午後3時の訪問者

美月

第1話 午後三時の訪問者


 インターホンが鳴ったのは、ちょうど洗い物を終えた頃だった。

「ライフサービスの田中と申します。先日ご連絡差し上げた件で——」

 モニター越しに映るのは、スーツ姿の男。三十代前半だろうか。整った顔立ちに、少し疲れたような目をしている。

 麻衣子は前髪を直してから、ドアを開けた。

「どうぞ、上がってください」

「失礼します」

 革靴を脱ぐ仕草が妙に丁寧で、麻衣子は何となく目が離せなかった。

 リビングに通すと、男——田中は書類をテーブルに広げながら、淀みなく話し始めた。保障の内容、掛け金の目安、万が一の場合の手続き。よどみない説明に、麻衣子は半分上の空で相槌を打っていた。

 夫は今日も出張だ。子供は学校。午後三時のこの家には、自分とこの男しかいない。

「——奥さん、聞いてますか?」

 不意に田中が顔を上げ、麻衣子と目が合った。

「あ、ごめんなさい。聞いてました、ちゃんと」

「そうですか」

 田中は薄く笑った。嘘を見透かしたような笑い方だった。

「お茶、淹れましょうか」と麻衣子は立ち上がろうとしたが、田中が「いえ」と静かに制した。

「もう少しだけ、このままで」

 このままで。

 その言葉の意味を、麻衣子はうまく整理できなかった。書類の話をするにしては、声が低すぎた。

 田中は視線を書類に戻した。でも何かが、さっきと変わっていた。空気の質量が、少し重くなったような気がした。

「旦那さんは、今日は?」

「……出張です」

「そうですか」

 また、あの薄い笑みが浮かんだ。

 麻衣子は自分の心臓が、少しだけ速く打っているのに気がついた。怖いわけじゃない。ただ——この人は、何かを知っている顔をしている。

「この保障、ご主人と相談してから決めますか。それとも——」

 田中はペンを置いて、麻衣子をまっすぐ見た。

「今日、決めますか」

 麻衣子は少し間を置いてから、「相談してから……」と答えた。

 田中は何も言わずに書類を揃え始めた。拒否されたことへの落胆でも、営業の焦りでもない、ただ静かな所作。それがなぜか、麻衣子には少し寂しかった。

「では、次回また——」

「あの」

 気がついたら、声が出ていた。

「なんでしょう」

「さっき……麻衣子さん、って言いましたよね」

 田中の手が、止まった。

「言いましたよ。書類にそう書いてありましたから」

「そうですよね」麻衣子は小さく笑った。「なんでもないです」

「気になりましたか」

 田中の声に、さっきとは違う質感があった。責めているわけでも、からかっているわけでもない。ただ、確かめるような。

「……久しぶりに聞いたなと思って」

「名前を?」

 麻衣子は頷いた。変なことを言ってしまった、と少し恥ずかしくなる。でも田中は笑わなかった。

「普段は何て呼ばれてるんですか」

「ひなのママ、か……桐島さんの奥さんか、どっちかですね、だいたい」

 口にしてみると、思ったより苦かった。田中はしばらく黙っていた。

「それは」と、彼はゆっくり言った。「少し、もったいないですね」

 麻衣子は顔を上げた。

 田中はもう書類を片付ける手を止めて、ただまっすぐこちらを見ていた。値踏みではない。品定めでもない。ただ——見ている。麻衣子という人間を、ちゃんと見ている。

 それがひどく、久しぶりのことだった。

「田中さんは」と麻衣子は自分でも驚くくらい静かな声で言った。「お仕事でお客さんの名前、全部覚えるんですか」

「全部は無理ですね」

「じゃあ、なんで」

 田中は少し考えるように目を細めた。

「玄関で会った時に、覚えようと思ったので」

 それだけだった。説明も、言い訳も、媚びもなかった。

 麻衣子の胸の奥で、何かが静かに、ほんの少しだけ、傾いた。

 田中は立ち上がりながら言った。「また来週、改めてご説明に伺ってもいいですか」

「……はい」

「麻衣子さん、都合のいい日はありますか」

 もう一度、名前。

「水曜日なら」と麻衣子は答えた。「だいたい、いますから」

 田中は頷いて、玄関へ向かった。革靴を履く仕草は、来た時と同じように丁寧だった。

 ドアが閉まって、麻衣子はしばらく動けなかった。

 何も起きていない。ただ保険の話をして、次の約束をしただけだ。

 なのに、午後のリビングが、さっきより少しだけ、明るく見えた。

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