姥捨て、といえば深沢七郎「楢山節考」である。
飢饉の時に口減らし目的で山に老人や子を捨てていた。実際にあったことだから、そう伝わっているのだろう。
その姥捨てを「乳母」に変えた着眼点がよい。
「女井戸」の時もそうだったが、言葉遊びがお好きなのだ。
猫小路葵さんは巧い。
「巧さ」とは、凝った文章や豊富な語彙を操れることだけを意味しない。
ひとつひとつの文章はむしろ簡素なほどだ。
しかし、さらりと書いているようでいて、しっかり計算しておられる。
計算していると云うと、「計算高い」という言葉のもつマイナス・イメージに引きずられて何だかいやらしいが、最後の一行に向かって必要なものをしっかり編んで書かれている、そんな賛辞である。
巧い人は出だしの一行から、もう巧い。
読者は「タキ」という古めかしい名と、枝を折るという行為によって、すうっと山中へ連れて行かれてしまう。
このお話だが、下手な人が書くと、だらだらと平凡に落ちるか、または「描写力をくらえ」とばかりに細部をただいたずらに増やして、「重たいホラーでござい」そんな仕上がりになったと思うのだ。
しかし猫小路さんはそこをきれいに避けて、なおかつ二人の女の哀れと情念を過不足なく盛り込んで、小道具にもしっかり意味を持たせた上で、一枚のうつくしい浴衣を縫い上げてから、筆をおいている。
次々と魅力的な作品を見せて下さるが、おそらく冒頭から最後の一文字まで、「この物語に必要なものが自動的に見えている」方なのだろう。
これは猫小路さんをはじめ、「巧いなぁ」と思う書き手さんには共通してみえる特徴で、そこに磨かれた文章力と強い物語性、さらには、SF的発想と故意に羽目を外す遊び心までついているときては、ファンにはたまらない。
なによりも、ご本人が書くこと、物語ることを、心から存分に愉しんでおられるのが一番いい。
お話を作る時に大切なことは、ルールではなく、物語世界へと深くもぐり、泳ぐ、力強い翼で、羽根がのびのびしていればいるほど、遠く、高く、どこまでも飛べる。
こうして女の池の底にまで。