第18話
瑠姫
この家に家庭教師として訪問するようになって2週間ほどが経った。
担当する生徒であるお嬢様は、事前に想像した以上に聞き分けが良くて人懐っこい。
なんでも正しく健全に、きっちりとしたい私としては相手をしやすい生徒だった。
「それでね? 頑張ったんだけど最後は失敗しちゃったんだ」
シャーペンの頭で自分の頬を突きながら、愛花さんは口にする
今日も学校でバスケをやったみたいで、その試合の内容を教えてくれた。
「そうなんだ。体育も頑張らなきゃいけないのは高校生ってやっぱ大変だなぁ」
雑談多めな勉強だけど、彼女の伸びを見ると多少の雑談も問題ない。
そのくらい彼女は飲み込みが早い。
依頼をしてきた種市さんに聞いた限りだと、愛花さんは「やれば出来る人間のはず」とのことらしい。
ただ従者が甘やかすが故に何も出来ない人になってるとか。
議員である葉矢川の家の体裁を保つために。なんて理由で雇用された私のプレッシャーはそれはまぁ凄いものではあったけれど、意外とうまく行きそうだ。
現にこうして教えていて、「やれば出来る人間」という言葉が、私には真実に感じられる。
楽をしたがるきらいのある子なのは間違いないけど、家柄が良いからか地頭がいい。
理解が早い……ということはないけれど、理解さえ出来てしまえば迷わない。
頭の回転が速い子であるのは間違いない。
「バスケなんて、突然やれって言われても難しいよね。部活入ってるならまだしもさ」
「そうなの! 難しくてね? けどね、芽衣が練習に付き合ってくれたから頑張れたんだ」
「芽衣さんが?」
芽衣さん、愛花さんの付き人である女の子。
すらっと背が高いウルフカットが印象的な美形の従者。
愛花さんを甘やかしてる張本人ではあるらしいけど……。
「あの人、手伝ったりするんだね」
少し意外だった。
初日にバチバチして以来、彼女からはあまり好かれていないのは分かる。
それは放任主義か積極介入か、彼女とはそもそもの指導方針が決定的に違うからだと思ったけど……。
ついつい甘やかしてこの子を怠惰にしてるのに、そこは手伝うんだ。
不健全な人かと思えば、やることはしっかりやっているみたい。
へー。と心の中で彼女の印象を上方修正すると、愛花さんはうっとりとした顔で話し続けた。
まるで恋をしているかのように、声にまで色が付いている。
「そうなの。芽衣はなんでも出来る凄い子なんだよ。そんな子が私に尽くしてくれるの。服を選んでくれたり、スケジュール管理を私がしくじったら調整してくれたり。私のために色んなことをやってくれるの」
「付き人って、そういうものじゃないの?」
「芽衣は違うの。嫌々じゃないんだよ。私の世話を焼くのが嬉しそうなの」
あのメイドが……?
会話は初対面の時以来していないけれど、聡明なタイプに見えた
無表情ではないけれど、感情を顔を出すタイプには見えなかった。
怒りを飲み込んで、無理やり笑顔を作るタイプ。
仕事のできる人。彼女にはそんな印象を抱いていた。
だからこそ、適当に勉強を教えて甘やかすことに私は少し怒りを覚えたのだ。
出来ることをやらないのは不健全。そう思った。
「……意外だね。あんまり感情の起伏がない人だと思ってた」
「でしょ。意外と顔に出るんだよ芽衣。イライラしてたら爪を噛んだり、嬉しそうな時は下唇を少し湿らせるの」
「へー、よく見てるね」
愛花さんは自分のことのように嬉々として話している。
私は「なんとなく笑顔の裏に敵意がある気がするな」くらいの認識だったけど、そんなにか。
長い間一緒にいるからこそ分かるんだろう。
「まぁそれでも、勉強の教え方は変だけどね」
「んーまぁそういうとこもあるよね。私をいじって遊んでるのかも」
「遊んでる?」
「私の反応を見て安心したり喜んだりすることが多いんだよ芽衣って……あっ! 今日もね? そういえば、私が最後にシュートする前にシュートのジェスチャーしたんだよ」
愛花さんはシャーペンを置いて、不恰好なシュートフォームをこちらに見せた。
「それがなんか問題あるの?」
「それ見て私、どんな風にシュートしてたか忘れちゃったの。だから最後は決められなかったんだよね」
あははーっと失敗談すらも楽しそうに話している。
彼女のその明るい笑顔は、本当に素敵だった。
失敗しても暖かく穏やかで、自分を否定することなく笑う。
「そしたら芽衣、なんか嬉しそうだったなー。邪魔されちゃったよね」
「え? それって、わざと失敗させたってこと……?」
「多分ね、芽衣なりのじゃれあいだと思うー」
じゃれあい……なの?
それで体育の成績が落ちてしまうかもしれないのに?
それでいいの?
巻数がズレたまま保管されている本棚を見ているようなもどかしさが、私の奥から湧き上がってきた。
……やはり、芽衣に対する上方修正は改めないといけないかもしれない。
彼女を見て、上手くいくようになるほど思うはずだ。
このままじゃもったいないと。
このやれば出来る子を甘やかしてどうしたいんだ。
ダメ人間。
彼女はよく愛花さんのことをそう言うらしいが、そうしてるのは彼女自身では?
どうにも疑念が拭えない。
彼女はその優しい視線で、ただひたすら愛花さんを堕落させようとしてるのでは?
まるで西洋の悪魔のように怠惰へ無気力へ……。
彼女は……この子のそばにいて良い存在なのか……?
「ダメだけどね、私は芽衣の主人として頑張りたいんだ」
そんな風に笑う彼女を……堕としているのはないだろうか。
「私はね? 瑠姫先生が出来る子って言ってくれるけど、自分があまり出来る子じゃないのはわかってるんだ」
無垢で、感情がそのまま袋詰めされたような笑顔に翳りが生まれる。
「だから、従者に誇ってもらえるような主人になりたいなって……たまに思ったりするの」
たまに……?
そんなの当たり前じゃないか。
人として、向上心を持つことは何も悪いことじゃない。
なのに、なんでそんな辛そうな笑顔になるんだ。
「瑠姫先生、私さ……このまま頑張っていいのかな?」
そうこちらを見つめる彼女から、私は視線を逸らせなかった。
あの考えが読めないメイドに、愛花さんという無垢な女の子の成長のきっかけを奪われるかも。
そんな考えが脳を巡った。
この子はきっと大人になって、この大きなお屋敷で暮らすのに相応しいお嬢様になるはずだ。
品があって聡明な令嬢。
そんな未来が視界にチラついた。
その素養も間違いなくある。
頑張れない人に無理をしろとは言わない。
けれど、愛花さんからは向上心も意気込みも感じられる。
その上で頑張ろうとするなら頑張るべきだ
ありたい未来の自分の姿を夢想しその道筋を行く。
その歩みを成長というのだ。
とても健全な成長だ。
だけど、あのメイドはそんな未来を奪うんじゃないか。
「愛花様はそれでいいのです」
そんな声が、聞こえた気がした。
あの美しいメイドが優しく、抱擁するように囁く声。
そんな言葉で、意図的に愛花さんを甘やかし続けてたのではないだろうか。
どんなに素敵な花を咲かす苗木でも、大量の水で簡単に腐る。
彼女はわざと水を注ぎ続けてるんじゃないか。
そうして完全に腐った時、愛花さんの笑顔が持つ意味は変わってしまう。
……それはダメだ。
それだけは避けたい。
そんなことには、させたくない。
暗闇の中、なぜそこにいるのか分からないまま笑う悲しきお姫様にはなってほしくない。
自分が歪んだ状況にいることも気付かずに、その位置が自分の居場所だと思い込んで笑う彼女。
その様子は想像するだけで、不健全で不真面目で不快だ。
なによりも、この子の素質がもったいない。
それが無駄になるのは社会の損失で、非常に我慢ならない。
「……愛花さん。もう少し勉強しよっか」
「……うん! 瑠姫先生は分かりやすいし楽しいな!」
「そっか、芽衣さんの時より勉強楽しい?」
「芽衣のとはまた別だからなーふふんっ」
そうやって少女のように、また愛花さんは机に向きなおってノートを開いた。
高校で生徒会長をやっていた頃は、周囲に怠惰な人がいても気にはしなかった。
私さえ健全に真面目にしていればいいのだから。
でも今、私の仕事は家庭教師としてこの子の成績を上げること。
そしてそれはきっと、種市さんから彼女を健全に導いてほしいという依頼でもあるのだろう。
そうか、それなら……私がこの子を立派な光の元へと導こう。
「楽しいなら良かった。そっちのほうが健全だよ」
家庭教師という限定的な身分ながら、心の中の明かりを焚べるように私も愛花さんへ笑顔を向ける。
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