第77話 王都夜市、貴族も商人も親衛護衛席を奪い合う
暖かい席は、夜になるほど身分を選ぶ。
そして、高い席ほど、取ったやつの顔が良くなる。
軍務院前兵站市が、王都夜市へ変わったのは日が落ちてからだった。
第八湯の湯気が、夜の石畳へ白く流れる。
第八窯の灯が、主車の側板を赤く照らす。
第三寝台車の窓には、もう先客の影が見えていた。
悪くない。
かなりではなく、素直に強い。
ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま灯り板を抱えてくる。
「兵站城主」
「何です」
「夜のほうが、なんか顔のいい客が多いです」
「そうですね」
「昼は兵と文官が多かったですけど、今は執事と高そうな箱が多いです」
「夜は、待ちたくない人間から先に財布が開くので」
「王都っぽいですね」
「かなり」
ミレイユが、もう夜用の札板を並べ終えていた。
商人の仕事は本当に早い。
しかも、夜になるとさらに顔がいい。
「兵站城主」
「何です」
「上位札、出します」
「待ってました」
「でしょうね」
木札を並べる。
王都夜市
親衛夜護衛席 一人 銀貨五枚
第三寝台車上段 一人 銀貨五枚
第三寝台車下段 一人 銀貨八枚
第三寝台車小室 一室 金貨一枚
主車夜卓 二人用 銀貨五枚
主車夜卓 湯差しつき 銀貨六枚
金庫車上位預り札 一箱 銀貨五枚から
王都夜越し通し札 湯・寝台・朝湯・朝パン 銀貨五枚
家族届け札 夜便優先 一件 銀貨一枚五十銅
露骨だ。
だが、この時間は露骨な方が強い。
向かいの待機宿の番頭が、それを見た瞬間に顔をしかめた。
良い顔だ。
かなり良い。
「兵站城主」
ノイルが、札板を見たまま言う。
「小室、金貨一枚って高くないですか」
「高いです」
「売れますか」
「夜なので」
「……王都、怖いな」
その時だった。
最初の馬車が止まる。
濃紺の塗り。
家紋あり。
御者が二人。
後ろに従者三人。
見るからに金を払う側の馬車だ。
そこから降りた執事は、湯気より先に第三寝台車の小室札を見た。
良い目だ。
「前線本営主カイル・ルーヴェンか」
「そうですが」
「侯爵家北館付き執事、ラゼルだ」
男は短く名乗り、そのまま言う。
「主の姪が今夜中に北館へ移る」
「冷やしたくない」
「静かな席と、湯と、鍵つきの箱が欲しい」
「小室は」
「空いてます」
「取る」
早い。
良い客だ。
「金貨一枚です」
「湯差しつきで?」
「別です」
「銀貨一枚足す」
「ありがとうございます」
金貨と銀貨が、机へ落ちる。
重い音だ。
王都の夜は、やはり良い。
ミレイユがすぐに木札を切る。
「第三寝台車小室、一」
「湯差しつき、一」
「金庫車上位預り、一箱」
ラゼルはさらに続けた。
「親衛夜護衛席も二」
「主の姪と侍女分だ」
銀貨十枚。
こちらも重い。
ノイルが、思わず息を呑んだ。
「兵站城主」
「何です」
「一人銀貨五枚って、ほんとに払うんですね」
「夜なので」
「王都、やっぱり怖いです」
次は、第二騎士団の従卒だった。
騎士鎧ではなく、夜便用の軽い外套。
だが、腰の佩剣と立ち方は堅い。
「第二騎士団副長付きだ」
「外城西館まで、書類箱と人を二名通したい」
「夜襲はないが、王都の夜は面倒が多い」
「親衛護衛席と、金庫車上位預りを」
これも、値段を聞く前に中身を見ている顔だ。
嫌いじゃない。
「親衛夜護衛席二、銀貨十枚」
「金庫車上位預り、一箱銀貨五枚から」
「取る」
銀貨十五枚。
また落ちる。
向かいの待機宿の番頭が、完全に嫌そうな顔になっていた。
好きだ。
こういう顔は好きだ。
そこで終わらない。
絹商会の番頭が来る。
次に、宝飾商の使い。
さらに、軍務院付き書記官の連れまで、主車夜卓を押さえに来た。
みんな同じだ。
夜に冷えたくない。
外で待ちたくない。
箱は見えるところへ置きたい。
だから、こっちへ来る。
王都でも、結局はそこだった。
ミレイユが、もう笑いを隠さなくなっていた。
「兵站城主」
「何です」
「上位札、かなり飛びます」
「どのくらいです」
「小室は埋まりました」
「下段も半分」
「親衛夜護衛席は、あと四です」
「主車夜卓も全部埋まります」
「上出来ですね」
「悪くありません、の段階は越えました」
ノイルは、もう完全に忙しくなっていた。
親衛隊長外套を着たまま、上位客を案内する。
箱を受ける。
寝台札を切る。
扉を開ける。
高い席に人を通す。
それは、かなり見栄えが良かった。
しかも、その見栄えをちゃんと見ている目がある。
侯爵家の侍女だ。
若い。
だが目が速い。
彼女はノイルが小室の鍵を回したのを見て、ぽつりと言った。
「……手つきがいいですね」
ノイルの耳が、一気に赤くなる。
だが、今日は動きが止まらない。
「仕事なので」
良い返しだ。
だいぶ良い。
ガレスが横で肩を揺らす。
「お前、王都来てから忙しいな」
「今それ言わないでください!」
「いい顔してるぞ」
「ありがとうございます!」
笑いが広がる。
こういうのは効く。
かなり効く。
その時だった。
列の最後に、明らかに金を持っていない男が立っていた。
濃紺でも灰でもない、くたびれた会計書記外套。
泥。
汗。
目の下の隈。
だが、両手では細長い鉄箱を抱えている。
箱だけが、妙にきちんとしていた。
そいつは、前へ来るまで何も言わなかった。
ただ、主車と寝台車、それから金庫車の鉄帯を順に見ていた。
高い席を欲しがる顔じゃない。
逃げ道を探している顔だ。
嫌いじゃない。
「名前を」
俺が聞くと、男は少しだけ迷ってから答えた。
「……ダーン」
短い。
だが、聞き覚えがあった。
王都第三遠征団会計書記補、ダーン・メルド。
リディアの後ろで、帳面の端をいつも切っていた男だ。
王都の冷えた会計室で、何度か見た顔だった。
「久しぶりですね」
そう言うと、ダーンの顔がきれいに止まった。
「覚えてるのか」
「数字を減らす筆先は、だいたい覚えます」
「嫌な男だな」
「知っています」
ダーンは少しだけ笑った。
だが、その笑いはすぐ消える。
「金はない」
「見ればわかります」
「でも、払える物はある」
男は鉄箱を少しだけ持ち上げた。
狼の私印。
古い第三遠征団の副封。
嫌な匂いがする。
かなり。
「何が欲しいです」
「今夜の寝台」
「湯」
「朝まで箱ごと預けられる場所」
「それと」
一拍置いて、男は本音を出した。
「できれば、明朝まで俺を売らないでほしい」
悪くない。
値段のつけやすい本音だ。
ミレイユが横で小さく言う。
「兵站城主」
「何です」
「かなりおいしい匂いがします」
「ええ」
「好きです」
「でしょうね」
俺はダーンの鉄箱を受け取った。
重さは軽い。
銀貨箱じゃない。
紙の箱だ。
好きな重さだ。
「上段一つ、湯一つ、箱預り一件」
俺は言った。
「その代わり、中身を今見ます」
ダーンは即答した。
「いい」
「それで足りるなら安い」
悪くない。
かなり悪くない。
主車の中へ移る。
ミレイユ。
セレナ。
ノイル。
ガレス。
最低限だけ残す。
鉄箱の封を切る。
中には帳面が三冊。
薄い紙束。
それから、封筒。
最初の帳面を開く。
すぐわかった。
第三遠征団の横流し台帳だ。
補給便番号。
荷番号。
消えた小麦。
消えた塩肉。
消えた矢束。
消えた薬。
全部が、ちゃんと書いてある。
しかも、俺が失ったことにされた便まで全部ある。
良い帳面だ。
かなり良い。
だが、次の瞬間に少しだけ眉が寄った。
抜けている。
最後の確定欄だけが抜けているのだ。
「……仮台帳ですね」
俺が言うと、ダーンはうなずいた。
「会計室の下書きだ」
「確定欄は?」
「まだ本帳へ移してない」
「誰が移す」
「リディアだ」
そこで、主車の空気が少しだけ変わった。
ノイルが、帳面と俺の顔を見比べる。
「兵站城主」
「何です」
「これって」
「かなり良いです」
「ですよね」
ダーンは、乾いた喉を一度だけ鳴らしてから続けた。
「レイスの私印で荷を動かす」
「リディアが仮台帳へ記す」
「俺みたいな下が清書する」
「最後に本帳へ移す時、会計官本人が確定欄へ署名する」
「それで全部、正式になる」
わかりやすい。
かなりわかりやすい。
つまり、今あるのは途中までの牙だ。
喉元まで届く。
だが、首を落とすならもう一押しほしい。
「これだけでも十分刺さります」
ミレイユが言う。
「ええ」
俺はうなずく。
「でも、もっと気持ちよく終わらせたいですね」
「好きです、そういう男」
ダーンが、そこで初めて顔を上げた。
「……できるのか」
「たぶん」
俺は帳面を閉じた。
「この女は、最後に自分の手で整えた帳面を信じている」
「だから、人前で紙を出せば筆が動く」
「昔からそうでした」
ダーンの顔が、少しだけ変わる。
昔の俺を知っている顔だ。
「本当に覚えてるんだな」
「数字の癖は残るので」
「……嫌な男だ」
「知っています」
セレナが、短く聞く。
「つまり?」
俺は横流し台帳の確定欄を指で叩いた。
「次は、リディアにここへ自分で署名させます」
ノイルが息を呑む。
ガレスが低く笑う。
ミレイユは、ほとんど楽しそうだった。
「王都の人前で?」
「ええ」
「かなり高い見世物ですね」
「そういうのが好きでしょう」
「大好きです」
ダーンは、上段寝台札を受け取ったまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく言う。
「……上段でいい」
「湯も入る」
「朝まで売らないなら、かなり安い」
「助かります」
男はそれ以上、何も言わなかった。
だが、その背中は少しだけ軽く見えた。
帳面を置いたからだろう。
悪くない。
かなり悪くない。
主車の外では、王都夜市の灯りがまだ生きていた。
貴族の使い。
商人。
王都兵。
みんな、高い席を取り合っている。
その真ん中で、今度はもっと高い帳面がこっちへ来た。
だったら次は、
この横流し台帳へ、
あの女自身の手で署名させればいい。
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