第54話 吹雪の街道、凍えた隊商を風呂とパンと寝台で丸ごと拾う

 寒さは、人を早く黙らせる。



 だが、

 湯気とパンの匂いは、

 黙った口までこじ開ける。


 吹雪前救援便が中枢砦を出た時、

 空はもう半分、雪の色だった。



 第八湯。

 第八窯。

 第三寝台車。

 第八預り庫。


 板へ焼いた名前が、

 曇った昼の光を鈍く返している。



 悪くない。


 いや、相当いい。


 浴場車の腹では湯が鳴り、

 厨房車の窯口からは、焼けた小麦の匂いが細く漏れていた。


 ノイルは第三寝台車の扉脇へ立ち、

 真鍮札の束を両手で抱えている。



 第三寝台車案内係。


 昨日、副司令に投げられたその札を、

 まだ少し信じきれていない顔だ。



「砦監」


「何です」


「下段、ほんとに全部埋まりました」


「見ればわかります」


「上段も、あと一つです」


「良いですね」


「俺、寝台の番号を呼ぶだけで、こんなに見られると思ってませんでした」


「今日は大事な仕事です」


「ですよね」



 若い小隊長は背筋を伸ばした。


 悪くない。

 こういう役目は、人を少し格好よくする。


 エルザはもう小室へ荷を入れ終えていた。


 毛皮の束と帳簿箱を棚へ押し込み、

 その横で浴場優先札を指で弾いている。



「市塞主」


「砦監です」


「好きです」


「どうぞ」


「この札、悪くないわね」


「金貨を先に置く客向けです」


「つまり私向けってことね」


「その通りです」



 彼女は笑って、

 小室の鍵を腰帯へ結び直した。


 薬商隊の主は、金庫車へ箱を二つ預けていた。


 凍ると困る薬瓶だ。



「これ、夜まで持つか?」


「金庫車の中は毛布と緩衝布を入れてあります」


「なら助かる」


「次は銀貨二枚上がります」


「商売だな」


「生活なので」



 その横で、

 フリッツが下段寝台を睨んでいた。



「上段、やっぱり少し揺れそうだな」


「下段は埋まりました」


「わかってる」


「毛布二枚足すなら少しはましです」


「追加で銀貨二枚か」


「寒いので」


「嫌な値付けだ」


「都合のいい値付けです」


「違いねえ」



 ブラムが馬の肩を叩く。



「出るぞ」



 六頭が浴場車を引く。


 四頭が厨房車。

 四頭が寝台車。

 四頭が金庫車。


 さらに後ろに水桶車と薪車がつく。



 もはや隊商じゃない。


 小さい宿場が、そのまま雪の道へ出ていく形だ。


 中枢砦の門を抜ける瞬間、

 見送りの兵と職人たちが思わず手を止めた。



 風呂と窯と寝台と金庫が、

 本当に動いている。


 強い。


 見た目だけで、かなり強い。


 北路へ入ると、風はすぐ変わった。



 冷たい。


 細い。


 頬ではなく、指の先を狙う風だ。


 ブラムが前を見たまま言う。



「予定より早い」


「雪ですか」


「来る」



 セレナが、馬上ではなく徒歩で列の脇を進む。

 槍の石突きが、凍りかけた道を軽く叩いた。



「どこまで持つ」


 俺が聞くと、彼女は空を見た。


「一刻」


「短いですね」


「だから出たんだろ」


「ええ」



 その時、

 第三烽火砦の方向から、かすかな反射が見えた。


 火じゃない。


 昼の銅鏡だ。


 リオネの合図。


 ハルンが、行路板へ目を落として低く読む。



「北吹き強し。旧冬宿小屋、半焼。立ち往生は小屋の北」


「上出来です」


「お前にとってはだろ」


「拾いやすいので」



 ガレスが笑った。



「嫌な砦監だ」


「知っています」



 旧冬宿小屋へ近づくほど、

 匂いが変わった。


 焦げ木。

 湿った灰。


 それから、止まりかけた馬の臭い。



 半焼けの小屋は、道脇で黒く崩れていた。


 屋根は半分落ち、

 火はもうない。


 残っているのは、風を止めきれない壁と、

 その陰へ寄り集まった人影だけだった。



 三台の荷車。

 人は二十を少し。

 子ども四。

 年寄り三。

 毛布は足りない。

 火も小さい。

 顔色は、ひどい。


 強がる余力すら削れた顔だ。


 先頭の隊商主が、

 浴場車の湯気を見た瞬間に立ち上がった。



「……何だ、それ」


「風呂です」



 俺が答える。



「パン窯もあります」


「頭がおかしいのか」


「寒いので」



 隊商主は、しばらくこっちを見たまま固まっていた。


 次に、寝台車の窓を見た。

 最後に、金庫車の鉄帯へ目を落とす。



「……助かる」



 最初に出た言葉がそれなら、話は早い。



「名前を」


「バスコ」


「荷は」


「穀車一、布車一、薬草車一。あと人」


「馬は」


「二頭、もう脚が危ない」



 ブラムがすぐに割って入る。



「見せろ」


「お、おう」


「サム、水桶」


「はい!」



 馬場頭とその補佐が、

 もう馬へ湯と水を回し始める。


 その間に、俺は隊商主たちへ言った。



「子どもと年寄り、怪我人は先に浴場車へ」


「女もですか」



 若い母親らしい女が聞く。



「先に入ってください」


「金は」


「応急分は要りません」



 その言葉で、

 凍った顔が、ようやく少し崩れた。


 マルタが厨房車の窓から顔を出す。



「熱いスープからいくよ! 空腹で湯へ突っ込ませるな!」


「助かります」


「働いてるからね」



 浴場車の扉が開く。


 仕切り布。

 踏み台。

 湯槽。

 掛け布。

 熱石箱。


 中から湯気が流れた瞬間、

 子どもの一人が泣いた。


 怖いんじゃない。



 あったかい方へ泣いた顔だ。


 強い。


 こういうのは強い。


 父親らしい男が、震える手で銀貨を出そうとした。



「それはあとでいいです」


「……払える」


「払えるなら後でまとめます」


「まとめる?」



 ミレイユが、もう机を広げていた。

 雪道の上でだ。



「はい、救援札こっち!」



 木札が並ぶ。


 吹雪夜救援札 一人 銀貨一枚

 救護寝台札 一人 銀貨一枚

 毛布札 一枚 銅貨五枚

 熱パン札 一個 銅貨五枚

 熱スープ札 一杯 銅貨五枚

 金庫車預かり札 銀貨二枚から


 その横に、少し小さく。


 子ども・怪我人・年寄り 応急分無料


 バスコが、思わず吹き出した。



「道の上で値札立てるのか」


「ここが店なので」


「……助かる」


「払えるやつからはもらいます」


「嫌な砦監だな」


「都合よく回したいだけです」



 まず、子どもと年寄り。

 次に、顔色の悪い女たち。


 浴場車の中で、湯気が増える。



 布の向こうで、

 冷え切っていた肩が少しずつ下がっていくのがわかった。


 厨房車の前には、すぐ列ができた。



 パン。

 塩肉。

 熱い豆スープ。


 たったそれだけなのに、

 受け取る手が少し震える。


 マルタは余計なことを言わない。



「食いな」



 それだけだ。


 一口食った年寄りの男が、目を閉じたまま動かなくなる。


 死んだわけじゃない。


 腹へ落ちたんだ。



 それが見てわかる。


 いい。


 とてもいい。



「寝台はあるのか」



 今度は薬草車の主が聞いてきた。


 鼻先まで布で巻いている。

 それでも寒さが抜けていない顔だ。



「あります」


「金は払う」


「下段は埋まっています」


「上段でいい」


「救護枠を二つ残してあるので、一般は二つまでです」



 男は少し驚いた顔をした。



「最初から助ける気だったのか」


「吹雪の前なので」


「……悪くない」



 その時、

 フリッツが上段寝台から顔を出した。



「救護枠はそのままでいいぞ」



 珍しく真面目な声だった。



「夜に転がり込むやつは、いつだって上段より冷えてる」


「優しいですね」


「鍋と銀が回ると、少しだけな」



 エルザも小室の扉を開けて言う。



「預かり箱の空き、半分使っていいわよ」


「いいんですか」


「困る客が死ぬより、次に金を持って乗る方が得だもの」



 商人の言い方だ。


 だが、強い。

 こういうのは本当に強い。


 寝台車の中でも、空気が変わり始める。



 暖かい席を買った客が、

 その席の中で、さらに誰かを救う側へ寄る。


 それは市場より少し高い種類の快感だ。


 ノイルは、慌ただしく札を切りながらも、ちゃんと声を出していた。



「寝台札の方、こっちです!」


「毛布は一人二枚まで!」


「荷は金庫車預かりへ!」



 若い小隊長の声は、

 雪の中でもよく通った。


 しかも、案外落ち着いている。


 行商娘がいたら、きっと今の顔を見ていたと思う。



 悪くない。


 だいぶ悪くない。


 その時だった。


 ブラムが、馬の脚を見て顔をしかめた。



「砦監」


「何です」


「こいつら、馬をわざと冷えたまま置かれてる」


「どういうことです」


「蹄油が抜かれてる。毛も梳かれてない。ここまで来る前に、誰かが"動けなくなる寸前"まで絞ってる」



 バスコが、そこでようやく顔を上げた。



「……白い牙の連中だ」


「何です」


「白牙遊撃団」



 聞き慣れない名だ。


 だが、言い方でわかる。

 良くない相手だ。



「旧冬宿小屋を燃やしたのも、あいつらだ」


「理由は」



 俺が聞くと、バスコは乾いたパンを握りつぶしかけた。



「宿頭が金を吊り上げたところへ来た」


「そのまま奪えばよかったのに、そうしなかった」


「わざわざ火をつけて、俺たちを道へ追い出した」



 その横で、薬草車の主が低く続ける。



「笑ってたよ」


「何をです」


「"温い車が来る"って」



 空気が、少しだけ冷えた。

 雪の冷たさとは違う。


 計算された嫌さだ。

 ミレイユが、帳簿を書く手を止めた。



「……こっちを待っていた?」


「たぶん、な」



 ガレスが低く笑う。



「嫌な話だ」


「都合は悪いですね」



 第三烽火砦から、また反射が来た。


 リオネだ。

 吹雪の向こうでも、ぎりぎり見える短い鏡光。


 ハルンが読む。



「北稜線に騎影」


 次の反射。


「軽騎」


 最後に一つ。


「白牙」


 当たりだ。



 いや、当たりと言うには物騒だが、

 次の敵としてはずいぶんわかりやすい。


 セレナが槍の石突きを雪へ刺した。



「見えてるな」


「ええ」


 俺は答える。


「待っていたんでしょう」


「動く風呂も、寝台も、金庫もか」


「たぶん全部です」



 その時、

 寝台車の窓の外、北稜線に細い影が見えた。


 白い。


 いや、雪じゃない。



 白い牙飾りを胸へ垂らした軽騎兵だ。


 一騎。

 二騎。

 三騎。


 遠い。


 撃てる距離じゃない。


 だが、こっちを見ている。



 暖かい車を。

 毛布の列を。

 金庫車を。


 そして、雪道の上にできた小さな市を。


 ノイルが、小さく息を呑んだ。



「砦監」


「何です」


「見てます」


「見てますね」


「次、来ますよね」


「でしょうね」



 バスコは、ようやくスープの器を置いた。



「来る」



 短く言う。



「白牙は、腹が減った隊商より、暖かい方を噛む」



 強い言葉だった。


 つまり今、この救援便は、

 吹雪の道で一番暖かくて、一番高い獲物に見えている。


 悪くない。


 敵としては最悪だが、

 商売としてはそれだけ価値がある。



 ミレイユが、もう次の札を書き始めていた。


 吹雪夜継続札

 寝台延長 一人 銀貨一枚

 金庫継続預かり 銀貨一枚

 朝湯札 銀貨一枚


 相変わらず早い。



「今ですか」


「こういう夜は、延長の方がよく売れます」


「その通りですね」


 バスコが、すぐに銀貨を二枚置いた。


「延長だ」


「寝台と荷、両方で」


「助かります」


 薬草車の主も続く。


「うちも」


 フリッツは、苦い顔のままうなずいた。


「戻るより、こっちの後ろへつく方がましだな」


「そうなります」



 雪は、もう本格的に降り始めていた。


 旧冬宿小屋の黒い柱が、

 白の中へ少しずつ沈んでいく。


 その前で、

 浴場車の湯気はまだ立っている。


 厨房車の窯も生きている。



 寝台車の窓は曇り、

 金庫車の鍵は閉まった。


 そして、その全部を見ながら、

 白牙の軽騎兵が北稜線で止まっている。


 今度は、立ち往生した隊商じゃない。



 この動く宿場そのものが、

 獲物に選ばれた。


 だったら次は――


 暖かい方から、噛みに来たやつを折ればいい。

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