フォルテ編 ~ハウラー? 撃破と凜のストリートライブ~
【22】天雫の契約――Dカラーの皿
“天雫、ああ、天雫……”
母の顔は、もう記憶の泥濘に沈んでいる。
“大好きよ。人の痛みのわかる、優しい子になってね……”
けれど最後の言葉は、何度反芻しても変わらない。その声に巻きついていたリボンの、鮮やかな赤。やわらかな母の香りが、天雫を苦しいほど強く抱きしめてくれたのを覚えている。幼い娘をゴミ捨て場のポリバケツに隠して、母はそのまま去っていく。荒々しく追いかけてくる怒号がすぐそばを通り過ぎていくのを、暗闇のなかで聞いていた。
“カランド”エリアの住宅街。結局誰に追われていたかも、母がどうなったかも、わからない。そのときは一緒に歌う友達もいたような気がする。けれどそれは思い出せない夢のように、胸に甘い余韻が残っているだけ。硝子細工を象るように透き通ったコーラス、振り注ぐ月の光。
天雫が養護施設に送られたのは、まだ3歳のときだった。一緒にいられた時間は短かったはずだが、いまでも歌うと母のぬくもりを、あの美しい声を、鮮明に思い出せる。母を忘れないために、歌を絶やすわけにはいかなかった。このからだはあの歌が、母の愛が主成分だと確信している。あの澄んだソプラノが血脈となって体中をみたしているからこそ、凛のあの音に、細胞ごと震えてしまうのかもしれない。歌が引き合わせてくれた、とびきりの悪魔。
首の後ろでリボンが躍る感覚は、もはや天雫には体の一部だ。長いマゼンタの縁には「Amana」の刺繍がある。最後の時、やさしい手がそっと結んでくれたリボンが天雫の識別票になった。濃く甘く、すこしだけかなしみを混ぜたような密度の高いピンク色。ピーチスキンのようなえも言われぬ手触りにこなれたサテンは、十数年の時を経ても色だけが褪せない。
道端の子どもが、興味津々でこちらを見ていた。気づかないうちに歌っていたらしい。立ち止まり、内緒ね、というつもりでこっそり指を立てた。歌声でシャボン玉を作ってみせると、そのつぶらな瞳がキラキラ輝く。携帯端末から顔を上げた母親が、慌てて子どもの腕を引いていった。途端にいたたまれなくなって俯く。
……どうして、歌ってはいけないのだろう。歌はほんの少しばかり、色のついた呼吸なのに。息をするのに高いお金を払って、学校へ行って、偉い人たちに審査されて。愛する人のことを思えば、歌は自然に流れてくるものなのに。気を抜いていると歌い出してしまいそうになるのを飲み込む。
――いいなあ
迎えが来たよその子を見ている、待ちぼうけの子どもみたいだった。あんなに待ちわびているのに、凛の番がこないなんて。
天雫や千鳥が気遣うと、凛はすぐにいつも通りの凛になって「フハハハ小心者どもめ」と嘲笑う。けれどそれは傷ついていないということではないだろう。傷ついていないふりをするのが当たり前で、それが板についているだけで。かなしみかたさえ、誰にも教えてもらえなかったような。
(……あなたが、笑っていてくれるなら)
鉄壁の笑顔の裏でのた打ち回っている凛の、泣くことのできない凛の、痛みを分かち合いたい。凛が自分を助けてくれたように。
何もできないけれど、せめて自分が味方でいることを、知っていてほしい。今すぐには無理でも、また気丈に笑えるようにしてあげたい。初めて会った時のように。
(だって、凛なら)
例えば凛なら、高級レストランで意地悪されて(「あれは武藤聖二の娘だ、追い返してしまおう」)、お皿にジュエリーを載せて出されても平然と「これは結構なものを」なんて言いながら、ネックレスのチェーンをフォークで巻き取り、リングをスプーンで掬って美味しそうに平らげてしまうだろう。食後にはシャンパンをたしなみ、「やはりモエ・エ・シャンドンはプラチナの後味を引き立てるな」なんてうそぶいたりして。シルバーも18Kも、ルビーもサファイアもDカラーのダイヤモンドも咀嚼して消化して、その輝きを我が物にしてしまう気がする。人々の非難を、批判を、平気な顔で上回る。凛の美しさは、きっとその悪辣にこそ宿るものだから。いつだってそうでいてほしい。いつでも傲岸に、悪魔みたいに笑っていてほしいの。
目的地にたどり着いた。深く息を吸い込み、無機質な自動ドアの向こうに、天雫はそっと歩を進める。
「……却下だ」
士織は腕組みをして渋面を作った。
“エ・アニム”でのストリートライブ。ソロであればライセンスがなくても、シルバーライセンスホルダーの申請と、シュティレの承認でできるのだということを、雄吾から聞いている(既に申請の約束は取りつけた)。天雫の知るシュティレは士織と冴しかいない。直談判に、きたのだ。
「何を言い出すかと思えば、君も試験会場にいただろう? 武藤凛はライセンス発行禁止だ」
「お願いします。あの、今度はちゃんと、お金もあるんです」
「あは、罰金前払いしようって? ウケるね君」
「君が差し出せるもので僕を満足させられるのは沈黙のみだ、帰りなさい」
「一回でいいんです、許可をください。あんなに心のこもった演奏をできるひとが、
「……それは、」
「武藤聖二だって、多くの人を感動させてたけどね? ハーメルン事件までは」
食い下がる天雫に、冴が珍しく真顔を見せる。
「いつどこで誰がハウラーに変貌するかわからない、すぐそこにハウラーが平気な顔で紛れ込んでるかもしれない、だからって誰彼構わず捕らえるわけにはいかない、そういうなかで仕事してんだよ、俺たちは。そーゆー苦労をさ、君は踏みにじる気?」
唇を噛みしめる天雫の瞳に涙が浮かぶのを見て、ため息をついた。
「まあインジケーターはまだ試験導入で、ライセンス発行禁止以上の措置は今のところないんだよね。エリアによっちゃノータグで演奏できるのも確かだし、ここもそうっちゃそうだし」
「……ちょっと待て、結城」
雲行きが怪しくなってきた。割り込む士織を、目だけで躱して冴が続ける。
「仮に制度上問題なかったとしても? 悪魔の娘を演奏させてもしなんかあったら、俺ら昇進どこじゃないんだよねえ」
「大丈夫です、凛は絶対に、」
「不破から聞いてるよ? 武藤との違法セッション。君はソプラニストなんだよね。ちょっとさあ、歌ってみてくれる?」
「……ここで? いいんですか」
「うん、試しに」
請われるままに、天雫は歌った。あのときの、シューベルトの「アヴェ・マリア」。士織が複雑な顔をして、胸元に手を当てている。冴は表情を変えずに、「なるほどねぇ」としばらく考えていた。
「んじゃさあ、君の声貸してくれない?」
パソコンを開き、何やら書面を作り始める。
「声?」
「そ、その歌声。君さー、自分の声、もっとよく聴きな? 喉だけじゃなくてー、口の中をコンサートホールにしないと」
ディスプレイに向かったままの冴に、天雫も士織も瞬くよりなかった。プリンターが唸って文面が吐き出される。
「自分自身とハモれるくらいになったら、そんとき借りてあげる。そん代わり契約不履行になったら、シュティレの検体として君の喉をもらうからね。
まだ合点のいっていない様子の天雫の前に、冴は即席で打ち込んだ「契約書」を差し出した。食い入るように紙面を見つめる天雫の前に、そっとペンを置く。
「……武藤凜に弾かせたいんだろ? 早くサインして」
何か取り返しのつかないことが迫っている気がした。けれど思考はそこで停止し、天雫は半分夢現で署名している。だってこれを逃したら、凛はもう二度と人前で弾けないかもしれない。天雫の「喉」を賭けた紙が、ひらりと目の前から取り上げられた。
「さて。これで君の喉は半分俺のもんだね、“加藤天雫”ちゃん? 約束通り、決済はとってあげるよ。日時と場所、ちゃんと教えてねぇ?」
覚束ない足取りで天雫が去っても、士織は苦虫を噛み潰したような顔のままだった。
「……甘いな、結城」
冴はか細い文字で走り書きされた契約書を折り、興味なさげに士織の胸ポケットに突っ込む。
「どこがぁ? 武藤のライブは検証実験で通せばいい。インジケーターによる発行禁止処分者の経過観察ってしてさ。次にインジケーターが反応したら、即捕捉できるよ。またとない昇進チャンスじゃん。さすがに二回振れたってなったら、おまえの悩みのタネもなくなるんじゃない?」
「それは……それならなぜ、加藤にまであんな契約を」
「向こうからノコノコ来てくれたんだから、利用しない手はないだろ? 彼女がハウラーじゃない保証なんてどこにもないんだし。武藤が捕捉、加藤は検体なら、俺らはいいことずくめだよ」
「……君はなぜそう不誠実なんだ」
「だぁから、不破が要領悪すぎんの」
「……だがまあ安心した。情に流されたわけではないんだな」
「それはお前。もう彼女たちに傷ついてほしくないんだろ? 音楽で」
「……」
冴はもう平常通り、飄然とした笑みを士織に返した。
「ワンチャン何かが起きても、コードタグ残せるだけの時間はあるってことは、センパイたちが証明してくれてるからね。そしたらさすがに武藤凛は摘発できるし、シュティレには貢献できるでしょ。そんなんで特進はヤダけどねぇ?」
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