第65話 雪鎖騎兵襲来、冬戦馬と鎖鉤を奪って雪原の足を折る
速い敵は、暖かい場所から先に噛む。
冬の前線では、
橋より先に、
湯気と寝台と鍵つきの箱が狙われる。
橋頭堡で夜を迎えた時、
補給塔一号の灯はまだ生きていた。
橋の暖橋壺も、
士官浴場棟の湯も、
士官寝台室の暖房石も、ちゃんと回っている。
悪くない。
かなりではなく、
素直に悪くない夜だった。
フェルドが、浴場棟の入口で空を見ていた。
痩せた補給下役は、
昼より少しだけ人間の色に戻っている。
「兵站城主」
「何です」
「来るなら、今夜だ」
「理由は」
「湯が見えてる」
一拍置いて、男は続けた。
「雪鎖は、温いところを見つけると早い」
「団長は」
セレナが聞く。
「ベラム」
フェルドは即答した。
「橋を壊すより、湯と寝台を落としたがる」
「嫌な趣味ですね」
「だから雪原で生きてる」
わかりやすい。
なら、噛ませる場所も決まる。
「ブラム」
「おう」
「冬戦馬は何が嫌です」
「硬い雪は好きだ」
「湯で溶けた泥は嫌う」
「あと、低い鎖」
「蹄鎖が絡むからな」
上出来だ。
欲しかった答えだ。
「なら、温い箱で足を折ります」
ノイルが、親衛外套の襟を握ったまま目を丸くした。
「補給主任」
「兵站城主です」
「それ、だいぶ嫌な言い方ですね」
「仕事です」
「最近、本当にそういう返しが増えましたね」
「前線なので」
悪くない。
わかってきた顔だ。
配置を変える。
浴場車は、士官浴場棟の脇へ寄せたまま。
だが、側板の留め具を半分だけ外す。
湯路も一つだけ開放側へ。
引かれた時に、
中の湯が横へ吐く形にする。
眠っていた浴場車を、罠に変える。
士官寝台室には、
子どもと年寄りを先に入れる。
主車へ医療箱。
第三寝台車は、橋頭堡側へ半歩だけ下げる。
重弩車は補給塔の影。
城柵車の板を二枚だけ、浴場棟前へ斜めに立てる。
いい。
だいぶいい。
動く宿場じゃない。
今は、動く餌場だ。
「親衛」
セレナが短く言う。
「寝台と浴場の前で止める」
「はい」
ノイルが返す。
「鎖が飛んできたら」
「切らない」
俺が言う。
「もらいます」
「はい?」
「鎖鉤は高いので」
「そこで商売の顔になるの、やめたほうがいいと思います」
「嫌です」
「ですよね」
橋頭堡の北側、
雪原の奥で鈴が鳴った。
小さい。
だが、橋通行の鈴じゃない。
雪路騎の索敵鈴だ。
第三烽火砦の火も、すぐに返る。
一短。
二長。
一短。
ハルンが低く読む。
「騎影十八」
次の火。
「鎖鉤あり」
最後に。
「頭は一」
ベラムだ。
来た。
雪原の向こうに、
白い線みたいなものが走る。
冬戦馬だ。
脚が長い。
胸が深い。
毛並みは灰白。
普通の馬より雪を怖がらない顔をしている。
しかも、乗っている騎兵の腰からは、
鈍く光る鎖鉤が何本も下がっていた。
先頭の一騎だけが、少し違う。
毛皮が長い。
肩の鎖が銀だ。
馬も一段いい。
あれがベラムだろう。
雪鎖騎兵団長は、橋頭堡と浴場棟を見た瞬間に笑った。
距離があってもわかる顔だ。
「……わかりやすいな」
ガレスが言う。
「腹減ってるやつの顔だ」
「ええ」
俺は答えた。
「温いものが欲しくてたまらない顔です」
ベラムの声が、雪原の向こうから響いた。
「橋は後だ!」
一拍置いて、はっきりと怒鳴る。
「湯を落とせ! 寝台を焼け! 箱はその後だ!」
わかりやすすぎる。
最高だ。
「第八湯、待機」
「重弩車、正面」
「親衛、扉前」
「橋頭堡番、灯は落とすな」
命じながら、俺は浴場車の留め具へ手を置いた。
《野戦工房》を少しだけ流す。
外れる。
だが、まだ落ちない。
引かれた時だけ開く位置で止める。
こういう半端は強い。
ベラムは正面から来なかった。
左右へ六騎ずつ散らし、
真ん中に自分と残りを置く。
上手い。
浴場車と寝台棟の両方へ同時に鉤を投げるつもりだ。
「副司令」
「わかってる」
セレナが槍を肩へ担ぎ直す。
「最初の鉤は浴場車だ」
「ええ」
「お前の合図で出る」
「お願いします」
鎖鉤が飛んだ。
一つ。
二つ。
三つ。
浴場車の側板と輪止めへ噛む。
さらに二本が、士官寝台室の前柱へ飛ぶ。
悪くない腕だ。
だが、狙いが見えている分、対処も早い。
「引かせろ」
俺が言うと、ノイルが息を呑んだ。
「えっ」
「そのままです」
白い騎兵たちが、鎖鉤に力を込める。
冬戦馬が雪を蹴る。
鎖が張る。
その瞬間、
浴場車の側板が外れた。
湯だ。
熱い湯が、横へ一気に吐いた。
白い蒸気。
溶ける雪。
ぬるい泥。
その中へ、鎖を引いたままの冬戦馬の前脚が沈む。
一騎目が滑る。
二騎目も。
三騎目だけが無理に飛ぼうとしたが、
蹄鎖が泥へ噛んで横へ流れた。
「今!」
セレナの声が飛ぶ。
重弩車が吠えた。
太いボルトが、滑った一騎目の胸を貫く。
二本目が馬の肩へ。
三本目は、寝台棟前柱を狙っていた騎手の手首ごと鎖鉤を吹き飛ばした。
いい。
だいぶいい。
「低鎖!」
ブラムが怒鳴る。
橋頭堡番が、雪の下へ隠しておいた細鎖を引く。
浴場棟前の浅い泥地へ、低い鎖が一文字に走る。
滑った冬戦馬の脚がさらに絡む。
前へ出た二騎がまとめて転んだ。
ノイルが、そこでやっと理解した顔になった。
「温い箱で足を折るって、こういうことですか」
「見ればわかります」
「嫌だなあ……でも強いです!」
悪くない反応だ。
だが、ベラムはまだ笑っていた。
団長は真ん中からそのまま来る。
自分では鉤を投げない。
長い槍を持ったまま、
部下が崩した穴へ入るつもりの動きだ。
強い相手だ。
雑兵じゃない。
「橋頭堡、右!」
ハルンが叫ぶ。
見る。
右へ回った四騎が、今度は金庫車ではなく主車を狙っていた。
あれも正しい。
箱と机と寝台がある車は、暖かい方の匂いがする。
「鎖は切るな!」
俺は怒鳴る。
「滑車へ回せ!」
橋頭堡の古い巻上輪へ、飛んできた鎖鉤を噛ませる。
橋番だった老人と若い衆が、反射みたいに輪を回した。
縄じゃない。
敵の鎖そのものだ。
主車へ噛んだ鉤が、一気に逆方向へ張る。
冬戦馬の上の騎手が、何が起きたかわからない顔で引きずられた。
鞍から落ちる。
雪を転がる。
そのまま城柵車の板へ顔からぶつかった。
ガレスが笑いながら飛び出す。
「鎖は高いんだろ?」
軍曹の槍が、転がった騎手の首元で止まる。
「なら置いてけ」
男は、すぐに手を離した。
鎖鉤一本、回収だ。
上出来だ。
その瞬間、
ベラムが初めて本気で速くなった。
白馬を蹴る。
蒸気の切れ目をまっすぐ抜けて、
浴場棟の脇へ入ってくる。
速い。
槍が長い。
狙いは俺だ。
「兵站城主!」
ノイルの声が飛ぶ。
だが遅い。
いや、半歩だけ遅い。
俺は浴場棟の排水溝へ足をかけ、
溝板を蹴り外した。
熱い湯の残りが、斜めに噴く。
白馬の顔へ蒸気がかかる。
馬が一瞬だけ怯む。
それで十分だった。
セレナの槍が横から走る。
ベラムの肩口を浅く裂く。
深くはない。
だが、進路はずれた。
その横から、今度はブラムが飛び込む。
馬の横腹ではなく、
手綱へ直接手をかけた。
冬戦馬の扱いがわかる男の動きだ。
白馬が横へ流れる。
ベラムの槍は、俺ではなく浴場棟の石へ刺さった。
「っ……!」
団長の顔が、初めて本気で歪む。
「馬鹿か、お前ら!」
ベラムが吠える。
「湯と寝台を守るために死ぬ気か!」
その問いに、
浴場棟の中から答えたのは、救われた母親だった。
子どもを抱えたまま、
湯気の向こうから叫ぶ。
「守るよ!」
短い。
だが、強かった。
「昨日、ここで助かったんだ!」
ベラムの顔が、一瞬だけ止まる。
その間に、ノイルが動いた。
白毛皮の親衛外套を翻し、
浴場棟前の雪を蹴って出る。
若い親衛小隊長の槍が、ベラムの馬の前へ低く入った。
刺したんじゃない。
前へ出させない角度だ。
「ここ、払ってる寝台なんで!」
怒鳴り声は少し裏返ったが、
よく通った。
ベラムの白馬は、結局そこを踏み切れなかった。
後ろへ半歩下がる。
その瞬間を、重弩車は逃さない。
ボルトが馬の前脚の前へ突き刺さる。
雪が跳ねる。
白馬がさらに下がる。
団長はそこでようやく、長い笛を吹いた。
短くない。
損切りの笛だ。
雪鎖騎兵が、一気に引き始める。
だが、全部は間に合わない。
滑ったやつ。
鎖を取られたやつ。
転んだ冬戦馬。
それらを置いて、速い連中だけが雪原へ消える。
「追うな!」
俺はすぐに命じた。
「馬と鎖と飼葉袋!」
「寝台と湯を先に見る!」
親衛が止まる。
上出来だ。
今は、暖かい場所を守った上で、
相手の足を拾う方が高い。
戦いが止んだ後、
浴場棟の前には、白い蒸気と冬戦馬の荒い鼻息が残った。
倒れた騎手三。
生きた冬戦馬四。
鎖鉤七。
飼葉袋三。
冬毛外套五。
悪くない。
十分に悪くない。
ブラムが、捕まえた冬戦馬の首を叩きながら言う。
「いいぞ、これ」
「どのくらいです」
「白牙馬より、雪を噛む」
「それは強いですね」
「しかも鼻がいい。吹雪でも戻る」
かなりではなく、
本当に強い。
前線の足そのものだ。
ノイルは、鎖鉤を三本まとめて抱えていた。
「兵站城主」
「何です」
「これ、重いです」
「高いので」
「そこなんですね」
「そこです」
若い親衛は、少し笑ってから真面目な顔で続けた。
「でも、守れました」
「ええ」
「湯も」
「ええ」
「寝台も」
「見ればわかります」
よかった。
その顔なら、もう親衛の顔だ。
フェルドが、そこで捕まえた雪鎖騎兵の腰袋を開いていた。
中から出てきたのは銀じゃない。
また、札だ。
安い木札。
片面に雪鎖の刻み。
裏には、墨でこうある。
支払保留
暖房石次便
寝台割り未定
いい。
こういうのは本当にいい。
「……やっぱり薄い」
フェルドが言う。
「給付が?」
俺が聞く。
「寝台も暖房石も、まともに回ってない」
「じゃあ、こっちの湯と寝台を見たら」
「欲しくなる」
フェルドは即答した。
「雪鎖は、寒いところを守ってるんじゃない」
一拍置く。
「暖かいところを奪って生きてる」
上出来だ。
敵の腹が、ちゃんと見える。
その時、
橋頭堡の南側から、馬を急がせる音がした。
橋番が声を上げる。
「商隊だ!」
夜の橋を越えてきたのは、
小さな薬草車と、毛皮を積んだ荷車だった。
昨日、橋が通ったと聞いて急いできたんだろう。
だが、浴場棟前の戦いの跡を見て馬を止める。
「……え」
薬草車の主が、冬戦馬と転がった白毛皮騎兵を見て固まった。
「今、戦ってたのか」
「終わりました」
俺が答えると、
男は浴場棟の湯気と、無事な寝台棟の窓を見てから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、泊まれるか」
いい。
最初の言葉がそれなら十分だ。
「士官寝台札は埋まっています」
「上段なら一つ」
「浴場札はまだ二枚」
「金庫車預かりもできます」
薬草車の主は、迷わず銀貨を出した。
「取る」
その横で、毛皮車の御者も続く。
「うちもだ。橋通行札と寝台延長、それから風呂」
雪原の前線で、
戦った直後にまた銀が落ちる。
強い。
本当に強い。
エルザが小室から顔を出し、
外の冬戦馬を見て笑った。
「また増やしたのね」
「ええ」
「高い寝台を守ると、いい馬までついてくるの?」
「今日はそうでした」
「なら安いものね」
彼女はそこで金貨を一枚、さらりと置いた。
「何です」
「次便の先頭枠」
「早いですね」
「今見たからよ」
その一言が、全部だった。
湯気を守る。
寝台を守る。
箱を守る。
そうすると、
こっちへ乗りたいやつが増える。
馬も。
商人も。
情報もだ。
悪くない。
その時、
セレナが白毛皮外套を一枚つまみ上げた。
「これ、親衛に回すか」
俺は鎖鉤と冬戦馬、給付札、そして寝台棟の扉を順に見た。
「ええ」
一拍置く。
「次の給料日は、寝台と外套と車室を増やします」
ノイルの顔が、きれいに変わる。
「……俺らのですか」
「働いたので」
「やった」
若い親衛の声は、
今度は裏返らなかった。
悪くない。
ちゃんと前へ出る声になってきた。
浴場棟の湯気は、まだ夜へ上がっていく。
寝台室の窓も暖かい。
橋の灯も生きている。
それを見て、雪鎖騎兵は来た。
来て、
足を取られて、
馬と鎖を置いていった。
だったら次は、
その馬と外套と寝台で、
こっちの親衛をもう一段上げればいい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます