第31話『ハウスキーパー:ドロシー ― モーヴァと過ごす日常の物語 ―』
プロローグ
今日も、ドロシーは静かにコルヴォ博士の書斎を磨いていた。
この研究所に来て十年。財団から与えられた任務は、ただ博士の身の回りを整えること。
「博士、そろそろ定年ですわよ。次は若い子にでも…」
いつもの冗談に、博士は奇妙な装置に顔を埋めたまま、淡々と言い放った。
「代わりは、私が用意した」
ドロシーの胸に、一瞬の寂しさがよぎる。
冷めた紅茶、謎の設計図、孤独な博士の姿。
この空間への愛着は、いつしか任務以上のものとなっていた。
しかし、彼女はまだ知らない。
博士が用意した「代わり」が、次のハウスキーパーのことではないことを。
そして、彼女の最後の任務が、すでに始まっているのだということを。
本文
モーヴァは、お茶のふたを軽くトントンと叩く。
紅茶を味わいながら、あの日を思い出す……。
朝の光が薄く差し込むコルヴォ博士の研究所。
ドロシーは小さな掃除用具のカートを押しながら、静かな廊下を進む。
床板がきしむ音が、研究所の静けさを際立たせる。
「さて、今日で最後かしらね…」
小さくため息をつき、埃を払いながら独り言をつぶやく。
そのとき、廊下の奥に見かけない姿があった。
小柄で滑らかな体つきの存在。瞳は淡い光を帯び、動作は正確だが、どこか博士が観察しているユーマを思わせる柔らかさを含んでいる。
「わたし、モーヴァ。博士のお世話します。ドロシーさん、こんにちは」
ドロシーは思わず微笑んだ。
「まあ、あなたが次のお手伝いさんなのね」
モーヴァは少し首を傾げる。
「わたし、最適な方法でお手伝いするようプログラムされてる」
ドロシーは小さく笑った。
(人間でも手こずる博士の世話を、この子はどうやってこなすのかしら…?)
ドロシーはカートを軽く押しながら、モーヴァの後ろを歩いた。
「まずは掃除機ね。博士の書斎は埃が溜まりやすいのよ」
「うん…わたし、ちゃんとお掃除する…ドロシーさんみたいに」
ぎこちなくも一生懸命、机の周りを回る。
ドロシーは思わず笑う。
「あなた、ちょっと人形みたい。でも動きは人間っぽいわね」
「そう…わたし、人間のマネ、がんばっています」
「うまくできてるわよ。でも、少し“癖”が出てるのが面白いわね」
「へぇー…癖…?」
首をかしげる声は少し高く、どこか幼い響きだった。
ドロシーが棚を拭くと、モーヴァも同じように手を動かす。
「わたし、これでいい…?」
「ええ、完璧よ」
その日の午後、モーヴァは紅茶を運ぼうとしてトレイを傾けてしまった。
「わわっ…!ごめんなさい…!」
ドロシーが慌てて支えると、モーヴァは小さくうなずく。
「もっと…じょうずになりたい…!」
ドロシーはくすっと笑った。
「大丈夫よ。失敗も経験のうち」
研究所の静けさの中、ほんのりと暖かい空気が流れる。
博士の目に見えないところで、今日も日常は静かに動いていた。
「モーヴァ、少しお話があるの」
ドロシーはカートを止め、やわらかく告げた。
「…お話…?」
「実はね、わたしの任期がもうすぐ終わるの」
モーヴァの手がぎゅっと組まれる。
「…さみしい…ドロシーさん、いなくなる…」
「大丈夫よ。あなたならできる」
ドロシーはそう言って、そっと背中に手を添えた。
その日の午後。
モーヴァは一人で紅茶を運び、掃除もすべてやりきった。
「わたし…できた…!」
「ええ、すごいわ」
モーヴァは小さな胸を張る。
「もっと…じょうずに…ドロシーさんみたいに」
言葉にしきれない温かさが、二人の間に流れた。
昼になり、すべての作業が終わる。
二人は研究所の小さな庭先に立っていた。
「ありがとう、モーヴァ。一緒に過ごせて楽しかったわ」
モーヴァは深くお辞儀をして、小さく手を振る。
「…わたしも…ありがとう…」
ドロシーはいたずらっぽくモーヴァを見つめた。
するとモーヴァは、お茶のふたを軽くトントンと叩いた。
ドロシーの癖を、そのまま真似るように。
「…えへへ、やるじゃない」
ドロシーは笑い、そっと肩を叩いた。
やがて彼女は研究所を後にする。
モーヴァは小さく手を振りながら呟く。
「…また会える…?」
答えはない。
けれど研究所には、昨日より少しだけ成長したモーヴァが残っていた。
静かな日常は、これからも続いていく。
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