんだよ。お政の婆さんなんぞ、シクシク泣いてやがる」
途端に裏店へ走った弥彦が一力屋の勝手口を開いて、長屋の連中を押し入れた。地獄耳の栄治も顔負けの新藤の勘の鋭さに、万吉とおやえは目を丸くした。
女房も亭主も今しがたのおやえの言葉にそそられ、泣いていた。
「おやえちゃん、あんたの言う通りだよ。この善七店の者は、決して人様を見捨てないよ」
滂沱するお政の声に、老若男女が何度も頷いた。
万吉が、赤らんだ鼻をすすりながら新藤に言った。声音はいつになく、かすれていた。
「新藤の旦那。太市とおふくの口はふさがっちまった。これで播磨屋九兵衛は命拾いってわけですかい」
その場の面々を見つめていた新藤は腕組みを解くと、膝頭を叩いて言い放った。
「てやんでぇ。俺の目の黒い内は、そうはいかねえ。九兵衛の野郎は、獄門首にしなきゃ承知できねえ。むろん万吉、おめえも吟味与力様への口書き(調書)の証しを、俺と矢立する(書き綴る)んだぜ」
「がってんでぇ。でなきゃ俺はおやえと、本当の夫婦キセルを吸えやしねえ」
万吉の答えに、長屋連中の拍手が響いた。
店先に戻ってなりゆきを聞いていた弥彦の膝へ、寒風に震える野良犬がすり寄った。
「江戸は寒くなるけどよ、この葺屋町はあったけえ町だぜぇ」
つぶやいた弥彦へ答えるかのように、犬は嬉しげに吠えた。
(了)
煙草屋万吉 江戸日記 第3話「夫婦煙管(めおときせる)」 @sinsi821
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