ヘタレ王子は誰からも侮られる

@kuzuka

第1話

「ヘタレ王子は誰からも侮られる」



 マルセル王国は、大陸のほぼ中央に位置する古い歴史を持つ国だ。

 その王城の中にあるこの部屋は、この国の第3王子であるカリル王子の居室兼執務室である。春の穏やかな日差しが窓から射し込むその中で、カリル王子は城内の各部署から回ってきている大量の書類を前に、先ほどからうんうんと、うなり続けていた。

 彼は今年16歳。だがその年齢にしては幼く見える。大人用のサイズの執務机が、まだ大きすぎるようだ。子供が頑張って手足を伸ばしているようで、ちょっと微笑ましくも見える。普段は無邪気さと人懐っこさと知的好奇心とを、その澄んだ黒い瞳に宿しているのだが、いまは苦手な書類仕事の真っ最中なので、眉を寄せて、むずかしい顔をしていた。

「う~ん。ここはやっぱり、こうした方がいいんだけど、ほかとの兼ね合いが難しくなるんだよなあ。う~ん、う~ん」

 裁かなければいけない問題はまだまだあるというのに、肝心の王子の処理スピードは、まったくと言っていいほど上がらない。

 あちらを立てればこちらが立たずといった事案がほとんどなのだが、王子は性格上どちらかに泣いてもらうような決定を下すことができないのだ。誰もが納得がいく形で物事を進めていきたいなどという、ちょっと高すぎる理想を追い求めた結果、溜まった書類の山は、日に日にうず高く積み上げられていき、処理待ちの各部署からは、早くしろというクレームが次々届くという本末転倒な状態に陥っているのである。

 そんなカリル王子の側には、彼の秘書兼侍女であるティアナが控えている。

 年齢はカリル王子と同じ16歳。しかし彼女の方は年相応な外見なので、童顔でお子様体型気味な王子と並ぶと、姉と弟のようにも見える。少し背中にかかる長さの藍色がかった黒髪が彼女の整った顔立ちと透き通るような白い肌に良く映えていた。そしてその佇まいは、王族に奉仕する侍女にふさわしい気品と落ち着きを備えている‥‥‥ように見えるかもしれない。

だがそれはあくまで見た目だけの話であって、内心は決して穏やかではなかった。はっきりいうとかなり苛立っている。しばらく前からカリル王子のペンを持つ右手が、まったく動いていないせいだ。

「王子、いい加減にしてください。書類一枚にどれだけ時間をかければ気が済むんですか」

 これ以上待ってはいられないと声をかける。

「いくらうなったって、そんな簡単に都合の良い名案なんて出てきませんよ、覚悟を決めて決裁しちゃってください。うっとうしい」

 その言葉は辛辣そのものだ。主人に対する敬意など微塵も感じられない。

「いやティアナ。そうは言うけど、もっといい解決策が見つかるかもしれないでしょ。僕としては、もうちょっと時間をかけて‥‥」

 などとカリルか反論しかけたところで、我慢の限界に達したティアナがついにキレた。

「時間をかけて?そんな余裕がどこにあるんですか!毎日毎日、あっちこっちから怒鳴られたり嫌味を言われたりするのは私なんですよ?!いいから、さっさと片付けろ、このグズ!!」

「う、うわ~~~~ん!」

 自分の侍女に怒鳴られてカリルは泣き出してしまう。知らない人が見たら眼を丸くするかもしれないが、この二人のやり取りは大体いつもこんなものである。

「泣くヒマがあったら手を動かしてください。時間は待ってはくれないんですよ」

「わ、わかったよお~~~。わかったから、そんなに怒らないで」

まるでムチでシバかれる奴隷のようにカリルは慌てて書類を片付け始める。

 積み上げられた書類が、ようやく少しずつではあるが減り始めた。だがその間も厳しい視線は緩められることはない。ちょっとでも手を止めたら、ただじゃおかないとその目が語っている。もはやカリルは、彼女の眼力によって動く機械人形にでもなった気分で、大急ぎで書類を片付けていくしかないのだった。


  ティアナの言い分


 ‥‥ふう、やっとのことで動きだしてくれた。まったく毎度毎度、毎日毎日、このポンコツの怠け者を働かせるのは本当に手間がかかると、カリル王子の秘書兼侍女であるティアナは、内心のウンザリ感をなんとか隠しながら思っていた。

 しかもこれで終わりではない。監視の目をすこしでも緩めると、すぐにまたペースが落ちてしまうので、私は王子の横顔を睨みつけるのを止めることができないのだ。毎日こんなことをしていたら顔面の筋肉がどうにかなっていまいそうだ。まだ若いのに目許にシワでもできたらどうしてくれるのか。

 これならいっそのこと王子がやった体にして、全部私が処理してしまった方がはるかに楽なんじゃないかと以前は思ったりもしたものだ。きっと王子も咎めないどころか、全面的に不正に加担してくれるだろう。

だが‥‥‥と私は王子の手元を見つめながら思う。

 こんな短時間で問題を処理するのは不本意だと言いながら、カリル王子の決定はどれも間違ってはいない‥‥ように私には見える。

 もともと八方美人で誰にでもいい顔をしたがる性格のせいなのか、王子の政務における基本方針は、不満や摩擦が起こらないようにすることを第一にしている。多少の不経済や、ごくわずかな汚職なら基本的に見逃してしまう。しかしそれでいながら腐敗が危険なレベルになるのを食い止め、物事が全体として良い方向に進むように、さり気なく仕向けているように見えるのだ。私はもちろん正式な官僚としての教育は受けていないので断言はできないが、なかなか上手いやり方のように思える。

 この軟弱で、情けなくて、すぐに泣き出す、なんの取り柄もなさそうな少年に黙って任せておいた方が良いのではないかと思えてくるのだ。

 そういう訳で、私は今日もカリル王子のサポート役に徹している。具体的には、サボり魔の王子を睨み据え、時には叱りつけて働かせるという、まったくもって気の休まらない仕事だ。

だが‥‥‥王子には内緒だが、私は自ら熱望してこの仕事に就かせてもらったのだ。文句など言っては罰が当たる。


子供の頃、まったくの偶然だが、私は王子とほんのわずかな時間、一緒に遊んだことがあるのだ。遊んだといっても、そのときの私は野山で薬草を探すという仕事の途中で、そこで出会ったおかしな子供に懐かれて困ったという認識だったのを覚えている。

いまでもそうだが、その当時から王子は泣き虫だった。だがその弱虫で、ちょっと指先を切ったくらいでピーピー泣くような子が、そのあと私が窮地に陥った時には、精一杯の毅然とした態度で、自らの身を挺してまで私を守ってくれたのだ。

 その後、実はその子がこの国の王子様だったと知って、それきり会えることもなかったのだが、それからさらに数年後、私はとんでもないことを聞かされてしまう。私が宮廷の中枢で働く侍女になれるチャンスがあるというのだ。希望すれば侍女となるための教育を受けられて、その後、適性や忠誠心の審査に合格すれば、正式に高貴な方たちにお仕えする侍女の身分が手に入るという。そしてこれがもっとも重要な点だが、自分から配属先の希望を出してもいいらしいのだ。もちろん競争率の高い人気のポストはまず無理らしいのだが、第3王子様はそこまでの人気はなく、採用される可能性がゼロではないという。

 私の気持ちは一瞬で決まっていた。長い間、胸に秘めていた気持ちに火がついた。もう一度あの子に会いたいと、そう強く思ったのだ。

 その気持ちに、自らの力で人生を切り開いてやるといった野心的な物も含まれていたのかもしれない。私はすぐさま申し出ると、それこそ寝食を忘れるくらいに、行儀作法や、日々のお世話や、いざという時のための護衛の心得などといった様々な受講内容に猛烈な集中力で打ち込んでいった。他の候補者達に怖れを抱かせるまでやってやると思っていた。そしてついに私の頑張りが指導役に認められることとなったのだ。私が第3王子様付きの侍女にと希望を伝えると、あなたの成績なら、もっと競争率の高いポストも狙えると言われてしまった。だが私の心は1ミリも揺らぐことはなかった。絶対に、なにがなんでもカリル王子様付きにしてくださいとお願いし続けて、ついに私の希望は叶えられた。

 幼い頃、父に続き母まで失い、以後は王宮の下働きをしてなんとか食べさせてもらえる境遇だった私にとって、それは人生の最高のクライマックスだったのかもしれない。


 初出勤の日、耐え難い緊張と期待に、心臓の鼓動がかつてないほどに高まるのを感じながら私は城内の廊下を歩き、カリル王子の居室へと向かっていた。

いよいよだ。いよいよ‥‥‥ついに再会の日がやってきたのだ。

歩きながら、これまで何度も想像、というか、もはや妄想と呼ぶべき物の中で繰り返されてきた再会の場面が、勝手に脳内に再現されていく。気分が高揚しているせいで、一度始まってしまうと、もう自分でも止められない。


‥‥慎ましやかに自己紹介する私。成長して凛々しくなった王子は、私を見て怪訝な表情を浮かべる「もう一度名前を言ってくれるかな?」「よく顔を見せて」「君はひょっとしてあの時の‥‥?」「ああ!やっぱりそうだ!ずっとずっと君に会いたかったんだ!まさかこんな日が来るなんて!」感激のあまり涙を流す王子。私の両手を強く握って、思いの丈をぶつけてくれる「君に会えなくなってから、ずっと心の中に大きな穴が空いたようだったんだ。でも再会できてこんなに嬉しいことはないよ」「君が側にいてくれるのなら、もう他には何もいらない。一生妻は娶らない。君だけを大切にすると誓うよ」


‥‥‥‥‥少々暴走してしまったのは、我ながら自覚している。でも仕方がないのだ。教育期間中は、毎晩ベッドに入って眠りにつくまでのわずかな間に、この場面を思い浮かべて妄想を逞しくするのが日課だったのだから。

最初は控えめなストーリーで、王子様も泣いてはいなかった。だが徐々により感動的、かつ情熱的に脚色を加えられていくことになったのだ。言ってみれば、それが日々を頑張るための私の心の糧になっていたのだから、どうか大目に見てほしい。

それはともかく‥‥‥私はついにカリル王子との数年越しの再会を果たしたのだ。


「失礼いたします。ティアナと申します。本日よりカリル殿下のお世話をさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします」

 カリル王子の居室兼執務室に入り、深々と頭を下げる。

「うん聞いているよ。ティアナだね。こちらこそよろしく」

 何年ぶりかで、ようやく会えたカリル王子は昔の面影をそのまま残してくれていた。声だってあの頃のままだ。私は懐かしさで思わず涙腺が緩みそうになるのを必死でこらえていた。

「あ、僕のことは王子って呼んでくれると嬉しいかな。殿下って呼ばれるのは堅苦しい感じがして、あまり好きじゃないんだ」

「かしこまりました。では‥‥王子‥‥‥と、呼ばせていただきます」

「うん、そうして‥‥ふふ、ティアナかあ。いい名前だね」

「あ、ありがとうございます」

 ぎこちなく返事をしながら、だが私は、とてつもない違和感に襲われていた。

 あれ?‥‥おかしい‥‥いまになってようやく気がついたけれど、なんだか想定とは違うぞ‥‥‥‥‥‥‥いくらなんでも面影を残しすぎじゃないかな?

私の想像では王子様はもうちょっと背が高くて、顔も精悍な若者といった感じで、キリリと引き締まっているはずだったのだが‥‥‥あんまり背が高くない、というかお子様体型に近いとさえ言えるのじゃないだろうか?顔だってかなり子供っぽさを残しているし。

思い出の中の彼の面影がそのまま残っているのは、それはそれで、もちろん嬉しくはあるのだけれど‥‥‥いや‥‥これは仕方がない。成長のスピードは人それぞれだ。私が勝手に想像の中で美化しすぎていたのだろう。だが見た目はともかく、なんだか雰囲気まで頼りなさが感じられるというか‥‥‥以前から、ちらほらと耳に入ってきてはいたが、あえて私の中で無視をしていた噂が脳裏をかすめる‥‥‥第3王子様はものすごいヘタレで、そのあまりの軟弱っぷりに王様の不興を買ってしまい、後継者争いから完全に脱落してしまったというのだ。侍女候補の競争率が低かったのもそれが原因だと‥‥。

というか、それはこの際どうでもいい。どうでもよくはないが、いったん置いておこう。

一番の問題は‥‥‥‥ひょっとして、私のことを覚えていないんじゃないだろうか‥‥?

 いや‥‥‥そんなはずはない。あれから何年もたったとはいえ、あの日のことは私だけじゃなくて王子様にとっても忘れられない思い出のはず。自分の自惚れではなく、そう断言できる‥‥‥‥と思うのだが‥‥‥‥‥あれえ?

「あれ?ティアナ、どうかした?」

「い、いえ殿下、いえ王子、なんでもありません」

 いけない。初日から呆けてしまうなど、あってはならない。集中しなくては。

「仕事内容の引き継ぎは、受けているんだよね?」

「はい王子。問題はありませんので、なんなりとお申し付け下さい」

「ありがとう。じゃあ、とりあえずお茶を淹れてもらおうかな。そうだ、ティアナの分もね。せっかくだから、いろいろお話をしようよ。ティアナはどこで生まれて、どんな暮らしをしていたのかとか、そんな話が聞きたいな」

「わ、私の分もですか?‥‥かしこまりました。では少々お待ち下さい」

 ‥‥‥‥間違いない‥‥‥‥忘れてるぞ、こいつ‥‥‥。

そんなことってあるだろうか?一体この人の記憶力はどうなっているのか?


 こうして私と王子様との感動の再会シーンは、あっさりとお蔵入りとなってしまった。その後、王子に請われるまま身の上話をしたが、かつて一緒に遊んだことなどはあえて話さなかった。ようやく念願が叶い、夢と希望に満ち溢れた光り輝くような一日になるはずだったのに‥‥‥‥‥いや、念願が叶ったのには間違いはないのだが、なんとも言えない心の引っかかりをどうすることもできないまま、私の侍女としての生活は幕を開けたのだった。


   カリルの言い訳


「ふう、だいぶ片付いたなあ」

 マルセル王国の第3王子であるカリルは、執務席で半強制的に働かされながら、誰にともなくそうつぶやいた。

 だがそれは嘘だ。本当はティアナに聞かせたくて言ったのだ。

積み上げられた書類に向い、僕としてはかなりのハイペースで作業を続けて一時間ほど。そろそろ一息入れたくなってきた。だが、そんな希望が叶えられる気配はどこにも見当たらないようだ。情け容赦ない言葉が返ってくる。

「何がだいぶ、ですか。全体の量を考えてください。ちっとも減っていませんよ。もっと頑張りなさい、さあ早く」

「ひ、ひどい!こんなに頑張ってるのに!オニ!悪魔!」

「そもそも自分で仕事を溜め込むのがいけないんでしょう。自業自得です」

 まったく取りつく島もない。いつものことだが、どうあがいたところでティアナの監視の目がある限り、僕に安息の時間は訪れないのだ。

そういえば、ティアナが僕のお付きの侍女になってから、どのくらいが経つのだろうか?

始めのうちは控えめだった彼女だが、いつのまにか僕の扱い方を間違った方法で身につけてしまっていた‥‥とにかく厳しいのだ。

だけど執務の時以外には、むしろ愛情深く僕に接してくれる。

日々の身の回りのお世話は、本当に献身的にしてくれるし、毎日、綺麗な彼女がそばにいてくれるのが幸せで、いつまでも一緒にいてほしいと思えるのだ。

だが、ひとたび執務の時間になると、それが一変する。その時の僕たちの関係は、あたかも看守と囚人のようだ。もちろん看守はティアナで、哀れな囚人が僕だ。

そんな、ティアナに知られたら間違いなく怒られるであろうことを考えながら手を動かしていると、突然部屋の中に、中年男のガサツでバカでかい声が響き渡った。


「カリル殿下~~~~~!!!」

「わわわわわ?!なに、なに、なに?!」

執務中は部屋の入り口の扉はいつも開け放たれている。見るとそこには立派な体格の、いかつい中年男性が立ちはだかっていた。肩を怒らして全身から威圧的な怒りのオーラをまき散らしている。

「カリル殿下!今よろしいでしょうか?お話があります!!」

 そう言って返事も聞かずに、ずかずかと執務室のなかに入ってくる。

この人は近衛騎士団の第2大隊の隊長のカルバンという人だ。でも僕としては、あんまり顔を合わせたくない相手である。できることなら来ないでほしい。

「殿下!!一体これは、どういうことですかな?!」

「カルバン隊長!急に入ってこないでよ。びっくりするじゃないか」

「そんなのは、どうでもいいことです!それよりこの件の説明をしていただきたい!」

僕が口から心臓が飛び出るほどびっくりしているというのに、どうでもいいと言われてしまった。仕方なく目の前に突きつけられた書類に目を向ける。

「え~~と、なになに?‥‥う~~ん、よくわからないなあ」

「惚けても無駄ですぞ!!」

「わひゃあ!?」

「経理部門から、これは経費として認められないと言われましたぞ!!カリル殿下の決裁であると!まったくもって納得がいきません!吾輩は断固として抗議いたします!認めていただくまでここを動きませんぞ!!」

「‥‥いや、でもさあ。これは無理だよ、カルバン隊長。隊の慰労で城下の酒場を貸し切るのは構わないんだけど、一晩で300リーベルは遣いすぎだよ。ムチャクチャだよ。そもそも特別な理由もなく、飲食費を経費で申請してもらったら困るんだよ」

 たぶん聞き分けてはくれないだろうなと思いながら、僕は不許可の理由を説明する。

「しかし、先月の第4大隊の慰労会の費用は、経費で支払われたそうではないですか!」

「あれは当然だよ。第4大隊はラモン峠の山賊討伐に参加して、ちゃんと功績も上げているんだから」

「功績なら我々も上げていますぞ!」

「え、どんな?‥‥ていうか、そもそも城下から一歩も出てないよね」

「それです!」

「‥‥それって?」

「我々が城に詰めていることが、何よりの功績なのです!それによって他国は王国を侮ることもなく、城下の裏社会の者どもは大人しく鳴りを潜め、そして陛下の身辺には刺客の接近を許さないのです!王国が日々安穏と暮らしていられるのは、すべて我々のおかげなのです!そのことを殿下は分かっておられない!まったく嘆かわしいことですぞ!!」

「いや‥‥それはそうなんだけどさあ。でも、それって当たり前のことだよね?そもそも、そのために毎月安くないお給料が支払われているんだから‥‥」

 と僕がそこまで言ったところで、カルバン隊長の怒りが爆発した。それまでも充分、大きな声で威圧的に話していたのだけど、もうそんなものじゃない。まるでライオンが獲物に襲いかかるかのような勢いで、執務机の上にのしかかるようにして怒鳴りつけてきた。

「当たり前とはなんですか!!!」

「うわああああ?!!」

あまりの勢いに、僕は椅子から転げ落ちかける。

「我々は、いざという時には王国を、ひいては陛下や殿下たちを、自らの身を盾にしてお守りせんとしておるのですぞ!!そのために日夜厳しい訓練に励み、弛むことなく警護の任に当たっておるのです!!」

 カルバン隊長は、すっかり怯えて机の下に半分隠れかかっている僕に覆いかぶさるようにして、上からつばを撒き散らしながら喚き立てる。

「それをなんですと?!当たり前?当たり前ですと?!ふざけるのも大概にして頂きたい!」

 もう言っていることがメチャクチャである。一見、正論っぽいことを言ってはいるが、その内実は、ただ自分の主張を大声で言ってゴリ押ししようとしているだけなのだ。しかし大声は武器である。それも、みんなからヘタレと呼ばれる僕のような人間にとっては特に。

だがそれでも僕は、か細い勇気を振り絞ってなんとか反論を試みる。

「ででで、でも、だからってなんでも経費で落とせるわけじゃないんだよ。これは自腹で、お、お、お、お願いします!」

「だから、それが納得いかないと何度も言っとるんでしょうが!!」

 しかしカルバン隊長には、僕の反論など物の数ではないようだ。

「代金は当日店に支払っています!つまりその分、大隊の金庫から資金が減っているのです!このままでは、いずれ大隊の運営に支障をきたすでしょう。殿下はそれでも構わないと仰るのですか!!」

「‥‥カルバン様。もう少し、小さな声でお願いします。殿下が怯えておりますので」

 見かねたティアナが、横から助け舟を出してくれる。

「だまらっしゃい!!吾輩はいま、国家の大事を話しとるんだ!侍女なんぞの出る幕じゃないわい!!」

 しかし、この無礼すぎる男は歯牙にもかけない。そしてだんだん僕は、その勢いに負けて、言い分を聞かざるを得なくなってくる。いつものパターンだ。

「わ、わかったよお。経費として認めます。で、でも300リーベルは多すぎるから、せめて100にしてよ」

「なに言っとるんですか!なんで300かかったものが100になるんですか!おかしいでしょう?!」

「ちっともおかしくないよ。300もかかる方がおかしいんだよ」

「おかしくありません!!300です!!」

「せ、せめて150で‥‥」

「300リーベルです!!ビタ一文譲れません!!!」

「うううう~~‥‥わ、わかりました‥‥300リーベルで経費として認めます‥‥」

僕がそう言った瞬間のカルバン隊長の表情の変わり具合といったら凄かった。直前まで顔面を朱に染めて怒り狂っていたのに、いまは喜色満面という表現がぴったりである。大きく膨らませた鼻の穴から、むふ~~と満足げな息を吐いて、僕をニヤニヤと見下ろしてくる。

「いや~~~~わかっていただけましたか!きっとカリル殿下ならそう言って頂けると信じていましたぞ!!まっ、吾輩も少しばかり言葉が過ぎてしまったことは謝罪いたしましょう。しかし、それもすべて王国のことを思えばこそですから、どうか水に流していただきたい!」

ニコニコしてそう言うと、もはや用はないとばかりに踵を返す。

「あとで隊の者を経理部に行かせますから、夕刻までには必ず金を受け取れるように手配をお願いします!ではこれにて失礼。訓練を再開せねばなりませんからな。いやあ~~~忙しい!ですがご安心なされよ!この吾輩がいるかぎりマルセル王国は安泰ですぞ!‥‥ぐふっぐふっぐふっ‥‥‥うわ~~はっはっはっ!!!」

 カルバン隊長は、大きな笑い声を廊下に響かせながら、意気揚々と去っていった。


  ティアナの怒り


そして執務室には、目に涙を浮かべるカリル王子が残された‥‥いつもの光景である。

「う、う、う、うわ~~~~ん!!!」

 恥も外聞もなく、泣き叫ぶ王子。

「ひ、ひどいよ。あんまりだ。こんな横暴許されないよ!」

 もっともである。こんなことが、まかり通っているのが、おかしいのだ。

あのカルバンという名のヒゲの濃い中年男は、もともとこの国の生まれではないが、かつて他国同士の戦争で名を揚げた、いわゆる「歴戦の勇士」である。

どんな活躍をしたのかは知らないが、その経歴を評価されてマルセル王国に高待遇で迎えられ、そして日頃、自分の武勇伝を声高に喧伝しながら、城内で大きな顔をしているのだ。

 そしてどういうわけか、あの無作法者が来るたびに、こうして王子が一方的にいたぶられることになるのだ。はっきり言って見てはいられない。あの汚いつばを撒き散らすやかましい口に、トイレ掃除の雑巾をねじこんで黙らせてやりたくなる。何もできない自分が歯がゆくて、両手の指がワキワキと動き出しそうになるのを、いつもじっと我慢しているのだ。

 それどころか城内には、あんな奴等がほかにもいる。

彼らのワガママとしかいいようのない陳情を、ほぼ一手に王子が引き受けているのだが、どうしてそうなったのかというと、単純に面倒ごとを押しつけられたからである。 

 彼らが大きな顔をしていられるのは、王様やカリル王子の兄王子たちの、後ろ盾があるからだ。そんな彼らと正面きって対決しようなどという気概のある文官は、残念ながらいない。

しかしだからといって、何でもザルのように要求を通すわけにはいかないので誰かが矢面に立たなければいけないわけだが、そこでスケープゴートに選ばれたのが、王位継承の可能性が低く、有力な支援者もいないカリル王子というわけである。

 正直、不条理だと思う。なぜ王子がこんな目に遭わなければならないのか。おまけに、王子に厄介を押しつけた文官どもは、王子が不甲斐ないと、ことあるごとになじるのだ。どいつもこいつも、全員深い穴の中に叩き落として、上から熱した油をぶちまけてやりたい。

ところが肝心の当の王子はというと、あまり悔しいとか、そういう感情とは無縁なようで、ひとしきり泣きわめいた後には、割と、のほほんとしているように見えるのだ。いったい、どういう頭の構造をしているのか、こちらが心配になるくらいなのだが‥‥。

「もう、今度という今度は許さないよ!カルバン隊長に、絶対にギャフンと言わせてやる!」

「え?」

「ティアナ、協力してくれる?」

「も、もちろん!もちろん協力しますとも!王子がそう言ってくれるのをずっと待っていたんですから!」

 今日はいつもとは違うらしい。どういう心境の変化なのかは分からないが、この機会を逃すわけにはいかない。あの憎っくきヒゲ野郎に、これまでの恨みをお返ししてやる。

「じゃあね。今夜、お城を抜け出そう!」

「はい?」

「あ、ごめん、ちょっと話が先走っちゃったかも‥‥‥‥やっぱり順番に話すね」

 王子はそう言うと、少し間をおいて手探りするように話し始めた。

「ねえティアナ‥‥僕の悪いところって、どんなところなんだろう?」

「悪い所ですか?夜ふかししたあげく朝なかなか起きてこない所とか、すぐ仕事をサボろうとする所とか、野菜が苦手な所とか、弱虫で泣き虫な所とか‥‥」

「そういうことは、いまは置いておいて欲しいかな!」

 王子の欠点など、いくらでも言えるのだが、途中で止められてしまった。

「この前、ザイオンに言われたんだ。カリル王子からは、やる気が感じられません。こんなことでは困りますってね」

「‥‥‥あのやろう」

 思わず乱暴な言葉がもれる。ザイオン卿は王国の高級官僚で、王子に厄介な仕事を押し付けた張本人のひとりである。

「許せませんね。そもそも彼らがやるべき仕事を王子が肩代わりしているんじゃないですか。それなのに後から文句を言ってくるなんて、おかしいですよ」

「そうかもしれないけど、でも実際カルバン隊長たちの無理な要求は、ほとんど防げなかったからね」

「ですが、他の文官たちにやらせても同じことだったでしょう。もっと酷かったかもしれませんよ」

「うん、そうかもね。それに、僕も僕なりには頑張ってるつもりではいたんだよ」

「その通りです。もっと胸を張ってください」

 かわりに私が胸を張ってみせる。

「むしろ僕は、みんなの代わりに矢面に立たされてる被害者なんじゃないかって、そう思っていたんだ」

‥‥いちおう自覚はあったらしい。

「でもね、ザイオンに言われてから、もう一度考え直してみたんだ。本当に僕は最善を尽くしていたのかな。本当はもっとやれることが、たくさんあったんじゃないのかなってね」

「‥‥どういうことですか?」

「もっと自発的に手を打つこともできたんじゃないかって思ったんだ。つまり、相手の要求を防ごうとするだけじゃなくて、こちらから積極的に相手が要求を取り下げざるを得ないように仕向けるとか、そういう、言ってみれば寝技的なやり方をね。そしてそのためには、相手を怒らせたり、恨まれたりするようなことでも避けるべきじゃない‥‥‥いや、むしろ堂々とやるべきだと思うんだ」

「相手を怒らせたり、恨まれたりですか‥‥」

たしかにそんな相手と衝突するようなマネは、王子がもっとも忌み嫌ってきたことだ。ただ正直に言って、それはごく自然なことにも見えていた。臆病な王子が相手の要求に迎合するのは当然だという考えが、私の中にすらあったのだ。

「僕はね、できることなら誰も傷つけたり、困らせたりしたくはないんだよ。そんなことをしなくても、みんなが喜んで納得してくれる方法はかならずあって、そういう道の先に、みんなの幸せがあるって信じていたんだ‥‥‥‥でも実は、その考えこそが僕の間違いのもとだったんじゃないのかな‥‥?」

 自分のどこが悪いのかと聞いてきたのは、そういうことだったのか。

王子が自分の内面を、ここまで話すのは初めてのことだ。なんでも喋ってくるくせに肝心なことはあまり言わないのだ。そしてその告白を聞いて私は思っていた。もしかしたら、これは世間的には、ただのつまらない失敗談なのかもしれないと。つまりは理想を追い求めて痛い目に遭い続けて、それでようやく間違いに気がついたという話なのか。

はた目には、ただ要領が悪いだけだとしか見られないかもしれない。なぜもっと早く気がつかないのか、頭が悪いんじゃないのかと思われるかもしれない。

しかし私には、そんなふうに考えることはできなかった。王子はそれを、本気で追い求めていたのだ。自分が傷ついたり、不利な立場になったりすることも厭わずに。

 私は、初めて王子に出会った日のことを思い返していた。どこまでも不器用で、優しい少年だった王子。あれから何年たっても、その優しさは何も変わってなどいなかった。

その要領の悪さが愛おしくてたまらない。そういう私の考えもまた異常なのかもしれないがそれがなんだというのか。

「王子‥‥‥王子はなにも間違ってなどいませんよ」

 私は王子の肩に手をおくと、そのまま手のひらを背中に滑らせるようにして、身体と身体を触れ合わせた。

「ティアナ‥‥‥?」

 王子は驚いて私を見上げた。普段お世話をするときにも、当然身体は触れ合うのだけれど、ここまで密着することはない。お互いの顔が触れ合いそうなほど近く、王子の瞳がじっと私を見つめている。私は王子への愛情に胸を満たされながら言葉を紡いだ。

「ですが考え方を変えるというのであれば、私は賛成です」

「ええ?‥‥どっちなんだよ‥‥」

 戸惑いながら、かすかに苦笑いを浮かべて王子が答える。

「王子が思う通りになさって下さい」

「うん‥‥‥わかったよ‥‥」

 私は知らず知らずのうちに、両腕に力を込めていた。

「あなたこそ、真に人の上に立つべきお方です。私は王子が下した、あらゆる決定をすべてこの目で見てきました。その中で、王子がご自分の得になるようにしたことは一つもありませんでした。すべて国や国民のため、自分以外の誰かのためでした。王子が自分自身の立場を高められる機会はいくらでもあったと思います。しかし王子は、それらにまったく見向きもしませんでした。偉い身分や立場の人で、そんな人を私は他には知りません。きっと、どこにもいないでしょう」


   二人の絆


「ティアナ‥‥‥」

僕は、突然のティアナの言葉に戸惑いながら、黙って彼女に抱きすくめられていた。彼女の自分への評価は驚きだったし、ちょっと大げさすぎだと思ったけれど、でも僕の胸にすとんと落ちた。彼女が僕をそんなふうに見てくれてるなんて思いもしなかったけれど、でもどこかで僕はそれを期待していたのだと、いま気づいた。こんなにも自分を理解して、思いやってくれる人が側にいてくれる。こんな幸せが他にあるだろうか?

思えばティアナからは、僕の侍女になってくれた最初の日から、ただの仕事として仕えてくれている以上の、なにか特別な愛情を感じていたような気がする。そして僕の方でも他の何よりも優先してティアナを大切にしなきゃいけないような、そんな感情があった気がするのだ。

もちろん毎日お世話してもらっているのだから、親愛の情を抱くのは当たり前なのだけど、それだけでは説明できない、なにか特別な繋がりが、まるでずっと前から僕とティアナの間には存在していたような、そんな気さえするのだ。

僕はティアナの首筋に顔をうずめて、そっと抱きしめ返した。それに応えてティアナもさらに深く僕を受け入れてくれる。僕は彼女のぬくもりを全身で受け止めながら、心の中にこれまでずっと大きな穴が空いていたかのように感じていた。いままで、そのことに気づかずに生きてきたのだと。そしてその大きな空洞に、ティアナがぴったりとはまって、隙間なく満たしてくれているようなイメージが浮かんできた。そこから無限にエネルギーが湧き出してくる気がする。彼女を抱きしめる腕に力がこもった。

「ティアナ。ありがとう‥‥君が側にいてくれたら、なにも怖くはないよ‥‥‥僕は決めた。誰かを傷つけたりすることを、もう怖れない。そして、そのことで恨まれたりすることも怖がったりはしない」

「はい‥‥‥王子が信じる道を進んでください。仮にそのことで、王子がこの先どんな苦しい立場に追い込まれたとしても必ず私が側にいます。どこまでもお供して、お側に仕え続けると誓います」

 僕のうなじに暖かいものが落ちた。感極まったような震えが伝わってくる。

「ティアナ‥‥‥泣いているの?」

 顔を上げると、ティアナがその黒い瞳を涙に濡らしたまま僕を見つめていた。

「嬉し涙です。あなたに出会えたこと、そしてお仕えできたことが、ただただ嬉しいんです。私は世界一の幸せものですよ」

「大げさだよ‥‥‥それにどこまでもついてくるだなんて、そんなこと言っちゃっていいの?これからの僕は誰かを怒らせて恨みを買ったりするかもしれないし、もしかしたら政敵なんてものを作るようになるかもしれないんだ。そうなったら最悪の最悪は、一緒に断頭台に送られることだって、ないとは言い切れないんだよ」

「かまいません‥‥‥決して王子を一人で死なせるなんてしませんよ」

 ティアナは涙を拭わないまま大真面目に言った。

「ティアナ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ふふっ‥‥くっ‥‥‥くくっ‥‥‥あはははははは!!」

 なんだか急に笑いがこみ上げてしまった。きっと柄にもないことばかり喋っていたせいだ。

「ちょっと王子!なんですか急に‥‥‥‥‥ぷっ‥‥‥あははははは!」

 ティアナに申し訳ないと思ったけれど、彼女もつられて笑いだしてしまった。なんで笑っているのか分からないのに笑いが止まらない。僕たちはしばらくの間、抱き合ったまま、身体を捩らせて笑い転げていた。

「はあ、はあ‥‥‥‥ふふふふ‥‥‥」

「はあ、はあ‥‥‥ぷっ‥‥‥‥くくくくく‥‥‥」

 さっきまで、なにを話していたのか、もう頭に残っていないくらいに笑いあって、ようやく二人ともおさまった。

「ふう~~~~、苦しかったあ‥‥」

「本当ですよ‥‥‥お腹痛いです‥‥」

 そして今頃になって気づいたけど、僕たちはずうっと抱き合ったままだったのだ。誰か他人に見られたら間違いなく誤解されるだろう。ティアナも我に返ったみたいで、僕たちは急に気まずくなって距離をとった。

「ティ、ティアナ、ごめんね‥‥‥‥‥大丈夫?」

「は、はい!すみません!私が悪いんです!」

 ティアナは顔を背けて涙を拭いながら答える。

「いや!そんなことはないから‥‥‥全然‥‥‥大丈夫‥‥‥!」

 なんだか意味不明なことを喋ってしまっている。そしていまさらながら、ティアナの身体の温もりや、肌の柔らかさや、その優しい匂いを思い出して‥‥‥と、そこまで考えたところでティアナが真っ赤な顔をしていることに気がついた。いけない、もう忘れよう。いったん頭から追い出すんだ。

「ゴホン!‥‥ええっと、なんの話だっけ?‥‥‥‥‥‥‥あれ、なんの話だっけ?」

 話を強引に戻そうと思ったのに、なんの話だったか完全に忘れてしまっていた。

「あの‥‥‥ザイオン様から、やる気が感じられないと言われて、それで考え方を変えることにしたと‥‥」

「ああっ!そう!それなんだよ!だからね、考えをあらためた僕の初仕事として、さっきのカルバン隊長の経費の請求に、不正がなかったかを突き止めようと思うんだ」

「なるほど‥‥‥それはたしかに、うってつけかもしれませんね」

「でしょう?いままでは結局、ゴリ押しに負けて、言われるままお金を出していたからね」

「それを今後、阻止できるとすれば大きな成果かもしれませんね‥‥‥あ、さっきお城を抜け出そうと言っていたのは‥‥」

「そう。さっきカルバン隊長は、夕方までにお金を用意してほしいって言ってたよね」

「ええ、言っていましたね」

「つまり、今夜そのお金が必要だったんだ。それはなぜなのか?なんに使うのか?‥‥‥気にならない?」

「たしかに気になりますね」

「でしょう?だから今夜カルバン隊長がお城を出るなら、尾行してみようと思うんだ。ひょっとしたら、彼の弱みを掴めるかもしれないよ」

「ほほう‥‥‥」


   隠密ノエル


 私はカリル王子を見直す思いで見つめた。

 なるほど尾行して弱みを見つけるなんて、あまり褒められたやり方ではないのかもしれない。おそらく王子自身も、もしかしたら以前から考えはあったのかもしれないが、そういう思いからいままで躊躇していたのではないだろうか。

 だが正攻法で現状を変えられないのなら、たとえ、やや非合法なやり方であっても、目的を達成してみせようという王子の考えは、私には確かな成長のように思えるのだ。

 日々、身近でお世話してきた身としては、感慨を感じないわけにはいかない。

「いいでしょう。わかりました、お手伝いします」

「ありがとう。そう言ってくれると思ってたよ」

 私が賛同すると、王子はにっこりと笑った。

「それで、なにをすればいいのですか?」

「うん。それなんだけど、ちょっと待って‥‥‥‥‥ノエル‥‥いるかな?」

 王子は部屋の中の、何もない空間に向かって声をかけた。

‥‥すると、その場に瞬間移動してきたかのように、音もなく小柄な人物が現れた。そのまま顔を伏せ、片膝をついた姿勢で王子の言葉を待っている。

 目の前にいても、なんの気配も感じられない不思議な人物だった。じっと片膝をついたままの姿には、力みというものがまるで感じられない。小柄で‥‥と言っても、王子のような子供っぽさなど微塵も感じさせない、大人びた落ち着きを身にまとっている。フードを深く被っているので顔がよく見えないが、おそらくまだ若く、私や王子と同年代のような気がする。そして男女どちらともとれない服装をしていた。

 だが私はこの人物をよく知っている。普段は姿を見せないが、いつも王子の身辺を、目に見えないところで警護してくれているのだ。王様から与えられたカリル王子専属の隠密である。

「やあ、ノエル。いてくれたんだね、いつもありがとう」

「‥‥仕事ですから」

王子が話しかけると、ノエルと呼ばれた人物から、そっけない返事が返ってくる。

 声からも性別はわからない。わざと中性的な声を出しているのだろう。まあ私はカンで勝手に女性だろうと思っているが。

 彼女‥‥とりあえず彼女ということにしておくが、彼女については、わからないことだらけだ。用事がなければ何日も姿を見せないし、現れたとしても常にフードで顔を隠している。

だがフードの奥の顔を何度か見た限りでは、かなりの小顔で整った顔立ちのように見えた。じつは結構な美人なのかもしれない。

 そしていつも用事が済むと、無駄口を叩くこともなく、あっという間にまた姿を消してしまうのだ。どうやら護衛の隠密というのは皆そういうものらしい。主人から諜報活動などを命じられればそれに従事するが、それ以外の時は、姿を隠したまま主人の身に危険が迫らないか目を光らせているのだとか。

だが人懐っこい性格の王子は、彼女が姿を隠すたびに、なんともいえない寂しそうな表情を浮かべるのだ。本当は引き止めて、たくさんお喋りしたいに違いない。彼女の迷惑になると思って我慢しているのだろう。

 と、そこまで考えたところで、私はあることに気がついた。

 あれ?‥‥‥‥彼女はずっと護衛として、この部屋を見張っていたんだよね‥‥‥‥つまりさっきの、私と王子とのアレも‥‥‥全部見ていたということに‥‥‥。

 突きつけられた現実に、サアーっと血の気が引いていく気がした。あまりにもうかつすぎた10分前の自分を、ぶん殴ってやりたい。

ワナワナと震えながら、彼女の様子をうかがうべく、恐る恐る視線を向けてみると‥‥‥‥ちょうど向こうも同じタイミングで私を見たらしかった。フードの奥の眼が、しっかりと私を見つめている。

(あああああ!目が合ったあああ~~~~!!)

 内心で絶叫していると、王子が私に向かって胸を張って言う。

「むふふふ、じつは、もう準備はしてもらっているんだよ」

「ひゃい?!‥‥い、いや、その‥‥そうなのですか?」

「ティアナ‥‥‥なにかあった?」

「なにもありません!」

「そう?それならいいんだけど‥‥」

 だ、駄目だ。いまさらジタバタしたところでどうにもならない。一旦忘れよう!いいか、忘れろ、私!

「そ、それで準備というのは?」

「うん。先週ノエルに頼んでおいたんだ。第2大隊から、さっきの300リーベルの書類が提出された日にね」

「ああ‥‥そういえばノエルさんと、なにか話していましたね。私に隠れるようにコソコソしているなとは思っていましたが」

「う‥‥別にコソコソしてたわけじゃなくて、あの時はまだ、本当に不正を追求するかどうか決めかねてたから、言わなかっただけだよ」

「別に責めている訳じゃありませんよ」

「そ、そう?」

「ええ、安心して下さい。それでなにをお願いしたのですか?」

「うん。ノエルにね、第2大隊の慰労会について調べてくれるようお願いしておいたんだよ。きっと、また怒鳴り込んで来るだろうと思っていたからね」

「なるほど‥‥」

 つまりその時には、もう王子は心を決めかけていたということなのだろう。私の知らないところで‥‥‥ちょっと悔しい。


   歴戦の勇士


ティアナが暗い顔を見せたので、僕は慌てて言い訳をする。

「隠してたわけじゃないよ。カルバン隊長が怒鳴り込んでこなかったら、そのまま何もしないつもりだったからね」

「でも、そうはならないと思っていたのでしょう?」

「‥‥まあね」

 そこは認めるしかなかった。あのカルバン隊長が、大人しく黙っているはずがないのだ。

「あ、ノエル。それでどうだったの?」

 声をかけると、ノエルが、低いけれど聞き取りやすい声で報告してくれる。

「第2大隊の使った店で、おおよそのことは掴めました。まず当日の会計は70リーベルほどです」

「やっぱり水増ししてたか‥‥‥それにしても4倍以上って、ふざけ過ぎじゃない?」

「あと隊員たちからは、それぞれ一人分の代金を徴収していたそうです」

「えっ?!」「えっ?!」

僕とティアナが同時に声をあげる。

「いやいや、いくらなんでも、それはひどいよ。じゃあ300リーベルを丸々ポケットに入れちゃってたってこと?」

「いえ、徴収した金額を計算すると、80リーベルくらいにはなりますから、310リーベルほど着服したということになりますね」

「‥‥とんでもない守銭奴ですね‥‥」

 ティアナが正直な感想をもらす。

「カルバン隊長が直接、隊員からお金を集めてたのかな?」

「いえ、徴収していたのは大隊の主計長のシェルドンです。彼だけは、内実を知っているはずです。カルバン隊長に最も信頼されている男で、隊内では隊長の腰巾着と陰口をたたかれています」

「なるほどね‥‥」

 主計長は大隊の金庫番だ。彼の協力があれば、カルバン隊長の裏金作りも、かなり楽にできるはずだ。

「うーん。そのへんのところを、副隊長のウェストンは知っているのかな?」

「細かい金額を、その都度ごまかしていると思ってはいるでしょう。ただ徴収した金額と会計が合わない程度なら、わりとよくある話でもあるので、わざわざ追及しようとまでは思わないんじゃないでしょうか」

 第2大隊の副隊長のウェストンは、カルバン隊長とは違ってこの王国の出身者だ。由緒正しい騎士の家系の生まれで軍務経験も長く、本来なら大隊長を務めていてもおかしくない人物である。

そんな彼が副隊長に任命されている理由は、つまるところカルバン隊長のお目付け役である。カルバン隊長がおかしなことをしないように。もっとはっきり言うと、大隊を私兵化して敵に寝返ったりしないように、目を光らせるのが役目である。

「飲食代を多めに集めてたのは、まあいいとして、大隊の経費と偽って裏金作りをしていたことを知ったらどうだろう?‥‥もし、その動かぬ証拠を手に入れたなら‥‥」

「黙っては、いないかもしれませんね」

ノエルは控えめながらも、はっきりと言った。

「カルバン隊長は、隊内の評判はあまり良いとは言えません。いけ好かない奴だと思っている隊員も少なくないようです。それに「歴戦の勇士」扱いはされていますが、正直ハッタリ感が強くて実際の戦場でどれだけ役に立つかは未知数です。そんな男、しかも他国出身の男の下につけられてウェストン副長としては面白くないでしょう。できることなら大隊からのみならずこの王国から追い出したいと思っていても不思議じゃありません」

 その言葉に、ティアナが我が意を得たりとばかりにうなずく。

「だとしたら良い考えです。この機会にウェストン副長に協力して、カルバン隊長を追い出してしまいましょう!」

「‥‥‥‥うーん、それはできないかな」

「え?なぜです?追い出しましょうよ。ついでに背中に薪を縛り付けて、火をつけてやりましょう」

「発言が物騒すぎるんだけど?!」

 ヒートアップするティアナをなだめるために、僕は理由を説明する。

「カルバン隊長に問題行動があったので追放しましたなんて発表したら、王国と父上の恥になるからね」

「そうなのですか?」

「そもそもの話だけど、第2大隊にはカルバン隊長以外にも、他国出身で諸国に名前の知られた勇士が大勢所属しているよね」

「ええ、そうですね」

「王国が彼らを雇用しているのは、彼らの戦闘力に期待する以上に、王国の威信を高めるといった国威発揚的な意味合いが強いんだよ」

「‥‥と言いますと?」

「周辺国に対して「我がマルセルは優秀な人材が慕い集う国です」「そして彼らを大勢迎え入れられるだけの国力があります」「それから、そんな彼らに重要なポストを委ねる度量も持ち合わせています」っていうアピールをするためなんだ」

「なるほど‥‥‥‥そういう意味があったのですね‥‥」

 ティアナは目からウロコが落ちたような顔をしている。やり方はいろいろあるけれど、こういった常に自国を強く、そして先進的に見せる努力を積み重ねるのは大切なことだ。

大国であるというイメージを相手に植え付けることによって、条約を結んだり、政略結婚をしたりする時に、より優位な立場に立てたりするので、決して無駄にはならないのだ。

「実際彼らが、いざというときに、どれだけ役に立つかなんて誰にも分からないからね。評判ほど強くはないかもしれないし、王国のために、どれだけ一生懸命戦ってくれるかも分からない。しかも旗色が悪くなったら裏切るんじゃないかっていうリスクも常にあるしね」

 僕は説明を続けるが、正直あんまり言いたくない話である。

「戦力としてだけ考えるなら、彼らの高い給料を思えば正直、割には合わないと思うよ」

「‥‥なるほど。それでさっきのカルバン隊長をクビにできないというのも、そのお話と関係があるのですね」

「うん。逆に、他国から王国がどう見えるかって話になるんだけど、王国としては大国アピールができて気分がいいところだけど、そういうことができない他国からすると、妬ましく思えちゃうわけだよね」

「たしかに、そうかもしれませんね」

「それで周辺国からは、ひがみ混じりの皮肉が噂話として伝わってきたりするんだよ「他国の人間を信用して、いざというとき裏切られたらどうするんだ」とか「どうせいまに痛い目にあうのがオチだろう」とかね。それどころか去年の国際会議の場で、隣国ベニートのアーメット王が、父上にそんな話を直接、面と向かって言ってきたんだよ「世間の物笑いの種にならなければよろしいですがなあ」なんて言ってね」

「アーメット王は、かなりの見栄っ張りだと聞いたことがあります。そんなことを直に言ってくるなんて、よほど悔しかったのでしょうね」

「きっとそうなんだろうね。で、それに対して父上が上機嫌でこんなことを言っちゃったんだよ‥‥「わっはっはっはっ!忠言には感謝いたしますが、ご心配は無用に願いたいアーメット王。カルバン始め、我が国を慕い来た勇士たちは、わが王国を第二の故郷と思い、無限の忠誠を誓ってくれております。あの者どもがマルセルに害をなすなど夢々考えられぬことですぞ。うわっはっはっはっはっ!」‥‥ってね」

 僕は、下手くそな父上の声真似をして説明する。

「‥‥‥理解しました。そんなことを言ったあとで、カルバン隊長が不祥事を起こしたので追い出しましたなんて、とても言えませんね」

「赤っ恥も、いいところだよ」

 僕はため息をつく。

「でも追い出せないとなると、手出しができないということですか?それはさすがに納得がいきませんが」

「いや追い出せないとしても、いろんな証拠が明るみに出れば彼の立場が悪くなるのは間違いないからね。黙っていて欲しければ、こちらの言うことを聞くようにと脅すことはできるよ」

「なるほど‥‥‥しかし王子の口から、脅すなんて言葉が出てくるとは驚きました」

「カルバン隊長の悪事を止めるためだからね、そのための手段は選ばないと決めたんだ」

 僕は決意を込めて、キッパリと言う。

「いえ、批判するつもりはこれっぽっちもありません。王子はご自分の信じる道を進んでください。私はそれをお支えするだけですから」

「うん‥‥ありがとう、ティアナ」

当たり前のように言うティアナを見て、僕の決意はより揺るぎなくなった。

と、そこで僕はノエルに向き直る。

「ノエルごめんね。君を無視して話を続けちゃって」

「わたしへの気遣いなど、無用です」

 そのままノエルは報告を続ける。

「さきほどの続きですが、それからカルバン隊長は、部下たちを残して慰労会の途中で抜け出しています。寄るところがあるからと言って、一人で店を出たそうです」

「どこに行ったか調べてくれた?」

「はい、目立つ男ですからね。目撃者を探すのも難しくはありませんでした。ドマニ地区の小さな民家に入って行ったそうです。その夜の目撃情報はそこで途切れていますから、おそらく朝までその家にいたのでしょう」

 そう言ってノエルは、僕に住所の書かれたメモを渡した。

「この家の持ち主って分かるかな?」

「はい、不動産屋に当たって調べてきました。持ち主は20代半ばの女性で、8ヶ月前にその家を購入したそうです。金額は1300リーベル。頭金300で残りを毎月100ずつ支払う契約だそうです」

「とすると‥‥‥‥今月分の支払いがまだだとすると、残りは300リーベルかな?偶然じゃないかもしれないね。次の支払日はいつなのかな?」

「来週です。毎月25日までに支払う約束になっているそうですから」

 ノエルがそこまで話したところで、ティアナが驚いたように言う。

「凄いですね。そんなことまで調べられるとは‥‥」

「ノエルは正式な捜査権限を持っているからね。その証明証を見せれば守秘義務にあたることでも、よっぽど込み入った事情でもない限り、聞けば正直に答えてくれるはずだよ」

「はい。それに多少の心付けは渡していますからね。むしろ向こうからペラペラと喋ってくれましたよ。本来秘密にすべき事柄を堂々と話せることに、快感を覚える人間は結構います」

 ノエルは当たり前のように言うが、ティアナは感に堪えない様子だ。

「こんなに優秀な諜報員がいてくれていたのに、いままで役立てていなかったなんて‥‥とんだ宝の持ち腐れでしたね」

「まったくだね。ノエルには申し訳ない気持ちでいっぱいだよ。でももう躊躇はしない。これからはどんどん依頼をしていくから、よろしくね」

「‥‥‥‥ですから、わたしへの気遣いは無用だと言っています。どうぞ遠慮なくお申し付けください」

「ありがとう‥‥あ、そうだ。不動産屋さんに契約に来たのは、その女性一人なのかな?」

 僕がそう聞くと、いままでなんの変化もなかったノエルの表情が、ちょっとだけ笑みをたたえたような気がした。まるで、よくぞ聞いてくれたと言っているかのようだ。

「いいえ。カルバン隊長と一緒だったそうです」

「やっぱり!堂々としたものだよね」

「それと先月のローンの支払いの時も、二人で一緒に来店したそうです」

「へえ~~~、よく似た人じゃなくて、カルバン隊長に間違いないんだね?」

「はい、カルバン隊長は有名人ですからね。不動産屋は、それ以前に何度も閲兵式などでカルバン隊長を見たことがあるそうですし、声を聞いたこともあるそうです。あらためて人相風体を確認しましたが間違いないでしょう。どちらの時も二人はまるで恋人同士のように、ずっとイチャイチャしていたそうですよ」

「なるほどねえ」

 感心すればいいのか呆れればいいのか、僕にはもう、よくわからない。

「それと、もう一つ面白い話をしてくれました。その女性というのは、水商売上がりの雰囲気だったそうなのですが、彼女はカルバン隊長にお金を出してもらって、自分の店を持ちたいという話をしていたそうです」

「へえ~~~」

「有名人のお客なので、不動産屋はその時のことをよく覚えていて、会話の内容まで詳しく教えてくれましたよ。ちなみにこんな感じです‥‥「ね~え、ダーリンお願いよお」「うーーん、そうはいっても、そんな簡単な話じゃないからなあ」「も~、なによう。いつもは俺様がその気になれば、金なんかいくらでも持ってきてやるって言ってるじゃないのお」「わかった、わかった。しょうがないな。そのうちなんとかしてやるから大人しく待ってろ」「きゃ~嬉しい!ダーリン約束よ!絶対に約束!破っちゃ駄目なんだからね!」‥‥‥‥だそうです」

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥そ、そうなんだ‥‥雰囲気までよく分かったよ‥‥‥ありがとう‥‥」

 突然始まった二人の会話の再現に、僕はしばし言葉を失ってしまった。

「不動産屋が!そう言っていたんです!」

 ノエルが語気を強めて言う。僕のリアクションが、お気に召さなかったようだ。でもそれはそれとして、初めてノエルが感情らしいものを見せてくれたので僕は嬉しくなってしまった。

「どうしてニヤニヤしているんですか?!わたしは真面目に報告しているんですけど!」

「いや!ニヤニヤなんてしてないからね?!本当だよ!」

 必死で弁明するが、フードの奥の目がジトーっと僕を見ている気がする‥‥ちょっと怖い。

「ち、ちなみにだけど、お店っていうのは水商売的な、お酒を飲ませるお店っていうことだよね?そういうお店を始めるのって、いくらくらいお金が必要なのかな?」

 なんとか空気を変えようと、質問してみる。

「コホン‥‥そうですね、ごく小さなお店でも、開業資金に最低でも500リーベルは必要とのことです。女性の希望していた規模のお店だと1000リーベル以上。さらに経営が軌道に乗るまでの運転資金も5,600リーベルは必要だろうと。もちろん順調にいっての話です。うまくいかなければ、当然追加の資金が必要になりますね」

 それを聞いてティアナが言う。

「どうやら、答えが見えたようですね。カルバン隊長が裏金作りに精を出していたのは、その女性に貢ぐためだったのですね」

「どうやら間違いなさそうだね‥‥‥でもそういうことなら、もう一つカルバン隊長の弱みを握れるね。むしろ、こっちのほうが本命だよ」

 僕がそう言うと、ノエルには心当たりがあったらしい。

「テレンス子爵との件ですね」

「そうそう、それだよ」

「あの‥‥すみません。私には、なんのことだか分からないのですが‥‥」

 ティアナが申し訳なさそうに言う。

「カルバン隊長はね、テレンス子爵の婿養子になることが内々で決まってるんだよ」

「ええっ?!そうなのですか!」

「もちろんカルバン隊長からの、たっての希望でね」

「はあ、たっての希望ですか‥‥」

「近衛の大隊長とはいえ、彼のそもそもの身分は一傭兵でしかないからね。元気なうちはいいだろうけど、歳をとったらお払い箱にされることも、ありえない話じゃない。だからなんとかその前に安定した身分を手に入れたかったんだろうね」

「なるほど‥‥いい年なんだから、愛人を囲う前に結婚でもすればいいのにと思いましたが、そういうことだったのですね。だから特定の女性がいることは隠しておきたいと‥‥」

「そう考えると辻褄が合うと思うんだよね」

「たしかに‥‥‥それにしてもテレンス子爵は、よく承知してくれましたね」

「うん。始めは相手にされてなかったんだけど、いろいろあってね‥‥」

もちろん婿というには年齢が高すぎるのだけれど、これが例えば婿入り先が辺境の小領主とかなら、十分に釣り合う話ではあったと思う。他国との小さないざこざや、国境を越えてくる盗賊団への対処とか、武力が必要な場面はいくらでもあるからだ。多少出自が怪しくても、腕に覚えのある人物に後を継いで欲しいと考える領主は、きっと何人もいるだろう。

だけどテレンス子爵家は、マルセル王国の中でも指折りと言ってもいいほどの家柄である。いくら上昇志向の強いカルバン隊長といえども、高望みが過ぎる相手だ。

「知っての通り、テレンス子爵家の領内には、王国の主要な交易路の一つが通っているよね。王国からその街道の治安の維持を任されているわけだけど、そこで去年から今年にかけて、旅人や小規模な隊商が野盗に襲われる事件が、何度か起きているんだ」

「その話なら聞いたことがあります。その対策としていま近衛の第5大隊が、子爵領に駐屯していますよね」

「うん、そうそう」

 交易を主な収入源としているマルセル王国にとって、街道の通行の安全はなんとしても守るべき重要課題だ。そして子爵家の領内においてはテレンス子爵家の騎士団長がその責任を負っている。ところが一昨年、老齢だった先代のテレンス子爵が亡くなると、跡を継いだ中年の息子‥‥つまりいまのテレンス子爵が、長年仕えてきたその騎士団長を、大した理由もなく突然クビにしてしまったのだ。

「そんなことがあるんですか?!」

「まあ、馬が合わなかったんだろうけど、普通はないよ。だから他の家臣たちも、びっくりして止めようとしたんだけど、聞く耳を持ってくれなかったらしいんだ」

「はあ‥‥」

「で、かわりに騎士団長になった男は、軍務のことも街道警護の重要性も何もわからない、ただおべっかが上手いだけの人物だったってわけ。おまけに騎士団内の幹部のポストも、新しい団長におべっかを使う人物ばかりが取り立てられていったものだから、真面目な団員は辞めていったり、やる気をなくしたりで、士気も練度もガタ落ちになったらしいんだよ」

「なるほど‥‥それで野盗の取り締まりが緩くなって、被害が出始めたという訳ですか」

「うん。それで父上は大激怒だよ。子爵に向かって、なんとかしろ、早急に対処できなかったら家を取り潰してやるぞとまで言ったらしいよ」

「代替わりした当主が、先代から仕える家臣を煙たがるというのは、よく聞く話ですが、それで大事なお役目が疎かになるなんて呆れたものですね」

「本当、こういうのは迷惑だから、やめてほしいよね」

言うまでもなく対策として一番いいのは、前の騎士団長に戻ってきてもらうことなのだが、元騎士団長の方でも今回の件は腹に据えかねたみたいで、二度とテレンス子爵家に戻るつもりはないと公言しているそうなのだ。

「それで大慌てで代わりの人物を探したらしいけど、一度ガタガタになった騎士団を立て直すとなると、それなりに優秀な人じゃないと務まらないよね。それを早急にだなんて、そもそも無理があったんだよ」

「たしかにそうでしょうね」

「それで、にっちもさっちも、いかなくなっていたところに手を差し伸べてくれたのが、子爵家の縁戚にあたるバイロン伯爵なんだ。辞めさせられた元騎士団長に会って、子爵家に戻ってくれるように説得してくれたんだよ」

「ほほう」

「元騎士団長としても、わざわざ伯爵に足を運んで説得されてしまったら、無下にはできないよね。それで伯爵立ち会いのもと、テレンス子爵に頭を下げてもらうことと、いまの騎士団長とその取り巻きを辞めさせることを条件に、復帰を約束してくれたらしいんだよ」

「なるほど‥‥バイロン伯爵の行動力は見事ですね。そして、そのままいけば一件落着になったのでしょうけれど‥‥‥でも第5大隊が戻ってこないということは、そうはならなかったのですね?」

「そうなんだよ。それがね、ちょうどテレンス子爵が父上から叱責された直後あたりから、カルバン隊長が子爵にしきりに面会を申し込んで自分を売り込んでいたみたいなんだ。自分がテレンス家に婿入りして、騎士団長を兼任すれば全て解決ですよってね」

「都合のいいことばかり言って‥‥まったく、しつこい男ですね」

「テレンス子爵も、子供は年頃の娘さんが一人だけなんだけど、子爵家としては後任の騎士団長を探していたのであって、娘の婿を探していたわけじゃないからね。そもそもお嬢さんとは年も離れてるし、始めのうちは適当にあしらっていたらしんだよ」

「当然ですよね」

「ところがね。そのあと子爵の心境に変化があったらしいんだ‥‥ていうのは、あくまで想像に過ぎないんだけど、そうとしか思えないんだよ‥‥つまり、やっぱり元騎士団長に頭は下げたくないってことらしいんだ」

「ええ?‥‥せっかく伯爵が骨を折ってくれて話がまとまったのにですか?‥‥本当に馬鹿な男ですね」

 このときのテレンス子爵とカルバン隊長の会話の‥‥というかカルバン隊長の猛アピールの内容を、僕はオズボルドという男から詳しく聞かせてもらっている。

そのオズボルドというのは、ノエルの所属する隠密組織の首領である。彼は城内のあらゆる場所を、日常的に配下を使って監視して情報を集めているのだ。

そして時には、こうしてその内容をこっそり教えてくれたりもする。間接的に盗み聞きしている訳だけど、今回のような時には、とてもありがたい。僕はノエルに、ちらりと視線を向けてから話を続ける。

「‥‥曰く、主君たるもの家臣に頭を下げるなどということは絶対にしてはいけません。そんなことをすれば武官はもちろん、文官までもが貴方を侮り、やがては領国の統治に重大な悪影響を及ぼすようになるでしょう。ましてや貴方様は王国のみならず、他国にまで名を知られた由緒ある家柄のご当主です。家臣の騎士団長ごときが、ちょっとへそを曲げたぐらいのことで軽々しく頭を下げるなど、断じて!決して!絶対に!あってはならないのです!‥‥ってね」

「目に見えるようです。一見それっぽいことを、さも絶対の真理のように言ってみせるのは、あの男の得意技ですからね」

「もともと子爵の腹の中は、謝りたくないってことで一杯だからね。なんとか謝らずに済む理由がほしい。誰かに謝るのは間違いだと言ってほしいと思っていたところに、そんなことを言われたら喜んで食いついちゃうよね」

「それで元騎士団長を復帰させずに、代わりにカルバン隊長を婿に迎えて、騎士団の立て直しを任せることになったというわけですか」

「うん。さすがに簡単ではなかったみたいだけどね。そのへんが、まさに必死の猛アピールだよ。曰く‥‥‥もしも吾輩が子爵家の婿となったならば、もはや子爵様を侮る家臣など誰一人として許してはおきませんぞ。上は家老から下は召使いまで、子爵家に仕える全員に、正しい主君への敬意の持ちようをというものを叩き込んでやります。二度と今回のような家臣どもの不手際で、子爵様に恥をかかせるようなことなど、させるものではありませんぞ‥‥ってね」

「‥‥不思議ですね。なんだか、いつの間にか悪いのは前の騎士団長たち家臣ってことになっていませんか。どう考えても悪いのは子爵自身なのに」

「本当におかしいよね。でも、これこそがテレンス子爵が誰かに言ってほしかった言葉なんだと思うよ。それを的確に見抜いてみせたカルバン隊長のカンの良さはさすがだよね。父上に気に入られて、近衛の大隊長に納まっているだけのことはあると思うよ」

「他人に取り入るのが上手いということですか?そんなものでも才能と言えるのですかね?」

 ティアナは面白くなさそうだ。

「子爵家の家臣たちは、ほぼ全員が反対したらしいけど、もうテレンス子爵には彼らが自分の敵に見え始めてるからね。反対されればされるほど、やっぱり頼れるのはカルバン隊長なんだって気持ちが強くなっていったんじゃないのかな。とうとう内々で婿入りを承諾して、伯爵には仲介を断ると連絡してしまったんだよ」

「馬鹿すぎて、もう言葉が出ません。愚か者のプライドほど度し難いものはありませんね。伯爵は怒らなかったのですか?」

「顔を潰されたとは思っているはずだけど、そんなことはおくびにも出さずに「そういうことなら結構なお話です。早めに実現できるとよろしいですな」とだけ返事をしたそうだよ」

「さすがに伯爵は人格者ですね‥‥‥ところで肝心のテレンス子爵のお嬢様の反応はどうだったのですか?あのヒゲの中年男と一生を添い遂げるだなんて、罰ゲームにも程があると思うのですが‥‥」

「それがねえ。実際に会ってみたら結構、好印象だったみたいなんだよ」

「本当ですか?‥‥信じ難い話ですね‥‥」

「これまでも、縁談話は何度もあったんだけど、お嬢さんがなかなかクビを縦に振らなかったらしいんだよ。どうも貴族のナヨナヨした男性が好みじゃなかったみたいでね。僕なんか、きっと即アウトだよ」

「それでいいのです。王子はそのままで」

 ティアナは澄ました顔で言う。

「え、そうなの?いつもティアナに怒られてばっかりだけど‥‥」

「それはそれ、これはこれです」

「そうなのかな?‥‥ま、まあそれで何度も縁談を断っているうちに婚期を逃したら困るし、本人が乗り気っていうのが最後の決め手になったみたいでね。それで、あとは父上の許可をもらうだけになったんだけど‥‥カルバン隊長は、そもそも父上のお気に入りだからね。その話を聞いて、はじめは渋っていたらしいんだよ。でも途中であることに気がついて、逆に大乗り気になったみたいなんだよね」

「あることと言いますと?」

「ほら。前回の国際会議で、父上が隣国のアーメット王にしたっていう話があったでしょう。マルセルを第二の故郷と思ってくれてるとか、なんとかっていう」

「ええ。さっき言っていましたね」

「カルバン隊長が子爵家に婿入りして、王国に骨を埋めてくれるなら、あの話が本当だったってことになるよね」

「なるほど‥‥‥たしかにそうですね」

「お相手が有力貴族だっていうのも、王国の寛容さアピールには都合がいいしね。それと来年マルセルで次の国際会議が開かれることが決まっているでしょう?それに合わせて国を挙げてのお祭りみたいな結婚式を挙げさせてやろうって言い出したんだよ。それを各国の王や大使に見せつけて、さんざん自慢しようって考えたんだろうね。父上はそういうことが大好きだから」

「先ほどの国威発揚とかいう面でいえば、名案なのでしょうね」

「悪くない考えだと思うよ」

「ひょっとして第5大隊は、それまでずっと子爵領に駐屯しているのですか?」

「そう。婚礼が済んで、カルバン隊長が子爵家の騎士団長に就任するまでの間ね。それも含めていくつか条件になっていてね。まずその駐留経費の一切を子爵家が負担すること。さらにその間、子爵家の騎士団は第5大隊長の指揮下に入ること。それから婚礼の費用の大半を子爵家が負担すること‥‥っていう3つの条件を飲むなら、結婚を認めるという父上の返答だったんだ。ちなみに駐留経費だけでも、長期出張手当みたいなものも必要になるだろうから、かなりの金額になると思うよ」

「子爵家にとっては、とくに金銭的にかなり厳しい条件ですね」

「だよね。テレンス子爵も、あれ?話がおかしいぞと思っただろうね。でも自分からお願いしてる立場なわけだし、仮にもし断るなら、じゃあ騎士団の立て直しをどうするんだって話になっちゃうしね。まさか伯爵に「やっぱりもう一回、仲介して下さい」なんて言えるわけないから、結局その条件を受け入れたらしいけど、内心は泣く泣くだったんじゃないのかな」

「ざまあみろ、としか思えませんね。まさに自業自得です」

「本当だよね。でもまあ、うまく話がまとまってくれてよかったんだよ。街道警護は第5大隊に任せておけば安心だし、手が空いたら子爵家の騎士団を鍛えてくれるだろうし、父上は国際会議で自慢できるし、ついでにカルバン隊長は上手いこと婿入りできるしで万々歳だよね」

「そうですね。ただ最後のだけは、いらなかったのですけどね。本当に最後のだけは」

「これがいまの状況なんだけど、話をもとに戻すよ。カルバン隊長の裏金問題に」

「裏金問題に‥‥‥なるほど。この状況で、実は公金をチョロまかして隠れて愛人を囲っていたんです、なんて話が表に出たら、なかなか厳しいものがありそうですね。陛下も子爵も伯爵も、全員怒りますよね」

「バレたとき、父上がどれだけ怒るか想像するだけで恐ろしいよ。上機嫌で自分が新郎新婦の仲立ちをしたと思ってるわけだからね。ほかの貴族たちの反発も予想される中で二人の味方をしたのに、思いっきり顔にドロを塗られたって思うはずだよ。怒りのあまり、カルバン隊長を火炙りにかけようとするかもしれない」

「‥‥‥‥むしろ、それはいいことなのでは?」

「‥‥まあ、それはさすがに誰かが止めるだろうけどね。父上は怒り狂って怒鳴り散らすだろうけど、結局は体面を保つために何もなかったことにして婚礼は挙げられると思うよ。ただしカルバン隊長は、この先しばらくは針のムシロだろうね。子爵のお嬢さんだって、当然心穏やかじゃないだろうし、子爵家の家臣たちだって、そんな男を敬おうなんて誰も思わないよね」

「なるほど‥‥‥あの男が火炙り台の上で、どんなあわれな顔で泣き叫ぶのか見物したかったのですが、そういうことなら我慢しましょう」

「‥‥うん我慢して。お願いだから‥‥‥というわけで彼が愛人を囲っている決定的な証拠がほしいんだよ。もっとも彼のほうでは、あんまり隠す気がないみたいなんだけどね。不動産屋で堂々とイチャイチャしてたなんて、信じられないよ。どうなってるの?」

「単にバカなんでしょう。深く考える必要はないと思いますよ」

「うーん、そうなのかなあ‥‥?でもたしかに理由なんて考えられないんだけどね。ノエルはどう思う?」 

「ティアナさんの意見に同意します。あの男は自分が他人から陥れられるなんて、これっぽっちも想定していないのだと思いますよ。もしなにか問題が起きそうになったら、指摘してきた相手を怒鳴りつけて黙らせてやればいいくらいに思っているんでしょう。だから脇がガバガバに甘いんです」

「なるほど‥‥そういうものなのかもしれないね」

 いまいち釈然としないが、とりあえず納得しておくしかなさそうだ。

「まあ、僕たちにとっては好都合だからいいんだけどね。よーし、あらためて言うけど、今夜カルバン隊長を尾行するよ!きっとお金を持って、その女の人のところに行くと思うんだ」

「わかりました。では、わたしも協力します」

「うん、ノエルよろしく頼むよ。あ、そうだ、他にも頼まれてほしいことがあったんだ。さっきの不動産屋さんにもう一度行って、一言伝えてきてほしいんだよ」

 僕はノエルに伝言の内容と、その後の段取りをくわしく話した。

「承知しました。そちらを先に済ませてきましょう。では、後ほどまた」

そう言うと、ノエルはまた音もなく姿を消した。見事なものだといつも思う。

 でも感心すると同時に、とても寂しい気持ちも味わってしまう。いつもすぐ近くにいるのに僕が声をかけなければノエルはめったに姿を見せないし、声も聞かせてくれない。ずっと当たり前になっていたけれど、やっぱりそれって悲しいことなんじゃないかと思ってしまうのだ。

いつか僕とティアナと3人で、楽しくお喋りしながら、食事とかできたらいいのに。

そんな気持ちを振り払って、僕はティアナに言う。

「じゃあ僕たちも夕方までに準備を終わらせておこう。いつもみたいに第3大隊に内密で護衛をお願いしてこなきゃね。それから財務部でひと仕事するよ」

「はい、わかりました。では行きましょう王子」

 いよいよ作戦開始だ。


  護衛(?)登場


 その後、準備を済ませた僕たちは、執務室に戻って急ぎの書類を淡々と処理していった。

 そこに夕刻近くになって、若い女性騎士が現れる。

「ういーす。お呼びにより参上しましたー」

 彼女の名前はサライ。第3大隊の騎士で、これまで何度も護衛をお願いしたことがあるのだ。だが、その言葉遣いにティアナが眉をひそめる。

「また貴女は‥‥相変わらずノリが軽すぎます」

「まあまあ。お忍びの護衛だろ?こんぐらいの方が、丁度いいってもんだよ」

 ショートカットで凛々しい顔立ちをした、なかなかの美人である。長身と、長い手足も相まって、地味な普段着ながら人目を引くほどスタイルがいい。

 だが、いかんせん雰囲気が男っぽすぎる。立ち居振る舞いからガサツなオーラが立ち上っているのを、まったく隠そうともしていない。

「やあサライ、いつもありがとう。今日もよろしく頼むよ」

「へーい、おまかせをー。あ、今日はコイツも一緒なんで。おい入れー」

 サライはそう言うと、廊下に控えていた、もう一人の人物を部屋の中へ招き入れた。

後輩の女性騎士なのだろう。騎士としてはかなり若く、まだ10代のように見える。

 剣を振る邪魔にならないようにだろう、赤みを帯びた髪を編み込んで形の良い首の後ろに垂らしている。その顔には、可憐さを残しながらも、健康的な活力が満ち溢れていた。

 その彼女に向かってサライが言う。

「いいかー、こちらが、かの有名なヘタレ王子様だ。存分に敬うがよいぞ」

「貴女が、まず敬いなさい!」

 すかさずティアナのツッコミが入る。騎士の少女は、震えながら僕の前に進み出た。

「あっ、あのっ!は、はじめまして!ソーニャと申します!今日は全力で務めさせていただきますので、よろしくお願いします!」

 先輩のサライとは違って礼儀正しいようだ。可愛らしい頬は興奮して少し上気している。

「ソーニャだね。はじめまして」

 僕がそう言うと、なぜかソーニャは、そのままピタッと硬直して動かなくなってしまった。

「あ、あれ?どうしたの?」

 心配して声をかけるが、目を見開いたまま、かすかに震えているだけだ。

「きゃ‥きゃ‥‥‥」

 なにやらつぶやいているが、明瞭な言葉にならない。

「え?どうしたの‥‥きゃ?‥‥なに?」

「きゃあああ~~~~~?!!」

「うわわわわ??!」

 ソーニャは突然大きな声を上げると、二人を迎えるために立ち上がっていた僕に素早く近づいて、ガバっと抱きついてきた。

「か、か、か、カワイイ~~~~~!!!」

「わ~~~、むぐぐっ‥‥‥‥!!」


   ティアナの不満


「なっ?!!」

 サライの連れてきた後輩がいきなり王子に抱きついたのを見て、私は一瞬何が起こったのか理解できずに固まってしまった。

 まだ若く小柄ではあるが、ほぼ、お子様体型の王子よりは、背が高い。

 その彼女が、両腕でしっかりと王子を抱きしめ、完全に密着した状態で、喜悦の表情を浮かべながら王子の髪に全力で頬ずりしている。

「ななななな、何をしてるんですか!!いますく王子から離れなさい!!」

 あわてて強引に引き剥がすと、何ということか、王子は顔を赤くして、ぽーっと目を彷徨わせている。

「王子!!大丈夫ですか?!」

「え?‥‥あ、うん。あのね。すごい力持ちなんだけど、でも柔らかくて、いい匂いが‥‥」

「誰が感想を言えと言いましたか!!」

 私が怒鳴ると、ソーニャとかいう小娘も、我に返ったように大慌てで謝罪してきた。

「あ、あのっ!すっ、すみません!!私って小さい頃から、カワイイものを見ると我を忘れてしまうことがよくありまして!そのっ、以前からカリル王子さまのことは、遠くから拝見してなんてカワイイお方なんだろうって思っていたんですけど、間近で見たら想像してたより、ずっと可愛くて、しかも私の名前を直接呼んでくださったものだから、興奮のあまり前後の見境がなくなってしまったといいますか‥‥」

「こんなの護衛失格です!!いますぐ連れて帰りなさい!!」

 私はサライを怒鳴りつける。

「いやーそうしてもいいんだけど、ウチの隊長がコイツを連れてけって言うもんだからさー」

「え?‥‥ナタリア隊長が?」

 サライの返事を聞いて、思わずピタッと動きが止まってしまった。

 ナタリア隊長は、女性騎士だけで構成される近衛騎士団第3大隊を率いる人物である。

 年齢はまだ30歳には届かなかったと思うが、自分にも部下にも厳しい性格で、うら若き乙女を集めた第3大隊を、日々猛烈なシゴキで鍛え上げているという噂である。

 また彼女自身の剣技も凄まじく、他の大隊との交流試合では、体格に勝る男性騎士たちを裂帛の気合のもと、バッタバッタとなぎ倒すと言われている。

 決して大柄ではないが、鍛え抜かれた肉体と強烈な眼光を持つ彼女は、この城で最も恐れられている人物の一人である。

「そうそう。コイツこれでもウチの隊長のお気に入りでさ。隊長の頭の中では、将来の幹部候補ってことになってるらしいんだよね。それで将来に備えて、いまのうちからいろんな経験をさせとこうって話になってて、ここへ連れて来たのも、その一環ってわけ」

「コレが‥‥幹部候補ですって‥‥?」

私は、あらためてソーニャとかいう小娘をまじまじと見つめる‥‥とてもそうは見えない。

すると彼女は、慌てて私に頭を下げてきた。

「あ、あのっ!先程は大変失礼いたしました!以後は、お言いつけ通りに行動いたしますのでどうかどうか、お許しください!」

「いいでしょう。ではまず、王子から100メートル以内の距離に入ることを禁じます」

「それじゃ護衛ができないだろ。何言ってんだ、お前は」

 サライが抗議してくるが、気にしてはいられない。

「仕方ありません。王子にとって一番の脅威が彼女なのですから、妥当な判断です」

「へー、王子にとってねえ?‥‥いや、お前さんにとってじゃないの?」

「何を言っているのか、まったく分かりませんね」

サライが、ちょっとニヤニヤしながら聞いてくるが、私は涼しい顔をして取り合わない。

するとそこに当の王子が、とりなすように言ってくる。

「まあまあティアナ。そのくらいでいいじゃない、彼女も謝ってるんだし。それにナタリアがせっかく寄越してくれたのに、無下にはできないよ」

「くっ!‥‥‥たしかに、その通りですけども‥‥!」

「ソーニャ。あらためてよろしく頼むよ」

「は、はい!!よろしくお願いします!何なりとお申し付けください!」

 王子に直接頼まれて、ソーニャはパアーッと顔を輝かせる。

「うん。まず僕とティアナは、君たちの従者に変装するからね。人前では僕たちの主人として振る舞って。いまカルバン隊長を見張ってくれてる僕の隠密が戻ってきたら尾行開始だ。なにより目立たないようにするのが大事だから、そこは注意して」

「はい!わかりました!!」

 完全に彼女込みで段取りが決まってしまった。もはや私には、黙って従うしか手はないようだ‥‥おのれ‥‥‥だが、次になにか粗相があったなら、決して容赦はしない。王子がなんと言おうと追い返してやる。


   黒歴史(痛恨)


「動き出しました。おそらく東門から城下に出ると思います」

僕たちが尾行の準備を整えてしばらく雑談しながら待機していると、ノエルが戻ってきてくれた。もう変装を済ませているので、いつものようにフードを深くかぶってはいない。

「財務部へ300リーベルを受け取りに来たのは、やはり主計長のシェルドンでした。彼が第2大隊に戻ると、入れ替わるようにカルバン隊長が出てきました」

 ノエルには先に財務部の方を見張ってもらっていたのだ。予想していたとおり300リーベルは、カルバン隊長の手に渡ったと見ていいようだ。

ちなみにノエルは男女どちらにも変装できるのだが、いまは女の子の姿だ。人目を引かないよう地味な装いをしているが、小顔で整った顔立ちは、間違いなく美人の部類に入ると思う。なんてことを考えたせいで、僕はノエルに初めて会った日のことを思い返してしまった。


「陛下から、そろそろカリル殿下にも、隠密をつけてやれと言われましたのでな。一人選んで連れてきました。名はノエルと言います」

 あの日、そう言って隠密組織の頭目であるオズボルドが、僕の部屋に一人の小柄な人物を連れてきた。そのことはあらかじめ父上から聞かされていたので、どんな人が来てくれるのだろうかと、僕はドキドキしながら待っていたのだ。その人は一見すると僕と同年代のように見えた。なんだか僕はそれだけで、嬉しくて仕方がなくなってしまった。

「ただ、こいつは美人すぎて、本来は隠密向きではないのですがね」

たしかにそうだと思った。男の子なのか女の子なのか分からないような服装をしていたけれど、どちらであったとしても綺麗な人だった。

「美人なんかじゃ、ありません‥‥」

ノエルと紹介された人物が、ちょっと不機嫌そうに言う。どういう訳か、あまり僕のほうを見ないようにしている。

そして声からも男女どちらなのかは判断できなかった。でもオズボルドが「美人」って言葉を使ったのだから女の子なんだよね、とは思ったけれど確信はもてなかった。オズボルドが話すだろうと思っていたのに、何も言わなかったからだ。まさか本人が目の前にいるのに、そんなことを聞くわけにもいかないと思っていると。

「ま、優秀なのは請け負いますから、お好きなようにお使いください。では私はこれで」

と言うと、さっさと帰ってしまったのだ。

え?‥‥いくらなんでも帰るのが早すぎない?いったいなにを話せばいいんだろう?

「え、えっと‥‥‥ノ、ノエルだったね。これからよろしく。僕の名前はカリルだよ」

どうしようかと思いながら声をかけた。すると、

「わざわざ名乗らなくても知っています。当たり前じゃないですか、馬鹿なんですか?」

「そ、それもそうだね、あはは‥‥」

なぜだか最初の第一声で罵倒されてしまった。本当になんでだろう?

「‥‥失礼、言葉が過ぎました」

「い、いや大丈夫だよ。それでこれからのことなんだけど‥‥」

「それよりまず先に、これから護衛するにあたって部屋の中を調べさせてください」

そう言ってノエルは、執務室と寝室と当時の侍女の部屋を詳しく調べ始めた。そして、くまなく確認すると、

「ではこれより護衛の任務につきます。御用がありましたら、いつでもお声をかけてください」

と言って、そのまま姿を消してしまったのだ。残された僕は呆然として立ち尽くす。できれば僕のところへ配属された経緯とか、いろいろお話をしたかったのに‥‥‥。

あとべつに姿を隠さなくても護衛はできるんじゃないのと言いたかったのだけど、完全にタイミングを外されて言えなくなってしまったのだ。そして情けないことに、ずっとその関係のまま今日に至っている。街の様子を見てきてほしいとか簡単な依頼をして、そのついでに話しかけてみたりもしたのだけど、どうにもうまくいかなかったのだ。

まあそれはともかく、ノエルは僕がお願いすれば、こうして何でもこなしてくれるのだ。


「ありがとうノエル。よーし、先回りして隠れて待ち構えよう!」

 そう言ってみんなを促そうとするが、ノエルが何か言いたそうにしている。

「あれ?‥‥ノエルどうかした?」

 僕が声をかけると、ノエルが言いにくそうに口を開く。こんな態度は初めて見る気がする。

「あの‥‥いまさらなのですが、王子が尾行に参加する必要があるのでしょうか?私一人でも必要なことは調べて来れますけど‥‥」

「それな!」

 サライがすかさず反応する。

「いやー、言いにくいことをズバッと言ってくれちゃって!どうする王子様?遠回しじゃなくて足手まといだって言われてるぜ」

「もうちょっと、遠慮して話してもらえませんか?!」

「いやー、こういうことはハッキリ言ったほうがいいと思うんだよねー」  

 ティアナに怒られても、サライはどこ吹く風だ。そこにソーニャも会話に加わる。

「あのっ!わたしは王子さまも、いらっしゃった方がいいと思います!直接ご覧になった方がいいと思いますし、わたしもできれば王子さまとお出かけしたいですから!」

「‥‥お前はもうちょっと、自分の欲望を隠せ。あそこの侍女が凄い目で睨んでるから」

 ティアナが、目許をヒクつかせながら僕に聞いてくる。

「王子‥‥どうしますか?たしかにノエルさんだけでも、大丈夫な気もしますが‥‥」

 みんな、それぞれ考えがあるようだ。でも僕の気持ちはもう決まっている。

「僕も行くよ。だって面白そうじゃないか」

「え?」

「カルバン隊長を尾行して、弱みを見つけようっていうんだ。最高に楽しいに決まってるよ」

「は、はあ‥‥」

「いままで、さんざん泣かされて、ずっと我慢してきたんだ。ようやく恨みを晴らせるっていうのに人任せになんてできないよ!ククク、カルバン隊長め。リミッターの外れた僕の恐ろしさを思い知るがいい!」

 僕は悪役じみた口調でニヤリと笑ってみせる。だがそれを見て、サライとティアナがコソコソと囁きだした。

「‥‥‥大丈夫かこれ?なんかヤバい方向に目覚めてるんじゃないか?」

「大丈夫‥‥‥だと思いますよ。ええ、きっと‥‥」

 答えるティアナの声もすこし不安そうだ。僕が急に言葉遣いを変えたので、どうかしちゃったんじゃないかと心配しているのだろう。

 やれやれ、困ったものだね。長いこと僕に仕えているというのに、僕の覚醒について来られないとは‥‥‥仕方ない。説明してあげるしかないようだね。秘められし真なる力に目覚めたこの僕の‥‥‥。

と僕が、いままさにカッコいいセリフを決めようとしていたタイミングで、

「あ、蜂です」とソーニャが声を上げた。

 彼女の言う通り、ブーーンという羽音を響かせて一匹の蜂が執務室の中に迷い込んできた。そしていったい何を考えているのか、まっしぐらに僕の方へと向かって飛んでくる。

「わあああっ!ハチだよっ!怖いっ!怖いよっ!お願いっ!あっちに行って~~~~!」

 僕は思わず大声を上げながら、両手で頭を抱えてしゃがみこんだ。

 すると、僕のお願いを聞いてくれたのかどうかわからないけれど、蜂は何もせずに、入ってきた時と同じように、ブーーンと入り口から飛び去っていった。

「‥‥‥‥‥‥‥‥大丈夫なようですね。いつもの王子です。間違いなく」

「ああ間違いない。いつも通りの、ヘタレ王子さまだ」

 ティアナとサライが安心したような、でもちょっと冷めたような声で話している。

それを聞きながら、僕は立ち上がることができずにいた。そのままの体勢でプルプルと恥ずかしさに耐え続ける‥‥まだ出かける前だというのに、とんでもない黒歴史を作ってしまった‥‥‥‥一体何がいけなかったのだろうか?まったくわからない。

ともかく、秘められし第二の人格を披露するのはお預けにしよう。いろいろと危険すぎる。全力でなかったことにしなければ‥‥。

たぶん、まだ恥ずかしさで顔が赤いと思うけれど、僕は黙って立ち上がり、しばし瞑目してからノエルに向きなおった。ちょっとおかしな方向に暴走しかけたけれど、僕の考えをきちんと伝えておきたかった。

「‥‥‥コホン‥‥‥というわけでノエル、僕も行くよ」

 話しながら心を落ち着けて、あらためて自分の気持ちを確認する。

「たしかに君の言うとおりだよ。僕が行かない方がいいのかもしれない。でもね、僕はこれを自分のための儀式だって思いたいんだ‥‥いままでの僕とは違うんだってことを、自分自身に知らしめるためのね。だからノエル‥‥‥完全に僕のワガママだし、足手まといだってことはわかっているけど、僕も行きたいんだ」

そう言うと、ノエルはしばらく黙って僕の顔を見ていた。いつものように、フードの陰からじゃなくて、直接その静かな目で僕を見つめている。

「‥‥わかりました。そういうことでしたら、もう何も言うことはありません。わたしも全力でお手伝いします」

「うん、ありがとう。あらためてよろしくね」

「はい‥‥‥あ、私が余計なことを言ったせいで、すっかり時間を取られてしまいましたね。早く行かないと、先にカルバン隊長が城門から出てしまいます」

「余計なことなんかじゃないよ。よし、急がないとね。ちょっと目立っちゃうかもしれないけど駆け足で東門へ向かおう!」


   尾行開始


 僕たちは急いで、でも最後はさりげなく東門の人の出入りを物陰から覗ける場所に移動した。

 城門では多くの人が行き交っている。出入りの商人もいれば、城外の住居から通う文官たちもいる。さらに騎士や兵士や侍女や下女たちのように、普段は城内に住み込みで働いて、非番の日に城外の家族に会いに行ったり、遊興を求めて街へ繰り出す者たちもいる。

 彼らの通行は、すべて城門の詰め所で手形と照らし合わせてチェックをされる。城に入って予定の時間まで出ていかなかったり、逆に城の外に出たまま帰ってこない人間がいたら、すぐに分かるようになっているのだ。チェックしやすくするため、特別な許可がない限り、全員が出入りする門をそれぞれ一箇所に限定されている。騎士を含めた兵士たちはこの東門だ。

夕刻になって城の外に出ようとする人間が多いので、詰め所では、人員を増やして対応しているらしかった。

「ど、どうかな?‥‥さ、先回り出来たと思う?‥‥はあ、はあ‥‥」

「たぶんですが、大丈夫だと思います」

 そうノエルが答えてくれるが、サライからは容赦のないコメントが返ってくる。

「しっかし、王子様は体力がなさすぎるんじゃないか?ちょっと駆け足しただけで、もう息が切れてるのかよ?」

「王子は、生まれつき身体が丈夫ではないんです!」

 ティアナが、ムキになって反論してくれる。

「はあ、はあ‥‥ごめんね‥‥普段あまり身体を動かさないから‥‥うん、もう大丈夫だよ」

 足手まといになりたくないと思っていたのに、出だしから情けない姿を見せてしまった。

そこへソーニャが、笑顔で両手を差し出してくる。

「大丈夫ですよ、王子さま!お疲れになったら、私が抱き上げて運んであげますから!」

「いや、遠慮するよ‥‥そんな尾行おかしいよね?目立ちまくりだよ」

「そこの小娘は、もっと王子から離れなさい!」

ティアナは、シッシッとばかりにソーニャを追い払おうとしている。

 みんなこっそり物陰に隠れてるってことを、忘れてるんじゃないだろうか?僕たちが騒がしくしている間も、ノエルは東門に続く大廊下を見張ってくれている。ノエルがいま何を考えているのかが僕はとても気になった。間違いなく、やっぱり一人で来たほうが楽だったと思っているだろう。するとそのノエルが声を上げた。

「来ました。一人です」

 僕たちは、ハッとなって大廊下に視線を向ける。たしかに奥の方から巨漢のカルバン隊長が歩いてくるのが見えた。サライが面白そうに言う。

「へえー、やっこさん、やけにご機嫌じゃないか。いつもは偉そうに威張り散らしながら歩くくせによ」

 たしかに見ているとカルバン隊長は、上機嫌ですれ違う誰彼に、気さくに声をかけたりしている。鼻歌まで歌っているみたいで本当に楽しそうだ。だがティアナは、それが我慢ならないようだ。

「ほう‥‥王子をさんざん泣かせておいて、自分はご機嫌とは‥‥‥‥‥ゆるせん‥‥やはり地獄に落ちてもらうしかないようですね」

 暗い顔で呪詛の言葉を吐いている。僕のために怒ってくれているのは嬉しいんだけど、ちょっと怖い。するとまたノエルが言う。

「いえ、でもあれは‥‥‥なんというか、単純に機嫌がいいだけではないような気がします」

「え、どういうこと?」

「はっきりとは言えないのですが、何か大きな心配事があって、それを忘れるためにわざと明るく振る舞っているようにも見えるのです」

「ふーーん‥‥?」

 僕にはわからないが、そうなのだろうか?そこにサライが冷静に指示をしてくれる。

「詮索は後だ。さあ、そろそろ追いかけるぜ」

「そうだね。じゃあノエル、手はず通りに頼むよ」

「わかりました。お任せください」

 そう言ってノエルが、行き交う人々に溶け込みながら、カルバン隊長を尾行し始めた。

 さらにそのノエルを見失わないように、僕たちが追いかけるというわけだ。これでカルバン隊長に尾行がバレることはないだろう。


 完璧な作戦だと思っていたのだが、城外へ出てすぐに、僕たちは大きな問題に気がついた。

ちょっとしたはずみで、僕たちがノエルを見失ってしまいそうになるのだ。

「あれ?‥‥あれ?‥おかしいな。目が悪くなったのかな?」

サライたちが戸惑っている。

「先輩!わたし目の良さには自信があったんですけど、時々、見失いそうになります!」

「これは‥‥ノエルさんの気配を消すスキルが、高すぎるということなのでしょうか?まさかこんなことになるなんて、思いもしませんでした」

 ティアナの言葉に僕もまったく同感だった。

 ノエルを注視しているはずなのに、気がつくと、いつの間にか漫然と街の景色を眺めてしまっているのだ。

ノエルの姿が雑踏に溶け込みすぎて、ノエルを見ているのか景色を見ているのか、時々わからなくなってしまう。四人で後を追っているからなんとかなっているが、もし一人だったら、どこかのタイミングで見失っていただろう。相手にバレないように尾行した結果、そうなったというならまだ話もわかるが、堂々と追いかけていながら見失ってしまうなんて、シャレにもならない。後ろから見ていてこれなのだから、もし逆の立場だったなら、絶対に尾行されていることに気がつかないだろう。


 予想外の苦戦をしながらも、すこしずつ慣れてきて、僕たちは追跡を続けることができた。

 サライが歩きながら、ほくそ笑んでいる。

「よーし、やばかったけど、なんとかいけそうだな。クックックッ。王子も言ってたけど、あのオッサンの弱みを探るなんて最高の仕事だぜ」

「やっぱりサライも、カルバン隊長にはいい印象を持っていないんだね」

「ああ。口を開けば、どこそこの戦場ではどうだったとか、そんなことでは殺し合いでは役にたたんぞとか偉そうなことばかり言いやがるからな。そのくせ、ウチの隊長が練習試合を申し込むと、なんやかんや言ってうまく逃げやがる。みんなあいつのことは、ハッタリ野郎だと思ってるぜ」

「え?‥‥ナタリア隊長って、ひょっとしてカルバン隊長よりも強いんですか?」

 ティアナが目を丸くしているが、僕も同感でびっくりした。

「ま、そこはやってみなきゃわからないが、3本やれば、最低でも1本はウチの隊長が取ると思うぜ。うっかり恥をかきたくないから、もったいぶったようなことを言って応じないのさ」

 あの巨漢のカルバン隊長から、女性であるナタリアが3本中1本でも勝つだなんて、事実だとしたら恐ろしいことだ。いまちょうどノエルの常人離れした隠密スキルを目の当たりにしていることもあって、僕たちのお城には優秀な女性たちが集まっているのだと実感する。

「そういえばソーニャはどうなの?なにかカルバン隊長への印象とかある?」

 ふと思いついて話を振ってみる。

「はい、あります!いますぐ死ねばいいと思っています!」

 元気よく、最悪のセリフが返ってきた。

「ど‥‥どうしてなのか聞いてもいい?」

「合同訓練で構えを指導するとか言って、何度もお尻を触られました。あんなセクハラジジイは鎧を着たままお城の堀に落ちて、溺れて死ねばいいと思います!」

「やはり、最低な男ですね」

 ティアナのカルバン隊長に対する評価も下がりっぱなしだ。二度と浮上することはないだろう。


「思った通りだね。ドマニ地区に向かってるみたいだ」

 僕たちは、街を覆う夕闇の中、目的の場所へ近づいていく。

大通りから少しずつ細い通りに入っていき、中級市民たちの家が立ち並ぶ地区の、すこし奥まった路地に、その小さな家は立っていた。

 窓から灯りがもれて、夕餉のいい香りが漂っていた。どうやらなかなかのご馳走が用意されているようだ。先に到着していたノエルが報告してくれる。

「カルバン隊長が戸を叩いて声をかけると、すぐに若い女が顔を出して中に招き入れました。おそらくここへは何度も来ているのでしょう。女性の年齢は20代半ばほどです」

「やはり愛人の家ということで間違いないようですね」

と、ティアナが言う。

「うん、そうみたいだね」

「それで、これからどうしますか?」

「中の様子を窺いたいね。建物の中に、こっそり忍び込めたら一番いいんだけど」

「たぶん、裏口があるはずです。調べてきましょう」

 ノエルはそう言うと、音もなく家の裏手に回っていった。

 それを見てソーニャが感心して言う。

「すごいですね彼女。優秀すぎます」

「本当だね‥‥あ、でも「彼女」かどうかはわからないよ。いまは女の子の格好をしてるけど実は男性なのかもしれないんだ。僕もそこのところは知らないんだよね」

「え?そうなんですか?‥‥うーん、でもやっぱり女の子だと思いますよ。雰囲気でそう思うんですけど。先輩はどう思います?」

「女だろ。間違いない」

サライは迷うことなく断言した。

「ええ?‥‥ティアナはどう?喋ったことはないだろうけど、何度も会ってるよね?」

「あの‥‥あえて言いませんでしたけど、ずっと女性だと思っていましたよ‥‥」

「え‥‥‥そうなの?‥‥‥‥もう何年も護衛をしてもらって、僕が一番多く話してるのに、ずっと男か女か分からないと思ってたんだけど‥‥」

 僕がそう言うと、その場にちょっと‥‥どころではない冷たい空気が流れたみたいだった。みんなが僕の顔をなんとも言えない表情で見つめている‥‥‥‥なんだろう。思い違いかもしれないけれど、みんなの目が「こいつマジか?」って言っている気がするんだけど‥‥。

 するとそこに、ノエルが静かに戻ってきた。

「やはり裏口がありました。鍵がかかっていましたが、解錠しておきましたので入れますよ」

 有能すぎる。僕なんかにはもったいないほど優秀な人材だ。それについて何か一言、言おうとしたのだけれど、どうも上手く言葉が出てこない。さっきみんなに言われたことが気になっているのだ。

もちろん本人に確認したわけじゃないんだから結論が出たわけじゃないし、さらに言えば別にそのことで僕が態度を変える必要はないのかもしれない。そもそもノエル自身が性別を隠してきたのだから、いままで通りに接するのがむしろ正解なのだろう。だけども僕は、何かとんでもない間違いを犯し続けてきたんじゃないかという思いに、強く襲われてしまっていたのだ。

「あの‥‥‥王子、どうかしましたか?」

「い、いや、なんでもないよ!さすがだねノエル。よし、じゃあみんなで裏にまわろう。気づかれないように注意して」

 僕が促すと、裏手にまわるべくノエルがみんなを先導して建物の脇のせまい隙間に入っていく。それにサライがボヤきながら続いた。

「やれやれ、コソコソするのは、あんまり得意じゃないんだけどな」

 そのまた後に、ティアナが僕に注意を促しながら続く。

「王子、足元に気をつけてください」

「うん、暗いから気をつけないとね」

 そして最後にソーニャが僕の後ろから‥‥。

「ハアハア‥‥‥お、王子さまの、うなじが目の前に‥‥‥ふおおおお!」

 ‥‥興奮した息づかいと不謹慎なつぶやきが聞こえてくる。お願いだから自重してほしい。ティアナに聞かれでもしたら、きっとコッソリ忍び込むどころじゃなくなってしまうだろう。


   潜入


 若干の問題はあったが、なんとか勝手口のある建物の裏手にまわり込むことができた。

「ノエル、入っても大丈夫かな?」

「さっき軽く覗きましたが、入ったところが台所の奥になっています。念のため、もう一度中を確認して来ますので、ここでお待ち下さい」

「気をつけてね。ノエルに何かあったら、絶対に助けに行くから」

「‥‥‥‥‥では、行ってきます」

 勢い込んで言うけれど、いつものように冷静に返された。ちょっと呆れられたかもしれない。

 僕たちはしばらくその場で、ノエルが帰るのを待ちながら建物の様子を窺っていた。

中では、お酒を飲みながら食事をしているのだろう。時折、カルバン隊長の大きな話し声や笑い声が聞こえてくる。

そのたびに僕はビクッと身構えてしまうのだが、中でノエルが見つかった様子はないみたいだった。そんな僕を見かねて、ティアナが声をかけてくれる。

「王子。そんなに心配せずとも大丈夫ですよ。ノエルさんなら、きっと上手くやってくれます。信じて待ちましょう」

「そうだね。うん、すこし落ち着いたよ。でも、もしノエルがカルバン隊長に見つかったら見捨てるなんてできないからね。不法侵入がバレちゃうけど仕方ない。みんなで乗り込むよ!」

「‥‥わかりました。どこまでもお供します!」

「やれやれ、護衛対象が無茶するなら付き合うしかないよなあ‥‥‥おいソーニャ。覚悟しておけよ。あのオッサンがトチ狂って王子に手を出すようなら、遠慮はいらねえ。容赦なくぶった切ってやれ!」

「はい、先輩!腕がなります!」

「二人ともありがとう。ごめんね、厄介なことに巻き込んじゃって」

「なーに、いいってことよ。オレもあのオッサンには、いい加減ムカついてたからな」

サライは大したことじゃないように言ってくれるが、そんなはずはない。事と次第によっては騎士団をクビになるかもしれないのだ。

「ま。とはいえ、そんなことにはならないだろうけどな」

「え、そうなの?」

「ああ、仮にアイツが運悪く見つかったとしても、酒の入ったオッサンに捕まるようなヘマはしないだろうさ」

「それなら、いいんだけど‥‥」

 僕としては、もちろんそうなってくれたほうが、ありがたい。

 ところが、そうじゃないメンバーもいるようで。

ソーニャが不満そうに言う。

「えー、それじゃつまらないですよ!せめて一発ガツンと叩き込んでやらないと!」

「良い考えです。トドメはぜひ私にやらせて下さい。台所にある包丁を、全部突き刺してやりましょう」

そしてティアナは、相変わらず冷静な口調で怖いことを言っている。

「ねえ、みんな落ち着いて。確かに僕が乗り込むなんて言っちゃったんだけど、あくまでそれは、最悪のケースの話だからね」

「王子、残念ながらもう手遅れです。穏便に済ませるなんて段階は、とうに過ぎてしまったのですよ。もはや血を見ない限り、この場を納めることなんてできません」

「いや、いつそんな話になったの?!」

 僕が話の展開に唖然としているまさにその時、目の前の通用口が、音もなくスッと開いた。

「お待たせしました。もう酒も料理も居間に運ばれた後のようなので、台所に戻ってくることはないと思います。お入りになっても大丈夫‥‥ですけれど‥‥‥」

 ノエルが無事に戻って来てくれたのだ。中の様子を説明してくれるが、気勢を上げかけている僕たちの様子を見て、少し戸惑っているようだ。

「あの‥‥‥忍び込むってことでよろしいんですよね?殴り込みじゃなくて」

「もちろんだよ!殴り込むなんてしないから安心して!」

 僕がそう言っても、ちっとも安心できないみたいだ。疑わしそうな目で見てくる。

「はあ‥‥‥分かりました。ではうしろに続いてお入り下さい。台所から廊下への出入り口には扉はありませんが、左右に別れてその陰に隠れましょう。それで居間の会話が聞けると思います。ただしカルバン隊長たちが居間からお手洗いに行く時には、その出入り口の前を通りますから、その時は気をつけて下さい」

「わかったよ。よーし、いよいよだね!う~ドキドキしてきた!さあ、みんな行こう!」

そんな威勢のいいことを言ってから、いまさらだけど本当にドキドキしてきた。

自分はいったい何をしようとしているのか。無断でコッソリ忍び込むなんて、明らかに犯罪行為じゃないか。

バレたときにカルバン隊長からどんな言葉で怒鳴られて、なじられるのかと思うと、足がガタガタするほど怖くなってしまう。「ねえ、やっぱり今日はやめて帰ろうか」なんてセリフが喉元までせり上がってきた。いますぐ回れ右して帰りたい。

そんなことを考えていると、僕の背中に後ろからそっと、小さな手のひらがそえられた。

誰の手かは見なくてもすぐにわかった。ティアナの手だ。掴むわけでも押し出すわけでも引っ張るわけでもなく、ただ添えられただけだったけれど、その手のひらの体温を感じたとき、僕の身体の奥からかすかな、でもたしかな勇気が生まれるのを感じた。

大丈夫。よし行こう。

僕はなるべく何事もなかったかのような顔をして、わずかに足が震えるのがバレないように気をつけながら、通用口をくぐって建物の中に入った。

 中は灯りがなくて暗かったけれども、ノエルが言った通り、台所から廊下へ出るための出入り口には扉がなく、ただ壁に長方形の開口部が空いているだけだった。そこから、わずかに居間の明かりがもれてきている。台所はそれほど広くはなかったけれども、たしかに出入り口の左右には少しスペースがあるので、詰めればみんなで隠れることができそうだ。

 ノエルが先に進み、出入り口の左側に身を潜めて僕を手招きした。

 僕は足音をたてないように、そちらに向かう。うしろにはティアナが影のように寄りそってくれている。手のひらはそえられたままだ。一緒に歩きながら、僕は彼女と心の深い部分で繋がっているような気がしていた。

「王子。鍋や瓶を引っかけて落とさないように気をつけて下さいね」

「うんわかったよ。ティアナありがとう」

建物の中に入ったことで、カルバン隊長と女性の声が、はっきりと聞こえるようになった。相変わらず物凄く怖いけれども、もう引き返したいとは思わなかった。

 出入り口の左側に、開口部から近い順にノエル、僕、ティアナと並んで身を潜める。反対の右側にはサライ、ソーニャの順で隠れることになった。

 僕たちが小声でヒソヒソ話すぶんには、居間まで声が届くことはないだろう。さっそくソーニャが発言する。

「あの~、わたし、こっちじゃなくて王子さまの側がよかったんですけど‥‥‥誰かかわってもらえませんか?」

 サライが呆れながら言う。

「お前はマジでブレないよな‥‥ある意味、尊敬するぜ」

「絶対に却下です。おとなしくしてなさい。あと、その興奮した目つきで王子を見るのをやめなさい。気持ち悪い」

ティアナが冷たく宣告する。普通はこんなに冷酷にダメ出しされたら、大抵の人は大人しくなると思うんだけど、ソーニャは一向にこたえる様子がない。

「それはしょうがないですよ。王子さまが可愛すぎるのがいけないんです!あ~ティアナさんが羨ましいです。わたしもいつも王子さまのお側で働けたらいいのに‥‥‥あ、そうだ!ティアナさんからウチの隊長に、わたしが王子さまのお付きの護衛になれるように推薦していただけませんか?」

「そんなこと、するわけないでしょう!なにを言っているんですか、貴女は?!」

 僕をはさんで、二人が本来の目的からかけ離れたやり取りをしている。なにをしに来たのか完全に忘れているようだ。ついに耐えられなくなったのかノエルが声を上げる。

「あの‥‥‥話が聞き取りづらいので、黙っていてもらえませんか?」

 まったくその通りである。今度こそノエルは、一人で来た方がよかったと思っているに違いない。いままでのところ僕たちの存在は、お荷物の邪魔者以外の何者でもない。

「そうだよ、みんな静かにしよう。ティアナもお願いだから落ち着いて」

「はい、わかりました王子さま!」

「くっ!申し訳ありません‥‥おのれ‥‥‥小娘のせいで‥‥」

 ティアナは悔しそうだ。ちなみに何度も小娘とか言っているが、ティアナとソーニャはたぶん同い年くらいだろう。わざわざ指摘したりはしないけれど。

とそこに居間の方から、カルバン隊長の話し声が聞こえてきた。


「いまさらだが、この国の騎士どもの軟弱ぶりと言ったら目も当てられんわ。どいつもこいつも、弱っちい、へっぴり腰で、まともに剣も振れんのだからな。見かねてワシが手本を見せてやると、目を丸くして「私達には一生かかっても、そんな凄い素振りはできません!」なんて言う始末よ。ここだけの話、ワシがいるからいいようなものの、そうじゃなかったら、とてもとても戦争なんかできるシロモノじゃあないぞ!」

 職場の愚痴を言っているように見せかけているが、ようは自分がいかに必要不可欠な人間なのかのアピールである。そのおかげで王国の近衛騎士団が、ひ弱な集団にされてしまっているようだ。暗がりで耳を澄ましているサライが厳しい目つきになる。

「言ってくれるぜ。次の合同訓練のときには、そのへっぴり腰で一撃食らわせてやるから覚悟しておけよ」

「本当にダーリンのお仕事って、大変なのねえ。同情しちゃうわ」

 愛人の女性がカルバン隊長を労っているが、それにソーニャがこっそりとツッコむ。

「大変じゃないですし、同情の必要もありませんよ。ただ威張り散らして、ハッタリをかますだけの簡単なお仕事です」

 ずいぶんな言われようだけど、きっと事実なのだろう。

 と、そこで女性が急に、別の話を始めた。

「そうだ!大事なことを思い出したわ。ねえダーリン。例のあの話って考えてくれてるの?」

 なんだかその新しい話題を出した途端に、それまでとは女性の声の調子が変わった気がした。ここからが本題だぞと言わんばかりだ。返事をするカルバン隊長の声も、さっきまでの豪放磊落な感じではない。

「え‥‥?あ~~うん、あれね‥‥もちろん考えてるぞ、うん‥‥」

「ほんとお?」

「も、もちろん!もちろん本当だぞ!ワシが嘘なんか言うわけがないだろうが!」


サライが、ちょっと唖然としている。

「おい、オッサンどうしたんだ?いきなり、しどろもどろになりだしやがったぞ」

ティアナが、獲物を狙う猫のような眼で答える。

「どうやら、話の核心に迫ってきているようですね」


「それならいいんだけど‥‥‥‥じゃあ、いつ?」

「えっ?」

「いつになったら、わたしのお店を開いてくれるの?」

「い、い、いつってそりゃあ‥‥‥まあ、あれだよ‥‥」

「あれって、なあに?」

「あれはあれだ‥‥つまり‥‥」

「つまりい?」

「‥‥‥‥‥‥‥ワシ!おしっこしてくる!!」

「ええっ?!」

「すまん!さっきから我慢しとったんだ!」

「もう!やだあ!早く行ってきてよ!」


「オッサン大丈夫か?ガキみたいな、ごまかし方してるぞ」

「さすがに、あれは酷いですね‥‥」

 二人とも呆れているが、ノエルが注意を促す。

「みなさん喋っている場合じゃないです。トイレに行くならこの前を通りますよ」

「そうだった。みんな静かに!隠れて隠れて!」

「おっと、いけねえ。そうだった」

 僕たちは慌てて壁に張り付いて、暗がりのなかに身を隠した。廊下から見たら気がつかないはずだ‥‥‥と思う。そのすぐあとにカルバン隊長の足音が聞こえてきた。

 想定はしていたけど心臓に悪い。バックンバックンと信じられないほど鼓動の音が大きくなり、自分がまっすぐ立てているのかどうか不安になる。無意識に右手でティアナの左手を掴んでしまった。ティアナの手も汗ばんでかすかに震えている。するとカルバン隊長は、台所の前まで来ると、ゆっくりと足を止めた。

‥‥‥‥え、まさか見つかった‥‥‥?

僕はビクリと身体を震わせて眼をつぶり、ティアナの手を強く握りしめた。と、そこに。

「はああああああ~~~~~~!」

カルバン隊長の、長~~い、ため息が聞こえてきた。

「いつって言われてもなあ‥‥‥ああ困った‥‥どうすりゃいいんだ?」

 ‥‥どうやら僕たちが見つかったわけじゃないみたいだ。カルバン隊長は心底、困りきったようにつぶやくと、重い足取りでトイレへ入っていった。


ティアナが小声で、僕に言う。

「どうやらカルバン隊長は、お店の開店資金までは、出してあげる気はないみたいですね」

「そうみたいだね。でも、それを相手の女性に言い出せずに困っていると‥‥ノエル、この家のローンの残額は、ちょうど300リーベルだったよね?」

「はい、不動産屋で確認しましたから、間違いありません」

「ということは、ひょっとして‥‥‥あっ」

 僕がそこまで言ったところで、またトイレのドアが開く音がした。


ふたたび身を潜ませていると、カルバン隊長が、また台所の前で立ち止まってなにやらつぶやき出した。

「こんな予定じゃなかったのに‥‥‥今日はローンの残りの300リーベルを渡して、それを手切れ金に別れ話をするはずだったんじゃないか。それがなんで店の開店資金を出すの出さないのの話になっとるんだ?おかしいじゃないか?ああ~~日頃、調子のいいことばかり言っていた自分が心底恨めしい‥‥」

 どうやら壁の向こうでこちらを向いて、両腕と頭を壁に押し付けながら、独り言を言っているらしい。ときおりドンドンと弱々しく壁を叩く音が聞こえる。壁一枚はさんで僕たちが聞き耳を立てているなんて、思いもしないのだろう。

「陛下のお墨付きをいただいて、テレンス子爵のお嬢さんとの婚約が決まったんだ。あんな商売女といつまでも付き合っていられるか。今日で終わりにしなきゃイカンだろうが‥‥だいたい、いままでさんざん金をつかって、いい思いをさせてやったんじゃないか。おまけに手切れ金にこの家をタダでもらえるんだぞ。不満なんかあるはずがない。そんなことを言ったら怒鳴りつけてやる!うん、そうだ!それで解決じゃないか!」

 壁に向かいながら一生懸命、自分を鼓舞している。こんな時に不謹慎かもしれないけれど、聞いている僕はちょっと楽しくなってきた。

「そうだな‥‥こんな感じで切り出そう‥‥「おい、何も聞かずにワシと別れてもらおうか。この家は手切れ金代わりにお前にやる。そのかわり、今後はワシを見かけても話しかけるな。ワシと付き合っていたことを人に喋ってもイカン。わかったか。わかったならハイと言え」だ‥‥‥‥‥‥うむ。よし決まった!これで行こう!」

 と、ちょうどそのタイミングで、居間から女性の大きな声が聞こえてきた。

「ダーリーーン!!ねえーーー!まだなのおーー?!!」

「ハ、ハーーイ!!いま行く!!いま行く!!」


カルバン隊長は慌てて居間へ戻っていった。せっかく決意を固めたのに、台なしというか、あんまり意味がなかったみたいだ。サライが必死に笑いをこらえている。

「クククッ‥‥‥ププッ‥‥まさかあのオッサンのこんな独り言が聞けるとはな‥‥‥やべえ息が苦しい‥‥ゲホッゲホッ!」

「普段あんなに偉そうにしてるくせに、恋人の前では、てんでだらしないですね。本当に男というやつは‥‥あ、王子さまは違いますよ!王子さまは別です!」

「当たり前です。王子をあんなヒゲジジイと一緒にしたら許しませんよ」

「まさか自分からペラペラ喋ってくれるなんてね。おかげで事情がすっかり知れて大助かりだよ。それもこの場所に隠れようって言ってくれたノエルのおかげだよね」

「いや‥‥そんなことを言われましても‥‥どう考えても偶然でしょう?」

「偶然かもしれないけど、それでもノエルのおかげだよ。ありがとう!」

「‥‥言っている意味が、わかりませんよ」

ノエルはそっぽを向く。もしかしたら頬が赤くなっているのかもしれないけれど、暗いのでよくわからなかった。そこにサライが話を戻してくる。

「そういや、さっき言いかけてたけど、300リーベルを手切れ金にして別れたがってるって言おうとしたんじゃないのか?」

「そうなんだよ。当たってたみたいだね。でも‥‥」

「この分じゃ、すんなり別れられそうにないみたいだな」

「そうみたいだね‥‥でも不思議だね。カルバン隊長は、あの女の人がそんなに怖いのかな。まあ僕もティアナには、てんで頭が上がらないから、同じようなものかも知れないけど」

「いや~、それとはまた違うと思うぜ。いわゆるホレた弱みってやつさ」

「ふ~~~ん?」

 わかるような、わからないような話だった。僕自身はティアナはもちろん、世の中のすべての女性に頭が上がらないと思っているのだけど。


「スマン、スマン、待たせたな!」

「もう!おーそーいーー!」

 居間では、また二人のイチャイチャが再開されたようだ。

「ねえダーリン。これ美味しいのよ、もっと食べて!はいアーーン」

「アーーン‥‥‥‥うん、確かにこりゃ美味いな!」

「でしょ!嬉しい!もっとあるのよ。いっぱい食べてね」

「おお、わかった。酒も美味いし最高だな!」

 あっという間にカルバン隊長は、またごきげんだ。ついさっき悩みまくっていたことなど、もう忘れてしまったかのようである。

それを身を潜めて聞いている僕たちだけど、護衛の二人は早くも飽きてきたようだ。

「‥‥なあ。コレずっと聞いてなきゃいけないのか?そろそろ、うんざりしてきたんだけど」

「そうですね先輩。若いイケメンならともかく、オジサンのイチャイチャなんて聞いても気持ち悪いだけです。早いとこ修羅場にでもなんでも、なればいいのに」

 ティアナが呆れて言う。

「貴女たち飽きるのが早すぎませんか?もうちょっと我慢してください」

「いやいや、コレは結構な拷問だぜ。マジでつらい」

「同感です。これ以上は耐えられそうにありません」

「二人とも、それでも騎士なんですか?そんなことで城内の徹夜の警備なんかは、どうしてるんです?」

「それはあれだ‥‥しりとりとか、しりとりとか‥‥‥あと、しりとりとか‥‥」

「時間を潰すのが、大変なんですよね~」

「‥‥なんですって‥‥」

 ティアナは呆れを通りこして、もう言葉が出ないようた。僕もさすがに唖然とする。僕の中にあるカッコいい騎士団のイメージが、大きく損なわれてしまった。

「しかも、うっかり居眠りしてるところを隊長に見つかりでもしたら、ケツが真っ赤になるまでぶっ叩かれるからな!」

「わたしも一度見つかって叩かれたことがあります!あのときは一週間くらい椅子に座りたくなかったです!」

「オレなんか、ちょうど次の日が遠駆けの訓練だったからな。丸一日、馬にまたがりながら、地獄の苦しみを味わったぜ。あのときはマジで、ケツの痛みが死因で死ぬかと思った」

「うわ~~やめてください!想像しただけで痛くなってきました!」

 なんだか完全に職場の愚痴を言う場になってしまっている。それを聞いているティアナの顔が、なにやら不穏な色を見せ始めた。

「それ以来、絶対に居眠りはしないようにしてるけど、あの、ひたすら退屈に耐え続ける時間だけは、何年やっててもつらいんだよなー。いや、訓練も普通につらいんだけどさ」

「そうですか?わたし訓練は大好きですけど」

「マジか‥‥お前すごいな‥‥」

 と二人がそこまで話したところで、ノエルから苦情が入った。

「あの‥‥‥すみません。雑談するなら、よそでやってほしいんですけど‥‥」

「そ、そうだよ!二人とも、もっと集中して!」

「へ~~い」

「わかりました!王子さまのお言いつけなら従います!」

 二人がそう返事をしたところで、ティアナが急に僕をかばうように前に進み出た。

「そうか、貴女たちニセモノですね!」

「は?‥‥おい、いきなり何を言い出すんだよ?」

「騙されませんよ。いくらなんでも精鋭の近衛騎士団員が、こんなにダラけているはずがありません!本物の彼女たちを、どこにやったんですか?」

「いやいや、ちょっと待て?!本物だって!ダラけてっていっても、大体みんなこんなもんだから!」

「くっ!まさか知らない間に、こんなに近くまで敵の接近を許すとは!かくなる上は、たとえ刺し違えてでも王子はお守りします!さあ、かかってきなさい!」

「やべえ?!全然、話を聞いてねえぞ!」

 いつのまにかティアナは護身用に携帯していた折りたたみ式ナイフを出して、決死の面持ちで構えている。

「先輩!どうしたらいいですか?!」

「どうしたらって‥‥‥うおっ?!危ねえ!!」

 サライの顔面めがけて、ティアナが素早くナイフを突き出した。サライはなんとか躱すが、まさか本当に攻撃してくるとは思っていなかったようで、すっかり慌ててしまっている。

「ちょ、待て!落ち着け!危ないし、それに見つかるだろうが!王子!王子!なんとかしてくれ!」

「ティアナ!ダメだよやめて!」

 僕はうしろからティアナに抱きついて動きを抑えようとした。そのままティアナが暴れたら危ないと思ったけれど、いつのまにかノエルが、ティアナのナイフを持った右手をしっかりと両手で抑えてくれていた。

「ティアナさん落ち着いて。彼女たちは敵でもニセモノでもありませんよ」

「えっ?‥‥‥‥敵じゃない‥‥?」

「はい。ちょっと怠け者の味方です」

「いや、だからそんなには、怠けちゃいな‥‥」

 サライが反論かけるが、ソーニャに止められる。

「先輩!ややこしくなるから、いまは黙っててください!」

「ティアナ!お願いだから本当に落ち着いて。大丈夫だから!」

 僕はティアナを強く抱きしめる。するとようやく彼女の全身から力が抜けたようだ。ノエルが素早くナイフを取り上げて自分の懐にしまう。

「はあ、はあ、はあ‥‥‥‥‥‥‥‥‥あれ?‥‥‥‥ひょっとして私、ちょっと我を忘れてしまっていましたか?」

「ちょっと、どころじゃねえよ!!」

 サライが、力一杯ツッコミを入れる。

「先輩!わたし隊長から言われた、社会勉強も大事だって言葉の意味がわかりました!世の中には会話が通じない相手もいるってことを、いま学びましたよ!」

「いや、さすがの隊長も、いまの状況は想定してなかったと思うぜ。マジでやばかった」

 なんとかティアナが落ち着いてくれてホッとするが、今度はカルバン隊長たちに、いまの騒ぎを聞かれなかったかが心配になった。

「ノエルありがとう、助かったよ。ところでカルバン隊長たちにバレなかったかな?」

「‥‥‥大丈夫みたいです。でもたまたまですよ。今度、同じような騒ぎを起こしたらきっと気づかれるでしょう」

「あう‥‥そうだよね。ごめん‥‥」

「謝らないでください。あと、そろそろティアナさんから離れた方がいいですよ。別の意味で危険な状態になっていますから」

「えっ?」

 そういえば、さっきからティアナにうしろから抱きついたままだった。

「ご、ごめんティアナ、うっかりしてたよ。もう大丈夫?手を離すよ‥‥‥あれ?ティアナ、どうかした?」

 話しかけているのに反応がない。僕は心配になって手を離しながら、そーっとティアナの表情をうかがった。

「あ、いえ?‥‥‥大丈夫です、王子‥‥‥本当に、はい‥‥」

 なんだかとっても歯切れが悪い。彼女にしては珍しいことだ。勘違いで暴れてしまったことを恥じているのだろうか。暗闇の中で、僕の視線を避けるように顔をそむける。

「大丈夫なんだよね?‥‥‥え?!ひょっとしてどこか怪我でもしてる?!!」

 僕は慌てて確かめようとするが、ノエルに冷静な声で止められる。

「落ち着いて下さい。怪我じゃありませんよ」

「そ、そうなんだ。よかった‥‥‥え、でも、じゃあどうしたの?」

「いまは、あまり気にしないほうがいいです」

「そう?‥‥‥う、うん、わかった」

 僕がノエルと話している間、ティアナはずっと顔をそむけがちにしていた。気にはなるけどいったんいまは忘れて、あらためて居間の会話に神経を集中させることにしよう。


「ねえダーリン。明日は一日、付き合ってくれるのよね?」

「うん?ああ、いちおう非番は明日の日没までだからな」

「わーーい!わたしねえ、行きたいお店があるの!」

「お、お店?」

「そう、新しいドレスが欲しいのよ!」

「ドレスなんか、何着も買ってやったじゃないか!しかも結構高いやつを!」

「あんなのじゃダメよ!お店を開くんだから、ちゃんとしたドレスを新調しなきゃ。そうねえ一着100リーベルくらいはするわね」

「100リーベル?!なに言っとるんだお前は!!」

「必要なのよ!安いドレスなんか着てお店を始めたら、スタッフにもお客にもなめられるわ。「ああ、ここはその程度の店なんだな」って思われちゃうの。お店の格みたいなのが、そこで決まっちゃうのよ。だから絶対に、ちゃんとしたドレスじゃなきゃダメなの!」

「ふ、ふ~~ん‥‥で、でもなあ‥‥」

「あと、もちろん内装にもお金をかけなきゃいけないし、家具とか調度品も大事よ?安物じゃ絶対にダメ!」

「いや、ちょっと待ってくれ‥‥」

「それから忘れちゃいけないのが、お店に飾る絵ね!有名な画家の描いた大きなサイズの絵をお店の一番目立つところに飾るの!」

「そんなのいったい、いくらするんだ?!」

「まあ、1000リーベル以上はするでしょうね」

「そんな金あるわけないだろうが!!」

 ついにカルバン隊長が怒鳴り声をあげるが、いつもほどの迫力はない。女性もまったく気にしてはいないようだ。

「だって、せっかくダーリンがお金を出してくれて、お店を始めるのよ?高級感のある立派なものにしたいじゃない」

「いや、お前。最初はどんなに小さくて安っぽくても、自分の店が持てれば、それだけで満足だとか言ってたじゃないか、あれはどこに行ったんだ?」

「そりゃ最初はそう思ってたかもしれないけど、でもやっぱりそれじゃいけないわ。お金を出してくれたダーリンにも恥をかかせちゃうし。わたし、そんなの耐えられない!」

「そんなこと気にしなくていいんだ!そもそもワシの名前を出しちゃイカンって、始めから言っとるだろうが!」

「え、そうだったかしら?‥‥まあいいじゃない。どうせやるなら高級なお店のほうがいいに決まってるもの。そりゃ最初はお金がかかるかもしれないけど、高級店にすれば、お金持ちのお客さんが大勢来てくれるから、すぐに取り戻せるわよ。ダーリンにもお金を返せるし、それどころか大儲けさせてあげられちゃうかも?」


「‥‥手切れ金を渡して、スッパリ別れるんじゃなかったのかよ。結局あのオッサン、女に言われるまま金を出しちまうんじゃないのか?」

「そんなにお金を持ってはいないと思うよ。それにこれ以上裏金作りのペースを上げるのは、さすがにリスクが高いと、わかってるだろうしね」

するとノエルが、なにかに気づいたようだった。

「王子‥‥カルバン隊長の様子が変です。急に無口になりましたよ‥‥‥‥なんと言いますかなにかを諦めてしまったような気配を感じます‥‥‥これは、ひょっとして‥‥」


「だから明日はドレスを注文する以外にも、何件もお店を見て回ろうと思ってるの。まだ買うのは先でも、いまのうちに目星をつけておかなくちゃ。それから次のお休みには、不動産屋さんに行って居抜きで借りられるお店を紹介してもらうのよ。いいお店があったら、すぐに手付を払って人に取られないようにしなきゃね。ああ~~楽しみだな~~~!!わたしねえ、本当に夢だったのよ、自分のお店を持つのが!」

「‥‥‥‥‥‥‥ああ、いつもそう言っていたな‥‥」

「毎日大勢のお客さんが来てくれて、みんなが笑顔になって帰っていってくれるの!もちろんいつもそんなふうに上手くはいかないってことは、わかってるわよ。でも大丈夫。つらいことがあったって、きっと乗りこえてみせるわ!だからねえ、ほんとうにダーリンには感謝してるのよ。わたしの夢を応援してくれて、ありがとう!」

「うん‥‥うん‥‥‥‥」

「あれ?ダーリンどうしたの?なんだか元気がないみたいだけど、大丈夫?」

「ああ‥‥‥大丈夫だ‥‥‥」

「やだ。本当に元気がないみたい。ダメよ、未来のお客さんの前に、まずはダーリンが笑顔になってくれなきゃ。まだお料理はいっぱいあるから、食べて元気出して。これも美味しいのよ。はい、あーーん‥‥」

「‥‥‥‥」

「あーーん‥‥‥‥ねえ、どうしたの‥‥?」

 カルバン隊長がつらい決断をして覚悟を決めたことが、僕にもわかった。さっきまで賑やかだったぶん、急に訪れた静けさが、より重くのしかかってくるように感じられた。

「‥‥ダーリン、ねえ大丈夫?‥‥‥お腹が痛いの‥‥?」

 カルバン隊長は答えない。すると突然、ガタッと椅子を動かした音が聞こえた。そのすぐあとにドンッと床に重いものを落としたみたいな音もする。

「キャッ!‥‥‥えっ?ど、土下座?!ね、ねえダーリン、なにしてるの?急になんのマネ?びっくりするからやめてよ!ねえってば!!」

「‥‥‥‥‥‥すまん!!!!」

 建物中に響き渡る大声で、カルバン隊長が叫んだ。

「え?‥‥‥‥‥すまんって、なんのこと‥‥?」

「お前の夢をワシは応援することはできない!!!」

「‥‥‥‥‥‥‥‥え?」

「今日限り、ワシと別れてくれっ!!!」

「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥ここに300リーベル入っている。これを受け取って、ワシのことはきれいさっぱり忘れてくれ‥‥‥」

「え‥‥‥じゃあ、お店は‥‥‥?」

「あきらめてくれ‥‥‥ワシはお前に嘘をついていた。もともと、そんな大金を自由にできるほどの身分じゃなかったんだ‥‥‥‥この家を買うのだって少し無理をした‥‥その程度の男なんだワシは‥‥」

「金なんか、いくらでもって言ってたのは嘘‥‥‥?」

「そうだ‥‥‥それからお前と、これ以上付き合えない理由ができた‥‥‥何も聞かずに別れてくれ‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥なーーんだ」

「えっ‥‥」

「そんなことじゃないかって思ってたよ‥‥‥アタシなんかに、そんなうまい話が舞い込んで来るわけがないってさ‥‥‥」

「‥‥‥‥‥」

「きっと騙されてるんだって、何度も思ったよ。その場しのぎの甘い嘘なんだってね‥‥‥‥バカみたいだよね‥‥‥わかっていたけど、それでもすがってみたいって思っちゃったんだよ‥‥‥‥大勢のお客さんの笑顔に囲まれてさ‥‥‥一生懸命おもてなしして頑張ってる自分を想像して、一人で酔いしれてたんだ‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥‥すまん」

「‥‥出ていってくれよ」

「‥‥‥‥」

「出てってくれ!!この家はアタシの物なんだろ!!アタシの家から出てってくれ!!さあ、早く!!」

「‥‥‥‥悪かった‥‥‥もう二度と会わないと思うが、元気でいてくれ‥‥‥」

「うるせえ!!!!」

 カルバン隊長が、ゆっくりと立ち上がり、玄関へ向かう音が聞こえる。二人とも、もう一言も言葉を発しない。やがて玄関の扉が開き、そしてバタンと閉まる音がして、完全な静寂が訪れた。

そのまま、どのくらいの時間が流れただろうか。

「う、う、う、うわああああああん!!‥‥‥うぐっ、えぐっ、ぐすっ、ああああああああ~~~~~!!」

 堰を切ったように女性が泣き出した。止めどなく涙が溢れている姿が目に浮かぶ。

 僕はこの場にやってきてしまったことを後悔していた。決して覗き見してはいけないものを見てしまったのだと思った。

「王子‥‥‥‥」

 ティアナが心配して声をかけてくれる。彼女の目も潤んでいた。

「うん‥‥‥大丈夫だよ‥‥帰ろう‥‥‥みんな、ありがとう」

 悄然とした思いを抱いたまま、僕はみんなに声をかける。

 そしてその間も、女性の泣き声は大きくなったり小さくなったりしながら、ずっと続いていた。僕はなるべく、その場を汚すことがないようにと願いながら、そっと、また通用口をくぐって外へ出た。


   夜の帰り道


すっかり暗くなった街を、僕たちは並んで歩く。

 もう大声を出さないようにする必要もないのだけど、みんな言葉は少ない。

そんな中、ノエルが聞いてくる。

「一応カルバン隊長が、どこに行ったのか調べましょうか?」

「いや、その必要はないよ」

 どこかで一人で、お酒でも飲んでいるだろうか。それとも夜の街を、あてもなく歩き続けているのだろうか。

「‥‥傷心しているところに追い打ちをかけるようで、あまり気は進まないんだけど、不正の件はしっかりとカタをつけなきゃね」

 それにサライが答える。

「まあな。それはやらなきゃいけねえだろ‥‥‥‥だけどそうはいっても、どうやってつけるんだ?あらましは全部聞かせてもらったけど、なにせ忍び込んで盗み聞きしただけだからな。いざとなったら、向こうだって全力でしらばっくれようとするだろ?」

「うん。たしかにこのままだとカルバン隊長を追いつめるには弱いけど、じつは不正を証明する動かぬ証拠があるんだよ」

「え?そんなものあったっけ?」

「いまはまだないよ。来週手に入る予定なんだ」

「‥‥ダメだ。何言ってるのか、全然わかんねえ。頼む、教えてくれ」

 サライは完全にお手上げとばかりに、両手を広げる。

「じつはね。あの300リーベルには、金貨一枚一枚にある細工がしてあるんだよ」

「細工?」

「お城の宝物庫に眠っていたある特殊な薬品を使ったんだ。これは2種類の薬品がセットになっていてね、どちらも透明なこの2つの液体をまぜると、不思議なことに色が真っ赤に変わるんだよ」

「へえ~~~、そんなものがあるなんて知らなかったぜ」

「2種類のうちの片方の薬品、これを仮にAと呼ぶけど、これを経理部の出納課長のモイセスの立ち会いのもとで金貨に塗っておいたんだ」

「ふんふん。で、来週っていうのは?」

「あの家のローンの支払日が、来週の25日なんだ。だから遅くてもその日までには、300リーベル全額か、すくなくとも今月支払い分の100リーベルは不動産屋さんに持ち込まれるはずだよね。すると不動産屋さんが、すぐにお城に連絡してくれることになってるんだ」

「ほうほう」

「そしたら、すばやく金貨を回収して、もう片方のBの薬品を塗ってみるってわけさ」

「なーるほど。真っ赤になったら、不正の動かぬ証拠って訳だな」

「うん。本当なら第2大隊の金庫に収められているはずの金貨が、民間人の家の購入代金として不動産屋さんに持ち込まれているわけだからね。どういうことなのか、すぐに主計長のシェルドンを拘束して査問にかけて、洗いざらい喋ってもらおうっていう計画なんだよ」

「‥‥‥完璧すぎて怖いんだけど‥‥それ、全部王子が考えたのか?」

「え、そうだけど?」

「怖えよ!追いつめ方が抜かりなさすぎる!‥‥‥え?ていうか、ちょっと待て‥‥‥じゃあさっき、あの家に忍び込んだのは何だったんだ?そこまで段取りができてるなら、あんなことする必要はなかったんじゃないのかよ?」

「そうだよ。だから初めに言ったじゃない。僕が行きたいだけなんだよって」

「ハイリスクすぎるだろうが?!見つかったら、どうするつもりだったんだよ!!」

「そうだよねえ。じつは、なにも考えていなかったんだ」

「そこはノープランなのかよ?!」

「えーーと‥‥「すみません、家を間違えました」とか?」

「通じるか!そんな言い訳?!」

「まあまあ。最悪、見つかったとしても、殺されるわけじゃないしね。それに本当に危なかったら、きっとノエルが止めてくれると思ったし」

 僕はノエルを見て、にっこり笑った。だけどノエルは唖然とした表情で僕を見返している。

「え?ちょっと待って下さい。そんな大事なことを勝手に期待されていても困るんですけど!」

「ごめんね。でもダメだと思ったら、止めてくれてたよね」

「止めましたよ!ええ、間違いなく止めましたけども!!」

 あれ?思ってたよりもノエルの反応が激しいというか‥‥まずい、本気で怒ってるっぽい!

「いや!その、なんというか‥‥僕としては信頼の証というか‥‥つまりその、あのね」

「迷惑なので止めてください!!」

「はい!!ごめんなさい!!」

 全力で謝った。

「もちろんわたしとしては、王子が多少の無茶をしても、お守りするつもりではいましたよ?でも、それと無茶をするかしないかの判断を任されるのとは話が違いますし、それをあとから聞かされるこちらの身にもなってください!」

「たしかにそうですね。これは王子が悪いです。ノエルさんに謝って下さい」

 ティアナからも怒られてしまった。

「うううう‥‥‥わかったよ。本当にごめんねノエル‥‥これからは危ないことをする時は、必ずノエルに相談してから決めるからね」

「‥‥いえ、それも違うような‥‥そもそも危険な場所に行かないのが一番なのですけど‥‥言っても無駄なんでしょうね‥‥‥‥はあ‥‥わかりました。じゃあ、それでお願いします」

 なかば諦めたような言い方だったけど、なんとか納得してもらえたみたいだ。

 するとさっきから、僕をしげしげと眺めていたサライが口を開いた。

「しかしなあ‥‥いままで、ずーーっと人畜無害だと思ってたのに、こんなことができるヤツだったなんてなあ‥‥え、あれ?ちょっと待ってくれ‥‥もしかしてオレってじつは結構ヤバいんじゃないか?‥‥これまで散々、王子に失礼なことをしてたような、してなかったような?」

「してますよ。いまさら何を言っているんですか」

 ティアナが呆れながら言う。

「え、マジで?正直、はっきり覚えてないんだけど」

「加害者が言いそうなセリフですね。言っておきますけど、とっくに僻地に飛ばされていてもおかしくないくらいのことはしていますからね」

「先輩、残念です!この先、辛い毎日が待っているでしょうけど、わたしのことを忘れないでくださいね!」

「うおおおお!!い、いつの間にか人生詰んでた?!」

「落ち着いてよサライ。何もしないから安心して」

 急に慌てだしたサライに、僕はいつもの口調で言う。

「マジで?!本当の本当に?!」

 サライは僕の両肩をぐいとつかんで、まじまじと顔を覗き込んできた。

どうでもいいことだけど、彼女のような美人に至近距離から真剣な表情で見つめられるってなかなか無いシチュエーションじゃないだろうか?もっとも中身を知っているので、まったくドキドキしたりはしないけれど。

「本当だな?!あとでやっぱり飛ばしてやろうとかは無しだぞ!いや、無しにしてください!お願いします!」

「うん。約束するよ、安心して」

「うおおおお~~~~~~!!よ、よかったああああああ~~~~!!!」

 へたり込みそうになって安堵するサライを、冷たい目で見ながらティアナが言う。

「これに懲りたら、感謝を込めて、今後は王子への態度をあらためることですね」

「ああ、わかったぜ‥‥ありがとよ。ヘタレ王子さま」

 サライは、ぞんざいに顔の前で片手を立てて、感謝の意を伝えてくる。

「まったく、これっぽっちも、わかっていませんね?!」

 ティアナは納得がいかないようで、プリプリと怒っている。

「先輩!よかったですね!飛ばされずにすんだみたいで」

「うるせえよ!あっさりオレのことを見捨てようとしやがって!」

「誤解ですよ。わたし、いざというときには先輩のために一肌脱ぐつもりでしたから!」

「なんだって?‥‥‥そうか、すまん。オレの勘違いだったみたいだ‥‥‥でも一肌脱ぐって一体なにをするつもりだったんだ?」

「とっておきの方法です!夜、こっそり王子さまの寝室に忍び込んでですね。肩といわず腰といわず、全身隈なくマッサージして差し上げるんですよ。それで、すっかり気持ちよくなってもらったところで、ついでに先輩への怒りを収めていただくんです!」

「お前はお前で、欲望のダダ漏れが半端ないな!しかもオレのことは、ついでとか言っちゃってるし?!」

「いい加減にしないと、二人まとめて最果てに飛ばしてやりますよ!」

「いや、ちょっと待って?!反省してるから!マジで!」

 さっきまで静かだったのに、やかましいこと、この上ない。焦り顔のサライが強引に話題を戻した。

「ま、まあ、あれだ。カルバンの野郎もこれで年貢の納め時ってわけだな!」

「ええ、そうですね。シェルドンさんが、どれだけしらを切れるかにもよりますけど、まあ、ごまかしきれないでしょう」

「たいして根性のあるやつには見えないし、無理だと思うぜ」

「そのことなんだけど‥‥」

 と、僕が話に割り込む。

「‥‥実はちょっと迷ってるんだよね」

「え?いまさらかよ?」

「‥‥‥どうしてですか?」

ティアナが僕の様子をうかがうように言う。

「うん‥‥不正が明るみに出たら、カルバン隊長は罪に問われるだけじゃなくて、お金を返さなくちゃいけないよね」

「そうなりますね‥‥といいますか、そもそもそれが目的でしたから」

「そうだよね‥‥」

「‥‥ひょっとしてカルバン隊長と、あの女性に同情しているのじゃないですか?」

「うん‥‥‥そうかもしれない」

 僕がそう言うと、サライとソーニャは信じられないという顔をした。

「はあ~~~~?なに言ってんだよ。あまちゃんにも程があるぜ」

「すみません王子さま。わたしも先輩と同意見です」

 ティアナは二人に同調はしないものの、かといって、無条件で僕の肩を持とうとする訳でもないようだ。僕の真意を探るように話を続ける。

「シェルドンさんの自白次第では、過去に遡って不正の金額が明らかになるでしょうね」

「うん‥‥そうだよね‥‥」

「手元に大金なんてないでしょうし、金目のものでもなんでも、処分してお金を返してもらわないといけませんよね」

「うん‥‥‥」

「当然、さっきの女性の家も、売り払われるでしょうね」

「‥‥‥‥‥」

「もし、やっぱり見逃すと言っても、私は非難しません。王子の好きなように決めて下さい‥‥‥‥いえ‥‥王子が決めなければ、いけないんです」

「うん‥‥‥」

 サライとソーニャ、それにノエルが僕たちの会話をじっと聞いている。

「もちろん私も、さっきの女性のことは、少しだけ気の毒だと思っています。ですが忘れないでください。貧しい暮らしの中で王国に税を収めている人たちのことを‥‥‥‥粗末な家に住み、贅沢もできず、子供の教育にもお金をかけられず、病気になっても満足にお医者にも診てもらえない。そんな人達から集められたお金で、この王国の運営は成り立っているんです」

 ティアナは、そう淡々と言う。それはただ事実を伝えているだけだったけれど、僕はその言葉のお陰で覚悟を決めることができた。そうだ。僕にはやらなきゃいけないことがあるんだ。

「うん‥‥わかった。ありがとうティアナ。決めたよ。やっぱりカルバン隊長の不正は見逃さない。徹底的に追及する」


 約束


やがて僕たちは、お城に帰り着いた。

「じゃあ、オレたちはこれで隊に戻るぜ。またなにかあったら呼んでくれ」

サライは、あらたまったように僕に向き直った。

「まあ、あれだ。オレが偉そうなこと言える立場じゃないんだろうけど、ヘタレの王子様にしちゃあ今日はよく頑張ったと思うぜ。たしかにアンタが言ってたみたいに、今日のことに大した意味はなかったんだと思うよ。でもアンタなりに、ちゃんと先のことを考えて、そうしたんだろうってのは、なんとなくわかった。人任せにしないで自分で行動したいっていう意味もな」

いつも茶化して、やる気のない態度ばかり見せるサライが、珍しく真面目な顔をしている。

「それとあらためて思ったよ。アンタは本当に他人を思いやれる人だ。いまは正直言って、アンタのことをバカにしてるやつも多いと思うけど、でも、もしもいつかアンタがこの国を引っ張っていけるような立場に立つ日が来たなら‥‥‥そんときゃ、いまよりもっと暮らしやすい国になるんじゃないかって気がするんだ‥‥もっとみんなが笑って暮らせるような、そんな国に‥‥‥いや!やっぱいまのはナシ!!オレのガラじゃねえや、忘れろ!忘れてくれ!」

「ふふ‥‥‥ありがとうございます、サライ」

 僕に代わってティアナがお礼を言ってくれた。

「わたしもぜひまた呼んで下さい!なにかなくても呼んで下さい!なんでしたら毎日おはようから、おやすみまでお世話しますよ!」

「それは私の役目です!絶対に誰にも渡しませんよ!」

 ソーニャの申し出を、ティアナが全力で拒絶する。

「二人とも、ありがとう。僕からも次もお願いしたいと思ってるよ。今日のことは、もちろんナタリアに報告してもらうけど、僕がお願いするまでは秘密にしておいてほしいんだ」

「わかってるよ。じゃなきゃ脅しにできないからな。しっかりと隊長には、そのへんも伝えておくさ」

「うん、ナタリアによろしく。今度あらためて、お礼を言いに行くと伝えておいてよ」

「ああ‥‥わかった、言っとくよ‥‥‥じゃあな、王子様」

「うう‥‥もっと一緒にいたいのに‥‥絶対にまた呼んでくださいね王子さま‥‥‥そうだ!最後にお別れのハグを‥‥」

「さっさと行きなさい!」

 未練を見せるソーニャを、ティアナがシッシッと手で追い払う。

 二人は手を振りながら、大隊の屯所のある区画へと帰っていった。

「さあ、僕たちも帰ろうか」

「はい、そうですね」

「お供します」

「二人ともお疲れ様。特にノエルは大変だったよね。結局僕たちが足を引っ張りっ放しだったから」

「うう‥‥お陰様で大事に至らずに済みました‥‥本当にありがとうございます‥‥」

「いえ、お気になさらず」

ティアナは今にも消え入りそうなほど恥ずかしがっているが、ノエルの方はまったく気にした様子はない。そんな二人を眺めながら、僕はずっと思っていたことを口にした。

「ティアナがいてくれてよかった」

「えっ?」

ティアナがびっくりしたように振り返った。

「ティアナがいてくれてよかった。そうじゃなかったら、きっと今日僕は、怖くなって何もしないで引き返していたと思う。昼間思ったことは、やっぱり間違いじゃなかったんだ。僕にはティアナが必要だし、ティアナが側にいてくれたら、なにも怖くはないんだ」

 まっすぐティアナを見つめてそう言った。するとティアナは少しの間、固まったように僕を見ていたけれど、突然、くるっと一回転して後ろを向いてしまった。

「あ、あれ、ティアナ?」

「す、すみません‥‥‥ちょっと時間をください‥‥‥」

 そう言って、しばらくそのまま動かずにいたけれど、意を決したようにまた振り返ると僕に言った。

「反応に困りますから、同じようなことを何度も言うのは、止めてください」

「ごめんね、でも、もう一回言わせてほしいんだ」

 ティアナが恥ずかしそうにしていたけれど、僕は続けて言う。

「ティアナ、これからも僕の側にいて、僕を支えてください‥‥‥どうぞお願いします」

 普段ならきっと恥ずかしくて、ちゃんと言えなかっただろうけど、今なら言える。こんなふうに何かの勢いを借りて言うのは卑怯なのかもしれないけれど、もう一度、きちんと言っておきたかったのだ。

 するとティアナは、僕の眼をじっと見つめてから答えた。

「私の気持ちは、もう言いましたよ」

「え、じゃあ?」

「はい、もちろんです。私は、ずうっと王子の側にいますよ‥‥当たり前じゃないですか?」

 ティアナは、はにかみながらも、とびっきりの笑顔で応えてくれた。

「あ、ありがとうティアナ!」

 僕は嬉しくてティアナに近づいた。そして‥‥‥あ、危ない。うっかりまたティアナに抱きつくところだった。さすがに今はまずいだろう。僕は、急に周囲の眼が気になりだしてノエルに視線を向けた。

するとノエルは、いつものように僕とティアナを黙って見ていたのだけれど、なんだか表情がおかしかった。眼がなんともいえない淀んだような無感情な光を帯びているのだ。

「ノ、ノエル‥‥あ、あの‥‥」

「あ。どうぞどうぞ‥‥お気になさらず、そのまま続けてください。ええどうぞ」

「え?‥‥な、なにか怒ってる?」

「まさかまさか‥‥‥‥最前列で、とんでもないものを見せられているとは思っていますが、怒るだなんて滅相もないです」

 なんだろう‥‥‥無表情で言われているのに、かつてないほどノエルの声に感情がたっぷりと込められているような気がするのだけど‥‥‥隣にいるティアナも、何故かいたたまれないような表情を浮かべている。

「ノ、ノエルさん、あのですね‥‥」

「いえいえ本当にお気になさらず。わたしなど、人形劇の黒子のようなものですからね、始めからいないものだと考えてください、ええ本当に」

 言葉は柔らかいが、なにか壁のようなものを感じる。自分のことは放っておいてくれと言わんばかりだ。

だけどそういう訳にはいかない。ノエルにも伝えなきゃいけないことがあるんだ。

「あのね。聞いて欲しいことがあるんだ。ノエルにも同じことをお願いしたいんだよ。僕にはどうしてもノエルが必要なんだ。だからこれからも僕の側にずっといてください‥‥‥どうかお願いします」

「はい?‥‥‥よく聞こえ‥‥‥‥‥‥‥‥ましたけど、頭は大丈夫ですか?」

「えっ?」

「自分がなにを言っているのか‥‥‥‥わかっていないんでしょうね、はい」

 どうも、うまく伝わっていないみたいだ。でも、ちゃんと聞いてほしい。

「今日あらためて思ったんだけど、僕にはティアナとノエルが必要なんだ。二人がいてくれるなら、きっと僕はなんだってできちゃうし、こんな情けなくて弱っちい僕だけど、王子としての勤めを、ちゃんと果たせるんじゃないかって思うんだよ」

 精一杯の誠意を込めたつもりだけど、言われたノエルは戸惑っている。僕の真意を測りかねているようだ。でもこちらは裏も表もない、正真正銘、正直な気持ちなんだ。

「本気ですか?‥‥本気でわたしも必要だと言ってくれているんですか‥‥?」

「もちろんだよ!何度だって言うよ。僕にはノエルが必要なんだ。絶対に手放したりなんかしないからね!」

「‥‥わかりました‥‥もとよりこの身は王子に捧げたつもりでいましたが、あらためて誓いましょう。わたしの命ある限り、今後も王子の目となり耳となり、そして手足となってお支えします‥‥‥‥‥‥‥‥‥これで、いいですか?」

「うん!ありがとうノエル!」

 すこし、というか、かなり強引だったかもしれない。

そして自分が、とんでもなく重い要求をしているのだと自覚もしていた。

僕は、二人の人生そのものさえ差し出させようとしているのだ。

でも、それだというのに、それに釣り合うだけのお返しは多分、いや間違いなく僕にはできないだろう。つまり、ほぼ一方的に搾取するようなものだ。

以前までの僕だったなら、絶対にそんなことをしようなんて思わなかったはずだ。僕のすることにそこまでの価値があるはずがないと。

いや‥‥‥価値がないと考えているのは、今も同じだ。

それでも二人の力を借りて前に進みたいと、今は思う。

罪深いことなのかもしれないけれど、それでも二人と手をとり合って歩いていきたいのだ。

「二人とも本当にありがとう‥‥‥そしてお願いがあるんだ‥‥もしも、この先僕が間違っていると思ったときには、遠慮なく叱ってほしい。そして僕が二人の主人としてふさわしくないと思う日が来たなら、そのときは容赦なく僕を見捨ててほしいんだ‥‥‥そうならないように僕は頑張る‥‥‥二人に約束するよ」

 僕は、ティアナとノエルを真っ直ぐに見て決意を伝えた。僕と二人の視線が静かに、だけどもしっかりと交わった。何も言わずに見つめ合う僕たちを、春の宵の暖かくて柔らかな空気が包んでくれていた。緩やかに風が流れて、夜に溶けた花々の香りがあたりに満ちている。

今日という日を、この幸せな時間を、いつまでも記憶に留めておきたいと僕は願った。

と思っていると、ややあってからティアナが言った。

「王子‥‥‥それはつまり、明日は早起きして、朝からお仕事を頑張るということでよろしいですか?」

「あれ?‥‥う、うん‥‥そういうことかもしれないね」

「かもしれないとは、どういうことですか?断言して下さい」

「は、はい‥‥断言します‥‥‥‥明日は寝坊せずに、朝からお仕事を頑張ります‥‥」

「はい、約束していただきました‥‥ノエルさん、聞きましたね?」

「はい、バッチリと。間違いなく聞きました」

 二人の連携が、かつてないほどに噛み合っている。これは喜ぶべきことなんだろうか?

「なんだろう‥‥僕が思っていたのと、ちょっと展開が違うような‥‥」

「いえ、これでいいんです」

「そうですね」

「あれれ?」

 おかしい。なんだかこの先、僕の意見はめったに通らないような予感がする。どうしてこうなったのだろうか?

「それで王子、夕食はどうしましょう?今からだと食堂を利用した方が早いと思いますけど」

「うん、それでいいんじゃないかな」

「でも、いま私たちは、従者の格好をしていますからね。身分の低い者が利用するところじゃないと食べられませんよ」

「ああそうか。忘れてたよ‥‥‥あ!でもそれでいいんじゃないかな。そのほうが三人で一緒に食べられるからね!うん、いいね。そうしよう!」

 思わぬところでノエルと食事をするという願いがかなってしまった。しかもティアナも一緒なのだから、願ったり叶ったりだ。大したことじゃないのかもしれないけれど、さっき二人との絆を確かめ合ったばかりなので、なにか運命的なものを感じてしまう。

「それなら、わたしが普段利用していますから、ご案内しますけど」

「うん、ぜひお願いするよ!」

「ふふ、そうですね。ではノエルさんお願いします」

 と、ティアナが言ったところで僕が注文をつける。

「あ、ちょっと待って!」

「なんですか王子?」

「うん、二人とも、その「さん」付けは、もう止めてもいいんじゃないかな?僕が言うのもおかしな話だけど」

「え?‥‥‥なるほどそうですね。私はもちろん構いませんよ。ノエルさんが良ければですけど‥‥」

 ティアナは快諾してくれる。

「わたしも‥‥‥‥いい‥‥ですよ」

 ノエルも躊躇いがちだけど、うなずいてくれた。

「では‥‥‥‥ノエル」

「はい‥‥‥‥ティアナ」

 二人がお互いの名を呼び合う。僕に言われてそうしてるんじゃない。二人の間に、たしかな信頼の芽が生まれたのを、はっきりと感じることができた。

「ふふふ‥‥‥」

 満足気に微笑む僕に、なぜか二人から容赦のないツッコミが入る。

「なんですか、その気味の悪い笑い方は。ノエル、さっさと行きましょう」

「そうですね。こっちです、ティアナ」

「ま、待って。僕を置いていかないでよ」

 慌てて二人を追いかける。気のせいじゃなく、だんだん僕の扱いが雑になっているのを感じる。それどころか基本的な立場が低くなっているような‥‥‥‥いや、やめよう。この問題はこれ以上考えないほうがいい気がする。


「はいよ、三人前ね」

 食堂のおばさんが、食事の載ったトレーをカウンターに乗せてくれる。

「アンタたちは、ノエルの仕事仲間かい?」

 ノエルとは顔なじみのようだ。いままで知ることのなかったノエルの日常に、少しだけ触れられてなんだか嬉しいけれど、ノエルはちょっと居心地が悪そうにしている。

「ノエルもそうだけど、アンタたち二人も、よく見るとカワイイ顔してるねえ。そっちの子なんか、まるで王子様みたいだよ」

「はは‥‥‥ありがとう」

夕食には少し遅い時間だったけど、まだ何組もの人たちが、談笑して一日の疲れを癒やしていた。

中にはまだ仕事が残っているのか、一人で手早く食べてすぐに出ていってしまう人もいる。これから朝まで夜通しの仕事なのかもしれない。彼らの日々の働きが、王国を支えてくれているのだと実感する。

いちおう周囲に会話を聞かれないような場所を選んで席に着くと、ノエルが申し訳なさそうに言った。

「あの、正直に言ってそれほど美味しいものじゃないですよ。王子様が食べるようなものじゃないと思います」

メニューはパンとひとかけらのチーズ、それに野菜や芋やマメなどが入ったスープだ。パンは好きなだけ取っていいそうだ。

「いいんだよ、ノエルはいつもここで食事しているんでしょう?」

「はい、そうです」

「僕はノエルが普段食べているものを食べてみたかったし、ノエルと一緒に食事がしたかったんだ。だからここが一番良いんだよ」

 そう言って一口食べてみる‥‥‥かなり硬いパンだった。

「あの‥‥慣れないと硬いですよね」

 ノエルが済まなそうに言う。

「だ、大丈夫。たまには、硬めのパンが食べたいと思ってたんだよ‥‥」

 そう言って今度は、大きめの深皿に入ったスープを一口飲む。

「‥‥あまり、味がしないね‥‥」

 つい正直な感想を口にしてしまうと、ティアナに怒られた。

「贅沢を言ってはいけませんよ。だいたい、自分からここで食べたいと言ったんでしょう」

「う‥‥そうだった。ごめんね、ノエル」

「いえ、お気になさらず。慣れないのですから仕方ありません」


   ノエルの葛藤


‥‥まさか、ここに王子を案内することになるとは思ってもいなかった。

とノエルは、慣れない質素な食事に戸惑う王子を、テーブル越しに眺めながら考えていた。

 今日は、色々なことがありすぎた。てっきり一人でカルバン隊長を尾行するよう命じられると思っていたのだが、まさか王子自身が参加するとは‥‥。

しかも、わざわざ私にその理由と決意を語ってくれた。まるで私を自分と同格の人間と思っているかのような話し方だったが、それがポーズではなく、本気でそう考えているのだということがよくわかった。

 何を考えているのか、わからない所がある人だ。いや‥‥わかりやすい、見たまんまなのかもしれない。だが他に似たようなタイプの人間がいないので、当てはめて考えられないのだ。

ただ惰弱で軟弱でピーピー泣いているだけのようにも見えるが、決してそれだけではない。この人だけが持っている、特別な何かがあるのかもしれない。

自分が仕える主人だからという贔屓目があるのだろうか?

面白かったのは、忍び込むときに、やたらと私の身を案じてくれていたことだ。敵国に潜入するのとはわけが違う。ほぼ危険などない状況なのだが、張り切り過ぎて、私のために自らの危険も厭わないようなことを言い出したときには、ちょっと笑いそうになってしまった。

まあ、悪い気はしなかったけれども。

 ただ、いただけなかったのは、私とティアナさん‥‥‥いや、ティアナのお互いの目の前で二人同時に口説いているとしか思えないことを言い出したことだ。あのときは何が起きているのか理解が追いつかなかった。どうやらそういう意味ではなかったようだが、だからといってあれはないだろう。一度ひどい目にあったほうがいい。

‥‥それにしても信じ難いような潜入だった。

なにしろ対象の会話を盗み聞きしながら、普通にみんなでお喋りしているのだ。ありえないにもほどがある。あげくにティアナは、錯乱してナイフを振り回すし‥‥‥あとで首領のオズボルド様に顛末を報告しなければならないのだが、そのへんは省略する必要があるだろう。言ったところで信じてもらえるとは到底思えない。

「あ、よく噛むとパンもちゃんと食べられるね。スープも慣れると美味しく感じてきたよ」

「ええ。調味料が少ないので薄味に感じますが、素材の味がしっかりと出ていますね」

 食べながら王子とティアナが会話している。ここの食事にも慣れてくれたようだ。もちろんお世辞も入っているだろうが、ひとまず安心する。

王子はこれから、どんどん私を活用してくれると言っていた。もう遠慮することはないと。

望むところだ。私なりに情報収集の技術は磨いてきたつもりだ。毎回、王子の望む以上の結果を出してみせよう。その見事な成果を前に、存分に目を丸くするがいい。そう思うと今から楽しみで仕方がない。

 それにしても、今日は楽しかった。

 そう‥‥‥楽しかったのだ。

 こんなことを考えたのは、一体いつ以来だろうか?

 役目と楽しさとは一致するものじゃないというのは、我々にとっては常識以前の話だ。

そもそも楽しい仕事のはずがない。命じられれば、暗殺だってやらなければならないのだ。だが今日の不細工な潜入は‥‥ありえないくらいにふざけていて、お粗末なそれは、楽しいとしか言いようのないものだった。気づくとさっきから、そのことばかり考えてしまっている。あの暗闇の中で交わされた会話の一つ一つを、何度も反芻している。あの場にいるときは、そんなことは思ってもいなかった。隠れているはずなのに、みんなでワイワイガヤガヤ騒いでいるのだ。いまにも見つかってしまうんじゃないかと、ヒヤヒヤしてばかりだった。

 ところが、いまになって振り返ってみると、あの時間が愛おしく思えるほど、楽しかったと感じてしまうのだ。

 こんなことは、今までなかった。

そして、私の中にモヤモヤとしたものが、少しずつ立ち上ってくるのを感じる。

 これが一体、何なのかがわからない。

 ただ頭の中に、消化できない何かが生まれているのは確かだ。

「あ、ねえねえティアナ。スープに入ってたこれって、ひょっとしたら干し肉じゃない?」

「本当ですね。私のには入っていませんでしたよ。王子、ラッキーでしたね」

 そういえば、あの二人の女性騎士は、つまらない話をよく喋っていた。職場の愚痴やらなにやらだが、きっと普段から時間さえあれば、あんな感じで話をしているのだろう。彼女たちに限らず大部分の人間がそうだ。人とはよく喋る生き物なのだ。それもほとんどは、大した意味のない内容の話だ。

「王子、見て下さい。私のには小さいけれど、キノコが入っていましたよ」

「本当だ。最初に思ったより、いろんな食材が入っているんだね」

「栄養面は最低限、考えられているようですね」

 思い悩む私の前で、二人が他愛のない話を続けている。下級労働者の栄養状況が、いちおうは気になるようだ。

大丈夫です。不満がないわけではないけれど、毎日元気に働けていますよ‥‥と、心の中で返事をしていると、さっきから考えていたことが、ポロッと口からこぼれてしまった。

「今日は、楽しかったですね」

 ‥‥あれ?‥‥‥突然、脈絡のないことを言いだした私を、二人が驚いた顔で見つめている‥‥‥ちょっと待て、一体どういうことなんだ‥‥‥‥‥‥なんで、口に出したんだっけ?

「ノエル、どうしました急に?」

「楽しかったっていうのは、カルバン隊長の愛人さんの家へ忍び込んだこと?ノエルはあれが面白かったの?」

‥‥もはや逃れるすべはないようだ‥‥私は自分の迂闊すぎる口を呪いながら、あきらめて返事をする。

「ええ、何から何まで常識外れでしたからね。とても新鮮でしたよ」

 もうヤケクソだ。忖度なしで、ズバリと言ってみる。

「あう‥‥そ、そうだよね。本当にごめんね」

「お恥ずかしい限りです‥‥‥」

 思った通り二人が謝罪してくる。

「いえ、違います。皮肉とかじゃなくて本当に楽しかったんです。また今日と同じメンバーでなにかやりたいですね」

 ‥‥ついに言ってしまった。何を考えているんだ私は‥‥これじゃまるで、遊びたい盛りの街によくいる若者みたいじゃないか。

激しく後悔したが、もう遅い。王子が眼をキラキラさせながら食いついてきた。

「ノエル、本当?本当の本当に?嬉しいな、ノエルがそんなふうに思ってくれてたなんて!もちろんオッケーだよ!じゃあ次はどこに潜入しようか?」

「いえ王子、べつに潜入作戦に限らないんじゃないですか?とくに目的もなく、街を視察するだけでもいいと思いますけど」

「あ、たしかにそうだね。じゃあサライたちの予定が合うなら、来週にでもまたお忍びで出かけようよ!あ~~、楽しみだなあ!」

 本当に楽しそうだ。まるで小さな子供みたいに、椅子に座ったまま、両足をバタバタさせている。

「来週ですか。それならちょうど、周辺国の巡業から帰ってきたサーカス団の公演が開催されていると思いますよ。いまイレーヌ広場でテントの設営をしているところだそうです。それも予定に入れてみてはいかがですか?」

「サーカス?!行きたい!僕まだ見たことがないんだよ!」

「ふふ、では第3大隊へ行って予定を聞いてきましょう。あ、でも今日のお礼を言いに行くのでしたね。直接ナタリア隊長に話をされますか?」

「うん、そうだね。さっそく明日にでも行こうよ!」

「それは結構ですが、そっちは手早く済ませて、お仕事に取り掛かっていただきますよ」

「わ、わかってるよ。せっかく楽しい気分だったのに、どうして水を差すようなことを言うのかなあ」

「すべて、ご自分の日頃の行いのせいです」

 サーカスを見に行くらしい。視察うんぬんと言っているが、そっちがメインなのは言うまでもないだろう。私が一言二言、言っただけで、トントン拍子に決まってしまった。良いのだろうか?ついさっき、これから王子として頑張るみたいなことを言っていたのに、もうすでに遊びに行くことで、頭が一杯なんじゃないだろうか?

いや‥‥‥それはいい。王子のことはとりあえず置いておこう。

問題は私だ。この話の流れに期待してしまっている自分が間違いなくいる。みんなでサーカスを見に行ったら、さぞかし楽しいだろうと思ってしまっている。みんなはどんな顔で驚いたり、はしゃいだりするのだろうと考えると、それだけで頬が緩みそうになる。

さっき感じていたモヤモヤの正体がわかってきた。

私は羨ましかったのだ。

王子とティアナのように、あの二人の騎士のように、そして世の中の大勢の人たちのようにくだらない話をして、笑い合って、そしてお互いの繋がりを感じてみたかったのだ。

 だが‥‥‥これは私にとっては、許されない堕落だ。我々の能力は、人間性を捨ててこそ得られるものだからだ。おちゃらけた気分のまま職務についていたら、少しずつ腕がサビつき、そしていつか肝心な時にミスを犯してしまうだろう。悪くすれば私はそこで命を落とす‥‥‥のは、まだいい。最悪なのは、そのミスに王子を巻き込んでしまうことだ。それだけは絶対に、なんとしても避けなければならない。堕落から自分を遠ざけなければならない。街に遊びに行くのを楽しみにしているなど、もってのほかである。

 と、私がひそかに身を引き締め直していると、

「ねえねえ、ノエルは、どこか行きたいところはないの?」

「えっ、わたしですか?いえ、特にはないですけど‥‥」

「せっかくだから、ノエルが行きたいところも予定に入れようよ」

 目の前の小さな悪魔が、とんでもないことを言い出した。

ティアナもそれに同調する。

「いいですね、私もノエルが、どんなところに興味があるのか気になります」

 いや、乗らなくていいから。そこは止めてくれ。

「いえ、結構です本当に!お願いですからお気遣いなく!」

 駄目だ、なんとしても断らなくては。

「ええ~~~そうなの?仕方ないなあ。じゃあ来週までに考えておいてよ」

「人の話を聞いていますか?!」

 ついに、大人しく聞いていることができなくなった。

急に声を荒げた私に、王子がびっくりしている。

「え?いや、その‥‥‥なんで?」

「なんでじゃ、ありません!」

 オロオロしている王子にかまわず、私はまくしたてる。

「街へ行くのは、あくまで視察や、今回のような尾行、潜入など、明確な理由がある時だけにしてください。ただ遊びに行こうというのはナシです!」

 かなりな越権行為だが、王子の身を守るという点では間違ったことは言っていないはずだ。城を出る以上、リスクはゼロではないからな。これでいい、うん。

「‥‥‥たしかにそうですね。ノエルの言う通りです。すみません、私が止めるべきでしたのに一緒になって浮かれてしまっていました。申し訳ありません」

 ティアナも、ようやく分かってくれたようだ。

「え‥‥じゃ、じゃあ‥‥‥サーカスは、見に行かないってこと‥‥?」

 王子が、この世の終わりが来たかのような顔で聞いてくる。

「いえ、サーカスを見に行くのは構いませんよ。ただし、あくまで視察だということを、忘れないで下さいと言っているのです」

 王子は私の言葉に救われたような顔を見せた‥‥‥が、すぐに表情を引き締める。

「ノエル、ごめん‥‥‥そして、ありがとう‥‥‥さっき僕がお願いした、僕が間違ったことをしたら叱ってほしいっていうのを、さっそく実行してくれたんだね。僕が感じたことは本当だった。やっぱり僕にはノエルが必要なんだ」

 あれ?‥‥なぜだか感謝されてしまった。いまのは完全に自分の都合で言っただけなんだけど‥‥‥まあいいか。

「わたしが同行するのは、あくまで護衛としてです。一緒に遊びに行くわけではありませんから、それを忘れないでください」

「うん、わかったよ。ノエル、ありがとう」

「私からも、お礼を言わせてください。ありがとうございます、ノエル」

 二人にお礼を言われて、少々むず痒いが、話が落ち着いてくれてホッとする。

「いえ、王子をお支えするのが、わたしの役目ですから、お気になさらず」

そう言って私は、何事もなかったかのように澄ました顔に戻る。

これで、さっきうっかり口にしてしまった、今日は楽しかっただとか、なんとかというのは忘れて、なかったことにしてほしい。どうかお願いします。


   ◇   ◇


 その後、カリル王子一行は、食事を終え王子の居室に戻った。

 部屋に入ると、ノエルは、すぐにまた姿を隠してしまう。カリルとティアナは残念がったが仕方ないと思うしかなかった。いつものようにティアナは、カリルの就寝のお世話をする。

「ティアナ、ありがとう。おやすみなさい」

「おやすみなさい王子。今日はお疲れ様でした」

明日からは、どんな日々が待っているのだろう?平凡な毎日が様変わりして、波乱万丈な冒険譚が‥‥‥とは、ならないだろうけど、これまでは遭遇しなかったような困難に、みんなで力を合わせて立ち向かうことだってあるかもしれない。そんな高揚感に包まれながら、カリルは疲れた身体を横たえ、そして眠りについた。


   新たなる日常


そして翌朝ティアナは、昨夜宣言した通り、ねぼすけの王子を叩き起こして顔を洗わせるやいなや、執務用の椅子に強制的に座らせていた。

「ふあ~~~~ああ‥‥‥ね、ねえティアナ‥‥‥‥眠くてたまらないんだけど」

「何を言ってるんですか、私は王子より、ずっと早く起きてるんですよ?」

「いや、それは分かってるんだけどさあ‥‥‥眠いものは眠いんだよ‥‥」

 昨日の決意宣言も、どこへやらだ。いつも通りの情けない言い訳である。

「自分で言ったんでしょう?これからは頑張ると。朝食の前に、少しは書類を減らしておいてほしかったのですけど」

 結局手を焼いていると、いつのまにか姿を見せたノエルが、朝の挨拶をしてきた。

「おはようございます。王子、ティアナ」

 昨日、王子がお願いした結果、夜眠る時以外は姿を見せてくれることになったのだ。それに以前のように、フードで顔を隠すのも止めてくれた。ちなみに、今日はまた男女どちらかわからないような服装をしている。

昨日思ったけれども、やっぱりノエルは綺麗な顔をしている。こんな美人を捕まえて、男か女か分からないと言っていた王子は、まったくどうかしている‥‥‥と思うのだけど‥‥‥‥なんだかまた自信がなくなってきた。女の子‥‥だよね‥‥‥あれ?

「あ、おはようございますノエル‥‥‥ふふ、こうして朝の挨拶をするのは初めてですね」

 私も挨拶を返す。そうだ、どっちでもいいことだった。昨日までは考えもしなかったことだが、これからはこれが日常になるのだと思うと、正直少し‥‥いや、かなり嬉しい。

「おはようノエル。ねえ助けて。僕にはいま、なによりも睡眠が必要なんだよ」

「また‥‥本当に恥ずかしくないのですか?」

 せっかくの気持ちの良い朝の気分を、半分眼を閉じた王子が、ぶち壊してくれる。

「落ち着いて下さい、ティアナ」

 イライラしている私をなだめながら、ノエルが提案してくれる。

「では、まず王子を連れて、朝の散歩に出かけてはどうですか?朝の空気を吸いながら歩けば目も覚めますよ」

「でも‥‥‥」

 ありがたいけれど、ちょっと躊躇してしまう。

「どのみち、その状態では、書類仕事は無理じゃないですか?」

 たしかにその通りだ。こんな半分、夢の世界にいる王子に処分を決められたら、したがう方はたまったものではないだろう。

「わかりました‥‥あなたの言う通りですね。少し散歩でもしてきましょうか。道案内をまかせても良いですか?」

「もちろん。では行きましょう」

 話が決まったので二人で王子を立たせる。そして、いざ部屋を出ようとしたところで王子がゴネだした。

「ちょっと待って!僕は行くなんて一言も言ってないんだよ。眠気を覚ますなら、もっと確実な方法があるよ!このまま僕をもう一度ベッドに寝かせて、ほんの2時間も放置しておいてくれればいいんだよ。そしたらバッチリ目が覚めるから‥‥」

「ノエル、そっちを持って下さい」

「こうですね。よいしょ」

「待って待って!痛いから!引っ張らないで!いや~~!誰か助けて~~!」

 朝っぱらから王子を拉致しているみたいな騒ぎだが、カリル王子が泣き叫ぶのはいつものことなので、廊下を行き交う人たちは誰も気にはしていない。そのまま私とノエルは、嫌がる王子を引っ張って朝の散歩へと出発した。


 まずやってきたのは城の中庭だ。朝露に濡れた草花が生命力を漲らせて、陽の光を待ちわびている。もう庭師たちが仕事に取り掛かっていて、何人かが王子に気づいて挨拶をしてきた。

「カリル殿下、おはようございます。おみ足が濡れますから、敷石から外れないようにお気をつけ下さい」

「おはよう。うん気をつけるよ。みんな朝早くから、ご苦労さま」

 観念して歩いているうちに、だんだんと目が覚めてきたようだ。私も朝の庭の清々しい空気に触れて、心が洗われるように感じていた。先を歩くノエルが振り返って言う。

「次は、城壁に登りましょう」

「ええっ?!あんな高いところに?!」

 王子がびっくりして、上を見上げる。

「ゆっくり登りますから大丈夫ですよ。上は見晴らしが良くて、気持ちがいいですよ」

「いやいや、無理だってば!」

「心配いりません。本当に無理そうなら、ちゃんと止めますから。行ける所まで行ってみましょう」

「う、うわ~~ん!」

 ノエルの先導で私達は、王城の内郭を守る城壁の階段を登り始めた。


「ひい、ひい‥‥‥はあ、ふう‥‥‥や、やっと着いた‥‥!」

 ぜいぜいと息を切らしながら、ようやく王子が階段を登りきった。

「‥‥昨日、サライにも言われていましたが、たしかにこれは酷いですね‥‥‥いくら朝の起き抜けとはいえ、体力がなさすぎます」

 つい正直な感想が口をつく。今後、王子がどのような人生を歩むにせよ、これでは色々と支障があるだろう。

「大丈夫ですよ、ティアナ。身体を動かす習慣さえつければ、少しずつ体力はつきます」

ノエルはそう言うと、まだへたり込んでいる王子に声をかける。

「王子、お疲れ様でした、よく頑張りましたね。見て下さい、ちょうど山の向こうから朝日が顔を出しますよ」

「えっ?‥‥‥わあ、本当だ‥‥‥‥!」

 東にそびえる、なだらかな山並みから、眩しい陽光が漏れ出していた。城壁の上に吹く風に身体を預けながら、私達は新しい太陽が生まれ出る様子に眼を奪われた。

「気持ちいい‥‥‥‥気持ちがいいね」

 王子はそれから両腕を広げて顔を上げ、空をぐるりと見渡してから、そう言った。もう完全に眠気は吹き飛んでくれたようだ。

ノエルの王子の扱いの上手さは、見事という他はなかった。きっと日頃の悪戦苦闘している私の姿を参考にして、彼女なりの最適解を見つけたのだろう。

つまり私は反面教師。悪い見本ということか‥‥‥いや駄目だ。落ち込んでいる場合じゃない。思考が暗闇に吸い込まれないように耐えていると、王子が私を呼ぶ声が聞こえた。

「わあ、ティアナ見て!とっても綺麗だよ!」

 王子は興奮した顔で、外郭の城壁の向こうの町並みを指差している。家々の煙突から炊事の煙が上がり、街路では人々や荷車が行き交い始めていた。そこに少しずつ朝日が差し込んで、まるで舞台の幕が開いていくかのように、さっきまで薄暗く見えていた街を、明るく黄金色に照らし出していく。

「ええ、綺麗ですね‥‥‥」

 私達は、しばしの間その光景に見とれていた。

頃合いを見計らって、ノエルが言う。

「さあ、いつまでも立ち止まっていると、身体が冷えてしまいます。城壁の上を一周してからお部屋に戻りましょう」

「うん!わかったよ!」

 王子が元気よく答える。出発する前、あれだけゴネていたのが嘘のようだ。

 私達は、少しずつ色を変える空の青さや、鳴き交わす鳥たちや、色鮮やかな葉を繁らす庭園の木々を眺めながら歩いて、王子の居室へと戻った。


執務室に帰ると驚いたことに王子は、私がなにか言う前に、自分から席に着いて黙々と執務に取りかかってくれた。いったいどういう心境の変化なのか問いただしたい所だけれど、王子の集中を邪魔しないように、じっと我慢する。

「今日は、ずいぶんと頑張っていましたね」

 そのあと、朝食の際に思い切って聞いてみた。

「うん、お散歩して、お日様を見たら、スッキリしたからね」

 王子は元気な声で答える。いつもなら、ようやく起きているかどうかの時間に、もう一仕事終わらせていることに、充実感を覚えているのが口ぶりでわかる。

「それにね。城壁から街を眺めているうちに「ああ、ここに暮らしてるみんなのためにも頑張らなきゃ」って気持ちになったんだ」

「そうでしたか‥‥‥」

 王子の心境の変化は、無論のこと喜ばしい限りだ。だが私は手放しで喜べない。むしろ深く深く落ち込みそうになるのを、じっとこらえている有様だ。

すべてはノエルの功績だ。私は何もしていない。私は悔しいのを通りこして、ただただ悲しくなった。私が今までしてきたことは、一体なんだったのか。

もしも‥‥‥仮に王子の侍女が、私じゃなくてノエルのような優秀な人物だったなら、王子は今のような低い評価を受けることには、ならなかったんじゃないだろうか?王子にとって私の存在は、ただの厄介なお荷物でしかないんじゃ‥‥。

「ティアナ!!」

「わわっ!?なに、なに、なに?」

突然、ノエルが鋭い声を出した。王子がびっくりして眼を丸くしている。

「‥‥‥何ですか、ノエル?」

「実は、さっきから言おうか言うまいか、ずっと迷っていたのですが‥‥」

 ノエルが真剣な顔で言う。私は、ゴクリと喉を鳴らした。

「何ですか‥‥言って下さい‥‥」

「実は‥‥‥‥‥‥‥‥背中が、とても痒いのです」

「‥‥‥‥‥はい?」

 予想外のセリフに、一瞬思考が止まってしまった。王子もポカンとしている。

「ですから背中がとても痒いのです。お願いですから掻いて下さい。あ、優しくですよ、優しく」

 ノエルはそう言うと、テーブルを周って私へ近づき、背中を向けようとしてきた。

「え、ええ~~~っと‥‥」

 固まったままの私より、王子が先に反応する。

「あ、僕がやってあげるよ!僕が掻いてあげる!」

「駄目です!ティアナじゃなきゃ駄目なんです」

「ええ~~~?!何で~~?!」

「何ででもです。王子はさっさと朝食を食べちゃってください」

「そんな~~」

 残念がる王子を無視して、ノエルは私の前で背中を見せる。

「さあ、早くお願いします」

「‥‥‥‥こ、こう?」

 私は手を伸ばし、おっかなびっくり、ノエルの背中を掻いてみる。

「あ、そうです、そう。もうちょっと広い範囲でお願いします」

「う、うん」

 言われるままに、ノエルの背中を掻き続ける。服の布地越しにノエルの背中に私の指が触れていく。筋肉質ではあるけれど、なで肩の小さな背中だ。やはり女性だとの見立ては間違っていなかったようだ‥‥そして、そのまましばらく続けていると。

「ふう‥‥‥ありがとうございます。おかげでスッキリしました」

 ノエルはそう言うと、振り返って満足そうな表情を浮かべた。すると、そのまま私の両肩を優しくつかみ、頬と頬が触れそうになるほど、顔を近づけて来た。

「ええっ?!」

驚いて身体を固くしていると、ノエルが囁くような声で話しかけてきた。

「ティアナ‥‥‥お願いですから、あなたは、あなたのままでいてください」

「えっ?!」

「自分を否定しないで。あなたが思う以上に、王子にはあなたが必要なんです」

 真剣な表情でノエルは続ける。王子はパンを一生懸命ほうばっていて、気づいていない。

「そして、これは不遜な考えかもしれませんが‥‥もしも私達三人が、一つのチームだとするなら一番大事な柱はティアナ‥‥あなたです。どうか、それを忘れないでください」

そう言うとノエルは、私から離れて元の位置に戻る。そして何事もなかったかのように口を閉じた。

 私はしばらく呆然としたまま突っ立っていた。ノエルが私を心配して芝居をしてくれたのだということは、もちろんすぐにわかった。彼女から見てもわかるほど、私は落ち込んだ様子をしていたらしい。しかし、それも仕方がないことだろう。私の存在意義を、真っ向から否定されたと思ったのだから‥‥。

でもそれは勘違いだったのかもしれない。誰も否定してなどいなかった。私が勝手にそう思っていただけなのだ。

 王子がようやく食べ終えて、顔を上げる。

「ごちそうさま。あれ?ノエル背中はもういいの?今度は僕が掻いてあげようか?」

「もう大丈夫です。というか、やめてください。訴えますよ?」

「なんで?!」

 私はもう一度ノエルの言葉を思い返してみる‥‥‥私は私のままで‥‥‥か。

 よし!くよくよ思い悩むのは、もうやめだ。こんなことで、私らしさを失ってたまるか。

私は、私なりのやり方で王子を支える。そうやって日々、前へ進んで行くんだ。

そしていつの日か、ノエルにお礼を言おう‥‥あの時は、ありがとうと。


   ◇   ◇


 ノエルはいつもの無口モードに戻り、ティアナの様子を横目で見ていた。どうやら迷いは吹っ切れたようだ。

 朝から、私の王子への誘導が上手くいくたびに、ティアナの表情が暗くなるのは気がついていた。そのまま気づかないフリをしているつもりだったが、落ち込みかたが半端じゃなかったので、つい助言みたいなことを言ってしまったのだ。

まさか自分に、こんな世話焼きな一面があるなんて思ってもいなかった。もちろん彼女が精神的に安定してくれるのが、王子にとっても良いことであるのは間違いない。でも、それだけが理由じゃない。純粋に彼女が落ち込んでいるのを見ていられなかったのだ。それだけ私に心を許してくれている彼女を、私は好ましく、そして大切に思っているということなのだろう。

自分が、どんどん人間くさくなっていくのを感じる。ティアナに対してだけじゃない。王子への感情も、いままでは単にその身を守ることしか考えていなかったのに、なにやら、心が波立つことが増えているような気がするのだ。

数日前までの自分なら、これを堕落であると判断していただろう。正しい判断だ。私が隠密として生きる以上、それらは妨げにしかならないのだ。

だがいまは、それを自分に不必要なものだと切り捨てるのを難しいと感じている。ティアナに偉そうなことを言ったくせに、自分自身の進むべき道が判らなくなってしまっているのだ。

一切の馴れ合いを断ち切って、非情に徹するべきなのかもしれない。だが、それもまた本当に正しいことだとは思えないのだ。

一体何が正解なのか、答えは見つからない。

見つからないが、とりあえず一度心を鎮めて隠密としての自分を取り戻してみよう。今日は朝から喋りすぎた。おまけにティアナの前で、恥ずかしい小芝居までして見せたからな‥‥。

あ、まずい!意識したら余計に恥ずかしくなってきた‥‥!!

と、とにかく、しばらくは冷静沈着な護衛に専念していよう。お喋りは禁止だ。いいね。


   ◇   ◇


 ちなみにこの朝の散歩は、その後も日課として毎日、半強制的に続けられることになった。

もちろん初日よりはマシになったが、毎朝、ダダをこねて暴れるカリルを無理やり引っ張り出すのは相変わらずで、彼に早寝早起きと、運動の習慣を身につけさせられるのは、まだまだ先のことになりそうだった。


  リーベル金貨回収


 その翌週、カリルがいつものように、うんうん言いながら書類とにらめっこをしていると、財務部のモイセスから待ちかねていた知らせが届いた。例の不動産屋に入金があったというのだ。

「待ってました!よーし、ティアナ、ノエル。急いで財務部へ行こう!」

「はい!」

「お供します」


「あ、カリル殿下。ご足労いただき申し訳ございません」

「モイセスお待たせ。さあ早く行こうよ‥‥って、あれ?ザイオンじゃないか」

 財務部に着いてみると、モイセスは彼の上司のザイオンと一緒だった。

「お待ちしておりましたカリル殿下。本日はわたくしも、ご一緒させていただきます」

「え、そうなの?ザイオンがわざわざ?‥‥いや、もちろん証人は多いほうがいいし、何よりザイオンが立ち会ってくれるなら、言うことなしだから助かるんだけどね」

「モイセスより経緯は報告を受けております。カルバン大隊長の不正を糾明するため奮闘なさっておられるとか‥‥このザイオン感服いたしました。先日の無礼な発言を謝罪いたします」

 そう言うと、ザイオンは僕に丁寧に頭を下げた。

「や、やだなあ、やめてよ。ザイオンはなにも間違ったことは言ってないよ。言われた僕の方が悪かったんだ。覚悟が足りなかったんだよ。それをみんなに見透かされてたから、誰も僕の言うことを聞いてくれなかったんだ‥‥でも今ならわかるよ。ザイオンのお陰で、そのことに気づけたんだ。感謝してるよ」

「‥‥もったいないお言葉です」

「ううん‥‥よし、じゃあ行こうか!」


「あ、お待ちしておりました‥‥って、ええっ?‥‥カ、カリル王子?!‥‥い、いえ失礼いたしました!どうぞ、どうぞ、お入りください!」

 不動産屋さんは、わざわざ臨時休業にして待っていてくれたようだ。店主が興味津々な様子で出迎えてくれる。高官のザイオンまでいるので、僕たちはきっとお城のお歴々のように見えているのだろう。もしかしたら、自分が何か重要な場面に立ち会っているのだと勝手に想像して興奮しているのかもしれない。

「こちらでございます!」

 店主の手によって、カウンターの上に丈夫そうな袋が置かれた。

「300リーベル入っています。もちろん受け取った際に私が数を数えましたが、それ以外は一切手を触れておりません!」

「ありがとう、助かったよ。商売の邪魔をしちゃったみたいで、ごめんね」

「いえいえ!とんでもございません!お役に立ててなによりです!」

 かしこまる店主に、モイセスが持参した袋を手渡して言う。

「では詳しくは話せませんが、これは証拠品として我々が回収します。代わりにこちらを‥‥‥300リーベルと、些少ですが迷惑料が入っていますので、お収めください」

「これはこれはご丁寧に。お気遣いいただき、ありがとうございます」

 店主はしきりに恐縮している。

「言うまでもありませんが、今日のことは内密に願います。あなたはただ、代金の300リーベルを客から受け取っただけです‥‥‥よろしいですかな?」

「もちろん承知しております!どうぞご安心を!」


「よーし、モイセス。検査用の薬品は、もう用意してあるんだよね?」

「もちろんです。抜かりはございません」

 不動産屋さんを出て、僕たちは、もと来た道をお城へと向かう。

ちなみにこうしたお忍びじゃない外出には、城門の衛兵詰め所が護衛を出してくれる。いまも僕たち一行の前後を、兵士が数人ずつで守ってくれていた。

モイセスは受け取った袋を鍵付きの丈夫な箱に入れて、大事そうに両手に抱えている。ティアナは無言で僕のうしろに控えてくれていて、ノエルはさらにそのうしろで周囲に眼を配ってくれているようだ。なにか異変があれば、すぐに対処してくれるだろう。そしてザイオンはというと‥‥‥なにやら、じっと僕の様子に見入っているようだ。なにか気になることでもあるのだろうか?‥‥そういえば今度の一件、ことの始まりはザイオンから言われた言葉だったなと僕は思い返していた。


あの日僕は、財務部の会議に出席していた。大勢の役人たちが出席して、各々のその月の仕事の成果を発表し合うのだが、毎回、出席者たちの熱意には、ずいぶんと感心させられる。

みんな、ここぞとばかりに、自分がいかに苦労を重ねて大きな成果を成し遂げたのかを、競い合うように発表するのだ。それはいいのだけれど、どうもそういう会議での発言を、実際の業務以上に重要視している人が、少なくないような気がするのだ。

傍から見ている僕からすると、それってどうなのと思わなくもないのだけれど、僕がなにか言ったところで、みんなから遠回しに「いいから黙って座ってて下さい」と言われるのがオチなので、僕は努めて、われ関せずという態度をとることにしていた。

そして僕自身の業務については、いつも「可もなく不可もなく、規定通りこなしました」的なことを言うのだけれど、そのたびに会議場全体から冷ややかに見下したような気配が伝わってくるのを感じるのだ。僕としては特に強調するような成果はないので、ないと言っているだけなのだけど、毎回、あとでティアナに怒られるのだ。自分を過小評価せずに、もっと堂々と発言するべきだと。

だけど僕なりのやり方で仕事をして、それを正直に発表しているだけなので、これでいいんじゃないかと思っていたのだ。ところが‥‥。


「カリル殿下‥‥‥少し、よろしいでしょうか?」

 会議が終わり、会議室の隅で控えていたティアナを伴って退出しようとしていると、ザイオンがそっと声をかけてきた。

「え‥‥?珍しいね、ザイオンが僕に声をかけて来るなんて。どうしたの?」

「少しばかり、お時間をいただきたく‥‥‥あちらの部屋へどうぞ」

「うん‥‥わかった。ティアナは、ここで待っていて」

 なんだか深刻な気配を感じて、及び腰になるけれど、断るわけにはいかない。ザイオンに従って空いていた小部屋に入る。

「それで‥‥話っていうのは何かな‥‥‥?」

 二人きりになったところで尋ねると、ザイオンは僕の正面に立ち、厳しい目つきで見下ろして言った。

「カリル殿下‥‥‥無礼を承知で申し上げます。殿下の今のお仕事のなさりようは、一体何ですか?」

「え‥‥‥‥?」

「まるで、やる気が感じられません」

「え、え‥‥‥‥そ‥‥そうかな‥‥?」

「はい。覇気が足りないと思います。もっと気概を見せていただきたいのです」

 覇気とか気概とか、ザイオンは僕に最も縁遠いことを並べ立ててきた。残念ながら、僕の中にそんなものはない‥‥‥と思う。

「処理が滞りがちなのは困りものですが、殿下は日々真面目に業務に取り組んでおられます。そのことについては、わたくしも、ご立派だと考えているのです。問題なのは、会議などでの発言や態度です。もっとご自分に自信を持って、堂々と振る舞っていただきたいのです」

ザイオンもまた、ティアナと同じようなことを言ってくる。だけど、いったい僕にどうしようがあるっていうんだろうか?

「‥‥ごめんザイオン。僕には堂々と振る舞うっていうのが、どういうことなのか、よくわからないんだ‥‥‥」

 僕は小声で正直に言う。情けないと思われるだろうけど、本当のことだから仕方がない。

「困りましたな‥‥‥では、そのあたりは今後の課題ということにして、今はとにかくご自分に自信を持つことだけに意識を集中してみてはいかがですか?」

「うーん‥‥‥やっぱり、よくわからないけど‥‥‥でも、それが必要だってザイオンが言うなら意識してみることにするよ」

「はい、ぜひお願いいたします‥‥‥わたくしが見るところ、カリル殿下は、常に広い視点をお持ちで、物事全体に眼を配りながら業務にあたっておられます」

「え?‥‥‥う~~ん、そうかな?そうかも。だけどそれが当たり前でしょう?」

「仰るとおりです。ですが実際にはそれができていない。いえ、それどころか、あえて無視をして近視眼的な仕事をしている者が、役人たちの中でも、かなりの数でいるのです」

「ええ~~~?!」

 信じられない。財務部のトップであるザイオンが言うのだから、間違いではないのだろうけど、本当にそうなのだろうか?

「わが王国の官僚組織は、諸国の中でも優れたものではあります。わたくしも含めて、役人たちは厳しい試験を経て登用された者たちばかりであり、それぞれが専門分野で力を発揮できるように組織が整えられています」

「うん、知ってるよ」

「ですが、彼ら役人たち一人ひとりが最も情熱を注いでいることが何かといえば、自分の功績を、いかに周囲に認めさせるかということなのです」

「‥‥‥へえ‥‥」

「それ自体は決して悪いことではありません。やる気のない集団よりは、はるかにマシです。しかしその結果、自分の成果の数字にこだわるあまり、他にしわ寄せがいくといったことが、日常的におきているのです」

「そうなの?」

「これはたとえばですが‥‥‥ある役人が、農地を増やすことを命じられたとしましょう」

「うん」

「ですが、これは簡単なことではありません。荒れ地に農業用水を引いたり、あるいは沼地や湿地に排水の水路を作るなど、大規模な土木工事が必要になるでしょう」

「うん、そうだろうね」

「ところがその役人は、もっと手っ取り早い方法を思いつきます。村々が管理する雑木林を、強制的に切り開かせて、それを農地に転用させたのです。かくして、その役人は任務を全うして高い評価を得ることができました」

「うん‥‥‥え、でも待って、それだと‥‥」

「はい、そのやり方だと、たしかに農地は増えるでしょう。しかし雑木林を失ったことで、農民たちは薪などの燃料を手に入れられなくなり、暖を取ることも、食事のための煮炊きをすることもできなくなります。結果、遠くから運ばれる薪や木炭を買わざるを得なくなり、生活は相当に苦しくなるでしょう」

「それじゃあ、農地を増やしたって、なんにもならないよ!そんなやり方は、絶対にやめさせなきゃ!」

「これはあくまで、たとえ話です」

「あ‥‥‥そうか、そうだったよね」

「そして、たとえ話ということで話を大げさにはしましたが、ここまで酷くはないとしても、似たようなことは実際にいくつもおきているのです」

「ふーん‥‥‥広い視点が欠けているっていうのは、そういうことなんだね」

「その通りです」

「でも‥‥‥やっぱり信じられないな。役人になるからには、みんな頭がよくて優秀な人たちばかりなんでしょう?それがどうして、そんなことになっちゃうんだろう?」

「彼らは成果を出すことに必死なのです。自分の成績を上げることがなにより大事で、それ以外のことはどうでもよくなってしまうのです」

「それで困る人たちが大勢生まれたとしても?成果を上げるどころか、プラスマイナスでいったら、むしろ国の力を削ぐような結果になったとしても?」

「はい、それでもです」

「それも信じられないよ。なんでそこまで必死にならなきゃいけないんだろう?」

「より高い地位を得るため、より多くの収入を得るため‥‥‥そんなところですが、人が人生の大半を捧げるには十分な理由とも言えます。彼らのほとんどは下級貴族や一般市民の出で、さほど高い身分の生まれではありません。しかし、城で高官と呼ばれるほどの身分に出世できれば、公私ともに大勢の人間を従え、そして、かしずかれることになります。王族である殿下にはお分かりになられないかもしれませんが、出世栄達という行為には、人を狂わせる魔力が秘められているのです。昇進して一段ずつ地位が高くなるごとに、嫌でもそれを実感することになります。またほとんどの者が、幼少の頃より頭脳明晰と褒めそやされて育ち、自分は特別な人間だという高いプライドを持っています。そこから「あいつには負けたくない」とか「自分のほうが優秀なのに、あいつより昇進が遅れるなどあってはならない」といった強い競争心も生まれてくるのです。みなが自らの成果を追い求め、そして必死にそれをアピールするのはそのためなのです」

「‥‥‥‥‥」

 ザイオンの言葉に僕は何も言えず、考え込んでしまった。

いつも会議の場で感じていた違和感の正体がようやくわかった。たしかに説明されたら納得するしかない。国に奉仕するために役人になった人たちが、そんなことはそっちのけで、出世競争に明け暮れているというのだ。ずいぶんおかしな話だけれども、そうなるだけの理由はたしかにあると、認めざるを得なかった。

「‥‥‥話を戻すとしましょう。わたくしはカリル殿下の仕事ぶりを、彼らに見習わせたいと考えているのです。彼らも始めは国民のために尽くしたいという理想を持っていたはずです。カリル殿下をお手本とすることで、その気持を取り戻してほしいと願っているのです。そしてそのためには、殿下には今のままでいてもらっては困ります。不敬を承知で申し上げますが、はっきり言って今の殿下は、彼らから侮られています。殿下がいつも自信がないような態度をとっているからです。このままでは殿下の仕事ぶりに、彼らの眼を向けさせることは難しいでしょう。ですからもっとご自分に自信を持って、堂々と振る舞っていただきたいのです」

 そう言うザイオンの態度は真剣そのものだ。強い意思を込めて僕に訴えかけている。

「いやいや、待ってよ。とんでもないことを言うねザイオンは。僕なんかが彼らのお手本になるなんて無理に決まってるよ」

 僕が慌てて顔の前で両手を振ると、ザイオンは両の眉をめいっぱい寄せて苛立ちを押し殺したように言った。

「‥‥そういう所です‥‥!」

「え‥‥‥?」

「そういう「僕なんか」とか「無理に決まってるよ」とか、そういうセリフが自信のなさの現れなのです!」

「あ‥‥‥‥そ、そうか‥‥ごめんなさい‥‥」

「少なくとも、以後はその二つの言葉は、お使いにならないように願います」

「えええ~~~~~~?!!」

 大変なことを言われてしまった。いくらなんでも僕にはハードルが高すぎる要求だ。なんとか断る理由を考えながらザイオンを見返すと、これ以上ないくらい真剣な目で見つめられていた。文官であるザイオンは決して強面ではない。しかし日頃、大勢のプライドの高い人たちを従わせているだけに、本気になったときの迫力は凄かった‥‥‥だ、駄目だ。とても断れそうにない。いや、でもこうして流されてしまうのも良くないんじゃないだろうか?ここはあえて毅然と「だが、断る」とでも言うべきなんじゃ‥‥。

「カリル殿下!お願いいたします!」

「はい!わかりました!」

 追い詰められて、反射的に返事をしてしまった。こんなことでは自分に自信を持つなんて、ほど遠い目標の気がする。結局二つのワードを使いまくって、またザイオンに怒られるのが目に見えていると思うんだけど‥‥‥いや、こんな弱気では良くないな。しっかりしろ、僕!

「それと、もう一つお願いがあるのですが」

「まだ、あるの??!」

 思わず声が裏返りそうになってしまった。もうすでに、お腹いっぱいなんですけど!

「はい、この機会にぜひ申し上げておきたく‥‥‥各部署の経費の申請についてです」

「あ、あう‥‥‥そ、それは‥‥そのう‥‥」

 今度こそ、ぐうの音も出ない。身に覚えがありまくりなのだ。

「おおよそのことは、わかっております。非常に残念なことですが、この城の中には、規定を半ば無視して、我が物顔に振る舞う者どもがたしかにいます。彼らがカリル殿下に対して無茶な要求を繰り返していることも」

「いや‥‥‥無茶というか‥‥その‥‥なんと言いますか‥‥」

 無茶と認めてしまったら、僕も不正に加担したことになってしまう。そんなことを考えながら、小さな声でゴニョゴニョと返事をする。

「いえ、この件に関しては、こちらも心苦しく思っております。殿下に損な役回りを押しつけてしまっていると」

「え‥‥‥そ、そう?」

「はい、恥を承知で白状いたしますが、この件は我々も持て余しているというのが正直なところなのです。解決策を見つけられない部下たちの中から、いっそのこと、これはカリル殿下に一任してしまってはという意見が出た時、わたくしは始め反対しました。自分たちの手に余るからと言って、まだお若い殿下に押しつけるなどというのは、あまりにも無責任で情けないと‥‥しかし、よく考えてみると、むしろこれは好機なのではないかと、そう考えたのです」

「え?‥‥‥どういうこと?」

「もしもカリル殿下が、彼らの要求をはね退けることができたなら、わたくしの部下たちの殿下に対する見方も、大いに変わるだろうと考えたのです」

「なるほど‥‥‥‥‥なるほど??!」

 僕は唖然としてザイオンの顔を見返した。まさかこんな真実が、あっさりと明かされるとは思ってもいなかった。僕の日頃のストレスの大半の生みの親ともいうべきなのが、目の前の男の思いつきだったとは‥‥。

たしかに最初ザイオンにその話を持ちかけられたときに、喜んで引き受けたのは他でもないこの僕だ。しかし、その考えが甘すぎたということに、すぐに気がついた。

カルバン隊長を始め陳情者たちは、最初から僕をナメてかかっているようだった。強気で要求すれば、僕はすぐに引き下がって認めてしまうだろうと。そしてその通りになると、次からはさらに、かさにかかって強気で押し通そうとしてきたのだ。

結果として僕は、毎度毎度、怒鳴りつけられ、泣かされた挙げ句に、予算をぶんどっていかれるという惨めすぎる境遇に落ちてしまったのだ。

「どうやら、わたくしの願いは裏目に出てしまったようですね。部下たちは、以前にもましてカリル殿下を軽く見るようになってしまったようです。あの者どもがことあるごとに、殿下や殿下の侍女に、苦情や嫌味を言っているのも承知しております」

「‥‥‥ごめんね‥‥‥僕が情けないのが、いけないんだ‥‥」

 なにも言い返すことができなくて、僕は下を向いて謝った。

「はい、その通りです。カリル殿下がいけないのだと思います」

「えっ?‥‥‥‥‥う、うん‥‥そうだよね‥‥」

「ご自分が悪いとわかっているのに変わろうとしない‥‥変わるための努力をしようとしない‥‥‥そういうカリル殿下が、一番悪いのです」

「うん‥‥‥そうだね‥‥‥‥きっとそうだ‥‥‥ザイオンの言うとおりだよ」

「今は弱いお立場かもしれませんが、それでもカリル殿下は、れっきとした王族なのです。毅然とした態度をもって臨めばカルバン隊長たちも引き下がるしかありません。そうそう無法な振る舞いはできないはずなのです」

「‥‥うん‥‥‥‥」

「あらためて、お願い申し上げます。今のカリル殿下のなさりようは手ぬるいと思います。もちろんこれまでのやり取りの中で、精神的に負け癖が付いてしまったということはあるかもしれません。そこから立て直すというのは並大抵の苦労ではないでしょう。しかし、それでも‥‥‥今の殿下だからこそできることがきっとあります。どうかそのことから目をそらさずにいて欲しいのです」


 ‥‥‥そうだ。あの日のやり取りがあったからこそ、僕は自分を変えたいと思えるようになったんだ。それ以前もティアナに怒られながらではあるけれど、できる範囲のことは頑張っていたつもりだった。でも自分の苦手なことからは、あえて目をそらしていたのだと今は思う。

これは自分の個性なんだとか、生まれ持った性格なんだから仕方がないよとか、僕は自分の得意なことで貢献しているから他がおろそかでも別にいいよねとか、そういう都合のいい理屈を並べて自分をごまかしていたんだ。

でもやっぱりそれじゃいけなかったんだ。期待してくれているザイオンのために‥‥いつも僕を支えてくれているティアナのために‥‥いつか僕が助けてあげられるかもしれない誰かのために‥‥‥‥そして誰よりも、僕自身のために。

そうだ、僕はやっぱり変わりたかったんだ。今のままでいいなんて思っていたけど、それは違う。自分にそう言い聞かせていただけだったんだ。

 そうか‥‥‥ザイオンが突然、同行するなんて言い出したのは、僕の変化を見極めるためだったのだと、今さらながら気がついた。

どうなんだろう?今の僕は、彼の眼から見て成長していると言えるのかどうか。

以前ほど、モイセスにもザイオンにも、気後れしなくなっているとは思う。彼らにどう思われるかよりも、これから自分が何をするべきかに意識が向かっているからなのだろう。それを成長と呼んでいいのか‥‥。

いや、やめよう。仮に少しばかり成長できていたとしても、彼のような立派な人物から見たらどのみち、よちよち歩きの子供同然に変わりはないのだから。そんなことより今は主計長のシェルドンを査問にかけることに集中しなければ。サライは完璧な計画だなんて言ってくれていたけど、本当にそうなのかは、やってみなければ分からないのだ。


 やがて僕たちはお城へと帰り着くと、城門の詰め所へ入って記録を見せてもらった。

カルバン隊長の居場所を知りたいのだ。できることなら、彼がいない間にシェルドンを連行してしまいたい。第2大隊の勤務予定表はあらかじめ手に入れてあるので、この時間カルバン隊長が非番であることはわかっている。ただし非番だからといって、お城の外にいるとは限らない。隊の屯所で、うろうろしている可能性もあるのだ。

でも城門の詰め所には、出入りした時の記録が残っているので、彼が城内か城外、どちらにいるのかが一発で分かる。さっそく確認すると‥‥‥‥よし、城外だ。ちなみにシェルドンは勤務中で城内にいる。好都合だ。手早く済ませてしまおう。

「ノエル、悪いけど第2大隊の屯所へ行って、シェルドンの様子を探ってきてくれる?」

「わかりました。では、そちらを確認してから財務部へ向かいます」

 ノエルは一人離れて別行動に移る。特別急いでいるようには見えないけれど、すぐに姿が見えなくなった。僕たちも、なるべく急いで財務部へと向かう。


「よーし、準備はいいね‥‥‥ザイオンいい?」

「はい、問題ございません。始めましょう」

 財務部の一室に僕たちは集まり、最後の確認をする。

「じゃあモイセス、箱を開けて」

「かしこまりました」

 モイセスが慎重に箱を開けて、中から不動産屋さんから預かってきた袋を取り出す。袋の口を開くと、光り輝く金貨が顔を出した。マルセル王国が発行しているリーベル金貨だ。それを僕とティアナとモイセスが、作業台の上に一枚ずつ並べていく。ザイオンは確認役だ。それをじっと見つめている。最後の一枚を並べ終えてティアナが言う。

「‥‥‥‥並べ終えましたね。確かに300枚あります」

 すべての金貨が、肖像画の彫られた表側を上にして整然と並べられている。とそこに早くもノエルが戻ってきてくれた。

「ありがとうノエル。どうだった?」

「自分の席に座って書類仕事をしています。腰を据えて作業している様子でしたよ」

「おあつらえ向きだね。よーし、じゃあ仕上げに入ろうか。モイセス、お願い」

「はい‥‥では、皆様よろしいですね?塗りますよ‥‥」

 モイセスはそう言うと、例のBと呼んでいる方の薬品を金貨に彫られた肖像の‥‥僕のひいお祖父様にあたる人だ‥‥‥そのアゴ髭にあたる部分に、小さなスポイトで、ほんの一滴だけ垂らした。Aの薬品は、すべてその位置に塗ってあるのだ。

 すると‥‥‥‥‥最初は何の変化もなかったが、ほんの数秒待つ間に、じんわりと肖像画のアゴ髭が赤く染まってきた。

「おお!話には聞いていましたが、実際に使うのは初めてです。本当に赤く染まるのですね」

 モイセスは感じ入ったように言う。僕も、そしてティアナとノエルも、眼を見開いて見入っている。確信はもちろんあったけれど、計画通りいくかどうか、ずっと不安だったのだ。

それから僕たちは、手分けして300枚すべての金貨にB薬をつけて、そのすべてが赤く染まるのを確認した。

「やった!!‥‥‥ザイオン、間違いないよね!」

「はい。この目でしかと確認いたしました。間違いございません。これは先週、第2大隊に慰労会の費用という名目で支給された金貨です」

 ザイオンは重々しく答える。これで課題は一つクリアだ。僕たちは衛兵たちを伴って、急いで第2大隊の屯所へと向かった。


  シェルドンとカルバン


 ところ変わって、ここは第2大隊の屯所内にある事務室である。

マルセル王国近衛騎士団、第2大隊の主計長を務めるシェルドンは、いつものように書類仕事に追われていた。年齢的に働き盛りではあるが、最近は寝不足が続いているため、目の下には、はっきりと濃いクマが現れている。

 なにしろ忙しい。100人からの隊員を抱える大隊の、装備の購入、修理から始まり、被服日用品や、医薬品の購入などなど、給料以外のお金の管理を一手に引き受けているのだ。

他の大隊の主計長達は、自分の従者に仕事を手伝わせて多少は楽をしているらしいのだが、自分はそういう真似はできない。大隊長であるカルバンの不正が一発でバレてしまうからだ。おまけに、こんなに苦労しているというのに、大隊の中での自分の評価はいたって低かった。カルバンにごまをすって、今の役職を手に入れたと思われているようだ。中には露骨に見下す態度を取るものもいる。

だがそんなふうに見られるのも、仕方ないのかもしれないとは、自分でも思っている。実際やっていることは、あいつの尻拭いばかりだ。

自分にとってカルバンという男と出会ったことは幸運だったのか、それとも不運だったのかというのは、これまで何度となく考えてきた問題だ。きっとこの先も考え続けることだろう。


 もともと俺とカルバンとは長い付き合いだ。子供の頃から村一番の喧嘩自慢だった俺は、憧れの騎士を目指すため、まだ十代の頃、僅かな餞別を懐に王都を目指した。そこには同じ目的のために国中から若者たちが集まっていた。その中で最初に話をして仲良くなったのがカルバンだ。集まった若者たちの中でも、ひときわ大きな身体で、声もでかかったので、かなり注目を集める存在だった。

「俺はナラク村のシェルドンだ。お前は?」

「ナラク村?‥‥‥ああ、大体どの辺かは分かるぜ。俺はカルバン。これから、この国一番の剣士になる男だ」

 カルバンは、そう自信満々に言った。周りの奴らに聞かれていてもまったく構わないといった態度で、俺は大したものだとちょっと感心していた。

まだガキで世間知らずだった俺は、自分の腕っぷしには自信があった。村にいた頃には、ヒマさえあれば重い木剣を振り回して、戦場で活躍する日に備えていたのだ。だが王都で集まった他の連中を見た時、俺は自分が井の中の蛙だったことに、すぐに気がついた。俺より強そうなやつがゴロゴロいたのだ。たまたま近くにいたカルバンに声をかけて仲良くなった時、内心で俺は考えていた。自分一人では、のし上がっていくのには不安があるが、コイツにひっついていれば、なんとかなるんじゃないだろうかと。

今にして思えば、まさにこの瞬間が俺の運命の分かれ目だったのかもしれない。この時、他人の力に頼って生きていこうなんて頭によぎったりしなければ、その後の俺の人生は、大きく違ったものになっていたんじゃないかと、考えずにはいられないのだ。


俺たちを含め、集まった若者たちは、そのまま全員兵士として採用された。ちょうど隣国との戦争が始まろうとしている時だったからだ。戦いぶりを認められれば騎士に任命されるかもしれないと噂されていて、俺たち新兵は皆、やる気を漲らせていた。

「おい、シェルドン!気合を入れていけよ!絶対に活躍してやるんだ。敵を斬って斬って斬りまくってやる!」

「ああ!お前ならやれるさ!だが俺だって負けちゃいないからな!見ていろよ!」

 俺たちはそんなことを言い合いながら、軍勢に従って戦場へと向かった。

やがて、敵の軍勢がすぐ近くまで来ていると聞かされて緊張が高まった。俺たちは隊長たち正規兵の指示で、持ち場に移動して陣形を組んでいった。そうしている間に敵も現れて、同じように横に大きく広がって陣形を組んでいくのが見えた。

広い平原に、両軍が持てる兵力の大半を注ぎ込んでの大会戦だった。

「やべえ‥‥!なんだこれ‥‥‥手も足も震えてる‥‥!」

 実際に敵の軍勢を目にして、俺は、今までの人生で経験したことのないほどの、恐怖と緊張に襲われていた。隣を見るとカルバンも似たようなものだった。当たり前だ。俺たちは初陣。それもつい最近、兵士になったばかりなのだ。

100人ほどの俺の所属する隊には、俺たちのような新兵が30人ばかり含まれていた。

隊長が俺たち新兵に声をかける。

「お前たちは、とにかく落ち着け!俺の指示なく勝手に動くなよ!」

 隊長はベテランで、新兵の扱いも上手かった。お陰で俺は、なんとかギリギリ冷静さを保っていられたようだ。そうして覚悟を決めて激突の瞬間に備えていた‥‥‥のだが、そのうちになんだか様子がおかしいことに気がついた。正規兵たちが、ひどく慌てているのだ。

「おい!どういうことだ!なんでこっちに敵の主力が向かってくる?!!」

 布陣した時に受けた説明では、俺たちの隊は敵の攻撃を正面から受け止める中央ではなく、側面の押さえと言ったポジションのはずだった。ところが実際には、戦闘の火蓋が切って落とされるやいなや、敵の主力部隊が大挙して俺たちの守る左翼に押し寄せてきたのだ。

「隊長!どうしますか?!」

 正規兵の一人が、上ずった声で訊いた。

「馬鹿野郎!!どうするもこうするも、支えてみせるしかねえじゃねえか!」

 隊長が、全員に聞こえるように怒鳴り返す。

「逆に敵の中央は、手薄になってるんだ!俺たちが持ちこたえて時間を稼いでいれば、味方の主力が敵の本陣に攻め入ってくれる。それまで耐えるんだ!いいか!!」

 それから隊長は、俺たち新兵に向かって言う。

「お前ら、びびるんじゃねえぞ!いくら敵の数が多くたって、こっちがしっかり陣形を保ってる限り、そうそう簡単にやられはしねえんだ。だから俺の指示通り動いていれば大丈夫だ!分かったな!!」

「はい!!!」

 俺たちは金玉が縮み上がりそうになりながらも、必死に返事をした。もうこうなったら隊長を信じて命を預けるしかない。

「カルバン!絶対に生き延びてやろうぜ!」

 俺は隣のカルバンにそう声をかけたが、なぜか返事がない。どうしたのかと目を向けると、カルバンはびっくりするくらい青い顔をして、小刻みに震えていた。

「お‥‥‥おう‥‥こ、このカルバン様に任せとけってんだ‥‥」

 日頃の自信満々な大声は、どこかへ消し飛んでしまったらしい。か細い声で震えながら返事をしている。

「おい‥‥‥しっかりしてくれよ!気圧されてんじゃねえよ!」

「ば、ば、ば、馬鹿野郎‥‥お、俺を誰だと思ってるんだ。気圧されるなんて、あ、あるわけないだろうが‥‥」

 セリフは立派だが声に力がまったくない。駄目だこいつ。日頃偉そうなことを言っていても肝心な時には役に立たないタイプの男だ。そんなことを思っているうちに、敵の先鋒が近くまで接近してきていた。敵の弓兵の放った数十本の矢が、放物線を描いて俺達の頭上に降り注ごうとしている。

「全員、盾を構えて身を低くしろ!!」

 隊長が大声で指示を出す。俺は慌てて目の前に盾を出して、しゃがみこんだ。盾の大きさは全身を隠すには小さすぎるので、突っ立ったままでは身を隠しきれないのだ。俺は矢の飛んでくる角度を計算して、ギリギリまで身体を縮めた。そうして、なるべく盾からはみ出る面積を少なくしようとしながら、矢が当たらないようにと必死に神様に祈った。

「うおっ?!」

 俺のしゃがんでいるすぐ脇の地面に、矢が突き刺さった。うおおお!危ねえ!

 身体のでかいカルバンはどうだったろうと、ちらりと眼をやると、無事だったようだ。

 だが味方の何人かは身体に矢を受けて、悲鳴を上げていた。

「痛え~~!痛えよお!!」

 その声を聞いて、また一段と恐怖が増した。そこにまた隊長の指示が飛ぶ。

「騎馬隊が突っ込んでくるぞ!立って槍を構えろ!!」

矢を防いでいる間に、敵の騎馬隊がすぐ近くまで押し寄せてきていた。俺は急いで盾を槍に持ち替えると、突進してくる馬たちの鼻面に穂先を向けるように、両手で槍を構えた。

 俺たちを踏み潰そうとしていた騎馬隊が、目の前に槍の穂先が並べられたのを見て、諦めて横に方向転換する。だが、去り際に投げ槍を放ってきた。今度は盾を持っていないので、さっきより多くの味方がやられてしまった。

 さらに敵は、今度は俺たちのような歩兵の部隊をぶつけてきた。いよいよ接近戦だ。敵との距離がなくなったので敵の弓兵は射つのをやめたようだ。敵の数が多いので乱戦になりかけるが、そのつど隊長が的確に指示を飛ばして、俺たちの部隊は犠牲を出しながらも、なんとか陣形を保って敵を防ぎ続けた。

「いいぞ!その調子だ!このまま守りきれるぞ!」

 隊長がそう言って味方を鼓舞していると、ふいに正規兵の一人が叫んだ。

「た、隊長!周りの部隊が退却を始めました!!」

 俺は慌てて周囲に眼をやる。すると俺たちの左右を守っていたはずの味方の部隊が、敵の攻撃に耐えかねて、ズルズルと後退を始めていたのだ。

「阿呆どもが!俺たちが簡単に下がったら、味方が総崩れになるのが解らねえのか!!」

 隊長が大声で毒づいている。敵の作戦は、まず味方の左翼を全力で突き崩した後、側面からこちらの本陣へと襲いかかるというものだろう。そしてその奇策は成功しかけているようだった。味方の左翼は崩壊しつつある。俺たちの部隊は敵中に取り残されそうになっていて、非常に危険な状態だった。

「隊長!もはやこうなってしまっては、我々も完全に包囲される前に、後退すべきではありませんか?!」

 その通りだ。それしか選択肢はないだろうと俺も思った。

だが隊長は、戦場全体を見渡しながら、覚悟を決めたように言った。

「いや‥‥‥‥このまま、ここに踏みとどまる」

「ええっ?!そんなことをしたら、あっさり全滅してしまいますよ!」

「あっさり全滅か‥‥‥敵さんも、そう思ってくれたなら、ありがたいな」

「正気ですか?!一体何を言ってるんですか?」

「敵の指揮官が、まず俺たちを全滅させてから、後退した味方の追撃に本腰を入れようと考えてくれたなら‥‥そして俺たちが、敵からしたら予想外に粘りを見せて、簡単には全滅しないでいられたら‥‥‥敵の戦略に狂いが生まれるはずだ。そして味方は、貴重な時間を稼ぐことができる」

「‥‥‥死ぬ気ですか?隊長」

「そんなつもりはねえよ。言っただろ、簡単には全滅してやらねえって」

 そして隊長は、動揺している俺たちに指示を出す。

「陣形を変えろ!!円陣だ。丸い輪っかの形になるんだ!」

「そ、そんなの、訓練じゃやったことねえよ!」

 新兵の誰かが、引きつった声で叫んだ。

「いいからやれ!死にたくなかったらな!輪っかになったら、今度は輪っかの外側に向かって槍を構えろ!後ろでなにがあっても気にするな。俺を信じて目の前の敵に集中するんだ!わかったな!」

俺たちは大急ぎで隊長に言われた通りに、丸い輪っかの形に陣形を組み直した。即席だったし敵に攻められながらだったので、ずいぶんいびつな円形だったが、なんとか隊長の意図した通り、敵に包囲されても持ちこたえられるような、全方位対応の陣形になったと思う。

 俺はたまたまだが陣の後方のポジションになる。まわりには新兵が多かった。

「いいか!陣形の輪っかに切れ目ができないようにしろよ!もし隣の仲間が倒されたら、その分うしろへ下がって、輪っかを小さくするんだ!」

 完全に死地という奴だろう。もはや選択の余地はない。仲間と隊長を信じて目の前、俺の場合は陣の後方に回り込んできた敵に立ち向かうしかない。

 とそこで俺は、ふとカルバンのことを思い出した。そういえば、あいつ、どうしているんだろう?まったく声が聞こえないが、やられちまったんだろうか、と考えていると‥‥。

「こらっ!貴様なにをやってる?!立ち上がって、陣形に加わらんか!!」

 うしろで‥‥つまり陣形の内側から、正規兵の怒鳴り声が聞こえてきた。

「い、いやだ!俺は戦いたくない!こっ、殺されちまう!!」

 そこからカルバンの情けない声が聞こえてくる。完全にびびってしまって、立ち上がることさえできなくなったらしい。なにやってるんだ、あいつ‥‥。

「殺されないために戦うんだ!さあ、さっさと立て!」

「ひいい~~!!嫌だ!嫌だ!嫌だ~~!!」

「チッ」

 正規兵の大きな舌打ちが聞こえたあとでガンッという大きな音が響き、それきりカルバンの悲鳴は聞こえなくなった。どうやら剣の腹か何かで頭をぶっ叩かれたらしい。カルバンが気絶したのか、それとも痛みで喋れなくなったのかは分からないが、あんな情けない悲鳴を聞かされながら戦うのはごめんなので、ありがたかった。

 だが敵の攻撃は一気に激しさを増してきた。俺たちを無視して迂回しようとすればできるのだろうが、やはり邪魔なので先に全滅させてしまおうと考えているようだった。

 一人、また一人と仲間が倒されていく。いちいち確認していないが、自分も身体のあちこちに傷を負っているだろう。休まず戦い続けているので、とっくに息もあがってしまっている。なんとか気力で持ちこたえているが、いずれ限界が訪れるのは間違いなかった。

 後方を向いて戦っている俺には、味方の陣形も視界に入ってくる。敵の主力の一部は、後退した味方を追撃して襲いかかっていた。そこに駆けつけてきた味方の予備兵力が合流して、なんとか新たな防衛線を築き直そうとしている。それでも突破されるか、されないかのギリギリのせめぎ合いをしているようだ。俺たちがここで敵を引きつけていなければ、間違いなく突破されていただろう。

「お前ら、もう少しだけ持ちこたえろ!そうすりゃこの戦いは俺たちの勝ちだ!英雄になって凱旋できるんだぞ!踏ん張れ!」

 隊長がもう一度、激をとばす。だが俺はその声が思っていたよりもかなり近くから聞こえてきたので、思わず振り返ってしまった。そして気がついた。俺たちの部隊は大半がもう敵に討ち取られてしまっていて、円陣が最初に比べると、かなり小さくなってしまっていたのだ。

 そして‥‥その小さくなった円陣の中心で、カルバンが四つん這いになってガタガタ震えているのも目に入ってしまった。気絶した訳じゃなかったらしい。ただ怖くて震えていたのだ。

「おいっ!!いい加減にしろよカルバン!!いつまで震えてるんだ、このヘタレ!!」

 俺は敵に視線を戻しながら、後ろのカルバンに向かって怒鳴る。

「普段は、俺様がいればどんな大軍が相手でもへっちゃらだとか言ってたくせに、肝心な時にはそのザマかよ、この口だけ野郎!!」

 敵と斬り結びながら俺は怒鳴り続ける。全軍の中で、俺たちの部隊が一番の貧乏くじを引かされてしまっていることへの怒りも込めて、背中のカルバンに罵声を浴びせ続けた。

「もういい!!お前なんかに何も期待するか!そのまま四つん這いの格好で敵に首を斬り落とされて死ね!!」

 そうして目の前の敵を睨みつけていると、後ろからワナワナと震えるようなつぶやきが‥‥そしてそのすぐ後から、獣のような咆哮が聞こえてきた。

「お‥‥俺がヘタレ?‥‥‥ヘタレだと‥‥‥‥お、う、う、うおおおおおお~~~!!!」

 びっくりしたが、それがカルバンの声だとすぐに分かった。

「この俺が!俺様がヘタレだと?!口だけ野郎だと?!舐めるなシェルドン!!」

 怒りに震えるカルバンの声が、戦場に響いた。

 その時、ちょうど俺は敵の打ち込みを受けて足元がふらつき、2,3歩後退してしまっていた。すると物凄い勢いでそこにカルバンが割り込み、敵兵に真っ向から剣を打ち下ろした。敵は自分の剣で受け止めようとしたが、弾き飛ばされ、そのまま脳天をかち割られて絶命する。

「うおおおおおお~~~!!かかってきやがれ!全員ぶっ殺してやる!!」

 それからのカルバンは、獅子奮迅という表現がぴったりなほどの暴れっぷりだった。おかげで敵の勢いが一時弱まり、俺たちは一息つくことができた。

「始めからそうしてろよ、馬鹿野郎‥‥」

 俺のつぶやきにも気づかずカルバンは剣を振り回し続ける。だが敵に完全に包囲されている状況に変わりはなかった。最後まで残っていた正規兵たちも、一人、また一人と力尽き、ついには頼りにしていた隊長までもが、敵の剣に貫かれて倒れ伏した。

「うぐおっ?!くそが‥‥‥ごふっ‥‥!」

 気づくと部隊で生き残っているのは俺とカルバンの二人だけだった。俺はとっくに限界を越えているし、カルバンも勢いよく戦いすぎたせいて、ぜえぜえと激しく息を切らしていた。

 もうここまでか‥‥そう覚悟を決めたまさにそのとき、敵の動きに唐突な変化が現れた。何やら急に慌ただしくなり、俺たちにかかってくるどころではなくなったようだった。

「本陣が崩されているぞ!」

「作戦は失敗だ。ここにいたら俺たちも危ない!」

「引けっ、引けえっ!」

 敵兵たちの焦りの声が聞こえる。どうやら味方の主力が、敵の正面を打ち破って相手の本陣に襲いかかってくれているらしい。全身に突き刺さるようだった敵兵からの殺気がもはや消え失せてしまっている。戦場を覆う空気が一変したのを、はっきりと肌で感じることができた。後退した味方の左翼を攻めていた敵の部隊も、大慌てで退却を始めている。

どちらが先に敵の王様を奪うかというチェスのような戦いだったが、最後は味方が勝利を収めたようだ。だが本当に紙一重の差だったと思う。

 俺は、地面に倒れている隊長の亡骸に向かって言った。

「隊長‥‥‥あなたのお陰ですよ‥‥あなたは本物の英雄です‥‥」

 そして息を切らしてへたり込んでいたカルバンに声をかける。

「俺たちだけになっちまったが、なんとか生き残ったな‥‥だが、お前がびびってないで最初から戦ってくれてたら、もうちょっとマシだったんだぜ。多分、隊長たちだって死なずに済んだんだ」

 するとカルバンが、座り込んだまま俺と眼を合わさずに言った。

「びびってた?‥‥‥誰が?‥‥俺がか?‥‥‥‥‥なんの話だ?」

「おい‥‥‥いくらなんでも、そりゃないだろうが。あれだけ盛大に泣き叫んでおいて、なかったことにしようってのかよ?それにお前が戦ったのは、最後の最後だけだろう?あとはほとんど四つん這いで震えてただけじゃねえか」

「‥‥‥知らん」

「なっ?!」

「いいか、よく聞けよシェルドン。俺は戦いの始めから勇敢に戦い続けたんだ。そして誰よりも多くの敵を倒し、誰よりも多くの味方を危機から救った。さらには戦いの途中で隊長が敵に倒された後には、挫けそうになる味方を鼓舞して奮い立たせ続けた‥‥その結果として、こうして最後まで生き残ることができたんだ」

「‥‥カルバンお前、頭は大丈夫か?」

「当たり前だ!」

 カルバンは俺の方へ向き直り、カッと眼を見開いて言った。

「まさか目撃者がいないのをいいことに、その捏造しまくった話を報告しようなんて思ってるんじゃないだろうな」

「捏造じゃない!真実だ!!」

「捏造以外の何物でもないだろうが?!!味方を鼓舞したどころか、こっちはお前の情けない悲鳴のせいで気力が萎えそうになってたんだぞ!」

「ええ~~い!うるさい!うるさい!うるさ~~~~い!!」

 カルバンは癇癪を起こしたように怒鳴り散らす。だが、これには俺も黙ってはいられない。

「ふざけるなよカルバン!お前、隊長の功績を盗もうってのかよ!そんなこと許されるとでも思ってるのか?!!」

 するとカルバンは少し眼を細めて、じっと俺を見つめてから言った。

「‥‥‥そんなことに、なんの意味がある?」

「なんだと?」

「よく考えろ。死んだ隊長の功績が認められるかどうかに、なんの意味があるっていうんだ。偉そうなことを言ってるが、お前だって手柄欲しさにこの戦争に参加したんだろう。せっかく全軍を勝利に導いたっていうほどの手柄が、目の前に転がってるんだぞ。生きている俺たちのために使った方がいいに決まってるだろうが」

「‥‥‥‥泥棒の理屈じゃねえか」

 そう言いながらも、俺は自分の反論が弱々しくなっているのを自覚していた。

「ああそうだ。泥棒だよ。だがな、この世に生きている以上は誰だって他人の何かを奪いながら盗みながら生きてるんだ。そんなことはないなんて言うやつもいるだろうが、そいつはただの勘違いだ」

「‥‥そりゃ、俺だって手柄はほしいさ‥‥‥だがな‥‥」

「皆まで言うな!!あとは俺に任せとけ!お前は黙って俺の話に頷いていればいいんだ!」

 カルバンは俺を押し止めるように、手のひらを向けて強い口調で言う。

「‥‥‥隊長の家族はどうなるんだ。手柄によって遺族年金の金額も変わるんじゃないのか?俺たちのせいで隊長の家族が生活に困るようなら、さすがに本当のことを言うぞ、俺は」

「気の小さい野郎だな。大丈夫!ここに踏みとどまって戦おうって決めたのは隊長だ。その功績だけでも十分でかいさ。家族は結構な金額をもらえるはずだぜ」

 そんなことを詳しく知っているはずもないくせにカルバンは自信たっぷりに答える。そして俺もまた、あえてそれ以上追求しようとはしなかったのだった。


「誠に危ない所であったが、そなたたちのお陰で我が軍は救われたぞ。心より礼を申す」

 そして戦いのあと、俺とカルバンは王様から直々にお褒めの言葉をいただいた。カルバンの報告はそのまま受け入れられ、俺たちは正式に騎士として採用されることになったのだ。

 後ろめたさを感じつつも、村に残っていたら絶対に手にできなかったであろう額の金を手にして、俺は悪い気はしなかった。だがそんな生活も長くは続かなかったのだ。


「おい!一体なにを考えてるんだ?なんで隊長に喧嘩を売るようなことを言った?!」

 俺はそうカルバンを問い詰めた。日頃から大言壮語が過ぎると注意を受けた途端、コイツは猛然と食って掛かったのだ。

「ふん、仕方ないだろう。俺様は国を救った英雄様だぞ。そこいらのヒラ隊員と一緒に扱われてたまるか。もっと敬意を払って接しろってんだ馬鹿隊長め」

 俺たちは十分な待遇を受けていると思うし、戦いの報奨金までもらっているのだ。だがカルバンはそれでも不満タラタラで、そのことを周りに隠そうともしなかった。

「あのなあ‥‥‥欲張りすぎたって、いいことなんか一つもないぞ」

「馬鹿!だからお前は駄目なんだよ!いいか、自分を安売りしてどうする?!とことん自分を高く見せるんだよ。そうしなきゃ自分より無能なやつにアゴでこき使われるだけの人生だぞ、それでもいいのか?」

「カルバン‥‥お前の言ってることも分からないわけじゃないんだ。だけどお前は極端すぎるんだよ。ほどほどって所で、止めておいたほうがいいと思うぜ」

「か~~~っ、シェルドン!お前ってやつは、とことん気が小せえなあ!」

「うるせえ!俺は現実的にものを考えてるんだ!」

 俺たちは決して気が合うって訳じゃなかったが、同じ秘密を抱える仲間として、前以上に一緒につるむようになっていた。

実はあの戦いの後しばらくは、ひょっとしたらカルバンは俺の口を封じようとするかもしれないと思い、俺は密かに用心していたのだ。だがコイツにはそんな気は一切ないようだった。ずる賢いのか、脳天気なのか、よく分からないヤツだ。

「あとなカルバン。これは前から言おうと思ってたんだが‥‥」

「まだあるのか‥‥‥なんだ言ってみろよ」

 カルバンは、うんざりしたように言う。

「お前‥‥‥話を盛りすぎなんだよ」

「‥‥‥なにを言ってるのか、分からねえな」

「そんな訳あるか!なんなんだ、お前が剣を一振りしたら敵兵が数人吹っ飛んでいったとか、大地が裂けたとか、竜巻が巻き起こったとか!いつそんな天変地異みたいなことがあったんだ言ってみろ、おい!」

「それはあれだ‥‥‥ほんのちょっとだけ誇張した部分もあったかもしれないな、うん」

「どこが、ほんのちょっとだよ?!!」

 もはやカルバンの場合、虚言癖と言っていいくらいだ。

「大体だな、あの場にいたのは俺たちしかいないけど、遠目には他の部隊からも俺たちの戦いぶりは見えてるんだぜ。あからさまな嘘を言ったら、すぐにバレるに決まってるじゃねえか」

「え?‥‥‥‥‥‥あっ、そうか」

「あっ、そうかじゃねえ!!」

 駄目だこいつ、やっぱり馬鹿だ。

 そのとき俺はあらためて強くそう思ったが、すでに手遅れだったようだ。それから程なくしてカルバンの主張にいくつも矛盾があると指摘する者が現れだしたのだ。

はっきりと嘘の報告をしたと証明された訳ではなかったが、カルバンの馬鹿があちこちで敵を増やしたせいもあって、俺たちはどこに行っても嫌悪のこもった疑いの眼で見られるようになった。そして、どんどん居辛くなった俺たちは、ついには、せっかくなれた騎士を辞めざるを得なくなったのだ。


「くそう、俺は真面目に戦ったのに!嘘なんかつかなくても、十分いい生活が送れたはずなのに!」

「なんだ、俺のせいだってのかよ?」

「そうだよ!それ以外のなんだってんだ、畜生め!」

 まるで他人事みたいに言うカルバンに、俺は毒づいた。

「まあまあ、落ち着けシェルドン。俺がなんとかしてやるからよ」

「‥‥‥その根拠のない自信は、どこから出てくるんだよ?」

 俺たちは追い出されるように城を出ると、報奨金の残りで馬と装備を買って他国を目指すことにした。せっかく手柄をあげて、それなりの身分を手に入れたというのに、故郷に錦を飾ることもできないまま、国を捨てる羽目になってしまったのだ。

「心配はいらん。一度戦を経験して、俺も度胸がついたからな。しばらくは傭兵稼業でもなんでもして稼いでやるさ。それで食っていくには困らないだろう」

 カルバンの野郎は、人の気も知らないで、さも気楽そうに言ってのける。

「ああ‥‥ていうか、もうそれしかないだろうよ。いまさら恥ずかしくて故郷には帰れないしかといって野盗なんかにゃ、なりたくはないしな」

 この先も剣で食っていこうとするなら、傭兵か、それとも商人の護衛かのどちらかしかないだろう。

「いいかシェルドン。こんなのは挫折でもなんでもないぞ。この先チャンスがあったら、どこぞの国に俺たちを売り込んで、もう一度騎士になってやる。もちろんその時には、ただのヒラ隊員なんかじゃないぞ。少なくとも副隊長とか部隊の幹部クラスじゃないとな!」

「なるほど、そいつはいいアイディアだー。はいはい、そうなると良いですねー」

「真面目に聞けよ、シェルドン!」

「うるせえ!そんな与太話、まともに聞いていられるか!」


 それから10年近くの歳月があっという間に過ぎていった。

 その間、俺たちは、あちこちの傭兵団に所属しながら、いくつもの戦争に参加したり、村々や領主の依頼で野盗団と戦ったりしてきた。

戦場に慣れたカルバンは、たしかに頼りになる男だった。

もっともコイツの場合、腕も立つが、それ以上に口が達者で、相場の何倍もの報酬を依頼主からぶんどることが、なにより重要な仕事だと考えているらしかった。

傭兵暮らしは、稼げる金額は大きかったが、ひとたびヒマになるとカルバンの金遣いの荒さもあって、たちまち蓄えが底をつくという不安定な生活だった。

そんな日々に疲れを感じ始め、どうやら俺の人生も大した結末を迎えそうにはないなと、なかば諦めの気持ちが生まれだしていた頃、俺たちはある噂を耳にした。マルセルの新しい王様が、新たに外国出身者だけの騎士団を作るというのだ。

カルバンが勢い込んで言う。

「これだ!コイツを俺は待っていたのよ!今度こそ俺は騎士団の幹部様になってやるぜ!」

「それ、まだ諦めてなかったのかよ。しつこいやつだな」

「馬鹿!当たり前だろうが!なんで諦める必要がある?!さあ行くぞ、シェルドン!」

「行くって、まさかこれからか?もう日も暮れてるのに?」

「こういうのは、早いもの勝ちなんだよ!他のやつに先を越されたらどうする?!」


 この時は、本当にもう一度騎士になれるなんて思ってはいなかった。きっと不運な人生に慣れてしまって、期待しすぎないようにするのが習慣になっていたのだろう。

 カルバンのやつが、マルセルの王様の前でいつもの大風呂敷を広げ始めたとき、横で聞いている俺は気が気じゃなかった。ところが‥‥。

「ほほう、見事な経歴じゃな。そなたこそ余が求めていた男じゃ。よし!新たに設ける騎士団の大隊長に、そなたを任命することにしよう!」

 王様は上機嫌でそう言ったのだ‥‥‥信じられねえ。


「わはははははは~~~~!どうだっ、どうだっ、どうだ~~~~!!!」

「あ~~、うるせえ」

 誰もいない王宮の一室で、カルバンは俺に向かって喜びを爆発させる。

「ん~~~~?どうしたんだね、シェルドン君?以前君は、この俺に騎士団の幹部なんてなれるわけがないとか言ってくれてたよなあ~~~?」

 ムカつくニヤケ面で、嫌味たっぷりに俺に絡んでくる。

「たしかに言ってたけどよ」

「それがどうだ?幹部どころか、それを飛び越えてまさかの大隊長様だ!いやいや困っちまうよなあ。ここの王様は見る目がある!分かる人間には分かっちまうんだよなあ。俺様の実力?才能?それから人望とか、経験とか諸々がな!むはははははは~~~!!」

「うるさすぎる‥‥」

「なあなあシェルドン。ちょっと呼んでみてくれないか?大隊長様って。なあ呼んでくれよ、大・隊・長・様って!」

 有頂天になったカルバンは、顔が緩みっぱなしで、想像以上にウザかった。付き合っているこっちは疲れることこの上ない。

「‥‥‥ダイ、タイ、チョウ、サマ‥‥‥‥これでいいか?」

「くう~~~~っ!いいね!いいね!いいね~~~!」

 思いっきり棒読みで言ってやったのに、感極まったような顔をしていやがる。

「いや~~~、ようやく俺様にふさわしい称号を手に入れられたような気がする!いままでは俺の値打ちが分からないボンクラにしか巡り合えなかったからなあ!だが、よ~~うやく納まるべきところに納まることができた!う~~ん感慨深い!‥‥あ、そうだ。これからは自分のことを俺じゃなくてワシとか、吾輩って呼ぶことにしようかな?うん、そうしよう!その方が貫禄がありそうだからな!」

「なんでも好きにしてくれよ‥‥」

 たしかに早いもの勝ちと言っていたカルバンの言葉は、嘘じゃなかったと思う。俺たちの後に募集に応じてやって来た男たちの中には、カルバンと同じくらいに有名な戦士が何人もいたのだ。もしそいつらより後に来ていたら、カルバンが大隊長になるのは難しかっただろう。先に王様に気に入られた者勝ちなのだ。もちろん、すべての面接が終わってから決めたいという考え方もあるはずだが、ここの王様は即断即決がお好きらしい。


 そして大隊長となったカルバンは、俺を主計長とやらに任命してきた。

「俺が隊長で、お前がヒラ隊員ってわけにはいかないからな。なにか役職をと考えてたんだが中々ちょうどいいのがなくてなあ。でもこの主計長ってやつなら、ぴったりだと思うんだよ。どうだ?引き受けてくれないか?」

「う~~ん‥‥主計長ねえ‥‥‥なんだか面倒臭そうじゃねえか?もっと楽そうなのはなかったのかよ?」

「いやいやそんなことはないって!簡単だよ簡単。お前は昔から金勘定が得意だったしな!」

「いや別に得意ってわけじゃ‥‥‥‥あ、おい待てよ!」

「悪いな!ちょっと忙しいから。じゃっ、そういうことで頼んだぜ!」

 カルバンはそう言うと、俺の返事もロクに聞かずに半ば強引に押し付けていったのだ。仕方なく引き受けた俺だったが、そう遠くなくヤツの悪辣な企みに気付くことになる。

「おいカルバン!飲み屋の請求書をこっちに回すなっていつも言ってるじゃねえか!」

カルバンのやつは高い給料を毎月もらっているくせに、個人的な飲み食いやら何やらを大隊の経費で払わせようとしてきたのだ。コイツはこのために、気心の知れた俺を主計長に据えたのだ。本当にこういうことにかけては、よく頭が回る男だった。

そのうえ何度俺に注意されても、まったく悪びれる様子を見せない。地位を利用して私腹を肥やすことを、当然の既得権益だとでも考えているらしかった。

「まあまあ。このくらいはよその隊でもやってることだから大丈夫だって。あ、それから二人きりの時はいいけど、隊員の前では、ちゃんと隊長って呼んでくれなきゃ困るぜ。じゃ、よろしく!主・計・長・殿!」

「ぬうおおおおお~~~~~!!!」

 俺はカルバンが消えたドアに向かって、書類の束を思いっきり投げつけてやった。


 やがてカルバンは、俺にもっと露骨に金のちょろまかしを手伝わせるようになった。隊の慰労会などがあると、実際の会計より多くなるように俺に会費を集めさせるのだ。一応、隊員たちは黙って金を払ってくれるが、中には疑わしそうな目つきで見てくるやつもいる。ご立派な家柄のウェストン副長に至ってはゴミを見るかのようだ。俺はなるべく事務的な態度を崩さないようにしながらも、少しずつ惨めな気持ちが堆積していくのを、自覚しないわけにはいかなかった。だんだんと自分が卑屈な人間に変わってしまっていくような気がする。

もちろん、不安定な傭兵稼業から足を洗えたのは良いことなんだろうが、釈然としないのは間違いなかった。そんなある日、カルバンが喜び勇んで俺のところにやってきた。

「おい、シェルドン喜べ!テレンス子爵との話がまとまったぞ!」

「え‥‥‥話って、ひょっとして例の婿入りの話か?」

「それ以外のなにがあるってんだよ!いや~~、お前にも苦労をかけたけど、これでようやく楽をさせてやれるぞ!」

 カルバンのやつが、この国の貴族に婿入りさせてもらおうとしているのは、もちろん本人から何度も聞かされて知っていた。上手くいったら、一緒に連れて行って、いいポジションにつかせてやるから楽しみに待っていろよ、とも。

だが、さすがにそんなに上手くいくとは思っていなかったし「いいポジション」とやらを額面通りに受け取れるほど俺も馬鹿じゃない。まったく期待などはしていなかった。案の定、上手くいかないたびに、隊の中で、誰彼構わず当たり散らすのが、うっとおしいと思うくらいのものだった。

「‥‥‥それと、まったく同じセリフを、ここに入った時にも聞かされた気がするんだがな。不思議なことに、まったく、これっぽっちも、楽をさせてもらってる実感がないんだよ」

「いや‥‥‥それについてはだな‥‥俺も申し訳ないと思ってるんだよ。うん」

「そう思ってるんなら、もうちょっと自重しろよ!何なんだ、愛人に家まで買ってやりやがって!」

「いや~~~ははは‥‥‥スマン!」

 カルバンは照れ笑いしながら両手を合わせて頭を下げる。まったく調子の良いやつだ。

「ん?‥‥てことは、その女とはもう別れたんだよな?」

「いや‥‥その‥‥‥その件についてはだな‥‥」

 俺が尋ねると、カルバンは露骨に眼を泳がせ始めた。

「おいっ!!」

 まさか、ここまで馬鹿だとは思わなかった。

「なに考えてるんだ?!だったら、さっさと別れろよ!」

「わかってる!わかってるって!ちゃんとわかってるから心配するな!」

「心配じゃねえ!呆れてるんだ、こっちは!」

 俺が怒鳴ると、カルバンは急に真剣な顔になった。

「ちゃんと別れるから、お前も協力してくれ」

「はあ?何なんだ協力って‥‥‥おい、まさか手切れ金がいるとか言わないだろうな?」

「御名答」

カルバンは一転して、ニヒッと笑いながら言う。

「ふざけるな~~!!」

「ふざけてなんかないさ。な、頼む、協力してくれ。俺のためだけじゃない、お前の将来にも関わることなんだからな」

「それが信用できないって、さっき言ったよな!」

「今度のことは陛下もご存知なんだ。実は愛人がいて裏金を貢いでたなんてバレたら、陛下のことだ、怒り狂って俺を火炙りにしかねない」

「これ以上、お前に付き合ってたら、こっちまで火炙りにされちまう。ええ~~い離せ!」

 俺は、すがりつくカルバンを引き剥がしながら言う。

「た、頼む。そんなこと言わずに‥‥‥お前だけが頼りなんだ、俺を助けてくれ!」

「‥‥‥‥‥‥‥‥一体、いくら必要なんだよ」

「300リーベルだ」

「なっ?!!」

「買ってやった家のローンの残りが300リーベルなんだ。そいつをポンと渡して有無を言わさず別れちまおうって算段なんだよ」

「だからってお前‥‥‥額が大きすぎるだろう。名目はどうするんだよ?」

「慰労会だ」

「またそれかよ?!芸がなさすぎないか?」

「大丈夫だ!またいつもみたいに、あのヘタレのガキンチョを怒鳴りつけてやれば、なんとでもなる!お前は書類を用意してくれるだけでいいんだよ」

「‥‥‥お前、簡単に言ってるけど、それだって十分危ない橋なんだぞ、今まで上手くいってたからって、この先もそうだとは限らないんだ‥‥‥‥‥はあ‥‥‥わかったよ。だが、もう協力するのは、これが最後だからな!ほんっとう~~~に、これが最後だぞ!」



 ‥‥‥ふう、忙しいってのに昔の思い出に浸っちまっていた。再確認できたのは、どうやらカルバンという名のあの疫病神との腐れ縁は、この先も続きそうだってことだな‥‥さて仕事仕事。いちおう帳簿の上では、経費の横流しなんてなかったように見せかけておかないとな。

そんなことを考えていると、屯所の入り口の方が急に騒がしくなったようだった。

「で、殿下、お待ちください!」

「事務室はこっちだね。あ、お構いなく。勝手に入らせてもらうから」

「王子!一人で先走らないでください!ああ、ちょっと!」

 なんだか、にぎやかな集団が屯所に入ってきて、しかもこの事務室を目指しているらしい。

いやちょっと待て、今の声はたしか‥‥‥。

「たのも~~~う!」

 バンと勢いよく扉が開けられて入ってきたのは、いつもカルバンが「ヘタレのガキンチョ」と呼んでいるカリル王子その人だった。侍女と小柄な護衛を従えている。

「カ‥‥カリル殿下?こ、これは一体‥‥?」

「君が主計長のシェルドンだね。聞きたいことがあるから、財務部まで一緒に来てもらえないかな?」

「え‥‥?」

「第2大隊の経理に不明な点が見つかったから、くわしく説明をしてほしいんだよ」

 なんだ‥‥?これがあのヘタレ王子なのか?‥‥‥話が違うぞ。ずいぶんと自身満々に話すじゃないか‥‥これはマズい‥‥‥突如自分が危機的状況に追い込まれてしまったことを自覚する。そしてカリル王子たちのうしろから、さらに衛兵や文官たちが現れた。げっ‥‥ザイオン卿までいやがる!

「シェルドン殿、今カリル殿下が仰った通り貴殿を連行します。帳簿の類も押収させて頂く」

「いや‥‥‥突然やってきて、そんなことを言われても‥‥」

 俺が抵抗しようとすると、それを遮るようにカリル王子が言う。

「先週財務部から、慰労会の費用の名目で受け取った300リーベルがあったよね、あれいまどこにあるの?」

「えっ?」

「カルバン隊長の説明だと、慰労会の代金はその日にお店に支払ったんだよね?その補填として先週300リーベルを受け取ったわけだから、当然そこにある大隊の金庫に収められたわけでしょう?‥‥‥まだ入ってる?」

「え~~と‥‥いやそれは‥‥」

 なんと答えるべきか必死で考えるが、なにも思いつかなかった。あの300リーベルは俺が財務部から持ち帰ると、右から左にカルバンが持ち出したのだ。例の女に渡してきたと言っていたから、その後どうなったかなど俺が知るはずがない。

「たしか‥‥あちこちの出入り業者への支払いに充てたと思いますが‥‥‥あ、後ほど詳しく報告書にまとめて提出いたしましょうか?」

 とりあえず時間稼ぎのために、適当にそれらしいことを言う。だがカリル王子は俺がそんな言い訳をするのは織り込み済みだったようだ。

「その必要はないよ。ここでは詳しく話せないけど実はあの300リーベルには、ある特殊な目印をつけてあったんだ」

「なっ?!」

「それが今日見つかったんだよ。城下の、とある不動産屋さんでね。持ち込んだのは若い女性で、彼女は家のローンの残債300リーベルを、一括で払っていったそうなんだよ‥‥‥もう僕が何の話をしてるのか、わかってるよね?」

「いや、それは‥‥‥‥‥」

 反論したくても、もう何も言えなかった。

駄目だ。こいつらは何から何まで調べ上げた上でやって来たのだ。俺が下手な言い訳を重ねたところでどうにもならないだろう。カリル王子だけならまだしも、ザイオン卿まで動いてるんじゃ逃げ道なんてあるわけがない。

俺はそのまま連行されていきながら、最後の最後にバレるなんて、ついてないと思わなくもなかった。だが同時に、やっぱりこういう結末かよと妙に納得もしていた。若い頃、最初に騎士になった時と一緒だ。カルバンの側にいる限り、一時いい目を見られても、結局最後はすべてを失うハメになるのだ。そういう運命で、すべては必然なのだと思った。特殊な目印とやらが何なのかは分からないが、そいつが付いた金貨がウチの金庫の中に一枚も入っていないのは間違いない。それに一応ごまかしてはあるが、帳簿を全部持っていかれたからには真相がバレるのは時間の問題だろう。投げやりというのも変な話だが、もう俺にはこれ以上ジタバタしようという気は失せてしまっていた。


「はじめに言っておくけどね。僕は今回の件をなるべく内密に処理しようと思ってるんだ」

「はあ‥‥‥」

 財務部に着くと、カリル王子直々の取り調べを受ける。どうやら命までは取られなさそうな雰囲気だ。正直それはありがたい。

「とはいえ、それもカルバン隊長の出方次第ではあるんだけどね。大事にしないためにもシェルドン、君の協力がほしいんだよ」

 カリル王子は俺に本気でお願いをするかのように言う。だが、さっき金貨の目印の仕組みを見せてもらったばかりだ。動かぬ証拠があるのだから、有無を言わさずに命令すればいいだろうに、わざわざ説得しようとしてくる意味がわからない。

ヘタレで有名な王子のことだから、単に気の弱さからそうしているのかとも思ったが、どうも少し違うようだ。

どうやら本気で、俺なんかの協力を取り付けたいと考えているらしい。キレイな顔で一生懸命、話しかけてくる。それを不思議な思いで眺めながら、俺はカリル王子の人となりに、だんだんと興味が湧いてきていた。いったい、この坊やはどういう人間なんだ?

カリル王子といえば、ヘタレで役たたずという評判がすっかり定着しているが、実際のところはどうなのだろう?先入観を捨てて、じっくりと観察してみると‥‥目の前の少年からは、考え方のしっかりした思慮深い人物‥‥‥という印象が、しないこともなかった。

「僕の狙いは、君やカルバン隊長を断罪することじゃないんだ。これ以上の不正をやめて、返せる範囲でお金を返してもらえれば、それでいいと思ってるんだよ」

 不思議なことだが、俺は逮捕されて査問にかけられているという立場を忘れて、積極的にこの王子様を手伝ってやろうという気になりだしていた。カリル王子をバカにしている奴らに、王子はヘタレでも、役たたずでもないぞと大声で言ってやりたくなるような、そんな気分だ。王子の真摯な態度に、あてられてしまったのかもしれない。

「‥‥わかりました‥‥‥最大限、ご協力させていただきます」

 カルバンのやつは怒り狂うだろう。だがもう知ったことか。あいつの自業自得だ。


  対決


「さて、そろそろかな‥‥?」

 僕は財務部でみんなとカルバン隊長がやってくるのを待っていた。さっき城門の詰め所から彼がお城に戻ったとの連絡を受けたのだ。屯所に帰ったら、自分の不在中に何があったのかを知って、血相を変えてここに押しかけてくるだろう。

「カリル殿下‥‥本当にお任せして、よろしいのですか?」

 ザイオンが、もう何度目かになる確認をしてくる。

「うん大丈夫だよ。僕が、ちゃんとカルバン隊長と話をするから、ザイオンにはそれを見ていてほしいんだ」

 僕は多分、自分の顔が青ざめているだろうなと思いながら返事をする。

シェルドンに自白してもらって、不正の全容は明らかになった。だが、それですべてが終わったわけではない。それらを突きつけてカルバン隊長に言うことを聞いてもらって、はじめて解決したといえるのだ。

とはいえ、あとはザイオンに任せておけば済む話でもある。これだけの証拠が揃っているのだから彼なら、ぐうの音もいわさずに大人しく‥‥‥‥ではないかもしれないけれど、従わせられるはずだ。だけど僕はあえて、その役目を自分でやると名乗り出たのだ。

「王子、本当に大丈夫ですか‥‥?」

「おへその下に力を込めて下さい。多少は度胸がつきますから」

 ティアナとノエルが、僕を気遣って声をかけてくれる。

「うん、二人ともありがとう。怖いけど、なんとか頑張ってみるよ」

 僕は二人に向けて笑顔を作ってみせる。そして覚悟を決めて対決の時を待った。

 

 それから間もなくして、財務部の入り口の方から、カルバン隊長の怒鳴り声が響いてきた。

「わが隊のシェルドンが不当にも無理やり連行されたと聞いたが、どういうことだ!事と次第によっては、タダでは済まさんぞ!!」

 想像していた通りだけど、ものすごく怒っているみたいだ。そして部屋の外から「カルバン大隊長がお見えです」との声が聞こえるやいなや、バ~~ンと、凄まじい勢いで扉が開け放たれた。案内してくれた職員は、その勢いで跳ね飛ばされてしまったようだ。

そして、この場にいる全員を一人残らず殺してやるとでも言いたそうな顔をしたカルバン隊長が現れる。さらに僕たちを、端から端へと、ぐるりと殺気でなでつけるように見据えながら部屋の中に入ってきた。怒りのあまり、もともと大きな身体がさらに一回り膨張しているかのようだ。

 その間、僕はカルバン隊長の迫力に、一歩も怯まず毅然と睨み返していた‥‥‥‥わけではなく、半分白目を剥きながら、全身がガタガタ震えそうになるのを、必死で我慢をしていた。

自分で言い出したことなのに、カルバン隊長の怒りを目の当たりにして、早くもこれ以上ないくらい怖気づいてしまっている。

あの野獣のようなカルバン隊長と、これから僕が対決する?嘘だよね?

「まったく‥‥‥無理しようとするからですよ。私達がついていますから、しっかりしてください」

 僕の様子を見かねて、ティアナが僕の背中にそっと手のひらで触れながら、小声で耳打ちしてくれる。

「ティアナの言うとおりです。大丈夫ですよ王子。状況は、こちらが圧倒的に有利なんです。カルバン隊長は、おそらく自分が不利なことを悟っているのでしょう。だから余計に虚勢を張って怒ってみせているのです。王子は前に言いましたよね。ご自分が、私達の主人としてふさわしいかどうか、見ていてほしいと‥‥‥しっかりと見届けますよ。見せつけてください」

 ノエルも、ティアナの手の隣に並べるように手のひらを添えてくれながら、さらに言う。

「いま王子には、あの男が恐ろしく見えているでしょうけれど、なにも怖がる必要はありません。実際に手を出せるわけではないのです。もし出してくるようなら、その前にわたしがあの男の喉笛を一瞬で掻ききってみせますよ。怖れずに自分が話したいことを言ってください」

 するとティアナが、少し前のめりになって言う。

「いえ、ノエルにばかりいいところを持っていかれる訳にはいきません。それよりも早く、私があの男の心臓にナイフを突き立ててやりますから」

 僕を励ましてくれる二人の顔を見ていると、怖いものなんか何もないような気がしてくる。

「二人とも、ありがとう。おかげでなんとか頑張れそうな気がするよ‥‥あ、でもくれぐれもフライングはしないでね‥‥いちおう話し合いで片をつけるつもりなんだから」

そうだ。僕は一人じゃない。二人が一緒に戦ってくれているんだ。絶望的なほどだった恐怖が少しずつ薄れて癒やされていくのを感じる。そして同時に、前へ進む勇気をもらって奮い立たされた。

よし大丈夫だ。さあ行こう。

 僕は一歩、二歩と前に進み出る。うしろで二人は何もなかったかのように手を下ろしているだろう。ザイオンを睨みつけていたカルバン隊長が、僕に注意を向けた。これから話をつける相手が僕だとは思っていなかったのだろう。少し意外そうな顔をしている。

「やあカルバン隊長。シェルドンなら僕の指示で連行させてもらったんだ。来てくれてちょうど良かったよ。君にも聞きたいことがあったからね」

「なんだと‥‥‥」

 カルバン隊長は巨体をかがめ、まじまじと見据えながら、その凶悪極まりない顔を僕の目の前まで持ってきた。そして、周りに聞こえないように押し殺した声で話しだす。

「おい小僧‥‥‥なにを勘違いしたか知らないが、調子に乗るなよ‥‥‥どうせ、ザイオンあたりに焚き付けられたんだろうが、こんなマネをしてタダで済むと思ってるなら大間違いだぞ‥‥俺様がどれだけ恐ろしい男かを、骨の髄まで思い知らせてやるからな‥‥」

 顔に息がかかるくらいの至近距離だ。いつもの僕なら、すぐにでも大泣きしながら謝り出していただろう。でも今日はそういう訳にはいかないのだ。僕は足を震わせて目尻に涙を浮かべながら、まっすぐカルバン隊長を見据えて、できるだけ大きな声で言い返した。

「カ、カルバン隊長。第2大隊で経理の不正行為が行われていた疑いが強まったのでシェルドン主計長を尋問していたんだ。彼がすべてを話してくれたよ。君の任期中のほとんどの期間で裏金作りが繰り返されていたこと。そしてその全額が君の遊興費にあてられていたことをね」

「なっ?!そ、そんな馬鹿な!まったくの濡れ衣ですぞ!!だいたいシェルドンがそんなことを言うはずがない!!カマをかけようとしても、そうはいきませんぞ!!」

 いくら僕をナメきっていても真正面から糾弾されては無視はできないので、真面目な口調で嫌疑を否定してくる。そこで僕は部屋の奥に控えていた出納課長のモイセスに目配せをする。

「モイセス。カルバン隊長に説明してくれる?」

「はっ、かしこまりました。ではカルバン隊長、こちらを御覧ください。我々はこの薬品を使って、第2大隊に支給された金貨の行方を追っていました」

 そう言って例の薬品で金貨が赤く染まる実験をしてみせてくれる。

「‥‥‥これが、いったい何だと言うんだ」

 まだ動じる様子を見せないカルバン隊長に、僕はさらに言う。

「もう勘付いてると思うけど、先週、慰労会の費用という名目で支払われた300枚のリーベル金貨の一枚一枚に、この目印をつけておいたんだよ。その金貨が、どういうわけか今日ドマニ地区の不動産屋さんで見つかったんだ。君も知ってる場所だと思うよ。8ヶ月前に若い女性と二人でそこへ行って、彼女のために中古の家を買う契約をしたよね?」

「なっ?!‥‥そっ、そんなプライベートなことまで調べるとは感心いたしませんな!吾輩が誰とどこに行こうが勝手でしょう!」

「たしかに勝手だよ。ただ、そのときの女性が、ローンの支払い代金として目印付きの金貨を不動産屋さんに持ち込んだとなると話は変わってくるよね。第2大隊に支給されたはずの金貨が、どう巡り巡ってそこへ辿り着いたのか調べないわけにはいかなくなったんだ。それでさっきシェルドンに聞いたら、300リーベルは、支給されたその日のうちに君が城外へ持ち出したって言うんだよ。だから、あらためて君に聞くね。その300リーベルはどこへやったの?」

「‥‥‥‥知りません!!吾輩の預かり知らないことです!!」

「へえ、知らないんだ?」

これだけ追求しているのに、カルバン隊長はあくまでも強気な態度を崩さない。だが、そろそろ苦しくなってきたのだろう。表情がだんだん険しくなってきて、額に汗を浮かべている。

「第2大隊が慰労会を開いたお店で確認したら、そもそもの会計金額は、70リーベルくらいでしかなかったって言うんだよ。その上、隊員たち一人ひとりから、しっかり会費まで集めてたそうだね。間違いない証言だと思うけど、なんならいまから隊員たちに聞いて裏を取ってこようか?」

「かーっ!嘆かわしい!!嘆かわしいですぞ!!」

 僕の言葉にかぶせるように、カルバン隊長が声を荒げる。

「仮にも王族である殿下が、そのような下世話なことにまで口を差し挟むなどとは!マルセル王国の品格にも関わることです!いますぐ、そのような汚〔けが〕れた話は、おやめください!」

「つまり君の懐に、300リーベルが、そのまま入っちゃってたってことだよね」

「おやめくださいと、言っとるでしょうが!!」

 なんとか僕を黙らせようとカルバン隊長は必死だ。真っ赤な顔をして強弁を続ける。

「君が素直に話してくれたら、こんなことは言わずに済むんだけど」

「素直に話しています!これ以上ないくらいに!つまり吾輩は無実です!潔白です!なにも知らないのです!!」

「シェルドンの話だと、これまでも何度も経費をごまかしては、そのたびに君が全額持ち出してたって言うんだけど」

「うがあああああ~~~~~!!」

「わわわわわっ??!」

 ついにカルバン隊長は、両手を振り上げて感情を爆発させた

「いい加減にしてください!!何もかもが、でっちあげの作り話です!吾輩はそんなことはしていない!!もしもシェルドンが本当にそんなことを言ったというのなら、それは嘘をついているか、なにかの勘違いをしているかのどちらかです!!」

 なんだか水掛け論みたいになってきた。このままカルバン隊長は、知らないの一点張りで、逃げ切れるとでも思っているのだろうか?

「そうは言っても、現に金貨が不動産屋さんで見つかったわけだからね。300枚すべてがきれいに赤く染まったのが、そのまま君の不正の動かぬ証拠ってわけさ‥‥あ、別室にまだそのままになってるから、なんなら見てみる?」

「ふんっ!それが動かぬ証拠ですと?とんだ、お笑い草ですな。そんなものはいくらでも捏造しようと思えばできます!吾輩は認めませんぞ!これまで粉骨砕身、王国のために尽くしてきたというのに、この仕打ちとは‥‥‥絶対に許せませんな!ええ許せません!すぐにでも陛下に申し上げて、吾輩の潔白を訴えましょう!こんな茶番の陰謀を企てて、ただで済むとは思わないことですな!この場にいる全員に、たっぷりと後悔してもらうことになりますぞ!!」

 やっぱりカルバン隊長のしぶとさは並大抵ではなかった。あまりにも自信満々にこちらが悪いかのように言ってくるので、あれ?そうなのかな?本当に無実なのかな?とか、無実じゃないとしても、このままだと、こっちが悪いことにされちゃうんじゃないのかな?とか、そんな不安を抱きそうになってしまう。こっちが準備万端整えて、待ち構えているのじゃなかったら勢いに負けて逆転されていたかもしれない。だけど飲み込まれてはいけない。こっちも自信を持って押し返すんだ。僕はそっとティアナとノエルの二人に視線を送る。二人に助けを求めるんじゃなくて、逆に僕は大丈夫だからねと、合図をするつもりだ。ほんの一瞬だったけれど、ティアナとノエルが、期待を込めた眼で僕を見つめているのが見えた。

そうだ、負けてはいられない。勝つのはこっちなんだ。

「残念だけど、そんなことをしても無駄だよ、カルバン隊長。どうしても父上に話したいっていうなら止めないけど、その時は、こちらも調べたすべてを公表させてもらうからね。父上だけじゃなくて関係者全員にね」

「はんっ!どうぞ、お好きになさったらいい!何を公表されようとも、吾輩は困ることなど何もありませんからな!」

 言うべきことは言った。この先は仕上げだ。

「じゃあ、好きにさせてもらおうかな‥‥‥あ、ちなみに、さっきプライベートで何をしようが勝手だって言ってたけど、それ父上やテレンス子爵の前でも同じことが言えるのかな?」

「なっ?!なななな、なんの話ですかな!!」

 カルバン隊長は、一転して今度こそ動揺を隠せなくなったようだ。

「家のローンを組んだのは8ヶ月前だけど、先月‥‥つまり子爵家のお嬢さんとの婚約が決まった後にも、また女性と二人で不動産屋さんに行ってるよね?」

「たたた、他人の空似でしょう?!いい加減な報告に惑わされないことですな!!」

「そのときも、かなり親密な会話をしてたみたいだね。君がお金を出してあげて、お店を始めさせてあげるとか、なんとか‥‥」

「うおおおおお~~~~~!!!」

 まるで戦場にいるかのような雄叫びで話をさえぎられる。いい加減、耳が痛くなってきたんだけど。

「ですからっ!!下世話な話はお止めくださいと言ってるんですっ!!殿下の御威光にも傷がつきますぞっ!!」

 さんざん見下して怒鳴りつけておいて、いまになって御威光とか、よく言えたものである。

「まったく聞いているこちらが恥ずかしくなります!そんなくだらない話、誰もまともに聞いてはくれませんから、二度と言わないでください!」

「信じてもらえないかな?」

「吾輩が保証いたします。絶対に誰も信じませんから、やめておくべきです」

 今度はやれやれ、そんなこともわからないのかとばかりに言ってくる。

「じゃあ、試しにテレンス子爵に話してみよう!」

「おやめください!!」

「ダーリンって呼ばれて、鼻の下を伸ばしてたってことも言っちゃっていい?」

「いいわけないでしょうが!‥‥‥はっ?!いや、つまり、いい加減なデタラメを言わないでくださいと言っとるんです!」

「デタラメかどうか、判断してもらうために話すんだけど」

「駄目です!!絶対に!!駄目と言ったら、駄目!!」

「‥‥‥言ってほしくないんだよね」

「嘘はいけませんからな、嘘は!」

「バイロン伯爵にも同席してもらおうかな?嘘かどうか、きっと冷静に判断してくれるだろうから」

「どうして、そうなるんですか~~~~~!!!」

 両拳を握りしめて、床をドンドン踏みつけながら叫ぶ。

するとさすがのカルバン隊長も疲れてきたみたいだ。ハアハア言いながら、大きく肩を上下させている。だけど、僕を睨みつけるのだけは止めてくれない。

「‥‥‥喋ってほしくないんだよね?」

「そんなことはありません!」

「本当に?じゃあ‥‥」

「しかし!だからといって言うべきだとは思いません!言わないほうがよろしいと思いますぞ!吾輩は構わないのですが言わないほうがよろしい!これは、あくまで殿下のためを思って言うのですからな!そうです!殿下のため!」

「なるほど、ねえ」

 だんだん呼吸がつかめてきた気がする。僕は少し上体を反らせて、カルバン隊長をしげしげと眺めてみる。

「な、なんですか‥‥」

「さっき何を公表されても、困ることはないって言ってたよね」

「‥‥‥言いました。もちろん‥‥‥なにも困りませんぞ‥‥」

 カルバン隊長は胸を張ってみせるけれど、声に力がなくなってきている。ここまでくると、もうそれが強がりだということが、僕にも分かるようになってきた。

「そうはいっても、実際に公にしちゃったら大変なことになると思うんだよね。ちなみに真相を知って父上が怒り狂うところまでは僕にも予想できてるけど、他の人たちはどうなんだろうね?‥‥‥散々、口説き倒しておきながら、実は愛人がいるのを隠してたなんてテレンス子爵が知ったらどう思うだろうとか、仲介を買って出たのに顔を潰された形のバイロン伯爵の遺恨の向かう先が、君になっちゃうかもねとか、結婚式まで一年もあるけど、ウェストン副長はもう君の言うことなんか聞いちゃくれないだろうねとか、色々‥‥本当に色々あるけど‥‥‥まあ、公表してみれば分かることだから、いいか」

「くくく‥‥ぐぬぬぬぬ‥‥」

「あ、そうだ大事なことを忘れてたよ。子爵のお嬢さんにも話しておかないといけないよね。う~~ん、でもこれは可哀想だから言わない方がいいのかも‥‥いや、でも内緒にしてた方がもっと可哀想か‥‥‥よし決めた。話そう!噂に聞くところじゃ、かなり気の強い女性らしいから、その結果カルバン隊長が酷い目にあって、その上この先、一生頭が上がらなくなるかもしれないけれど、でもそれは仕方ないよね!よ~~し、そうと決まればグズグズしていられないよ!順番に片付けちゃおう!」

「あ、あの‥‥‥」

「いつもみたいに、強気に出ていれば僕が折れると思っていたんだろうけど、残念ながらそうはいかないんだ。今回、僕は一歩も引くつもりはないよ。何があってもね」

「ぬぐぐぐぐ‥‥‥!」

 カルバン隊長と直に対決してみて、あらためて勝負を決めるのは、自分の心構えしだいなのだということがよく分かった。どれだけ言い逃れのできない証拠を揃えたところで、本気で相手を追い詰めてやるという覚悟がなければ、なんの意味もないのだ。それが持てないのなら誰かに肩代わりしてもらうしかない。今回でいえばザイオンに任せるみたいに。

でも、それだと大事なことを理解できずに終わっていたのだと思う。

直接相手と切り結ぶ覚悟を持って、そして自分の手を汚す覚悟を持って相手と対峙する。そのことがどれだけ大切なのかに気付くことができた。ザイオンに任せなくてよかったと思う。このまま最後まで自分の手で戦って、カルバン隊長にとどめを刺してやるのだ。

 僕は、もう一度モイセスに目配せをする。彼が隣室との扉を開くと、憮然とした顔のシェルドンが入ってきた。彼の表情を見て、カルバン隊長はすべてを察したようだった。

「シェルドン!!貴っ様あ~~~!!!」

「‥‥‥ふん、俺のせいにするんじゃねえよ。馬鹿野郎が」

 シェルドンが、カルバン隊長を憎々しげに見て言う。

「言っとくが、もう逃げられねえぞ。証拠もしっかり揃ってるし、何をどうしたって、もう手遅れだ。この状況で陛下に話なんか持っていってみろ、お前の立場がさらに悪くなるだけだからな。ジタバタしてないで、さっさと諦めろ」

「なんだと‥‥‥!ぐっ、ぐぐぐぐっ‥‥‥!ぐぐぐ、ぐううおおおおおおお~~~!!!」

あらためて現実を突きつけられて、カルバン隊長は真っ赤な顔で、額の血管を震わせながら恐ろしいうめき声をあげた。

 僕はその様子をビクビクしながら、でもかつて感じたことのない興奮に包まれながら見つめていた。そんな僕にようやく気付いたように、カルバン隊長が血走った眼を向けてくる。

「うごっ!!ぐおっ!!こっ、こぞっ!きっ、きさっ!‥‥‥う、うぐおおおおおおおおおおおおおお~~~!!!」

 彼のうめき声で肌が震えるほどだ。現実を受け入れられずに怒りが収まらないらしい。

自分が追い詰められているのも、もちろんだろうけど、さんざん馬鹿にしてきた僕が相手だということが、より一層怒りを倍増させているのかもしれない。そのまま僕は、カルバン隊長の怒りを眼をそらさずに受け止めた。

「‥‥もういいかな?これからのことを相談したいんだけど」

「‥‥‥‥‥相談‥‥‥だと‥‥?」

「そう、相談だよ」

 まだ真っ赤な顔をしてフーフー言っているカルバン隊長に、僕は話を持ちかける。

「さっきも話したけど、この件をそのまま公表したら大変なことになると思うんだよね。裏金作りももちろんだけど、そのお金を女性に貢いでたこととか、あげくに手切れ金までそこから出してたこととかね」

「なんの話か分かりませんな」

 とカルバン隊長は、シェルドンを睨みつけながら言う。

「最終的には父上の判断を仰ぐわけだけど、最悪、死罪もないとは言えないよね」

「まったく、あり得ないことです。仮にもしそうなったら、この王国の正義が滅んだ日として歴史に刻まれることになるでしょうな」

「王国の体面を考えて、何もなかったことにされるかもしれないけど、それでもカルバン隊長にとっては好ましくない結果になるだろうね。予定通りテレンス家の跡取りに収まったとしても、相当厳しい立場に立たされるのは間違いない。でも‥‥‥」

「‥‥でも、なんですかな‥‥?」

 訝しげに、カルバン隊長が聞き返す。

「もし、僕との取引に応じてくれるのなら、この話、内密にしておこうと思うんだよ」

「ほう‥‥‥取引‥‥‥」

 カルバン隊長の眼に少しだけ光が灯ったように見えた。あらためて僕に視線を向ける。

「ほほ~~う。カリル殿下は、この吾輩と取引をしたいと仰るわけですか。ありがたいお話ですなあ」

 すこし自分のペースを取り戻してきたみたいだ。勝算なんか何もないはずなのに、このしたたかさは凄い。僕も見習うべきかもしれないと思った。

「しかし困りましたなあ。取引と言われても、吾輩の方では殿下に差し出せるようなものは何もないと思うのですが?」

「条件は2つ。まず着服したお金は、なるべくすべて返金してもらうこと。そして今後は一切不正はしないと誓ってもらうこと」

「‥‥‥その2つだけ、ですかな?」

「うん、そうだよ。僕としてはこの先、不正がなくなってくれるのが一番ありがたいからね」

 カルバン隊長が疑わしそうな眼で見てくる。話が美味すぎると思っているのだろう。

「ただし‥‥返金に関しては、できる限りのことはしてもらうよ。カルバン隊長の手元にある物はもちろん、件の女性のところにある物も、お金になりそうな物はすべて換金して支払いに充ててもらいます」

「なっ?!ふ、ふざけ!いやっ‥‥‥さすがにそれは、あんまりではないですか!」

「もちろん君が買ってあげた家も売り払ってもらいます」

「それだけは勘弁してくれ!!」

 ついにカルバン隊長が悲鳴を上げた。

「僕だって、できればこんなことはしたくはなかったんだよ」

「いい人ぶるな!この人でなしめ!」

 そうカルバン隊長は喚くが、僕の顔を見てハッとした表情を見せた。

「なんだ‥‥‥?どうして、そんな顔をしているんだ‥‥?」

 自分の顔が歪んでいるのがわかる。僕はあの夜の、あの女性の泣き声や、楽しそうに夢を語る声を思い出していた。彼女のことを思うと胸が締め付けられる。あの人にとっては僕は鬼のような極悪人だろう。でも、それでも言うべきことを言わなければならない。

「だって、その女の人はなにも悪くはないからね。彼女の方からおねだりしたりとかは、あったかもしれないけれど、それは非難されるようなことじゃない。ただそのお金は、その女の人一人のためじゃなくて、もっと大勢の人たちが幸せに暮らすために使われるべきものなんだ」

「綺麗事を言うな!そんな見ず知らずの奴らがどうなろうと知ったことか!!」

 だんだんカルバン隊長の言葉遣いが荒くなってきた。それでもザイオンは、表情を変えずに黙って見守っている。最後まで僕に任せてくれようとしているのだ。

「こんなことは言いたくないけど、断ってこの話が表沙汰になっても、結局同じ結果になると思うよ。そのときその女の人のところに行く人たちは、僕たちより乱暴な振る舞いをするかもしれないんだ。だから‥‥‥‥‥‥‥‥返事を聞かせてもらいたいな。カルバン隊長」

 カルバン隊長がしでかしたことの重さに比べれば、これは甘い裁定なのかもしれない。でも彼に温情をかけた訳じゃない。これをネタにして今後も脅してやろうと考えた訳でもない。僕なりに考えて、ここが落とし所だと判断したのだ。

「ぬぐぐぐぐ‥‥‥‥!」

 カルバン隊長はまだ首を縦に振らない。冷静に考えたら、この提案を受け入れる以外の選択肢はないはずだけど、彼の中で感情が激しくぶつかり合っているのだろう。

僕はノエルに言われたように、おへその下に力を入れながら、もう不正は許さないぞとか、でもあの女の人に不幸になってほしくはないとか、そういう諸々の気持ちを込めて、カルバン隊長の眼を見つめ続けた。カルバン隊長も、つらそうに顔を引きつらせながら僕を見ている。

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥わかりました。すべて殿下の仰せに従います‥‥‥」

 長い沈黙のあとに、ようやくカルバン隊長はそう言った。

そして、それを聞いた僕は、不思議な感覚に包まれていた。

感慨はたしかにある。ようやくここまで辿り着いたのだ。だけど達成感のようなものは薄くにしか感じなかった。それ以上に、責任が増した。背負うものが増えたという気持ちのほうが大きかった。

「‥‥うん、わかったよ‥‥‥じゃあさっき話したことは、なるべく早く済ませてしまうよ。もちろん女の人に手荒なことはさせないし、露頭に迷うことにならないように、住むところも仕事も見つけられるように手助けをさせる‥‥‥約束するよ」

 そう言うとカルバン隊長は、この部屋にやってきた時には想像もできなかったほどに力ない表情で、僕の顔をじっと見つめてきた。そして、

「‥‥どうぞ、よろしくお願いします‥‥‥」

 そう言って、大きな体を縮めて頭を下げた。

「うん。僕が責任を持つよ。僕の護衛に同行してもらって、最後まで見届けさせるからね」

 そう言って振り返ると、ノエルが任せてくださいとばかりに、深く頷いてくれた。

「よし‥‥‥じゃあみんな、これでいいね?第2大隊の経理の不正と、カルバン隊長の女性問題についてはこの場限りの秘密ということで。差し押さえと換金に関しては、面倒を押し付けちゃうけど、モイセスに一任するよ。よろしくお願いします」

「はっ!お任せください!」

 モイセスも頼もしい声で返事をしてくれる。彼に任せておけば大丈夫だろう。

「もちろん、それでも金額としては全然足りないだろうから、カルバン隊長にはテレンス子爵の婿養子になるまでの間、毎月の給料の半額を返納してもらいます」

「なっ?!そ、それはあんまりですぞ!」

 おとなしくしていたカルバン隊長が、反射的に抗議する。その様子に、今まで黙って見ていたシェルドンが呆れ顔で言う。

「カルバン。お前これだけのことをしでかしといて、それをなかったことにしてもらえるんだぞ。その上まだ、まともに毎月、給料をもらうつもりだったのかよ」

「うるさい!お前に言われたくないわ!‥‥‥あっ、殿下!コイツの給料も天引きですよね、もちろん!」

「なんで嬉しそうに言ってるんだよ!そもそも美味しい思いをしてたのは、お前だけだろうが、ふざけるなよ!」

 二人が言い合いを始めたので、あんまり間に入りたくはないけど仕方なく口を出す。

「う~~ん。もちろん罪がないわけじゃないけど、調査に協力してくれたし、シェルドンは天引きはなしだね」

「ありがとうございます!」

「お前、汚いぞ!」

「うるせえ!俺は巻き込まれただけだ!お前が真面目にやってりゃ、そもそもこんなことにはなってないんだよ!」

 結局、言い争いをする二人から、なるべく眼をそらしながら、あらためて言う。

「さて、じゃあこんなところかな。ザイオンどうかな?ほかに何かある?」

 僕が声をかけると、ザイオンはうやうやしい態度で、僕に向き直って言った。

「いえ、なにもございません。素晴らしい裁定でした。お見事でございます」

「や、やだなあ。照れちゃうから、やめてよ」

 そう言って頭を掻いていると、うしろからティアナが無表情で、すっと進み出てきた。

‥‥あれ?なんだかおかしいな。目が据わってない?

「王子。お言葉ですが、一番重要なことが、なにも片付いていませんよ」

「え?‥‥‥え~~と、そうかな?あと何かあったっけ?」

「いま話し合われていたのは、カルバン隊長が裏金を着服していた件と、女性に嘘をついて弄んでいた件の2つですよね?」

「う、うん。微妙に違う気がしないでもないけど、そういうことだね」

「そんなことより、遥かに重大なことが、まだ残っているじゃないですか?」

「え‥‥?えーと、ごめん‥‥まったくわからないや。何だか教えてくれる?」

「なぜ分からないんですか?!カルバン隊長の、これまでの王子に対する、数々の無礼な振る舞いについてです!!」

「あ~~~~‥‥それね‥‥」

「あ~~じゃありません!私はこれまでカルバン隊長の不敬極まりない暴言の数々と、威圧的な態度を、すべてこの眼で見てきたのです!この眼で!!」

「は、はい‥‥‥」

 なぜだか僕が怒られているみたいになってしまった。なんでだろう?

「当然ながら、これをなかったことにはできません。火炙りが妥当だと思われますが、いかがでしょうか?」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って!!さすがにそういう訳にはいかないよ!」

 じゃあ、いままでの話し合いは何だったんだって話になってしまう。当のカルバン隊長も、おずおずと口を挟む。

「あ、あの‥‥侍女どの‥‥?カリル殿下への無礼が、許されることではないのは重々承知していますぞ。もちろん吾輩、深く深~~く反省しております!なので、なんとか穏便にお願いしたいのだが‥‥」

 そう言うか言わないかのうちに、ティアナがギロリと目を剥いてカルバン隊長を見据えた。

「ひいっ!」

「ひいっ!」

僕とカルバン隊長が同時に悲鳴をあげる。や、やばい‥‥最大級に怒っている。とてもじゃないが僕には止められそうもない。カルバン隊長も、いまさらながらティアナの恐ろしさに気がついたみたいだ。気付くのが遅いよ!

「反省ですか‥‥わかりました。とても、とても不本意ですが、それで手を打ちましょう」

「ありがたい!感謝いたしますぞ!」

「そ、そうそう!それが良いんじゃないかなあ!」

 僕は、なんとか怒れるティアナをなだめようとするが、さらに冷酷な声で言い渡される。

「ではまず、その場に土下座して「カリル殿下、申し訳ございませんでした」と言いながら床に全力で額を打ちつけてください」

「え~~と、ティアナ?‥‥さすがにそれは可哀想だよ」

「それを1万回」

「床が壊れちゃうよ!」

「吾輩の頭を心配してくださらんか?!」

 このままだと収まりがつかないと感じたのだろう。ザイオンが、いいタイミングで声をかけてくれた。

「失礼‥‥‥侍女どの」

「ティアナだよ」

「‥‥‥ティアナどの」

 せっかくザイオンが助け舟を出してくれようとしていたのに、つい反射的に訂正してしまった。ちょっと黙っていよう。

「‥‥貴女の言うことも、もっともだとわたくしも思います。たとえカリル殿下がこだわっていないとしても、けじめは必要でしょう」

「わかっていただけますか‥‥?」

 思わぬ味方を得て、ティアナが意外そうな顔で言う。どうやら彼女はザイオンのことも、僕の敵だと思っていたフシがある。

「ええ、お側でお仕えする貴女が、どれほどつらい思いに耐えてこられたのかは、想像することしかできませんが、その無念は察するに余りあります」

「ザイオン様‥‥‥ありがとうございます」

 ティアナは感極まって涙ぐんでいる。でも、これってそもそも僕の話なんだよね?なんだか肝心の僕自身は、置いてけぼりになってるような気がするんだけど‥‥‥まあ、いいか。

「ですので、やはりカルバン隊長にはきちんと謝罪してもらいましょう。もっとも今回の一件は内密にする必要があるので、謝罪もまた非公式なものとなってしまいますが、そこは納得していただきたい‥‥‥いかがですかな?」

「わかりました。ザイオン様がそう仰るのでしたら、不満などありません」

 ティアナがあっさりと同意する。メチャメチャ素直なんですけど?!

ほんの一瞬でティアナを手懐けてしまったザイオンに、僕は嫉妬を覚えてしまう。

「では‥‥カルバン隊長、お聞きのとおりです」

「くっ!‥‥‥わ、わかった」

 あらためてザイオンに促されて、カルバン隊長も覚悟を決めたようだ。

僕の方へと向き直り、直立不動の体勢から腰を折って頭を下げようとした‥‥‥が、途中でその動きがピタッと止まる。別に、そこまできて謝罪したくなくなった訳ではないらしい。止まった理由は、僕の隣に立つティアナから発せられているドス黒いほどのオーラだ。恐ろしいからわざわざ目で見て確かめようとは思わないけれど、きっと土下座以外の謝罪など絶対に認めないとばかりの顔をしているに違いない。目の前でカルバン隊長が、ヘビに睨まれたカエルのような表情で、顔面に脂汗を流していることからもそれは明らかだ。

 ザイオンも、これ以上フォローする気はないようで、素知らぬ顔で立っている。

 もはや逃げ場はないと悟ったカルバン隊長が、ギュッと眼を瞑る。そしてバンッと勢い良く体を倒す音がした後、部屋の中に彼の大声が響き渡った。

「カリル殿下!申し訳ございませんでしたあ!!」


「やりました!ついにあの極悪非道の悪党に、頭を下げさせてやりましたよ!」

 執務室に戻ってからも、ティアナは興奮が冷めない様子で、何度も握りこぶしを振り上げていた。

「こんなに上手くいくなんて思わなかったよ。本当に二人のおかげだね」

「ほとんどノエルのお陰ですけれどね。それに引き換え、自分の役立たずっぷりには嫌気がさす程ですが、いちいち気にしないことにしましたから」

 ティアナはなにか吹っ切れたように言うけれど、いまの発言は訂正しないわけにはいかない。それを代わりにノエルが言ってくれた。

「ティアナが役立たずだなんて、わたしも王子も絶対に思っていませんよ。それに最後にカルバン隊長に頭を下げさせたのは大きかったです。今後のことを考えると、あの謝罪があるとないとじゃ大違いでした。残念ですが、王子はそういうところは、まだまだですね」

「う‥‥そ、そうだね‥‥‥僕としては情け容赦ないところを見せたつもりだったんだけど、まだ甘かったかも‥‥‥」

「甘々ですよ。まあそのへんの呼吸は、おいおい身についてくるでしょう」

 するとティアナが、ちょっと嫌そうに眉をひそめる。

「え?それって大丈夫なんですか?まさかとは思いますが、この先王子が、冷酷非情な独裁者みたいになっていったりしないでしょうね?」

「ティアナ‥‥‥よく見てください。コレが、そんな立派なものになれると思いますか?」

 ノエルが僕の両肩をつかんでティアナの方へ向けて言う。ティアナはしばらく難しい顔をして僕を見つめていたが、

「‥‥‥ノエルの言う通りですね。杞憂でした」

 と胸をなでおろしていた。

その間、僕は二人に挟まれて、ちょっと嬉しくなっていたのだけど、なんだか二人に馬鹿にされているんじゃないかという気が、ようやくしてきた。いちおう主人である僕に対して、有り得べからざる態度だったような気がするんだけど‥‥‥まあ、いいか。

「さて王子。では夕食までの間、少しお仕事をしておきましょうか」

 勝利の感動を分かち合う歓喜の瞬間も、どうやら終わり迎えてしまったらしい。もう、そろそろ来るんじゃないかとは思っていたが、ついにティアナから怖れていた一言が飛び出した。

「う、うん‥‥そうだね、お仕事は大事ですからね‥‥」

 なおも現実逃避したがって眼が泳ぎそうになっている僕を軽く睨みながら、ティアナは執務机の上の書類をまとめはじめた。

「では、私は書類などの届け物があるので、ちょっと出かけてきますね。ノエル、すこしの間王子をお願いします」

「わかりました。任せてください」

「ティアナ、行ってらっしゃい!」

 僕は元気よくティアナに声をかける。いまこの瞬間は、とにかくティアナを気持ちよく送り出したかった。自分がサボりたいからそう思っているわけでは決してない。

 だが心配性のティアナは、ノエルに一言、言っておくのを忘れなかった。

「そこの引き出しにムチが入っていますから、王子が仕事をサボったら使ってください」

「業務連絡が、暴力的なんだけど?!」

「大丈夫ですよティアナ。使い方はわかっています」

「どうして、当たり前みたいに、返事をしてるのかな?!」

「では王子、頑張ってくださいね」

「は、はい‥‥‥」

 おとなしく返事をするしかなかった。勇気を振り絞ってカルバン隊長と対決したというのに結局この部屋での僕の発言権など存在しないらしい‥‥と、そこでティアナが急に咳き込み出した。

「んっ!‥‥ゴホッゴホッ!‥‥‥す、すみません。失礼しました」

「え‥‥‥ティアナ大丈夫?」

 突然、顔を歪めたティアナに、僕はびっくりして声をかける。

「は、はい‥‥‥ゴホッ、ぐっ、んんんん!‥‥‥すみません‥‥大丈夫です」

 そうティアナが答えた時には、もうノエルがそばに立って、ティアナの額に手のひらを当てていた。

「‥‥‥大丈夫じゃないですね。熱がありますよ。王子、ティアナを寝かしつけて医者を呼ぶ必要があります」

「ええっ?!そんなに悪いの?!」

「はい、きっと疲れが溜まっていたんでしょう。早く休ませたほうがいいです」

「ちょ、ちょっと待ってください!そんなに重病人みたいに言わないで!大丈夫ですから。用事も済ませなきゃいけませんし」

「駄目だよ!具合が悪いなら、ちゃんと寝てなきゃ!用事ならお医者を呼んだあとでノエルに代わりに行ってもらうよ」

「いえ大丈夫ですから。私のために王子の予定を狂わせたくないので‥‥‥‥あっ?!」

 喋っている途中でティアナは目眩でもしたのか、急によろけて倒れ込みそうになった。すかさずノエルが横からささえてくれる。

「すぐに寝室に運びましょう」


 ティアナは倒れた後、彼女の自室に運び込まれて寝かされていた。

 ノエルが付き添って看病してくれている。僕は何もすることができないまま、ずっとティアナのベッドのそばで座り続けていた。風邪が感染ってはいけないから出ていくようにと、何度もノエルから言われているのだが、どうしても離れられずにいた。

「ティアナごめんね‥‥‥僕が無理をさせすぎたんだ‥‥‥」

 眠っている彼女に向かって、何度も謝り続ける。

「心配しすぎですよ王子。大丈夫です、お医者はただの風邪だと言っていましたから、明日には少し元気になっているでしょう」

「本当?絶対に‥‥?」

「ええ、絶対です。だから安心してください」

「うん‥‥ありがとうノエル‥‥」

「さあ、もう王子も、お疲れでしょう」

「うん‥‥‥‥でも‥‥」

 僕は眠っているティアナを、ちらりと振り返る。

「‥‥仕方ないですね‥‥‥長椅子を一つ運んできましょう。今日はここで休んでください」

「え?‥‥‥いいの?」

「ええ、今回だけですよ」


 それから二人で居間から運んだ長椅子に布団をのせて、簡易のベッドをしつらえた。ティアナのベッドとは、ちょうど同じ高さだ。僕が身体を横たえると、眠っているティアナの横顔が見える。さっきまでと比べて、ほんの少しだけ表情が和らいだ気もするが、相変わらず辛そうに見えた。

「ティアナ‥‥‥」

 眠っている彼女に向けて呟く僕に、ノエルが優しく声をかけてくれる。

「さあ、しっかりと休んでください」

「ありがとうノエル‥‥‥ノエルも、ちゃんと休んでね‥‥」

「大丈夫です。わたしはいつでも身体を休められるように訓練を受けていますから‥‥いえ、わかりました。ちゃんと休んでおきますね」

「うん、そうして‥‥おやすみ、ノエル」

「ええ、王子‥‥おやすみなさい」

 その言葉を聞いてから、僕は最後にもう一度、ティアナの横顔を見た。早く良くなってねと心の中でつぶやいてから、僕はゆっくりと目を閉じ、そしてそのまま眠りに落ちた。


  ティアナの夢の中で


「おとーさーーん!こっち、こっち。はーやーくーーー!!」

「おーーい!走るのは構わないが、ちゃんと前を見なさい!転んでしまうぞ!」

「二人とも、あんまり遠くに行かないでよーー!」

 ティアナの夢の中で、遠い日の思い出が甦っていた。ぼんやりとだけれど、自分が夢を見ているのが認識できた。たしか‥‥‥そうだ、体調が良くなかったのを我慢していて、倒れたんだっけ‥‥なんという失態‥‥‥王子は?‥‥王子はどうしているの?‥‥‥駄目だ、なにも考えられない‥‥私は考えるのをやめて、夢の続きに意識を委ねた。

「ねえ、ねえっ、おとーさんっ!」

夢の中の私は、見上げるほど背の高い父に両手を差し出して、抱っこをねだる。

「よーーし、それっ!!」

 お父さんは軽々と私を抱えて、ひょいっと持ち上げる。すると突然視界が遠くまで広がり、まるで自分が鳥になったような気分になる。お父さんはとっても力持ちなのだ。私の小さな身体は、あっという間にお父さんの手を離れて、空へと舞い上がる。でも私は、ちっとも怖くはなかった。落っこちそうになったことなど、いままで一度もなかったからだ。お父さんは私をいつも優しく受け止めてくれるのだ。

「きゃーーーー!!ねえっ!おとーさんっ、もういっかいやって!」

「よーーし、いくぞーー、それーっ!!」

「きゃーー!!」

 再び私は空を舞い、空中から周囲を見渡す。笑顔で手を振りながら、お母さんがこっちへ歩いてくるのが見えた。そして私たちを取り巻く色鮮やかな景色が、幸せな記憶とともに、私の小さな頭の中に刻まれていく。緑豊かな草原や森、真っ青な空に浮かぶ白い雲と、柔らかな陽の光‥‥‥すべてが美しく、かけがえのないものばかりだ。どれほど恋い焦がれても、二度と取り戻すことのできない、私の大切な日々の思い出‥‥。

 お父さんは何度か私を持ち上げた後、その大きな胸の中にすっぽりと抱いてくれた。

「おとーさん、だいすき」

 私はまだ小さな両腕をめいっぱい伸ばして、お父さんの首に抱きつく。お父さんは眼を細めて私を抱きながら、もう一方の手で優しく頭をなでてくれた。

「お父さんもだよ、大切なティアナ」

「えへへへへーー」

 そこへ、お母さんが怒ったふりをしながら追いついてきた。

「ちょっとっ、二人との私のことを忘れているんじゃないでしょうね?」

「そんなはずないだろう。愛しているよ、マーサ」

「おかあさんも、だーいすき!」

「はい、はい‥‥‥二人とも愛していますよ」


はしゃぎまわる私の相手をして、お父さんもお母さんも、たくさん遊んでくれた。それからみんなで並んで草原の上に座り、柔らかな風を感じながら景色を眺めた。

 とても幸せな時間だったけれど、しばらくしてからお母さんが急に暗い顔になってポツリとつぶやいた。

「ずっと、こうしていられたら、いいのに‥‥」

「わたしだって同じ気持ちだよ」

 慰めるようにお父さんが言葉を返す。

「でも‥‥‥すぐに、次の戦があるのでしょう?」

「うむ‥‥‥」

「いまでは街の人たちも、口を揃えて言っているわ‥‥‥近頃は戦が多すぎる。だれか王様を諌めてくれる人はいないものかって‥‥」

「やめないか‥‥街の者たちがどう言おうと、それは彼らの自由だ。だが王に仕えるわたしの妻である君が、そんなことを言うべきではない‥‥‥‥我々は王の剣だ。ただ王の命ずるまま戦場に赴くのみだ」

 お父さんは厳〔いかめ〕しく、でも少し悲しそうな顔で、お母さんに言った。

「ええ、あなたは正しいことを言ってるのだと思うわ。でも、あなたが戦場に行っている間、わたしがどんなに恐ろしくて、辛くて、心細い思いをしているのかが、あなたには分からないのよ」

「すまないとは思っている‥‥‥」

「もちろん騎士であるあなたに嫁いだ以上、覚悟はしていたつもりです。だけど‥‥‥こんなにも戦争ばかり続くだなんて‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

「また戦いが終わったら、誰かのお葬式があるのでしょうね‥‥」

「‥‥そんなことには、ならないようにする‥‥」

「‥‥‥‥‥‥いやだ‥‥‥行かないで‥‥‥」

 お母さんは、お父さんにすがって顔をうずめた。

「マーサ‥‥‥」

 お父さんは、お母さんを強く抱きしめてそのまましばらくの間、動かなかった。

「大丈夫だ‥‥わたしは死なない‥‥‥必ず、必ず生きて帰る‥‥‥絶対に君とティアナに悲しい思いはさせない‥‥!」


 そう言っていたお父さんは、次の戦いに出かけたまま、二度とおうちには帰ってこなかった。

何人もの大人たちから、お父さんはもう帰ってこないのだと聞かされていたような気はする。だけどまだ小さかった私は、そのことをちゃんと理解できていなかったのだ。

きっとみんなは、なにか勘違いをしている。お父さんは、いまごろどこかで、迷子になっているのだ。それで、ちょっと帰りが遅くなっているだけで、いつか必ず帰ってきてくれる。そして、とびっきりの笑顔で私を抱きしめてくれるのだ。私は、そう自分に言い聞かせ続けた。

 だけどもお父さんは、いつまで待っても、おうちに帰ってきてはくれなかったのだ。


「ねえ、おかあさん。おとーさんは、もう帰ってこないの?」

「‥‥‥ええ、そうよ、ティアナ」

「どうして?」

「お父さんは騎士だからよ。立派に勇敢に戦って、そしてお空に登って行ったの」

「お空に?それって、お空のどのくらい高いところなの?」

「ずっとよ‥‥‥ずうっと、ずうっと高いところ」

「そんなに登ったら、落ちちゃわないの?」

「ううん。落ちたりはしないわ。もう、そんな心配はいらないの。お父さんは、ずっとお空の上にいるわ」

「いつ帰ってくるの?」

「‥‥‥もう帰ってこないわ‥‥‥お父さんはもう帰ってこないのよ、ティアナ」

「どうして?」

「一度、お空の上に行った人は、もう帰ってくることはできないの」

「‥‥‥どうして?」


 私はこんなやりとりを、何度もお母さんに強いていたと思う。お母さんはそのたびに、愚かな私に辛抱づよく付き合ってくれていた。本当はお母さんこそ一番つらかったのに。それでもお母さんは、いつも私を優先して大切にしてくれるのを忘れなかった。


「なんで?!なんで、おとーさんは帰ってこないの?わたし、おとーさんに会いたい!」

「ティアナ‥‥‥」

「おとーさんに会いたいよ!ねえっ、おかあさん!」

「いつか‥‥‥ずうっと先のいつか、ティアナもお父さんに会えるわ‥‥‥そうしたら、また三人で暮らしましょう。ねっ」

「ちがうのっ!いま会いたいのっ!ねえ、おとーさんをつれてきてよ、ねえっ、おかあさん!」

「ティアナっ!お母さんだって会いたい!わたしもあの人に会いたいの!でも、もう会えないのよっ!」

「いやだ、いやだ、いやだ!おとーさんに会いたいっ!会いたいのっ!なんで会わせてくれないの?おかあさんの、ばかっ!」

「ティアナ‥‥‥うううう‥‥‥あああああ~~~~~!!」

 お母さんは顔を歪ませて泣き出した。私の肩を掴んでいる手に強い力がかかる。

「いたいっ!おかあさん、いたいよ!そんなに強くつかまないで」

「あっ!‥‥‥ご、ごめんね、ティアナ!お母さん、つい‥‥‥大丈夫?!」

「うん、だいじょうぶだよ‥‥‥おかあさん、どうして泣いてるの?‥‥ティアナのせい?」

「ううん‥‥‥ティアナのせいじゃないわ」

「おかあさん、もう泣かないで‥‥」

 私はお母さんの涙を拭おうとして、手を伸ばす。

「ええ泣かないわ。ありがとうティアナ、あなたは優しいわね。お母さんティアナのことが、とっても、とっても大好きよ‥‥‥」

「ティアナも、おかあさんのことが大好き!‥‥おかあさんっ!‥‥‥えへへへ‥‥」

 さっきまでダダをこねていたのも忘れて、私はお母さんに抱きついた。そんな私をお母さんは、涙も拭わずに優しく、ずっとずっと抱きしめてくれていた。


 お母さんは本当にいつも私に優しかった。私はその深い愛情のおかげで、どれだけ救われていたのかわからない。それなのに私はそんなお母さんに甘えて、好き勝手に振る舞っていたように思う。それでいて当の本人は、自分のことを不幸で可哀想な女の子だと思っていたのだから、本当に救いようのない馬鹿だったと思う。


 お父さんが帰ってこなくなってから、我が家の生活は様変わりした。食事は日を追うごとに粗末になり、やがてそれすら満足な量を口にすることが難しくなった。本当は王国からお金がもらえるはずなのに、戦争のせいでもらえないのだと、お母さんが何度か話していたのを覚えている。そしてお母さんは街に働きに出るようになり、私はおうちで一人でお留守番をするようになった。

「つまんないな。はやく、おかあさん帰ってきてくれないかなあ?」

 私は家でお手伝いをしながら、お母さんの帰りを待つのが日課になった。お手伝いと言っても具体的に何をしていたのかは思い出せない。きっと大したことはしていなかったのだろう。

「ただいま、ティアナ。遅くなってごめんね。いい子にしてくれていたかしら?」

「あっ、おかあさん、おかえりなさい!うん、わたしねえ、いい子にしてたんだよ!」

「そう、お利口さんね」

 お母さんは、そう言って私を、優しく優しく抱きしめてくれる。

「じゃあ、お利口さんのティアナのために、今日は張り切ってご馳走にしましょう。お給料日だったから、美味しいものを買ってきたのよ」

「わ~~い!!」

 いつもの貧しい食事に、ほんの一品つけ加えられただけの、いま考えるとそれは、ご馳走というにはあまりにも慎ましいものだった。それでも私にとっては、とっても嬉しい特別なイベントで、はしゃぎながら張り切ってお手伝いをする。

「じゃあティアナ。テーブルの上を片づけて、お皿を並べてくれるかしら?」

「うんっ!ねえ、お母さん。わたし、はやく食べたいなっ!」

「ふふふ、食いしん坊さんね。ちょっと待っててね、すぐに用意するから‥‥ぐっ、ゴホッ!ゴホッ!ゴホッ!‥‥‥ご、ごめんね、ティアナ」

「おかあさん、だいじょうぶ?‥‥おかぜひいちゃったの?」

「う、ううん‥‥大丈夫よ、お風邪じゃないわ‥‥‥さあ、ご馳走を用意するから、大人しくまっていてね」

「うんっ!!」


 お母さんは、毎日休まずお仕事に行っていたけれど、貧しい生活は少しも変わらなかった。

お母さんの顔色は、日に日に悪くなり、だんだん咳き込むことが多くなっていった。そしてそんなある日、お家にお母さんの職場の人が大慌てでやって来た。お母さんが仕事中に倒れて意識をなくしてしまったというのだ。

職場の人に連れられて急いで向かうと、お母さんはひどい顔色をして、部屋の隅っこの粗末な長椅子に寝かされていた。お金がないから、お医者も呼んではもらえないのだという。

「ねえっ、おかあさん、おきてっ!おかあさんっ!」

 私は眠っているお母さんにすがって呼びかけた。でもお母さんは苦しそうに息をするだけで眼を開けてはくれない。その血の気がない顔は、まるで生きている人じゃないみたいだった。私は怖くて怖くてたまらなくなって、何度も呼びかけた。

「おかあさん!おねがい、おきてっ!‥‥いやだよっ!死なないで!ねえっ、おかあさんっ!‥‥‥おねがい‥‥‥死なないでっ!‥‥‥‥‥死んじゃ、やだあっ!!」

お母さんが、ここじゃないどこかに行こうとしている。もう二度と会えないどこかに。

私はそのことに気がついて、気が狂いそうになりながら呼びかけ続けた。大きな声で呼び続ければ、きっと眼を覚ましてくれる。遠くに行くのをやめて、私のところに帰ってきてくれる。そして、また私の名前を呼んで優しく抱きしめてくれるのだ。私はそう無理やり信じて、必死に叫び続けた。

「あっ?!おかあさんっ!!」

 気づくとお母さんが、うっすらと眼を開いていた。乾いた唇から、か細い声がもれる。

「‥‥‥ティア‥‥‥ごめ‥‥‥ね‥‥‥」

「おかあっ、おかっ‥‥‥!」

 それがお母さんの最期の言葉だった。私のしがみつく腕の中で、お母さんは息を引き取り、そして少しずつ温もりを失っていった。

世界が真っ黒に塗りつぶされてしまったみたいだった。その暗くて深い穴の中で、私は目を閉じたままのおかあさんと二人っきりだった。

「‥‥‥ねえ、おかあさん知ってる?‥‥‥わたしね、おうたが前よりじょうずになったんだよ。おうちに帰ったらおかあさんにも聞かせてあげる‥‥‥まだちょっと恥ずかしいけど、わたしいっしょうけんめい歌うから‥‥‥だから一緒にかえろう‥‥‥それから‥‥‥ねえ、おかあさん‥‥‥おかあ‥‥」


 大人たちがお母さんのお葬式をあげてくれている間、私はどんな顔をしていたのだろう。たくさんの人から、慰めや励ましをうけていたのは覚えている。本当に心のこもった言葉をかけてくれた人たちもいたみたいだけれど、私はろくすっぽ相手の顔も見ていなかった。

 ただ茫然としながら、でも内心で私は、ようやく気づいた自分の過ちと向き合っていた。

父親がいなくなれば経済的に苦しくなるということくらい、幼いながら私にも分かっていたはずだった。それなのに私は、あいも変わらず母親に頼ることしかしてこなかったのだ。

そうじゃなくて、お母さんを強引にでも休ませるべきだったのだ。私が物乞いでもなんでもして、お金を稼いでくればよかったのだ。自分がどれだけ甘ったれで、自分のことしか考えていなかったのかを、その時になってようやく思い知らされた。

でも、あまりにも‥‥‥あまりにも気づくのが遅すぎたのだ。


身寄りのなくなった私は、それから父の同僚だった人の紹介で、お城で住み込みで働くことになった。

お城と聞いて私は最初、王さまやお妃さまたちがいる、きらびやかな場所を想像したのだけれど、迷路みたいな長い回廊をついて歩くうちに、まわりはどんどん薄暗くなっていって、たどり着いたのは、まるで路地裏みたいに薄汚れていて、おまけに少しどぶみたいな匂いがするところだった。

「ねえ、王子さまはどこにいるの?」

「ははは、ここにはいないよ」

 連れてきてくれたおじさんは困ったように笑う。それから、かがみ込んで私の両肩を掴むと、真剣な目で私の顔を覗き込みながら言った。

「いいかい。君は今日から、ここで働くんだ。今日からは、ここが君のおうちなんだよ」

「あ、あの‥‥」

「ここの人たちの言うことをよく聞いて、いい子にしているんだよ‥‥‥‥頑張って‥‥しっかり働くんだ‥‥」

「おじさんは、いっしょじゃないの?」

「私にはお仕事があるから、君と一緒にはいられないんだ‥‥‥すまない‥‥」

「どうして、あやまるの?」

「この先、きっと君は私を恨むだろう。君のお父さんとお母さんにも本当に申し訳ないと思っている‥‥‥こんなことくらいしかできない私を許してくれ‥‥」

 その人はそれから、ぺこぺこ頭を下げながら私を住み込み先のおばさんに紹介すると、最後に悲しそうな目で私を見てから帰っていった。 


「やれやれ、ここは孤児院じゃないんだけどねえ」

 中年の下女は、憎々しげに私を見下ろして言った。

「いいかい。おいてやる以上は、子供だろうが、赤んぼだろうが、しっかり仕事はしてもらうからね。タダ飯にありつこうなんて、さもしい考えはするんじゃないよ」

「あ、あの‥‥‥」

「返事もできないのかい!」

「ご、ごめんなさい!」

 そしてろくな説明もないまま、つぎつぎに用事を言いつけられた。

「ティアナ!いつまでかかってるんだい!」

「ご、ごめんなさい!でも、これとっても重くて‥‥」

「やだやだ、ノロマは嫌いだよ。言っとくけど、泣いてれば誰かが助けてくれるなんて思ってるなら大間違いだからね!」

「は、はい‥‥がんばります‥‥」

「当たり前のことをわざわざ言うんじゃないよ!いいから、さっさと手を動かしな!‥‥なんだいその顔は!文句があるなら、出ていってもらってもこっちは構わないんだよ!飯を食わせてもらえるだけ、ありがたいと思いな!」

「う、ううう‥‥うええ‥‥」

「泣いたら、ひっぱたくよ!」

「ごめんなざい‥‥!」

 私は生まれてはじめて、働くということがどういうことなのかを知った。そして自分のいまの境遇というものも。私は、親鳥が死んでしまって巣に残されたヒナといっしょなのだ。もう誰も守ってなどくれないし、餌を運んできてもくれない。まだ小さくても、羽が生え揃っていなくても、自分の力で巣から這い出て生きていくしかないのだ。

 どうしてこんな目にと思いながら、でもこれがふさわしい報いなのだとも思った。

 これは罰なんだ。私がワガママで悪い子だったから、神様を怒らせてしまったのだ。だからおとうさんも、おかあさんも、いなくなってしまったのだ。

 だけど‥‥そこから先の生活は本当につらいものだった。家の手伝いくらいしかしたことのなかった私にとって、そこは居心地の良い職場とは到底言えないところだった。不器用で甘えん坊だった私は、意地の悪い先輩たちにすぐに目をつけられた。毎日毎日、怒鳴りつけられ、叩かれながら、朝から晩までヘトヘトになるまで働かされた。

昼間働いている間は余計なことは何も考えられず、夜は粗末なベッドに疲れ切った身体を横たえるやいなや眠りに落ちていたので、私は父と母のことを思い出す余裕すらなかった。

自分が何のために生きているのかも分からない、希望の光さえない毎日だった。


そんな生活が何年も続いたある日、私はお城から少し離れた草原で、薬草を摘んでくるよう言いつけられた。

のどかなお仕事に聞こえるかも知れないが、そんなことはもちろんない。子供の身体には大きすぎる籠を背負わされて、これが一杯になるまで帰ってくるなと命じられるのだ。夕方までに終わらせなければ、厳しいお仕置きが待っている。能なしと怒鳴られながら散々にぶたれ、あげくに晩ご飯を食べさせてもらえないのだ。

殴られるのはもう慣れたが、ご飯がもらえないのは本当につらい。私は籠を背負うと急ぎ足で草原へと向かい、一心不乱に目的の草を探しはじめた。

だが思うようには見つからない。ようやく探し当てたと思っても、ほんの数本ずつでしかなかった。こんなペースでは、とてもじゃないが目指す分量は集められない‥‥私は次第に焦りはじめた。するとそのとき‥‥‥。

「ねえねえ、何を探してるの?」

 少し離れた場所から、突然声をかけられた。

「え‥‥‥だ、誰?」

 驚いて顔をあげると、私と同じくらいの年頃の少年が、じっとこちらを見つめていた。

知らない子だ。とても人懐っこそうな笑顔を浮かべている。

このあたりの村の子供にしては着ている服が上等だ。きっと城下町のそれなりのお家の子供なのだろう。ならば近くに親か使用人がいるはずだ。話しかけてきたのは向こうだが、見つかったら面倒なことにならないとも限らない。関わらないでおいた方がいいだろう。

「べつに‥‥‥‥あなたに関係ないでしょう」

 無視して薬草探しを再開する。

「ふーーん‥‥‥‥あっ、この草を集めてたんだね!」

「ちょ、ちょっと‥‥!」

 気づくと少年は、私に近づいて籠の中身を覗き込んでいた。

「勝手に見ないで‥‥!」

 私は嫌がってみせるが、相手は聞いていないようだった。

「ねえ。むこうに白いお花が咲いているでしょう?」

 そう言うと、彼は少し遠くを指差す。たしかにそこには白い花が咲いていた。周りの草花より背が高いので、かなり目立つ。丈夫な茎が空に向かって真っ直ぐに伸びて、その先にユリの仲間だろうか、白い大きな花が咲いている。

「たしかに咲いてるけど‥‥‥‥それが何‥‥?」

「あのお花の、すこし離れたところを探してみるといいよ。きっとその草が見つかるから」

「え‥‥‥?」

 驚いたことに、少年は私の探している薬草の見つけ方を指南してくれているらしい。本当だろうか?

もちろん、にわかには信じられないが、かといってイタズラ半分の、いい加減な嘘とも思えなかった。妙に内容が具体的だし、ニコニコと私を見ているその顔は、確信に満ちているようでもあった。私は少し迷ったうえで、

「わかったわよ。探してみる‥‥‥‥ねえ、少し離れたところって、どのくらい離れたところなの?」

 少年の勧めに、いちおう従ってみることにした。なんといっても、このままだと間に合いそうにないのだ。藁にでもすがりたい気持ちなのは間違いない。

「うーーんとねえ、3メートルから5メートルくらいの間かな?」

「けっこう幅があるのね‥‥‥わかったわ」

 私は少年に言われたとおりに、白い花の周囲を、ぐるりと巡る形で地面を探しはじめた。すると‥‥‥。

「あっ?!あった!!」

 信じられないことに、探し始めてすぐに見つかったのだ。いままで、あんなに苦労していたのに。しかも結構な数がまとまって生えている。ちいさな群生といってもいいくらいだ。私は夢中で採集して籠に入れていった。見える範囲に生えているすべてを集めて顔を上げると。

「ねえーー!こっちにも、いっぱいあるよーー!!」

 すこし離れたところで、少年が頭の上で薬草をブンブン振って見せていた。どうやら私とは反対周りに探してくれていたようだ。

「ありがとう!あなたの言うとおりにしたら見つかったわ!探しながらそっちへ行くから、待っていて!」

「うん、まってるから、はやく来てー!」

 私は再び地面を円状に探しながら、少年のいるところに向かう。彼は薬草を摘みながら私を待ってくれていた。

「見て見て、こんなにあるよ!」

 私が近づいていくと、喜び勇んで自分の集めた薬草を見せてくる。だが‥‥。

「え、ちょっと待って‥‥‥なにこれ‥‥?」

「え‥‥どうしたの?‥‥これを探してたんでしょ?」

 私が急に冷めた声を出したので、少年は、ぽかんとしている。

「うん‥‥この草でいいのよ。これで合ってるんだけど‥‥‥摘み方が雑すぎるわ」

「え‥‥?これじゃ駄目なの?」

「ええ駄目ね。かなり駄目ね。ていうかボロボロじゃないの」

「えええ~~~~??!」

 どうやらまったく自覚がなかったらしい。まあ仕方ないか。きっと育ちが良すぎて、お手伝いなんてしたこともないのだろう。

「残念だけど、これは使えないわね。こんなのを持って帰ったら、逆に叱られちゃうわ」

「そんな~~~、うう‥‥ごめんね、僕のせいで‥‥」

 さっきまで大はしゃぎだったのに、少年はすっかりしょげてしまっていた。

「ううん、大丈夫よ。そんなに落ち込まないで。そもそも君が見つけてくれたんだし。そんなことよりありがとう。おかげでたくさん見つけられたわ」

「ほんとう?‥‥‥えへへ~~よかった~~!」

 すぐにまた笑顔に戻る。かなり素直というか、無垢な子のようだ。まるで、よちよち歩きの小さな子供のようで、他人に気を使っている場合ではないのだけれど、放っておけなくなってしまう。

私は、まだその場所に少しだけ生えていた薬草を使って、実演してみせた。

「あのね、こうするの‥‥茎の根元をしっかりとつまんで、軽く左右に揺らしながらゆっくり真上に引っ張るのよ。そうすると、ほら‥‥‥根っこが、ちゃんと付いてくるでしょ」

「わあ、ほんとうだね」

「この薬草は、根っこも薬の材料になるから、根っこごと、集めないといけないの」

「そうなんだ!わかった、やってみるよ!」

 少年はそう言って、早速、その場に最後に一本残っていた薬草で試してみる。膝をついて、かがみ込み、片手を地面につきながら、薬草の根本を慎重につまんで引っ張りはじめた。

「よ~し、ゆっくり、ゆっくりと‥‥‥‥‥で、できた~~!できたよ!」

 少年は眼を輝かせて、抜いたばかりの薬草を私に見せる。実は先っぽの方が、ちぎれていて完璧ではないのだけれど、そこは黙っていよう。

「うん、うまく抜けているわ。初めてで、これだけ上手にできるなら立派よ」

「えへへへへ~~~~!!やった~~~!!ありがとう!!」

 機嫌が直ってくれてよかった。少年の見せてくれたとびっきりの笑顔で、私はすっかり疲れが吹き飛んだ気がしていた。こんなにも邪気のない笑顔を見たのは一体いつ以来だろうか?

あと、ず~~っと思っていたことなんだけど、この少年は‥‥‥とっっても、キレイな顔をしている。そんなことを考えている場合じゃないので、あまり気にしないようにしていたのだけれど、整った顔の造りも、髪のサラサラ具合も、きめ細やかな肌も何もかもが美しいのだ。

だが、いけない‥‥これ以上は良くない‥‥私にはまだ与えられたミッションが残っているのだ。本格的に薬草探しを再開しなくては。

私は膝など少年の服についた土ぼこりを、ていねいに払うと言った。

「ありがとう。あなたのお陰でお使いを果たせそうよ。それじゃ、これでお別れしましょう。まだ向こうにも、さっきの白い花が咲いてるみたいだから、行ってみるわ。あなたも気をつけて帰ってね」

「え‥‥‥行っちゃうの‥‥‥?」

 私の言葉に、少年は信じられないといった表情をする。

「いえ、行っちゃうというか、まだまだ薬草を探さなきゃいけないから‥‥あなただって家族か誰かと、ここに来ているんでしょう?」

 私が問い返すと、彼はあっさりと首を横に振った。

「ううん、違うよ。僕は一人でここに来たんだよ」 

「え‥‥‥?」

 一体どういうことだろう?

「だから、いまは本当は読書の時間なんだけど、こっそり抜け道を使って、お城を抜け出して来たんだ‥‥‥あ、いけない。これは喋っちゃ駄目だったんだ」

ヤバい‥‥聞いてしまった‥‥いまお城から抜け出して来たって言ったよね‥‥?まずい、まずい、まずい。いいところのお家の子どころじゃなかったらしい。ひょっとしたら貴族さまの子供ってこともあるのかも。もしも慌てて探しにきた家来とかに、こんなところを見つかりでもしたら、誘拐犯の一味に間違えられるかもしれない。もう薬草なんかを探してる場合じゃない。すぐにでもこの場を離れなければ。

「じゃ、じゃあ、いますぐ帰った方がいいよ!君がいなくなったことに気づいたら、きっと大慌てする人たちがいるんじゃないかな?うん、それがいい。さあ、はやくはやく!」

 しかし少年は、簡単に私を解放してくれない。

「ええ~~~??!嫌だよ!せっかく友達になったのに!そんなの嫌だ!」

 いつの間にか友達になっていたらしい。

「友達って言っても、私あなたの名前も知らないけど‥‥」

「あっ、そうか。僕はカリルだよ。君の名前は?」

 ふーーん、カリルって言うのか‥‥‥ていうかそうじゃない。なにをわざわざ、こっちから訊くようなことを言っているんだ私は。焦るあまり、どんどん深みにハマっている気がする。

「えっと‥‥‥私の名前は、ティアナ‥‥」

 焦る気持ちとは裏腹に、私は彼に‥‥カリルに自分の名前を告げるのが、こそばゆくて仕方がなかった。なんだかドキドキする。

「ティアナだね、ティアナ!これで僕とティアナは友達だからね!よろしくねティアナ!」

 めちゃめちゃ連呼されてしまった。ほかに聞いている人もいないのに、やけに恥ずかしい。

もう勘弁してほしい。限界です。あと、その笑顔が眩しすぎる。

「う、うん、そうね。友達。私たち友達ね」

 もう自分でも何を言っているのか、よくわからない。ふわふわした気分のまま返事をする。

「うん!じゃあ、さっきの草をもっと集めなきゃいけないんでしょう?一緒に探そうよ!それで集め終わったら二人で遊ぼう!」

「うん‥‥‥え、いまなんて?」

「さあ、はやくはやく!」

「ま、待って!」

 カリルは少し離れたところに咲いている白い花を目指して、元気よく駆け出した。私は置いていかれないように追いかける。

「ねえっ!べつに一緒に探さなくてもいいのよ!」

 私がうしろから声をかけると、カリルは走りながら振り返って言う。

「やだ!絶対に手伝う!ずーっと一緒にいる!だからお別れしようなんて、もう言わないで!」

「違うわよ、あれはそういう意味で言ったんじゃなくて‥‥えーーっと、つまり‥‥」

 なんて説明すればいいのかと考えながら、カリルを追いかけていると、

「あっ、わあっ??!」

 カリルは何かにつまずいて、勢いよく転んでしまった。

「きゃっ、大丈夫?!」

「あいたたた‥‥‥‥」

 草むらに盛大に突っ込んで、立てないでいるようだ。私は大急ぎでカリルに駆け寄る。

「ねえっ?!平気?怪我とかしてない?!」

「うん、なんとか大丈夫‥‥‥‥あっ!指を切っちゃってる‥‥うわ~~ん!いたいよう!」

 どうやら転んだ拍子に、指先を草か何かで切ってしまったらしい。たしかに血は出ているが泣くほどの傷じゃない。まったく、だらしないんだから。

「見せて!」

 私はカリルの腕を取ると、指先の傷に水筒の水をかけて汚れを洗い流した。水筒が空になると、汚れはすっかり落ちたようだった。

「ねえ、きれいなハンカチとか持ってない?」

「あ、うん。あるよ」

 カリルは反対の手でポケットをまさぐると、私に絹のハンカチを差し出してきた。

「‥‥‥ありがとう。これ、汚しちゃっても大丈夫かな?」

 生まれて初めて目にする高価そうなハンカチに内心たじろぎながら、カリルに尋ねる。

「うん、平気だよ。でも何に使うの?」

「こうするのよ」

 私は背負ってきた籠の中から、一番きれいな薬草を選んで、葉っぱの部分を口に入れる。

「ええっ?!食べちゃうの?」

 カリルは、びっくりして目を見開いている。私は「違うわよ」というように首を横に振る。そしてしばらく口の中で葉っぱを咀嚼して、しっかりとすりつぶした。それからハンカチの上に口を近づけて、その緑色のドロリとした液体になった薬草を、慎重にのせる。

「こうするのよ。少し、しみるから我慢して」

 傷口に、ハンカチの上の液体になった薬草をあてがう。

「‥‥‥‥いた~~い!」

「お願い、我慢して」

「うん‥‥‥‥わかった。ティアナがそう言うなら我慢する‥‥」

 カリルが大人しく我慢してくれている間に、私はハンカチがずれないようにしっかりと指に縛り付けた。

「ふう‥‥‥もう動いても大丈夫よ。この薬草は、こうして傷薬としても使えるの」

「じんじんする‥‥‥」

 カリルは、まだちょっと涙目だ。

「薬が効いている証拠よ」

「うん、わかった。我慢するよ」

「まったく。ちゃんと前を見て走らないから、転んじゃうのよ」

 ‥‥‥その時、なに気なく自分が発した言葉に何かが引っかかった‥‥‥ちゃんと前を見て走らないから転んじゃう‥‥このセリフを、前にどこかで聞いたことがあるような気がする。

いや、なんてことのない、ただのありきたりな言葉なのだけれど、でも何か、とても大切なものに繋がっているような気がするのだ。

こんなことを考えるのには何か理由があるはずだ‥‥‥いつ聞いたんだっけ?もうずいぶん昔のことのような‥‥‥。


(おとーさーーん!こっち、こっち。はーやーくーーー!!)

(おーーい!走るのは構わないが、ちゃんと前を見なさい!転んでしまうぞ!)

(二人とも、あんまり遠くに行かないでよーー!)


「‥‥ああっ‥‥‥‥!!!」

 突然大きな声をあげた私の顔を、カリルが不思議そうに覗き込む。でも私は彼に答えるどころではなかった。私の中で、きっかけが生まれるのを待ちわびていたかのように、次から次へと記憶が蘇ってくる。


(おとーさん、だいすき)

(お父さんもだよ。大切なティアナ)

(おかーさんも、だーいすき!)

(はい、はい‥‥二人とも愛していますよ)


「ティアナ‥‥‥‥どうしたの‥‥?」

 私は、押し寄せてくる過去の記憶に包まれて、返事ができなかった。もうずいぶんと長い間忘れてしまっていた、幸せだった日々の思い出が、途切れることなく溢れ出してくる。

 私はあらためて周囲を見渡した。

ここはあの日、お父さんとお母さんと一緒にやってきた草原なのだ。

いや‥‥‥それは始めから気がついていた。だけどもそのことに対して、何の感慨も湧かなかったのだ。とにかく日没までに仕事を終わらせて帰らなければと、それだけで頭がいっぱいだった。あんなに好きだった、お父さんとお母さんなのに‥‥‥最後に三人で一緒に出かけた大切な思い出の場所だったのに‥‥‥。

一体どういうことなのかと、自分で自分を問い詰めたくなるが、きっとつらい毎日を繰り返すうちに、心がすり減ってしまっていたのだと思う。少しずつ物事に感動する気持ちを失って、無感情になっていたのだ。このまま、もう何年かすれば、完全に心のない冷酷な人間になっていたかもしれない。いま私につらくあたっている先輩たちのように。

 でもその灰色だった世界は、ほんのわずかな時間で一変してしまった。あの日の思い出や、幼い頃の幸せな記憶の数々が、鮮やかさと瑞々しさを取り戻して、私の胸の中に溢れている。周囲をとりまく緑豊かな野山の美しさや、透き通った空の色や、やわらかな太陽の日差しが、たとえようもないほどに愛おしい。

その一つ一つに、父と母の私への愛情が宿っているように感じる。どこへ目を向けても、そこかしこに溢れている。私の胸を暖かく、そして熱く満たしてくれている。

切なくて、切なくて、たまらないのだけれど、いまこの瞬間が一番幸せだとも思えてしまうのだ。いろんな感情がごちゃまぜになって涙が溢れてくる。

「お父さん‥‥お母さん‥‥ありがとう‥‥‥」

 ふとカリルに目を向けると、不思議そうに、そして不安そうに、私を見つめていた。

「ティアナ‥‥大丈夫‥‥?」

「うん、大丈夫よ‥‥‥‥カリルありがとう‥‥‥カリルのおかげで、とっても大切なことを思い出せたわ‥‥」

 私は、カリルの背中に両腕をまわして、そっと抱きしめた。

「わっ、ティ‥‥ティアナ‥‥‥?」

「カリル‥‥ありがとう‥‥‥」

「え‥‥う、うん‥‥」

 カリルを抱いたまま、私は周りの野山に向かって、大きな声で叫ぶ。

「お父さ~~~ん!!お母さ~~~~~ん!!わたし、しあわせだよ~~~!!」

 カリルは不思議そうな顔をして私を見ているが、黙って抱かれたままでいてくれた。

「友達もできたの!カリルって言うのよ!とっても、いい子なの!」

 そう言って私はカリルを、いま私が語りかけていた野山からよく見えるようにと、正面を向かせた。すると何かを察したのか、カリルが大きな声で話し始めた。

「あ、あのっ!僕はカリルって言います!ティアナとは友達になったばかりだけど、大切にします!ティアナが悲しいときや、困っているときは、かならず僕が助けにいきます!」

「‥‥ぷっ、なにそれ‥‥」

 思わず笑いがこみ上げてしまった。

「え‥‥‥違ったかな‥‥?」

「ううん‥‥‥間違ってないわ‥‥‥ありがとう‥‥」

 多分というか、間違いなく何に向かって喋っているのか分かってはいないだろう。でも私は彼の言葉がとても嬉しかった。たとえそれが、この場限りの約束とも言えないものだとしても。

「カリル‥‥‥ありがとう‥‥‥‥好き‥‥‥」

 私はもう一度カリルを抱きしめた。

「ティアナ‥‥うん、僕もティアナのことが好きだよ。ティアナとずっと一緒にいたい」

 カリルも強く私を抱きしめ返してくれる。私達は固く結びつけられて、ひとつになった。

失ったものはあまりにも大きいけれど、私はこれまでのすべてが報われたように感じていた。

もちろん、それが一時のまやかしだということはわかっている。いつまでもこうしていられるはずはないのだ。カリルも私も、自分のいるべき場所に帰らなくてはならない。そのことを考えると暗い絶望に飲み込まれそうになる。

でも‥‥‥くじけたくはない。いまは‥‥いや、当分は無理かもしれないけれど、いつか必ずまた会いたい。その希望を胸に生きていけば、いつの日か本当にまた会えるはずだと、そう信じたいのだ。

と、そこまで考えたところで急に気がついた。私はカリルのことを何も知らないのだと。

いったい彼は何者で、どこでどんな暮らしをしているのだろう?こんなにも人懐っこいのは、ひょっとしたら普段は寂しい思いを抱えながら日々を送っているからなんじゃないだろうか?気になりだしたら止まらなくなってしまった。

「ねえカリル。聞いてもいいかしら?あなたの‥‥」

 と私がそこまで言いかけたときだった。

「おいっ!!そこにいるのは、ティアナじゃないのかっ?!!」

 突然、草原に場違いな大声が響き渡った。私は思わず反射的に身体をぎゅっと縮こめる。

「やっぱりティアナだ!たまたま近くに用事ができたから、ついでに様子を見に来てみれば、いったいお前は何をやってるんだい!!」

 大声の主は、私にいつも仕事を言いつける中年の下女だった。両目を見開き、ものすごい顔で私を睨みすえながら、足元に生える草花を蹴散らして、ずんずんと歩いてくる。

「あ、あの‥‥‥これは‥‥」

 なんというところを見つかってしまったのだろうか。私は震えながら固まっていることしかできなかった。

「まったく、私らが汗水たらして働いてるっていうのに、まさかこんな堂々とサボってるなんてねえっ?!薬草は集め終わったのかいっ?!」

 下女は大きな身体を乗り出して籠を覗き込んだ。

「あ‥‥いえ、まだ途中で‥‥」

「なんだい!なんだい!まだ全然足りないじゃないか?!!それなのに呑気にこちらのお坊ちゃまと逢い引きしてたってわけかい!ずいぶんいいご身分じゃないか!ええっ?!」

すると怒りに任せて怒鳴りつける下女の前に、カリルが立ちはだかった。

「ねえ待って!ティアナはなにも悪くないよ!僕が無理を言って引き止めてたんだ!それに薬草なら、これから僕も手伝ってちゃんとカゴいっぱいになるまで集めてみせるよ。だからティアナを怒らないで!」

 だけど下女はまったく怯む様子を見せなかった。冷たい目でカリルを見下ろして言う。

「すみませんねえ。どちらのお坊ちゃまかは存じませんが、私どもには私どものルールってものがあるんです。それを破ったものには、ちゃんと罰を与えないと、他のものに対して示しがつかないんですよ」

「そ、そんな‥‥‥ねえ!だから言ってるでしょ!ティアナはなにも悪くないんだってば!」

「残念ですけど、それを決めるのはあなたじゃないんですよ。これ以上言い合ってもラチがあきませんから、そこをどいて下さい。さあティアナ!覚悟はいいだろうね!」

 下女はカリルを強引に片手で押しのけると、近くに落ちていた木の枝を右手で拾い上げた。

それはたまたま手頃な場所に落ちていたから手に取ったのだろうけど、まだ子供の私を叩くための物としては、あまりにも太くて重そうな代物だった。しかもこの下女は叩くと決めたら決して容赦はしない性格で、相手が怪我しようがどうしようが、お構いなしに棒でもムチでも全力で振り下ろすのだ。

私はこれまで何度もその洗礼を浴びてきたけれど、今日という今日は大怪我を覚悟しなければならないと思った。そして震えながらいつも罰を受ける時にそうするように、地面に膝をついて背中を丸め、土下座のような体勢で両手で頭をしっかりと守った。

「さあ、いくよっ!そらっっっ!!!」

「駄目~~~~~!!」

 下女の振り下ろす木の枝が空気を震わせる音が、はっきりと聞こえた。だがそれが私の背中に喰い込む寸前に、押しのける下女の腕をかいくぐったのだろう、カリルが私の上に覆いかぶさった。そして‥‥‥。

バシイィッッッ!!!!

 木の枝が皮膚に叩きつけられる音が草原に響き渡った。

「ぎゃああああ~~~!!うあああああああああああああ~~~!!!」

 私の上でカリルの絶叫が聞こえた。

「カリルっっ??!!」

 私は大慌てで跳ね起きてカリルを見た。

「ああああああ~~~!!痛いっっ!!痛いよおお~~!!」

 叩かれた衝撃で地面の上に投げ出されて、そのまま身動きができないでいるようだった。

右肩を下にした半ばうつ伏せの状態で、苦悶の表情でうめき続けている。私はカリルの上になっている方の肩をつかみ、顔を近づけて叫んだ。

「ばかっっ!!なんてことしてるのよ!!」

「ううううう~~‥‥あっ、ティアナ?!‥‥‥‥ティアナは大丈夫だった?」

「ばか!いまそんなこと気にしてる場合じゃないでしょっ?!‥‥‥大丈夫!あなたのおかげで私は平気よ!」

 私がそう言うと、カリルは相変わらず苦しそうだったけれど、ほんの少しだけ笑顔になった。

「そ、そう‥‥‥よかった‥‥‥えへへ‥‥‥」

「ちっともよくないわよ!この、ばか!ばか!ばか!」

 さっきから馬鹿しか言ってない気がするが、それ以外にふさわしい言葉が見つからない。本当になんてことをしてくれたんだろうか。カリルを打ちすえてしまった中年の下女は、枝を手にしたままガクガクと震えながら、うわ言のように自己弁護を繰り返している。

「あ、あ、あたしのせいじゃないからね‥‥‥‥その子が自分から飛び込んできたんだ‥‥‥‥あたしのせいじゃ‥‥‥‥ああああああ‥‥‥!」

 それを無視してカリルに話しかける。

「カリル‥‥ごめんね‥‥傷をたしかめたいから背中をめくるよ‥‥‥痛かったら言ってね」

「はあ‥‥はあ‥‥はあ‥‥‥う、うん‥‥‥わかった‥‥‥いいよ‥‥‥」

 つらそうなカリルを苦しめないよう、私は慎重に服をまくりあげて、背中をあらわにした。

「‥‥ひっっ!‥‥‥」

 思わず声がもれてしまった。シミひとつない真っ白な背中に、打ち付けられた枝の跡が、真っ赤な斜めの線になって、はっきりと浮かび上がっていた。それどころか、皮膚が破けて血が流れ出してさえいる。きっと叩かれたところ全体が、ひどく腫れ上がってしまうだろう。

ああ‥‥なんてこと‥‥私のせいでこんなことに‥‥!

「そうだ‥‥手当をしなきゃ‥‥水‥‥‥はもうないけど‥‥‥あ‥‥薬草‥‥薬草‥‥」

 気が動転して正常な思考ができない。私はうわ言のようなつぶやきを繰り返しながら、薬草の入った籠に手を伸ばした。するとそのとき、遠くから複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。

「どうした?!何事だ?!!」

 遠くから馬上の人物が声をかけてくる。驚いたことに言葉遣いこそ男性のようだが、まだ若い女性の声だった。どうやら、さっきまでの騒ぎを聞きつけて、街道を外れて様子を見に来てくれたらしい。その声のおかげで私は正気に戻ることができた。こちらも大声で助けを呼ぶ。

「お願いします!助けてください!子供がひどい大怪我をしているんです!!」

「なに?!よしわかった!いますぐ行く。そこを動くな!」

「はい!ありがとうございます!」

 すごい勢いで三人の騎乗の人物が向かってくる。どうやら全員女性のようだが、素人目にもわかるほど見事な乗馬の腕前だった。あっという間にすぐ近くまでやってきて、ひらりと地上に降り立った。彼女たちの服装や馬の装具をみると、どうやら軍人のようだった。女性だけの騎士団があると聞いたことがあるけれど、ひょっとしたら彼女たちがそうなのかもしれない。ともかく地獄に仏とはこのことだ。

「そちらの子供だな‥‥‥たしかにひどい傷だ。すぐに手当をする必要があるな」

「は、はい‥‥お願いします!助けてください!」

 先刻から私と話していた女性が、かがみ込んでカリルの傷の様子を覗き込む。

「ああ‥‥本当に酷いな‥‥骨は折れていないようだが、すぐに傷口が熱を持ち出すだろう‥‥よし、消毒と傷薬の用意!」

「はっ!!」

 後ろに控えていた部下らしき女性が、素早く自分の馬から必要なものを下ろしはじめた。

 そんなやり取りを耳にしたのだろう。顔を地面に向けていたカリルが、うっすらと目を開けて、覗き込んでいた女性の顔を見上げた。

「あれ?‥‥‥‥ナタリアじゃないか‥‥‥どうして、ここにいるの?」

「なっ?!!‥‥カ、カリル様ではありませんか?!‥‥ああカリル様!!どうしてこのようなことに‥‥!!」

 驚いたことに女性とカリルは面識があるようだった。しかもずっと冷静さを保っていた彼女が慌てふためいているように見えた。

が‥‥しかしそれも一瞬のことだった。ナタリアと呼ばれた女性は、すっと表情を消すと、ゆっくりと視線を上げて、まだ枝を持ったまま震えていた下女を見据えた。視線で人を殺せそうなほどの恐ろしい目つきだ。

「‥‥貴様か‥‥‥!!!」

「ひ、ひえええええ~~~~~!!違っ、違っ、違っ、違うんです!違うんです~~~!!!」

「誰に向かって手を上げたのか、わかっているのか!!!」

 とても女性のものとは思えない、迫力のある怒声が響き渡った。

「いやっ!そのっ!あのっ!ひえっ、ひええええ~~~~~!!!」

 もはや言葉になっていない。下女は恐怖のあまり腰が抜けたようだった。のけぞりながら座り込み、半分白目になって、アワアワと口を動かし続けている。

 その間に、部下の女性が消毒の準備ができたことを告げた。

「うむ‥‥‥カリル様‥‥いまから傷口を消毒いたします。きっと、とても痛いと思いますが耐えて頂かなくてはなりません」

「う、うん‥‥大丈夫‥‥‥ナタリアは知らないだろうけど、僕はもう昨日までの僕じゃないんだ‥‥とっても痛みに強くなったんだよ‥‥だから大丈夫‥‥どんとこいだよ‥‥」

 こんな状況なのにカリルは強がってみせる。

「わかりました‥‥では始めます」

「う、うん‥‥!」

 ナタリアと呼ばれた女性は、私を振り返って言った。

「カリル様の手を握っていてくれないか?」

「は、はい‥‥‥!」

 私は急いで、うつ伏せになっているカリルの右手を、両手でしっかりと握りしめた。

「もっと、強くだ!」

「はい!!」

「ではカリル様いきますよ!しっかりと歯を食いしばっていてください!」

「うん‥‥‥!!」

 そして彼女は、カリルの背中の傷に、霧吹きを使って消毒薬を吹き付けた。

プシュウウーーー!

「いぎいっっ?!!‥‥‥ふぐっ!ぐぎいっ!!いぎいいいいいいい!!」

 食いしばった歯の間から大きな声が漏れて、カリルの身体が大きく跳ねる。ナタリアと呼ばれた女性が、霧吹きを持っていない方の腕で、暴れないように押さえつけていた。腰から下は部下の女性が押さえてくれている。私の握った右手にも強い力がかかり、それに負けないくらいに私も強く握り返した。 

「いぎいっ!ふぎっ!うぎいいっ!‥‥‥‥ぐふう‥‥ふう‥‥ふう‥‥」

「まだまだ、いきますよ!カリル様!」

「う、うんっ‥‥!!」

プシュウウーーー!

「いぎいいいいいいい~~~~!!!」


「はあっ、はあっ、はあっ‥‥‥」

 カリルは苦しそうに目をつぶったまま、肩で息をしている。いま、ようやく包帯が巻かれ、応急処置が終わったところだ。

「カリル様、よくご辛抱なさいました。では城へ戻りましょう。わたくしがお運びいたします」

 ナタリアと呼ばれた女性が、眠りかけているカリルをそっと抱え上げた。私はカリルが手当てを受けている間、ずっと握り続けていた手を離して、彼女に問いかけた。

「あ、あのっ!カリルは、カリルは大丈夫なんですよね?!」

 彼女が私の眼を見つめる。私の心の内側まで覗き込むような視線だった。

「‥‥お前は、カリル様が何者なのかは知らないのだな」

「は、はい‥‥私がここで薬草を集めていると、彼の方から話しかけてきたんです‥‥会ったのは今日が初めてです」

「そうか」

「そ、それで‥‥そこにいる先輩の下女に見つかって、なにサボってるんだって怒られて‥‥‥カリルは私をかばおうとして、それでこんなことに‥‥ご、ごめんなさい!!」

「なるほど‥‥そういうことだったのか」

 ナタリアと呼ばれた女性は、腕の中で眠るカリルを見つめて語りかけた。

「こんな無茶はもう二度としないで頂きたいが‥‥しかし臣下として頼もしく、そして誇らしく思います‥‥カリル様こそは、この国の将来に必要なお方です。カリル様の知恵と勇気を、そして他人を思いやる優しさを、いつか皆が知るときが来ます。カリル様をいま侮っている者どもはそのとき自分たちの不明を思い知り、深く深く恥じ入ることになるでしょう」

 そして私に向かって言う。

「カリル様なら大丈夫だ。傷跡は残ってしまうだろうが命に別状はない。あらためて城の医者に診てもらって安静になさっていれば回復されるだろう」

「そ、そうですか‥‥‥‥よかった‥‥よかった‥‥」

 そこへ彼女の部下が、馬の手綱を引いて近づいてきた。

「よし、では城へ戻るぞ!その少女に罪はない。だが、そちらの女は連行しろ」

「はっ!!」

「いやあ~~!お助け下さい!お助けを~~~~~!!」

 下女は必死に懇願しているが、部下たちはまったく容赦してくれない。あっという間に縛り上げて、まるで荷物のように馬の背に乗せてしまった。その間にナタリアと呼ばれた女性は、カリルをマントでくるみ、大切そうに抱えたまま自分の馬に乗せようとしていた。

私は別れの時が来たことを知って胸がつまった。多分どころか、確実に私とカリルでは住む世界が違う。こうして出会えたのは最初で最後で、もしかしたら、もう二度と会うことはできないかもしれないのだ。

こんなにも短い時間で、こんなにも誰かを大切に思うことがあるなんて思いもしなかった。カリルにどれほど大事なものをもらったのか、ちゃんと本人に伝えたいのに、それも叶わない。きちんとお別れを言うことさえできずに、ただ眠っているカリルの横顔を見つめることしかできないのだ。

「ん‥‥ナタリア‥‥‥ティアナは、ティアナはどこ‥‥?」

 そのときカリルが薄目を開けて私の名を呼んだ。そんなことをするべきじゃないのはわかっていたけれど、私は思わずカリルに駆け寄った。ナタリアと呼ばれた女性は、黙って見守ってくれていた。

「カリル。私はここにいるわ」

「ティアナ‥‥よかった‥‥‥いなくなったんじゃないかって、心配してたんだ」

「そんなことしないわよ‥‥」

「僕の大切な人は、みんないなくなっちゃうんだ‥‥‥お願い‥‥ティアナは、いなくならないで‥‥」

 そのカリルの言葉に、私は胸が締めつけられそうになる。彼の身に何が起きているのかは、もちろん私にはわからないが、だが身分こそ違っても、彼にだってつらかったり寂しかったりすることはあるはずなのだ。

「いなくなったりしないわ‥‥もしも‥‥もしも、しばらくの間、会えなくなったとしても、いつか必ず会いに行く‥‥‥約束するわ‥‥」

「え?‥‥そんな‥‥‥どうして?‥‥いつかって、いつ?‥‥僕、傷が治ったらまたここにくるよ。そしたら今度こそ二人でいっぱい遊ぼう、ねっ」

「ううん‥‥‥もうここには来ないほうがいいわ‥‥‥私だって、いつもここにいるわけじゃないもの」

「ねえっ!‥‥‥なんで?‥‥なんでそんなこと言うの?‥‥‥ティアナは僕のことが嫌いになったの?」

「そんなわけないじゃない‥‥‥嫌いになんかならないわ‥‥‥好きよ、カリル」

「僕も好きだよ!ティアナのことが大好き!だからお願いだよ!ずっとそばにいて欲しいんだ!」

「いつか会いに行くわ‥‥‥ひょっとしたら、私たちが大人になってからかもしれないけれど‥‥‥でも、必ず‥‥必ず会いに行くから‥‥」

「それじゃ駄目なんだよ!ねえっ!ティアナ!」

「カリル様、お身体に障ります。もう参りましょう」

 そのときナタリアと呼ばれた女性が会話を遮り、部下の手を借りてカリルを馬上に引き上げた。

「ねえっ!待って、ナタリア!まだ話は終わってないんだよ!」

「いまは一刻も早く医者に診てもらわなければなりません。なるべく揺れないようにいたしますがご辛抱ください」

「そんなことは、どうでもいいんだよ!僕はティアナと‥‥」

「参ります!はあっ!」

 ナタリアと呼ばれた女性が、強引に馬を返して街道へ向かって進み始めた。けが人のカリルを乗せているので、来たときより、ずっとゆっくりな動きだ。

「ティアナ~~~~~!!」

 陰になってもう姿は見えないが、カリルが私を呼ぶ声が聞こえた。

それでも一行は止まらない。どんどん遠ざかっていく。

「カリル~~~~!!またね!またね~~~~!!」

 遠ざかる彼に届くようにと、私も大きな声で叫ぶ。叫びながら涙が私の頬を伝わっていく。昨日までは涙の出し方なんて忘れてしまったと思っていたのに、いまは溢れ出て止まらない。 涙で滲む一行の姿がゆっくりと遠ざかっていき、そしてついに見えなくなった。

 残された私は、しばらくの間、草原に吹く風に身を任せていた。

「お父さん、お母さん‥‥‥‥カリルが‥‥‥カリルが行っちゃったよ‥‥‥‥」

泣いている私を、草原が包んでくれているような気がした。やわらかな風が吹いて、木々が優しく揺れている。私を慰め、そして勇気づけてくれているようだった。

「ううん‥‥そうじゃないよね。きっと、そうじゃない‥‥私はカリルに会いたい。もう一度会いたい‥‥‥そう思い続けている限り‥‥‥この気持がなくならない限り、なにも終わってなんかいないんだ」

 お父さんとお母さんが、カリルに会わせてくれたのだと私は信じた。

そしてカリルに生きる力をもらったのだ。

「お父さんお母さん、ありがとう‥‥‥私もう大丈夫だよ‥‥きっとこれからも、つらいことが一杯あるだろうけど、もう大丈夫‥‥‥私、一生懸命生きていくから‥‥負けないで生きていくから‥‥だからこれからも、ちゃんと見ていてね」

 そして私はもう一度、薬草探しを再開した。カリルに教えられた通りに探していると、なんだか、まだ二人で一緒に探しているような気持ちになれた。

そうして薬草を籠いっぱいに集めて、私はお城への帰路についた。


 連れて行かれた下女は、翌日になってから解放されて帰ってきた。何があったのかは本人が決して話さなかったけれど、きっとものすごく恐ろしい目にあったのだろう。人が変わったように大人しくなっていて、そのうえ私に対しては怯えたような態度さえ見せるようになった。その影響で他の先輩たちも、私にあまりきつく当たらなくなってくれたので、ずいぶんと過ごしやすくはなった。もっとも、忙しい毎日なのは相変わらずだったけれど。


   ◇   ◇


 ‥‥‥ティアナはベッドの中で目を覚ました。部屋は暗く、隅に小さな明かりが灯っているだけだった。ふと横に眼をやると、ベッドの横に置かれたソファーの上でカリルが寝息をたてている。ノエルが運んでくれたのだろうか?

ずいぶんと長い夢を見ていた気もするが、具合が良くないせいか、時間の感覚がわからなくなっていた。倒れる前よりは回復している気もするが、本調子にはまだ程遠いようだ。

私は半身を起こして腕を伸ばし、王子のずれた毛布を肩にかけ直した。そのまま、こちらを向いている王子の寝顔を見つめる。

 あの日の出会いの記憶は、いまでも私の大切な宝物だ。あれから長い月日がたったが、いまこうして私はカリルと毎日を共に過ごすことができている。この幸せを、私は日々密かに噛み締めていた。

ただし‥‥‥あの日のことをカリルが完全に忘れてしまっていることに対しては、もちろん思うところがないわけじゃないけれど‥‥。

「‥‥どうして、なにも覚えていないの‥‥?私との出会いなんか、カリルにとっては、いちいち覚えているほどのことじゃなかったっていうの‥‥?」

彼の背中には、いまもあの日の傷跡がはっきりと残っている。一度だけ勇気を出して聞いてみたことがあったが、やはり覚えていないということだった。

「小さい頃できたんだけど、その頃のことって、よく覚えてないんだよね」と。

たぶん嘘はついていないと思う。不器用な人だから、嘘はすぐにわかる。

私は少し寂しく思いながら、手を伸ばしてカリルの髪をそっとなでた。するとその口から、小さなつぶやきがもれる。

「‥‥‥ティアナ‥‥‥お願い、いなくならないで‥‥」

 私は、はっとして手を引っ込めそうになった。いまのは寝言‥‥‥だったのだろうか?

まるで、さっきの夢に出てきたのと同じセリフみたいだ。

私の夢の続きをカリルが見ているかのようだが、そんなことがあるはずがない。

‥‥‥‥いや、本当にそうだろうか‥‥?

一度はありえないと思ったその想像について、私はもう一度考えを巡らせてみる。

もしかしたらだが、さっきまで私は夢を見ながら、寝言を言い続けていたんじゃないだろうか?そして、それにつられてカリルも同じ場面を夢に見たという可能性もあるのでは‥‥?

仮に、もしもそうだとしたら、普段は思い出せないだけで、カリルの中にもあの日の記憶がちゃんと残っているのではないだろうか?

 私は暗い寝室の中で、急に落ち着かない気持ちになった。いますぐカリルを揺り起こして、夢の内容を問いただしたくなる。だけど、せっかくあの日のことを思い出してくれているのなら、このままそっとしておきたい。

「ティアナ‥‥‥お願い‥‥‥ティアナ‥‥‥」

 もう一度カリルが、か細い声でつぶやく。私は思わずカリルの上に覆いかぶさるようにして囁きかけた。

「ここよカリル。私はここにいるわ。もうどこにも行かない。ずっとここにいるわ」

 するとカリルは安心したように、ほう、と息を吐き、やわらかな笑みを浮かべて、またゆっくりと寝息をたてはじめた。そのまま幸せな夢を見続けてほしいと願いながら、私はカリルの上半身をそっと抱き、その寝顔を間近で見つめた。

あらためて見直しても、年相応とはとても言えない幼すぎる寝顔だ。控えめに言ってもカッコいいとか、男らしいとかいう表現からはほど遠い人だと思う。

びっくりするくらいに臆病で、手に負えないくらいの怠け者で、そして、いくつになっても泣き虫で‥‥‥でも時々少し勇敢で、とっても優しい私の大切な王子様‥‥‥。

「好きよ、カリル‥‥‥」

 そう言って、そのままカリルの寝顔に顔を近づけ、そっと唇を重ねようとして‥‥‥‥‥‥‥‥すんでのところで我に返った。

あぶない‥‥‥いったい自分はなにをしようとしていたのか。いくら子供の頃を思い返して感情が昂ぶっていたとしても、越えてはいけない一線というものがあるだろう。だいたい自分は体調不良で寝かされていた身じゃないか。喉が痛いし、たぶん風邪だ。

こんな‥‥こんな状態で、そんな不謹慎なマネをしてしまったら‥‥‥‥‥風邪を感染してしまうかもしれないじゃないか!

せめてあと少し、そのことに気づかなければ良かったのにと、実はほんのちょっとだけ思ったのだけれど、もう選択の余地はなかった。私のせいでカリルを病気にしてしまうなんて絶対に嫌だ。名残惜しさを振り切ってカリルの髪から手を離して、自分のベッドへ戻る。

やはりいまの自分は普通ではない。体調が悪いのに考え事をしすぎたせいか、頭がぐるぐると回転しているような錯覚を覚える。ちゃんと眠って朝までに治しておかなければ。これ以上迷惑はかけられない。

私は最後にもう一度、カリルの寝顔に眼を向けて言った。

「もう、どこにも行ったりしないわ。ずっとずっと側にいる。約束するわ、カリル」

 そしてカリルと繋がっていると、私が勝手に信じている心の糸が途切れないようにと願いながら、私は眼を閉じ、そしてまた眠りについた。


 だが、このときの私は、例によってまた完全に失念してしまっていたのだ。すなわち、このエリアでの出来事は、まず間違いなくノエルの監視下にあるのだということを。


翌日、なんとか勤務に復帰した私に、ノエルがなに気ないふうを装って言う。

「王子に風邪が感染らなくて、なによりでした」

「ブフォッッ?!!」

不意をつかれて、私は、盛大に肺の中の空気を吹き出す。

「そんなことになっていたら、わたしの責任問題になるところでしたからね。いや、よかったよかった」

「な、な、な、な、な?!!」

「おや?ティアナ、顔が赤いようですね。まだ休んでいた方がいいのでは?」

「大丈夫です!!」

 急に声を荒げた私に、王子がおそるおそる聞いてくる。

「ティ、ティアナ、なにか怒ってない?」

「怒っていません!」

「う、うわあああん」

「よしよし、怖かったですね。もう大丈夫ですよ」

 ノエルが、とばっちりを受けて涙目になっている王子を珍しく慰めている。私に対するなんらかの意趣返しであるのは、もはや明らかだ。

「ノ、ノエル‥‥!昨夜のことは、私も、うかつだったと反省しているのです。どうか、もうこれくらいで勘弁してもらうわけにはいかないでしょうか?」

「おや?昨夜のことと言いますと?」

「うがあああああ~~~~~!!」

 我慢の限界を越えて、私は両手を振り上げて叫び声をあげる。

「王子!!」

「は、はいっ!!」

「お仕事をしましょう!!」

 私は、おののいて逃げ出しかけていた王子の首根っこを、むんずと捕まえて言う。もはや、この怒りやら何やらの感情は、王子に受け止めてもらう以外の選択肢はないと思った。

「え?いや、でも今日はそんなに急いで頑張らなくても‥‥‥」

「なにを言っているんですか!!まだ書類は山ほど残っているでしょう?!」

「は、はいっ!!」

 私の剣幕におびえて、慌てて執務席に向かう。

「ティアナ、何か手伝いましょうか?」

「いいえ、けっこうです!!」

 とぼけて聞いてくるノエルに、私はきっぱりと言う。

「さあ王子、時は金なりです。さっさと始めましょう!」

 私は、もうすでに冷や汗を流し始めている王子の横顔を、いつも以上に厳しく睨みつける。

 ほんの少しだけ可哀想だと思ったが、でも仕事を溜め込んだのは自分だからなと、あえて無視することにした。いい機会なので一気に書類の溜まり具合を解消してもらおう。

「うう、こ、怖いよう‥‥」

王子が哀れっぽく呟くが、誰も助けてなどくれない。

こうして私達の騒がしくも忙しい一日が、また始まったのである。 (終わり)

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