第75話 母と妹に、王都の鍵つきの部屋を渡す

 部屋は、広いだけじゃ勝ちにならない。


 鍵がかかって、

 炭が積めて、

 夜に咳をさせない時、

 ようやく本当に腹へ落ちる。



 公開評議が終わった午後。


 軍務院前兵站市は、朝よりさらに混んでいた。


 湯札の列。


 寝台札の列。


 家族送金札の列。


 主車待合卓の列。


 どれも短くならない。


 むしろ、評議で三日仮運用が通ったせいで、

 昨日より顔つきの良い客が増えていた。


 悪くない。


 かなりではなく、

 かなりはっきり悪くない。



「兵站城主」



 ミレイユが、帳簿箱を抱えたまま机へ来る。



「何です」



「見てください」



「見てます」



「今日の午前だけで、南三区の鍵つき二間は押さえられます」



 そこで、指が少しだけ止まった。


 母と妹だ。


 評議で勝つのもいい。


 湯札が売れるのもいい。


 だが、やっぱり腹へ一番深く来るのはそこだ。



「場所は」



 俺が聞くと、ミレイユはすぐに紙を一枚差し出した。



 王都南三区

 石段裏九

 二間

 鍵つき

 炭置き場あり

 井戸近し

 薬屋二軒先



「家賃は」



「前家賃で銀貨二枚」


「敷き銀貨三枚」


「炭箱ひとつ込み」



「安いですね」



「今日の売上から見れば、です」


「昨日のあなたなら高い顔をしたでしょう」


「昨日の俺は前線本営主でした」


「今日のあなたは、王都で湯と寝台と送金を売ってます」


「言い方がいいですね」


「商人ですので」



 主車の外では、

 ノイルが親衛外套の襟を直しながら寝台札を切っていた。


 白毛皮の親衛隊長外套も、王都の石畳ではだいぶ見栄えがする。


 悪くない。


 こういう時に立つ男は、少しだけ偉く見える。



「兵站城主」



 ノイルが気づいて駆けてくる。



「何です」



「なんか、いい話ですか」



「かなり」



「どのくらい」



「母と妹の部屋を取りに行きます」



 若い親衛隊長の顔が、ぱっと明るくなる。



「今からですか」



「今からです」



「じゃあ俺、荷持ちやります」



「仕事は」



「ルッツさんに半刻だけ代わってもらいます!」


「たぶん怒られますけど、かなりやりたいです!」



 わかりやすい。


 だが、こういう顔は嫌いじゃない。


 むしろ助かる。



「副司令」



 俺はセレナへ向いた。



「半刻、外します」



 槍を担いだまま、市の動線を見ていた副司令は、

 ほんの一拍だけこちらを見てからうなずいた。



「行ってこい」



「いいんですか」



「王都で紙に勝った後は、王都で鍵に勝て」



 一拍置く。



「そういう日の方が、兵もよく見る」



 強い。


 かなり強い言い方だった。



 ミレイユは、もう話を進めていた。


 商会の若い脚夫へ手を振る。


 炭袋。


 毛布二枚。


 薬草束。


 塩肉。


 小さな鍋。


 それから、鍵。


 全部、手押し車へ積ませる。



「早いですね」



「家を取りに行く話で遅い商人は、二流です」



「好きです」



「知っています」



 王都南三区は、

 軍務院前よりずっと静かだった。


 石畳は狭い。


 壁は近い。


 洗濯紐が低く張ってある。


 だが、生活の匂いがした。


 煮えた薬草。


 古い炭。


 洗った布。


 子どもの咳。


 王都の綺麗な表通りより、

 こっちの方が人の腹に近い。


 嫌いじゃない。



 石段裏七。


 母と妹が借りている今の部屋だ。


 扉は薄い。


 鍵も安い。


 窓の木枠も少し反っている。


 こういう部屋は、冬に咳が長引く。


 わかる。


 見ればわかる。



 ノイルが少しだけ緊張した声で聞く。



「兵站城主」


「何です」


「俺、いて大丈夫ですか」


「炭と毛布を持ってるので大丈夫です」


「そういう問題ですか」


「半分は」


「じゃあ、ちゃんと立ちます」



 悪くない。


 若い親衛隊長は、扉の前でも白毛皮をきちんと整えた。


 そういうところは、本当に悪くない。



 叩く。


 中で、少しだけ物音がした。


 細い咳。


 足音。


 扉が開く。


 母だった。


 最初に見たのは俺じゃない。


 白毛皮の親衛と、

 炭袋と、

 毛布と、

 その後ろの商会脚夫だ。


 だから、一瞬だけ顔が強張る。


 取り立てだと思ったんだろう。


 そこへ、俺が一歩前へ出た。



「ただいま」



 ほんの短い沈黙。


 次の瞬間、

 母の顔から色が抜けた。



「……カイル?」



「ええ」



 そこまでだった。


 母はすぐに何か言おうとしたが、

 先に息が詰まった。


 泣く前の呼吸だ。



「死んだって紙は、行ってないですよね」



 俺が言うと、

 母は泣きながら笑った。



「まだ来てないわよ」


「じゃあ間に合いました」



 奥から、妹が顔を出した。


 前より少しだけ顔色がいい。


 だが、やはり咳は残っている。


 それでも、俺の外套より先に、ノイルの白毛皮へ目が行った。



「……白い」



 小さい声だった。



「兄さん、本当に白いの着てる人連れてきた」



 ノイルが、きれいに固まる。



「は、はい」



 若い親衛隊長の返事としては、かなり弱い。


 だが、そのくらいでちょうどいい。


 妹は少しだけ笑って、それからようやく俺を見る。



「兄さん、生きてた」



「見ればわかるでしょう」



「うん」



 その一言だけで、十分だった。



 中へ入る。


 狭い。


 薄い。


 だが、まだ暮らしている部屋だ。


 机は小さい。


 寝台も一つを二人で使っている。


 薬草の匂いはあるが、炭の量が足りない。


 だから今日来て良かった。


 本当にそう思った。



 ミレイユが、後ろからそっと紙を差し出す。



「石段裏九の借り証です」


「今なら貸家番がまだいます」



 話が早い。


 かなりありがたい。



「母さん」



 俺は借り証と、真鍮の小鍵を掌へ乗せた。



「今日から、ひとつ隣です」



 母の目が、そこできれいに止まった。


 鍵だ。


 部屋ってのは、やっぱり鍵で効く。



「何を言ってるの」



「二間あります」


「鍵つきです」


「炭置き場もある」


「薬屋も二軒先」



 少しずつ置く。


 わかりやすく。


 現実の形で。



「そんな部屋、高いでしょう」



「今日の午前で取りました」



「午前?」


「軍務院前で湯と寝台と送金を売ったので」



 母はそこで、妙な顔になった。


 泣きたいのか、

 呆れたいのか、

 もうよくわからない顔だ。



「……あなた、何をしてるの」


「補給です」



 妹が、鍵を見たまま聞いてくる。



「ほんとに、うちの?」


「今のところは」


「中、見ていい?」


「そのために来ました」



 石段裏九は、本当にすぐ隣だった。


 だが、差ははっきりしていた。


 扉が厚い。


 鍵がちゃんと噛む。


 窓枠がまともだ。


 部屋は二つ。


 小さいが、机も二つ置ける。


 奥に炭箱置き場。


 壁際に棚。


 それから、ちゃんと閉まる戸。


 かなりいい。


 いや、かなりどころじゃない。


 今までよりずっといい。



 妹が、鍵を差し込む。


 回る。


 かちり、と鳴る。


 それだけで、顔が変わった。



「……閉まる」



 母も、炭箱の位置を見て目を細めた。



「風が入りにくいわね」



「そうです」


「咳、減ると思います」



 メイナから預かった薬草束も置く。


 塩肉と豆も置く。


 炭袋も置く。


 毛布は二枚、寝台へ。


 ノイルは、かなり真面目な顔で全部運び込んでいた。


 白毛皮の親衛隊長外套で毛布を抱えているのは、

 少しだけ変な景色だ。


 だが、悪くない。


 母がその姿を見て、そっと聞いてきた。



「その子は」



「第八側の親衛隊長です」



 ノイルの背筋がぴんと伸びる。



「し、親衛です」


「今は兵站城親衛隊長で、前線本営主付きです」



 俺が補足すると、

 母の目が今度は俺へ戻った。


 少しだけ、顔が変わる。


 息子を見直す顔だ。



「……あなた」



 そこまで言って、また少しだけ笑う。



「本当に生き延びたのね」



「かなり」



 妹は毛布へ手を沈めながら、ぽつりと言った。



「兄さん、前よりちゃんとしてる」



 ひどい言い草だが、悪くない。


 かなり悪くない。



 貸家番の婆さんが、遅れてやってきた。


 借り証。


 前家賃。


 敷き銀。


 全部をその場で払う。


 銀貨三。


 銀貨二。


 それから、炭追加で銀貨一。


 こういう金の減り方は好きだ。


 減る。


 だが、ちゃんと部屋になる。



 婆さんは、銀貨を数えてから俺を見る。



「軍の人かい」


「今はそうです」


「払いはきれいだね」


「そのために来ました」


「なら鍵は今日からあんたらのだ」


「延滞しなきゃ文句はないよ」



 母は、そのやり取りを黙って見ていた。


 そして、婆さんが去ってから、

 ようやく小さく言った。



「……本当に、払えたのね」



「ええ」



「無理してない?」



「かなり働いてます」



「そういう意味じゃなくて」



 少しだけ、困った顔で言い直す。



「危ないことをしすぎてない?」



 そこは、少しだけ考える。


 考えた上で、正直に答えた。



「かなりしてます」



 母は目を閉じた。


 だが、責めなかった。


 代わりに、鍵を握りしめて言う。



「じゃあ、生きて帰ってきなさい」


「次も」


「次も、その次も」



 それで十分だった。



 妹が、机の上へ借り証を並べながら聞く。



「兄さん、また来る?」



「来ます」



「白い人も?」



 ノイルが、また固まる。



「必要なら」



「じゃあ来て」


「ここの鍵、見せたい」



 若い親衛隊長は、だいぶ真っ赤になりながら答えた。



「はい」



 いい。


 かなりいい。


 こういうのは、やっぱり効く。



 帰り際、

 母は扉の前まで出てきた。


 新しい鍵を持ったまま、俺へ言う。



「手紙は短くていいから」



「ええ」



「生きてることと、次にいつ来るかだけ書いて」



「わかりました」



「あと」



 少しだけ迷ってから続ける。



「今日は、ありがとう」



 悪くない。


 かなりでは足りない。


 素直に、よかった。



 軍務院前兵站市へ戻ると、

 空気が少しだけ変わっていた。


 列はまだある。


 湯気も立っている。


 主車待合卓も埋まっている。


 だが、何かが固い。


 主車の前へ止まっている青黒の小役人馬車が、その原因だった。



 ミレイユが、帳簿箱を抱えたままこちらへ来る。


 顔は笑っていない。



「兵站城主」


「何です」


「来ました」


「何がです」


「面倒なやつです」



 主車の扉を見て、すぐわかった。


 青黒の封が三つ。


 ぴたりと貼られている。



 倉庫使用差止通達


 軍務院前停車位置再審査


 即送金取次一時停止命令



 いい。


 かなりいい。


 向こうも、ちゃんと痛がっている。



「誰です」



 俺が聞くと、ミレイユは青黒の封を指で弾いた。



「中央兵站院です」


「それと、王都兵站商同盟」



 一拍置く。



「本気で来ましたね」



 主車の湯気は、まだ立っている。


 だが、その前に貼られた青黒封は、

 次の三日を止めに来た顔をしていた。



 だったら次は、


 倉庫も送金も止められた状態で、

 それでも列の方から寄ってくる形を見せればいい。

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