第2話 午後三時の訪問者(水曜日)
玄関のチャイムが鳴った時、麻衣子はもう三回、鏡を確認していた。
自分でも呆れる。ただの保険の話だ。
「先週はありがとうございました」と田中は言って、また丁寧に靴を脱いだ。
リビングに通すと、今日は麻衣子も先にお茶を用意していた。それだけのことで、なぜか少し対等になれた気がした。
書類の説明は先週より短かった。田中の方が、どこか説明に身が入っていない。
「旦那さんには、話されましたか」
「……一応」
「一応」と田中は繰り返した。笑っていないのに、笑っているような声だった。「あまり聞いてもらえませんでしたか」
麻衣子は苦笑した。「忙しそうだったので」
田中はお茶を一口飲んでから、ふと言った。
「平日の昼間、ずっとここにいるんですか」
「そうなりますね」
「長いですね、一日」
責めているわけでも、同情しているわけでもなかった。ただ、事実として言っている。それが変に、麻衣子の胸に刺さった。
「慣れましたよ」と麻衣子は言った。「話しかけてくる人もいますし」
「誰に」
「ひなのママ、って」麻衣子は少し笑った。「公園で、スーパーで。みんなそう呼ぶんです」
「麻衣子さんのことを」
「そう。私には名前があるんですけどね」
言ってから、少し言いすぎたかと思った。でも田中は表情を変えなかった。
「旦那さんは」
「……ねぇ、とか、ちょっと、とか」麻衣子は苦く笑った。「あとはまぁ、ママ、ですかね」
「ご主人のお母さんじゃないのに」
麻衣子は顔を上げた。
田中は静かにこちらを見ていた。怒っているわけでも、哀れんでいるわけでもない。ただ、当たり前のことを言っている顔で。
「……そうなんですよ」
声が、少し掠れた。
誰かに言ったのは、初めてだった。夫のママじゃない、なんて。当たり前すぎて、言える相手もいなかった。
田中はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「麻衣子さん」
ただ、それだけ。
名前を呼ぶ理由も、その後に続く言葉も、何もなかった。ただ呼んだ。
麻衣子は俯いたまま、小さく「はい」と答えた。
それが精一杯だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます