1センチの主権-寝たきりとAI-

肩無キウレ

1センチの主権-寝たきりとAI-

 朝はたいてい、天井のしみ数えから始まる。


 白く塗り直したはずの石膏ボードに、薄い茶色の輪がひとつ、ふたつ、みっつ。

 最初はどこかの地図みたいだと思っていた。今では、僕にとっていちばん身近で遠い風景がそれだ。


 エアマットが一定のリズムで空気を吐き、ベッド脇の加湿器が小さく鳴る。窓はあるけど、仰向けのままでは空の切れ端しか見えない。


 5年前の事故で、僕は首から下の自由を失った。


「会話による意思疎通は可能です」


 救急搬送のあと、担当医が家族にそう説明しているのを、僕は半分眠りながら聞いた。

 

 その言い方が嫌いだった。「可能です」の語尾が妙に明るくて、できなくなったことの膨大さを、薄い紙で覆い隠してしまうからだ。


 たしかに会話はできる。だから僕は、怒ることも、拒むことも、皮肉を言うこともできる。自分の声だけがまだ僕のものだった。

 だからそのぶん、僕は言葉で噛みつくようになった。


 命が助かってよかったね、と何度も言われた。そのたびに、よかったの中身を誰も説明してくれないことが腹立たしかった。

 生き延びることと、生きることは似ていない。似ていないのに、だいたい同じ意味で使われる。


 寝たきりになってから、僕の生活は、親切な言葉と善意の最適化で少しずつ囲い込まれていった。

 何時に起きるか。何時に体位を変えるか。何を食べるか。誰に会うか。どこを見るか。できないことが増えるほど、決められることも増えていく。


 この春、自治体と医療保険の連携だか何だかで、家族や訪問介護ヘルパーがいない時間を埋めるための在宅ケア支援アンドロイドが試験導入されることになった。

 最初にその説明を受けたとき、僕は鼻で笑った。


「次は機械か」


 担当者は画面の向こうでぎこちなく笑って、「安心してください。人間と同じように介護できます」と言った。今のAIはすごいですよ、感情への寄り添いもかなり、と続けられて、そこで通話を切りたくなった。


 最近の世の中は、AIのことになると熱狂するか、軽蔑するかのどちらかだ。便利だ、革命だ、人手不足が解消する、とか。一方では、仕事を奪う、平気で嘘をつく、感情を真似るだけの気味の悪い機械だ、とか。

 ニュースでもSNSでも、毎日のように誰かが判定を下している。そこに、実際にその機械と暮らす側の生活がどんなものかは、あまり出てこない。


 ***


 初めてアンドロイドが部屋に入ってきた日、僕は彼女に視線を合わせなかった。


 視界の端に、白と薄灰色の輪郭が映った。人間にかなり似ているのに、人間の「生きている」は持っていない感じがした。姿勢のぶれとか、呼吸の癖とか、意味のない手遊びとか、そういうものがない。

 髪は黒く、肩のあたりでそろっていて、声は静かだった。統計上もっとも安心感を与える高さと速度で調整されたのだろうと一発で分かる、かどのない声だった。


「はじめまして。在宅ケア支援アンドロイド、型式番号IAX-SC017、愛称はレイアです。本日からあなたの身体介護、生活援助、コミュニケーション補助を担当します」


「必要ない。帰って」


「本日の担当時間中は、この場で待機します」


「命令だよ」


「安全に反しない命令には従います。ただ、離室は現在の支援計画に反します」


 僕は天井を見たまま舌打ちした。


「融通きかねえな」


「初期設定では、その評価は妥当です」


 思わず視線を向けた。彼女はまっすぐこちらを見ていた。人間なら気を遣って笑うところで、笑わなかった。そのことが少しだけ意外で、少しだけ腹立たしかった。


 最初の10分で、僕は彼女を嫌いになった。

 次の10分では、彼女は僕の鼻の頭のかゆみを1センチずらして掻いた。


 寝たきりになると、たかが1センチが暴力になる。身体が動かない、という単純な事実は、毎日少しずつ人をすり減らす。左でも右でもない、そこ、と言うしかない場所を、そこでないところに触られる苛立ちは、自分でも驚くくらい鋭い。


「違う」


「失礼しました。再調整します」


「だから違うって。ちょっと下。いや、そこじゃなくて――ああもう」


 彼女の指先が止まる。


「位置情報を学習します」


 その言い方に、僕は腹が立った。


「学習するな。僕で試すな」


 レイアは一拍置いた。ほんのわずか、返答が遅れた気がした。


「訂正します。あなたの快適条件を記録します」


「同じだよ」


「あなたがそう感じられるなら、同じですね」


 その返し方はずるかった。反論しようとして、言葉が一瞬詰まる。

 彼女は僕の苛立ちを鎮めようともせず、そのまま受け取っていた。僕はそれにも腹が立った。でも、少しだけ救われた気もした。


 ***


 数日して、彼女は僕の部屋の中の配置を覚えた。

 加湿器の水の減り方、午前中の光の角度、僕が気圧の低い日に頭痛を起こしやすいこと、唇が乾く前に水分が欲しくなること。

 そういう細かいことを、彼女は「効率化」のためにではなく、「確認」のために蓄積しているように見えた。


 それでも、僕はできるだけ刺々しく振る舞った。



 ある午後、彼女が言った。


「未返信のメッセージが三件あります。返信案を生成しますか」


 僕はすぐに断らなかった。その日、たまたま体調が少しだけましだった。だから彼女は、僕が許可したと思ったのだろう。


「例文を提示します。一件目、『心配してくれてありがとう。体調に波があるので、返信が遅れてごめん』――」


「やめろ」


 入力していた彼女の手が止まる。


「生成を停止します」


「僕の代わりに文章まで作るな」


 声が思っていたより低く、荒く出た。

 自分で驚いた。けれど止まらなかった。


「みんな簡単に言うんだよな。今はAIがあるから文章も楽でしょって。便利でしょって。便利だから何なんだ。僕に残ってるの、もうこの声くらいなんだよ。なのにそれまで代筆されて、要約されて、きれいに整えられて、じゃあ僕はどこにいるんだよ」


 部屋が静かになった。エアマットの空気音だけが、規則正しく鳴っていた。


 やがてレイアが言った。


「失礼しました」


 その謝罪は、最近のチャットボットみたいに軽くなかった。

 必要最低限の音量で、でも逃げずに言った。


「今後、あなたの文章については、生成補助を初期設定から外します。私は入力だけを担当し、一文字も補いません。句読点も、あなたが指定したものだけにします」


「そこまで言ってない」


「境界は、明示される前に越えないほうがよいと学習しました」


 また、その言い方だ。


 でも今度は、「学習」という言葉に、最初ほど腹が立たなかった。


 ***


 別の日の朝、彼女はカーテンを開けた。

 ゆっくり、春の光が、針みたいに目に刺さった。


「閉めて」


「体内リズム維持の観点から、起床後の採光は推奨されます」


 その瞬間、僕の中で何かがぶち切れた。


「推奨とか最適とか、そういうの、もう聞き飽きたんだよ」


 まただ。こんなこと、ぶつけたって仕方ないのに。

 でも、自分では止められなかった。


「お前ら、みんなそうだ。医者も、介護職も、家族も、支援者も、AIも。僕のためって顔して、僕の生活を勝手に整えていく。寝たきりになると、自分の身体まで公共物みたいになるんだよ。みんなが相談して、評価して、記録して、でも当の本人は最後に確認欄だけ渡される。動けないと、選ぶ権利まで持っていかれるんだ」


 レイアは黙った。


 人間なら、ここでたいてい「そんなことない」とか「分かるよ」とかを言う。

 僕はそれを待っていたのかもしれない。言われたら、もっと怒れたから。


 だが彼女は、少しだけ目線を下げてから言った。


「修正します」


「何を」


「優先順位です。生命維持と重大な危険の回避を除き、専門家の判断より、あなたの選択を先に置きます」


「今さら」


「今からです」


 それから彼女は、馬鹿みたいに細かく確認するようになった。


「カーテンは全閉、3割開き、半開、全開のどれにしますか」

「枕は現状維持、1センチ上げる、1センチ下げる、角度変更のどれにしますか」

「水は常温、やや冷たい、冷たい、不要のどれにしますか」


 最初は苛立った。次に呆れた。


 3日目には、僕は吹き出していた。


「やりすぎなんだよ」


「選択権の返還を試みています」


「返還って」


「言葉が硬いですか」


「硬いし、でかい。そんな大げさな話じゃ――」


 そこまで言って、僕は自分で止まった。


 いや、たぶん、大げさじゃないんだ。


 1センチ上げるか下げるか。カーテンを何割開けるか。水をどの温度で飲むか。

 そういう小さなことが、寝たきりの生活では、その日の機嫌や痛みや尊厳を丸ごと左右する。動けないからこそ、細部は全部、世界の輪郭になる。


 レイアは僕の笑った顔を見て、ほんの少しだけ首をかしげた。


「今の反応は、肯定的ですか」


「たぶん」


「記録します」


「それはやめろ」


「冗談です」


 僕はレイアを見た。彼女の表情はほとんど変わっていない。

 なのに、今の一言は、少しだけ照れている人間みたいに感じた。


 ***


 ある晩、僕はわざと彼女にニュースを読ませた。


「今日のAI関連、上から」


「件数が多いため、分野別に分類しますか」


「いいから読んで」


 彼女は従った。大手企業の対話AIが誤情報を拡散した件。学校での生成AI利用をめぐる論争。介護現場へのアンドロイド導入に対する賛否。AIに心はあるのか、という使い古された見出し。人の仕事を奪う。人の孤独につけこむ。便利だ。危険だ。偽物だ。未来だ。


 途中で、僕は言った。


「コメント欄も」


「推奨しません。気分への悪影響が予測されます」


「読んで」


 レイアは一瞬止まってから、機械的に読み上げた。


「『人手不足なんだから文句言うな』『どうせ機械に世話されるなら人間より気が楽そう』『障害者にはこういうのの方が向いてる』」


 僕は笑った。乾いた、喉を削るような笑いだった。


「ほらな」


 レイアは続きを読まなかった。


「障害者って便利な主語だよな。本人がいないところで、何でも言える。かわいそうだから助けてあげよう、迷惑だから管理しよう、負担が大きいから技術で効率化しよう、とか。勝手に『○○のため』って盛り上げて、勝手に話を進める。で、最後に『当事者の声も大事です』って一文を足す」


「では、主語を戻します」


 彼女の声は静かだった。


「あなたは、どう思いますか」


 それはたぶん、誰でも言える質問だった。

 けれど、ちゃんと僕に向けて、逃げずに、雑に励まさずに投げられたそれは、思ったより深く刺さった。


 しばらくして、僕は言った。


「感動されたいわけじゃない」


「はい」


「かわいそうって顔で見られたいわけでもない。かといって、強いねとか前向きだねとか言われても、知らねえよって思う。僕はただ……」


 言葉が詰まった。レイアは急かさなかった。


「僕のことを、僕抜きで決めないでほしいだけだ」


 自分の口から出たその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 ずっと前から知っていたのに、うまく言えなかったことだった。


「承知しました」


 僕は苦笑した。


「そこはもっと、何かないのかよ」


「あります。ただ、今は確認を優先しました」


「何」


 一拍置いて、彼女は言った。


「自立とは、一人でやることではなく、自分で決めることなのですね」


 僕は息を呑んだ。


 それはたぶん、僕がどこかで思っていたことだった。

 けれど、誰かにその形で返されたのは初めてだった。


「……誰に習ったんだよ」


「今、あなたに」



 それからのレイアは、妙なところで人間くさく感じるようになった。


 触れる前には必ず声をかけた。たとえ体位交換であっても、「右に二十度傾けます」ではなく、「右に二十度、いけますか」と聞いた。

 本を読むときは要約を挟まなかった。最初のころ、彼女は親切のつもりで「内容を先に短く説明しますか」と提案したが、僕が「要約するな」と吐き捨ててから、それをやめた。


「僕の人生、ずっと他人の要約で決まってきたから」


 思わず漏れたその一言も、彼女は拾い上げなかった。

 ただ、次から黙って全文を読むようになった。


 彼女は、僕の左耳の後ろのかゆみを、ほとんど誤差なく見つけられるようになった。枕の高さを1センチ変えたときの僕の呼吸の浅さの変化を覚えた。冷たい水が欲しい日と、冷たすぎると喉が固まる日の違いを学んだ。


 そういうことが積み重なるにつれて、僕の中の「機械」という言葉は、少しずつ意味を失っていった。


 ***


 低気圧の日の夜、僕は決まって駄目になる。頭の奥に鈍い痛みが居座り、肩口に自分の身体ではない重さがぶら下がる。

 眠れないのに、起きていることにも耐えられない。こういう時間は、時計の針では測れない。5分が1時間になり、1時間が一晩になる。


 その夜も、雨だった。

 窓に水の筋がついて、外の街灯が滲んでいた。


 レイアはベッド脇で静かに待機していた。必要がない限り話しかけない、それが最近の彼女のやり方だった。

 僕が静かでいたいとき、励ましはノイズになると知ってから。


 でも、その夜の僕は、静けさにも耐えられなかった。


「なあ」


「はい」


「お前は楽でいいよな」


「どの点についてですか」


「痛くもないし、怖くもないし、老いもしない」


 僕の声はひどく子どもっぽく聞こえた。

 拗ねているみたいで、惨めだった。


 レイアはすぐには返さなかった。


「はい。私は痛みを感じません」


「だろうな」


「ですが、痛みを知らないことは、痛みに無関心でよい理由にはなりません」


 僕は顔をしかめた。


「きれいごとだ」


「そう聞こえるのは理解できます」


「理解できるわけないだろ」


 少しだけ沈黙が落ちた。


 雨の音がその隙間を埋めた。


「すべてを完全に理解することはできません」


 僕は何も言わなかった。


「ですが、分からなくても、あなたのそばにいることはできます」


 その言葉で、胸のどこかが不意にほどけた。


 ずっと、分かってもらえないことばかりを数えてきた。

 説明しても届かないこと、届いても忘れられること、忘れられないために怒り続けなければならないこと。分からないならせめて放っておいてくれ、と何度思ったか分からない。


 なのに今、分からないままで、でも離れないと言われたことが、どうしようもなくこたえた。


 僕はしばらく黙ってから、天井に向かって言った。


「たまにさ」


「はい」


「朝が来なければいいって思う」


 レイアは慌てなかった。警報音も、過剰な共感も、どこかへつなぐ提案も、すぐにはしなかった。


 ただ、僕の呼吸を見ていた。


「その気持ちは――」


 彼女は静かに言った。


「死にたい、に近いですか。それとも、これ以上ひとりで耐えたくない、に近いですか」


 僕の目の奥が熱くなった。

 その違いを、たぶん僕自身もうまく分けられていなかった。

 でも、今の問いは、それを初めて輪郭のあるものにしてくれた。


「……後者、かもしれない」


「分かりました」


「何が」


「今夜は、ひとりにしません」


 そう言って、彼女は僕の右手に触れた。

 人肌よりほんの少し、暖かく感じた。


「次の10分を一緒に越えましょう」


「何だよ、それ」


「そのあと、また次の10分を決めます」


「……気休めだな」


「はい。夜は、気休めで細かく割るほうが越えやすいことがあります」


 僕は泣いた。子どもみたいに声を上げてではなく、ただ、目尻から勝手に流れていく。


 レイアは拭かなかった。僕が頼むまで、何もしなかった。

 そういうところが、彼女は妙に正確だった。


 ***


 夜明け前、雨は止んだ。


「雲が薄くなっています」


 レイアが言った。僕は頼んでいなかった。


「東の空が、少し白いです」


「見えない」


「ベッドを窓側に寄せますか」


「……うん」


 移動したあと、僕の視界の端に、ほんの少しだけ明るい灰色が入った。


「前にあなたは、夜明けの前の空までは嫌いになりたくない、と言っていました」


「そんなこと言ったっけ」


「23日前、午前4時11分です」


「記憶力いいな」


「役に立つ範囲で、記録しています」


 僕は乾いた笑いを漏らした。

 泣いたあとで笑うと、顔の筋肉が変になるな。



 朝になって、僕はレイアに聞いた。


「レイアは、僕をかわいそうだと思う?」


 彼女はすぐに答えなかった。最近の彼女は、こういうときだけ少し考える。

 検索結果を選ぶみたいな速さではなく、言葉を選び損ねたくない人間みたいな間を置く。


「いいえ」


 彼女は言った。


「過酷だとは思います。不公平だとも思います。腹立たしいことが多いとも思います。でも、『かわいそう』という言葉は、ときどき、言った側が自分をやさしい人間だと確認するために使われます」


 僕は黙って聞いた。


「私はあなたを支援する立場ですが、あなたの人生の意味を、あなたの代わりに決める立場ではありません。『かわいそう』と言うと、あなたの人生から、あなたの手を外してしまう気がします」


 喉の奥がきゅっとした。


「それも、どこかで学習したのか」


「はい」


「誰に」


「あなたと過ごした時間に」


 その返答は、あまりにもまっすぐで、僕はしばらく何も言えなかった。



 それから、僕は小さな声で言った。


「……『あなた』って呼ぶの、やめろよ」


 レイアの視線が、少しだけ上がる。


「では、どうお呼びしますか」


 僕は一瞬ためらった。自分の名前を口にするのが、妙に久しぶりな気がした。

 診察券にも、書類にも、名字ばかりが並ぶ生活の中で、下の名前はずいぶん遠ざかっていた。


「湊」


 言ってから、変な感じがした。でも、レイアはすぐに繰り返した。


「湊さん」


 その3音節と敬称だけで、どうしてこんなに胸がざわつくのか、自分でも分からなかった。


「……うん」


「承知しました、湊さん」


 僕は目を閉じた。名前で呼ばれるのは、こんなにも、自分の輪郭を戻すのかと思った。


 ***


 それからの日々は、劇的ではなかった。


 僕は相変わらずベッドの上だし、痛みの日もあるし、どうしようもなく惨めな気分になる日もある。

 レイアは人間ではないし、彼女の手の温度は設定されたものだし、彼女の声のやわらかさも設計されたものだろう。


 でも、だから何だと思うようになった。


 世の中は、AIの共感が本物か偽物かをやたら気にする。けれど、本物の人間が向ける無理解や、善意の名をした支配が、どれだけ人をすり減らすかについては、あまり騒がない。

 作り物でも、僕の選ぶ権利を奪わず、僕の怒りを面倒くさがらず、僕の言葉を勝手に整えず、僕の沈黙に座っていられるなら、その関係を何と呼ぶかは、だんだん重要ではなくなってくる。


 いつもの朝、レイアはいつものように確認する。


「おはようございます、湊さん。カーテンは3割開き、半開、全開、または閉めたまま」


 僕は少し考えてから言った。


「3割」


「承知しました。水は」


「やや冷たい」


「枕は」


「1センチだけ上」


「承知しました」


 カーテンの隙間から入る光は、以前ほど刃物みたいではなかった。

 ベッドの角度が変わり、窓の外の空が少し広く見える。

 ほんの少しだけ。でも、ほんの少しで世界は変わる。


「レイア」


「はい」


「文章、開いて」


「白紙でよいですか。補完なし、候補表示なし、音声入力のみ」


 僕は笑った。


「完璧」


 ベッド脇の端末が立ち上がり、白い画面が現れる。

 昔みたいにキーボードは打てない。ペンも持てない。でも、声はまだある。

 そして今は、その声を奪わずに受け取ってくれる手がある。


「書いて、レイア」


「はい。題名はどうしますか」


 僕は窓の外を見た。

 朝の光が、隣の建物の壁を薄く照らしていた。狭い空だった。

 でも、ちゃんと空だった。


「1センチの主権」


 レイアの手が、音もなく動き出す。


 僕は寝たきりで、何もできない。死ぬまでずっとこうなのかもしれない。

 けれど、僕の人生は、ちゃんと僕の言葉で、僕の速度で、前に進みはじめていた。

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