第18話 銀貨と豆で、私兵をこっちへ買い取る
私兵は、忠義より先に腹で動く。
だから、白布を上げて堀前へ来たあの若い男が、
「銀貨一枚と、豆鍋一杯で、話を売りたい」
と言った時、
俺はかなり好きな匂いがした。
金と。
飢えと。
裏切りの匂いだ。
市庭門の前。
灯りを少しだけ絞った夜の中で、
若い私兵は膝をついたまま、両手を上げている。
腰の剣は、鞘ごと外して前へ置いていた。
いい。
話が早い。
「名前を」
俺が聞くと、若い男は喉を鳴らした。
「……ルッツ」
「所属は」
「レイス様の左翼私兵隊。今は柵番だ」
「腹は」
「減ってる」
「給金は」
「二か月止まってる」
そこで、ルッツは懐から細い木札を出した。
私兵給付札。
支払保留。
昨日、捕虜から出たやつと同じだ。
俺はその木札を受け取り、指で弾いた。
軽い。
腹には入らない。
「あと七人いるんだな」
「いる」
「全員、同じか」
「似たようなもんだ。薄い豆粥半分。給金は札だけ。明日も払うって言われた」
「明日で何日目だ」
「十七日」
後ろで、ノイルが小さく息を呑んだ。
「十七日……」
「嫌ですね」
俺が言う。
「かなりです」
セレナが槍を持ったまま、低く聞く。
「情報の価値は?」
「腹次第だな」
ルッツは正直だった。
嫌いじゃない。
「何が話せる」
「左翼の柵番は、俺を入れて八人。みんな腹減ってる。火壺四つ、短弓三、矢束少し。あとは槍と盾。工兵の束ね木を担がされてる」
「他には」
「今日、団長が言った。明日の朝、南面を揺さぶる。市庭門の火消しと弩矢回収を忙しくさせて、その隙に掘るって」
「ふむ」
悪くない。
かなり悪くない。
ミレイユが横で、妙に楽しそうに言う。
「補給主任」
「何です」
「銀貨八枚と豆鍋八杯で、火壺四つと槍盾八組と工兵材と内部情報ですか」
「ええ」
「安いですね」
「かなり」
「好きですよ、そういう買い方」
「知っています」
セレナが俺を見る。
「返すのか」
「返します」
「逃げるかもしれんぞ」
「逃げたら、向こうはまた腹を空かせるだけです」
「戻ってくる?」
「銀貨一枚と豆鍋一杯を、今この場で見せれば」
俺はルッツへ視線を戻した。
「まず、食え」
「……今?」
「今です。第八市庭は後払いが嫌いなので」
ノイルが、すぐ鍋を持ってくる。
湯気の立つ豆鍋だ。
塩気も肉も入っている。
ルッツは、最初は疑った顔で見ていたが、
匂いに負けたらしい。
一口すすった瞬間、
目の色が変わった。
二口。
三口。
途中で、こらえきれないみたいに息を吐く。
「……あったけえ」
「でしょう」
「肉が入ってる」
「少しだけ」
「うちのより、かなりいい」
「知っています」
そのまま食わせる。
鍋の音だけがする。
変な静けさだが、
悪くない。
こういう時、人は一番本音に近い顔をする。
食い終わったところで、
俺は銀貨を一枚、ルッツの前へ置いた。
月の下でも、ちゃんと光る。
ルッツの喉が、目に見えて動いた。
「……本当に?」
「今です」
「まだ何もしてない」
「話を持ってきた」
「それだけで?」
「かなり大きいので」
ルッツは、しばらく銀貨を見ていた。
それから、おそるおそる握る。
掌の中で銀が鳴った。
いい音だ。
「ルッツ」
「……なんだ」
「あと七人、買う」
ノイルが後ろで、ちょっと嬉しそうに息を呑む。
ミレイユは完全に笑っている。
セレナだけが、少しだけ呆れた顔をした。
「人をそういう言い方するな」
「仕事です」
「嫌な男だな」
「知っています」
俺はすぐに、薄い木札を八枚出した。
工房札より小さい。
だが、表に市庭印、裏に数字を焼くには十分だ。
【《野戦工房》――受入札、構築】
一枚。
二枚。
三枚。
木の香りがして、
小さな札が手の中へ揃う。
表には、第八市庭印。
裏には、受入一、受入二、受入三……八まで。
ルッツが目を丸くした。
「それ、何だ」
「受入札です」
俺は一枚、ルッツへ見せる。
「これを持って、武器を捨てて、堀前で膝をついた者は、一人につき銀貨一枚、豆鍋一杯、怪我の手当」
「……」
「技能持ちは別査定。火壺、矢、工具、縄、油壺持参は追加報奨あり」
「追加って」
「火壺なら銅貨二枚。矢束なら査定。工兵工具はかなり好きです」
ルッツの目が、銀貨から札へ移る。
「……ほんとに、これで?」
「第八市庭印つきです」
ミレイユが楽しそうに言う。
「商売人の前で嘘をつくと高くつきますよ」
「知らねえよ」
「今知ってください」
さらに、俺はもう一枚、少し大きい板札を作った。
受入札掲示。
それを市庭門の外、堀から見える位置へ立てさせる。
武器を捨てて来い
銀貨一枚
豆鍋一杯
怪我の手当
働き口あり
火壺・工具・情報は別払い
かなりひどい文面だ。
かなり好きだ。
ルッツが、その板を見て呟く。
「団長が見たら、怒るぞ」
「見せたいので」
「嫌な男だな」
「知っています」
セレナが最後に言う。
「一つだけだ。裏切ったら、次はない」
「……わかってる」
ルッツは受入札を八枚握りしめ、
もう一度だけ銀貨を見て、
それから闇の向こうへ戻っていった。
ノイルが、見送りながら小声で言う。
「補給主任」
「何です」
「本当に戻ってきますか」
「腹次第です」
「便利ですね、その理屈」
「だいたい当たるので」
夜明け前。
西の尾根の焚き火が、まだ赤い。
市庭門の上には見張りが立ち、
連弩架台にも人がついている。
だが、俺たちは全員、堀前の暗がりを見ていた。
ルッツが来るとしたら、この時間だ。
来なければ、それまで。
来たら、次へ進む。
好きだ。
こういう、銀貨で動く勝負は。
最初に見えたのは、白布だった。
一本。
二本。
三本。
そして、暗がりの中から、人影が八つ。
「来た」
ノイルが息を呑む。
ルッツが先頭だ。
後ろに、痩せた私兵が七人。
全員、武器を持っている。
だが、抜いてはいない。
束ねて背負っているだけだ。
さらに一人が、火壺箱を抱えていた。
いい。
かなりいい。
「止まれ!」
セレナが声を張る。
八人は堀の手前で止まり、
一人ずつ、武器を地面へ置いた。
槍。
剣。
短弓。
盾。
矢束。
火壺箱。
その時だ。
西尾根の向こうで、怒鳴り声が響いた。
「逃亡兵だ! 撃て!」
矢が飛んだ。
一本。
二本。
三本。
ルッツの後ろを歩いていた男が、
背中へ一本食らって倒れる。
ノイルが顔を青くした。
「補給主任!」
「副司令!」
「ああ!」
セレナが即座に槍を振る。
「盾板! 門前へ出せ! 連弩、上段だけ撃て! 逃亡兵には当てるな!」
俺は市庭門の脇に立てていた予備の盾板へ手をついた。
【《野戦工房》――遮蔽板、構築】
盾板が二枚、横へ開く。
脚が生え、
即席の板壁になる。
「ノイル! ルッツを通せ! ガレス、倒れたやつを引け!」
「おう!」
ガレスが笑いながら飛び出した。
「敵の腹減りまで拾うのかよ!」
「銀貨一枚払うので!」
「違いねえ!」
矢がさらに飛ぶ。
だが、遮蔽板が受ける。
ルッツたちは白布を振りながら、板壁の影へ駆け込んだ。
背中を撃たれた男だけが遅れる。
俺は堀前まで走り、
そいつの襟首を掴んで引いた。
軽い。
腹が減ってる身体は、嫌なほど軽い。
後ろから矢が一本飛んできたが、
セレナの槍が叩き落とした。
「走れ!」
「は、はい!」
八人全員が市庭門の内側へ転がり込む。
その瞬間、
ノイルが門を閉めた。
どん、と重い音。
息が一気に戻る。
「負傷一!」
イネスがすでに走ってきていた。
「深くはない! 刺さった場所がまだいい!」
さすがだ。
倒れた男をそのまま医務室へ回す。
残り七人は、その場で膝をついた。
ルッツも一緒に頭を下げる。
「武器、全部置いた」
「見ればわかります」
俺は受入札を一枚ずつ回収し、
代わりに、名簿を開いた。
受入名簿。
名前。
元所属。
持参品。
技能。
受領銀貨。
豆鍋受領。
備考。
紙は強い。
かなり強い。
「名前を」
一人目。
「ルッツ」
「元所属」
「左翼私兵」
「持参品」
「剣一、盾一」
二人目。
「マルク」
「火壺持ち」
「持参品」
「火壺箱一」
三人目。
「ベルン」
「工兵下働き」
「持参品」
「掘削具二」
四人目。
「ヘルム」
「車輪油差し」
「持参品」
「油壺一、工具袋」
いい。
かなりいい。
ノイルが、我慢しきれず小声で言う。
「補給主任」
「何です」
「めっちゃ当たりですね」
「ええ」
「敵から人来るの、なんか変な感じします」
「こっちのほうが得だと判断しただけです」
「すごいな、第八市庭」
「かなり」
支払いは、その場でやる。
銀貨一枚ずつ。
さらに、火壺箱持参には銅貨八枚。
掘削具二つには銅貨四枚。
工具袋は査定後。
油壺も別払い。
ルッツたちの目が、みるみる変わる。
痩せた、追い詰められた目じゃない。
驚いて、まだ信じきれない目だ。
「……本当に、今くれるのか」
ヘルムが呟く。
「今です」
「昨日まで、札しかもらえなかった」
「ここでは銀が先です」
「なんで」
「そのほうが働くからです」
ミレイユがすぐに口を挟む。
「一銀貨で、人一人と道具と恨みがついてくるなら、かなり安い買い物です」
「そういう言い方するなよ……」
ルッツが引いた顔で言う。
「でも合ってます」
俺が答える。
「かなり」
豆鍋も出す。
八椀。
湯気が立つ。
さっきまで敵だった男たちが、
第八市庭の鍋を前にして、
ほとんど泣きそうな顔で椀を抱えた。
いい。
かなり効いている。
マルタが鍋杓子を振って怒鳴る。
「食う前に手を洗いな! ここは市庭だよ!」
「……敵にもですか?」
ルッツが聞く。
「今は客だろ!」
「ちがうよ」
ノイルが得意げに言う。
「もう買われた側です」
「その説明もどうなんだ」
ガレスが笑う。
市庭が笑いに包まれる。
その時、
西尾根のほうから角笛が鳴った。
怒っている音だ。
レイスは見ている。
自分の私兵が、
こっちの鍋を食い、
こっちの銀を受け取り、
こっちの名簿へ名前を書いているところを。
最高だ。
かなり最高だ。
そして、これで終わらない。
昼過ぎ。
受入札掲示を見たのか、
また白布が一つ、堀前へ来た。
今度は二人。
さらに夕方には、三人。
一日で、合計十三人。
火壺二箱。
掘削具五。
槍盾多数。
短弓四。
工具袋三。
銀貨は出た。
だが、それ以上に、
人と荷がこっちへ流れた。
ベリクは掘削具を見て目を細める。
「これだけあれば、第二柵の土嚢が倍で積める」
ロドは工具袋を嬉しそうに開ける。
「この油差し、上等だ。盾車の脚までいじれる」
マルタは鍋を足す。
「豆、もっと煮るよ。今日は回る」
ミレイユは帳簿を弾いて言った。
「補給主任」
「何です」
「銀貨十三枚と鍋十三杯で、火壺と工具と工兵手と私兵十三人。まだ黒字です」
「かなり」
「好きです」
「知っています」
日が傾く頃、
最後に来た三人の中に、少し毛色の違う男がいた。
革鎧は同じだが、
腰に細い帳面袋。
手が兵より、紙慣れしている。
「名前を」
「オルフ」
「何係だ」
「……給付走り」
「つまり」
「支払保留札を配ってた」
いい。
かなりいい。
オルフは、豆鍋より先に、
帳面袋から一枚の汚れた紙を出した。
「銀貨二枚で、これも売る」
「高いですね」
「団長の明日の予定だ」
「……買います」
紙を受け取る。
短いが、十分だった。
明朝、第一刻。
南面総攻撃。
未払い私兵を先行。
束ね木投入後、盾車二、火壺隊、弩兵押上。
第二波に私兵精鋭。
団長レイス、自ら前進確認。
ノイルが横から覗き込み、顔を引きつらせる。
「未払い私兵を先行って……」
「前に出して、こっちの弩矢と火を食わせる気ですね」
俺が答える。
「死ななければラッキー。死んでも腹減りが減る」
「最低ですね」
ミレイユが静かに言う。
「かなり」
オルフは、豆鍋の椀を抱えたまま言った。
「団長は怒ってる。逃げたやつが増えたから、明日は一気に潰すって」
「位置は」
「正面だ。市庭門。火を入れて、門を壊して、そのまま市場を踏み潰す」
セレナが槍の石突きを鳴らした。
「わかりやすい」
「ええ」
俺はその紙を、昨日奪った南庭破却図の上へ重ねた。
工程。
時刻。
波状。
火壺。
盾車。
未払い私兵先行。
全部が、向こうの本音だ。
「副司令」
「何だ」
「明日は市場の真ん中です」
「だろうな」
「かなり良いです」
「嫌な補給官だ」
「知っています」
ガレスが笑う。
「で、こいつらはどうする」
「働いてもらいます」
俺は受入名簿を閉じた。
「今夜のうちに、未払い私兵組から道がわかるやつを分ける。火壺持ちは火消し班の逆側へ。工兵下働きは束ね木の積み方を教えろ。車輪油差しは盾車の脚の癖を吐いてください」
「もう完全にこっちの戦力だな」
「銀貨を払ったので」
「嫌な理屈だ」
「好きでしょう」
「否定しない」
最後に、俺は市庭門の前へ出た。
西の尾根には、まだ狼旗が揺れている。
だがその下で、
向こうの焚き火は薄い。
こっちは違う。
鍋がある。
灯りがある。
銀貨が動く。
名簿が増える。
そして、敵の私兵まで寄ってくる。
俺は受入札掲示の横に、
新しい木札を一枚だけ掛けた。
明朝総攻撃
市庭門前手当
前列 銀貨一枚
火消し追加 銅貨五枚
盾車破壊 追加銀貨あり
ノイルがそれを見て、
半分引き、半分笑った。
「補給主任」
「何です」
「明日の朝、めっちゃ稼げそうですね」
「ええ」
「いや、怖いですよ?」
「知っています」
「でも、ちょっと楽しみです」
「かなり正しいです」
市庭門の上で、
第八市庭旗が夜風に鳴る。
レイスは明日の朝、
ここを踏み潰すつもりで来る。
だが、向こうの腹減りはこっちが買った。
工程表も来た。
盾車の癖も来た。
火壺と工具まで来た。
十分だ。
かなり十分だ。
「全員聞け!」
俺は市庭へ向かって声を張った。
兵が振り向く。
商人が手を止める。
職人が槌を下ろす。
今さっき銀貨で買われた元私兵たちまで、顔を上げた。
「明日の朝、レイスが市庭門へ来る! だったらこっちは、市場の真ん中で潰す!」
ざわめきのあと、
槍の石突きと鍋杓子と車輪枠が、いっせいに鳴った。
いい音だ。
銀貨と豆で買ったのは、
ただの腹減りじゃない。
明日、
レイス本人を市庭の真ん中で潰すための、
人と火と情報だ。
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