第13話
今日から家庭教師が愛花に勉強を教える。
彼女に余計なものを接近させてしまうことが悔しくて堪らない。
いつもは愛おしい愛花のダメっぷりも、あの時ばかりはセーブしてくれれば……。
「いや、それは無い」
爪を噛みそうになるのを何度も意識的に押さえ、反芻する。
そうだ。別にあのやらかしは構わない。
むしろもっと上手く出来なかった自分が悪いのだ。
だってやらかすから愛花なのだし、やらかしてくれないとただの真人間じゃないか。
「そうだ、そうじゃないと……」
「あの……なにか?」
うんうんと原点に帰って納得すると、背中に声が投げかけられた。
「いえ、なんでもありません。こちらが愛花様の部屋です」
そうして、私は手で愛花の部屋を指し示す。
黒のパンツスーツにきっちりとしたポニーテールの仕事が出来そうな女子大生。
警戒の色が抜けない彼女に対し、私は穏やかに微笑んでみせる。
愛花は地方とはいえ議員の娘なのだ。
おおよそ大学生の警戒の理由は分かる。
それにどの来客も大体が同じような反応をして、この広く綺麗に掃除された屋敷をキョロキョロ眺めるものだ。
「今日は初日ですので、挨拶も兼ねて私も同席いたします」
そしてノックと共に愛花へ声をかけると、反応する声がドアの向こうから聞こえてくる。
ドアノブを回して扉を引っ張ると、ひょいと愛花が顔を出した。
「あっ! あなたが家庭教師の先生? ほら入って入って!」
顔を出したと思えば、すぐさま部屋へと誘う。
そうして部屋に入り愛花の後ろに立ってその女子大生と正面から向かい合うと、気付いたように彼女は頭を下げた。
「あっ! えっと、
「葉矢川愛花です! こちらは従者の芽衣です! よろしくお願いします!」
「あぁはい。えっと、愛花……様って言った方がいいんですかね?」
こちらの目を見て水上先生は確認を取る。
「いえ、身内ではないのでお好きにどうぞ。私のことも同様にお好きなように読んでください。水上先生」
「は、はぁ……分かりました。種市さん」
そうして顔合わせが少し気まずい雰囲気で終わると、早速勉強を見たいと水上先生は言った。
そうしてあれよあれよと流れるまま、私は机に向かう2人の背中を立って眺めることなった。
2人で淡々とそれは違う、それはこう解くのだと勉強を進める様子に心が泡立つ。
「これは……こうでいいの?」
「はい、正解ですね……あっ私には別にタメ口でいいですよ、愛花さん」
「そう? じゃあ私もタメ口でいいよ! なんかムズムズするし」
「わかった。じゃあ次の問題やってみよう」
仲睦まじく勉強を進める微笑ましい光景が、少し眩しかった。
……眩しすぎるくらいだった。
小指のリングが熱を持つほどに、指先が落ち着かない。
「うん、一通り見てみたけど愛花さん……意外と出来るね。根気強くやればもっと伸びるよ」
「本当!? やった! 芽衣が教えてくれるからだね!」
こちらを振り向いて手を振ってくる愛花に、少しだけ心臓の動きが穏やかになった。
「周囲の求めるものが高すぎるんですよ。愛花様は十分頑張っておられます」
「……」
その言葉を聞き、水上先生は訝しげにノートからこちらへ視線を移した。
細めた瞳から針のような視線がこちらを向く。
「今まで勉強はあなたが教えてたの?」
何かを確認、いや尋問な空気でこちらに言葉を投げてくる。
「はい」
「どんな教え方してたの? なんか理解が虫食いすぎて違和感が凄いんだけど」
「……使う公式と答えを教えています」
「基礎ってこと?」
「基礎というより、はい。言葉のままですね。問題集の答えだけを教えて終わりです」
誤魔化しても母に報告が行きそうだから誤魔化すのを辞めて正直に答えた。
嘘を吐くよりも、こちらの正当性を主張した方が早い。
「……だからこんな変な理解になってるんだ。そりゃ伸びないわけだよ。なんで解法を教えないわけ?」
徐々に心の奥が波立っていくのが分かる。
ざあざあと音を立てるような波のような切迫感を肋骨のあたりから感じる。
「必要ないですから」
それらを必死に押さえて、笑って水上先生を見つめた。
大丈夫だから、それ以上踏み込まないで。
愛花はこれでいいから。
余計なお節介を焼かないで。
「必要ないって……本当に言ってる? そんな教え方、健全じゃない」
健全。と強く言って見せた水上瑠姫に腹の奥底が熱くなった。
音が立ちそうなくらい、奥歯に力が入った。
ただ、そんな私を見る彼女の視線は鋭さを増している。
「解法を教えたらそっちに頭がいくタイプなんですよ。お嬢様は」
「そうなの?」
「んー、芽衣が言うならそうなんだと思う」
「愛花さん、きみのことなんだよ?」
水上瑠姫は心配そうに愛花を見ていた。
「私さ、能力があるのに上手く発揮できてない子を見ると、どうにも我慢できないんだよね」
そう言いながら肩に手を置いてお嬢様の顔を覗き込んでいる彼女を見て、どうしようもなく全身に力が入った。
息が口から漏れていく。
水が手のひらから溢れていくのを眺めるような、そんな不安が胸を支配し続けている。
ザワザワと全身を知らない人間に撫でられるような不快感に、全身が強張る。
「能力がある……私が?」
「うん。ねぇ、少し愛花さんと話がしたいんだけど、種市さんは出てもらえるかな?」
「えっ? それは……芽衣?」
「はい、分かりました」
ただ、今はそれらの感情を全て飲み込んで言葉を聞いた。
愛花の部屋の扉を閉めて、そこから漏れる声を聞こうと思ったけれど叶わない。
そこでちょうど母と顔を合わせたからだ。
「あぁ芽衣、ちょうど良かった。水上先生は大丈夫そう?」
「……」
いいえ、あの人はダメです。とは言えなかった。
「問題ないと思います。まだ分かりませんが」
「そう、まぁ旦那様や兄様と同じ超一流大学の人だから大丈夫でしょうか」
喉の奥が焼けそうなほど、屈辱的な気分になる。
これでいいと思っている周囲とのギャップに腹が立ちそう。
「ダメ人間じゃなきゃダメなんだよ……」
聞こえないよう小声で気持ちを絞り出して、爆発しそうな溜飲をなんとか下げ、顔色を取り繕う。
「なにか言った? それより手が空いたのなら手伝って欲しいのだけど。あと爪、その癖治ってないの?」
「あっ……」
母の指摘で気付いた。
親指の爪の欠けた曲線を眺めながら、憤りを飲み込む。
「分かった」
「とりあえず次の定期テストまで様子見ね。あなたも下がった成績を戻せるようにしなさい」
「うん、大丈夫だから」
そうして私は小指のリングを撫で続けながら、気持ちを落ち着けた。
やれば出来る子なんて、最悪だ。
愛花はダメ人間なのに。
ダメ人間じゃなきゃダメなんだよ。
……いや、そうだ。
あの子はダメな人間だ。
ただ、今回は私の想定を超えていた。
あのくらいは上手くやってくれるだろうと思ったら、それを超えてミスをした。
「……意外と、大丈夫かも」
そう思えば少し気持ちが楽になる。
そうして初めて会った時や再会した時の笑顔を頭に浮かべながら、私は母の背中を追いかけた。
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