【20】しあわせの約束――アフタヌーンティースタンド

 冥とは一言も交わすことなく帰路についた。タイミングを見計らっていたかのように、征臣からの着信を受ける。

「出だしがライセンス発行禁止処分とは、なかなか悪魔らしい経歴じゃないか」

「……」

 凛から返事がないと知るや、征臣は声を落とした。

「希望は持ちなさい。私の一番弟子のノートはまだ死んでいないはずだ」

 昔の記憶にもある言葉だった。ぼんやりと繰り返す。

「ノート……。本当にそんなものがあるのですか?」

「ああ、だが私にはもう開けない。音楽の神髄は、決してライセンスの有無ではかれるようなものではないのだよ。……凛、お前だけでもせめて、美しいノートのなかで、笑っていてくれ」

 一族のために籠の鳥になった征臣。先生が見たそのノートとはいったい「何」で、なんのために開かれたものだったのだろう。電話を切っても、凛の心は過去を彷徨っていた。

 聖二が作曲を始めたのは――唯が言っていた通り――凛の誕生と時期が重なる。正確には、冥のおなかにいた頃から。発表された当時には絶賛されたのだ。今でも熱狂的なファンがいるとも聞く。ハーメルン事件が起こるまで、聖二は本当に温厚で善良な人物だったと、人々は口を揃えて言っている。冥が突然の豹変と失踪を受け入れきれなかったのも、無理のないことだったのだろう。車窓をぼんやり眺めているうちに、まどろんでいた。

 ――照明の落ちた、薄暗い武藤家にいた。凛は屋敷の中を逃げ回る。武器はない。コートハンガーも燭台も、壁や床に固定されていて持ち上げられない。悪魔の足音が近づいてきている。どこに隠れても凛の気配を感じとり、ゆっくりと、たゆみなく歩み寄ってくる。息を殺して暗がりの中に身を潜める。なぜわたしの場所が筒抜けなのか。わたしだけを追ってくるのか。体の中に脈打つ血の匂いを嗅ぎ取っている。どんなに引き離しても、悪魔の嗅覚が鈍ることはない。凛の隠れたクローゼットを開け、悪魔が顔をのぞかせた。逆光のなかで美しく整った、凛に瓜二つの顔。うずくまった凛を嬉しそうに見下ろす。

 電車の揺れで目が覚めた。生々しいリアルさを伴った白昼夢。ドレスの裏側に、嫌な汗をかいている。重い体を引きずるようにインターフォンを押すと、天雫がドアを開けてくれた。

「おかえり、どうだった?」

「まあ、結婚式だったぞ」

 あとをついて自然に凛の着替えを手伝ってくれながら、軽いやりとりをする。

「いいね、結婚かあ」

「おまえもそういうのに憧れたりするのか?」

「……どうかなあ。ちょっと、想像つかないかも」

「……そうだな」

 天雫がそんな真っ当なことができる人間には見えなかった。自分と、同じように。

「普通の幸せに憧れるのに、普通と違う境遇で生きてきたから、結局普通と違うものがしっくりするのかもしれないね」

「わかる気がする。いいだろうなと思っても、わたしはこういうものにしか夢中になれない。音楽にしか価値を見いだせない」

 わたしだってできることなら、彼女たちのように恋愛やおしゃれのことで悩んだりはしゃいだりしたかった。望んでこんな自分になったわけではない。彼女たちのようになれないから、「わたしらしく」あるしかない。わたしはこうでしかあれない。

「わたしたちは普通の幸せって無理かもしれないね」

 なんでもないことのように天雫が言う。細い首にかかっているリボンの、哀しく、でも微笑んでいるようなソルフェリノ。歌うような甘い色。

「でもきっと、わたしたちにはわたしたちにしか手に入れられない……わたしたちだけの幸せがあるよ」

「……そうかな」

「そうだよ。一緒に見つけよう? わたしね、凛と一緒だったら見つかる気がするの」

「……そうだな。わたしが手に入れたら、おまえにも割安でレンタルしてやるよ」

 天雫の語るそれは至極ささやかで、いびつなもののように思えた。それとも歪んでいるからこそ価値あるものも世の中にはあるのだろうか。バロック音楽のように。

「千鳥の奴は?」

「それがねえ、ただいま買い出しに行っております」

「買い出し?」

「なんか腹立ったから、みんなでヤケ食いしようって。サンライズのドーナツいっぱい買ってくるって。……それとね、」

 天雫は凛の手を取り、リビングに導く。

「なんと、奮発して買いました」

 テーブルの上にクロスで隠されていたのは、アフタヌーンティースタンドだった。凜が目を丸くしていると、千鳥が入ってくる。見覚えのあるテイクアウト用の紙袋を持ち上げて見せた。

「ドーナツ買い占めたった。美也子さんがコーヒー豆おまけしてくれたぜ。お疲れってさ」 

「ありがとう、千鳥。ね、食べよ、コーヒー淹れるね」

「ああ、俺やるよ。おまえセッティングしとけ」

 天雫が凛の肩に手をのせ、千鳥が追い越しざま、背に軽く触れていく。肉親でも恋人でもない彼らに触れられることを、とても心地よく感じていた。真新しい瀟洒なスタンドで、即席のティータイムとしゃれこむ。

「そんで凛さあ、ヴァイオリンはどーすんの? もーやめんの?」

 天雫が「ぶふぉっ」とハーブティーを噴き出した。千鳥の腕を掴む。

「千鳥こら、わたしが触れずにいたものをっ」

「なんでよ、暇になんならパーッと遊ぼうぜ? ここんとこずーっと根詰めて弾き通しだったんだし」

「……そうだな。やめるかどうかはまだ検討中というところだが……別のことをしてみるのもいいかもしれない」

「そーそ、落ち込んでる時間がもったいねえっての。何するよ?」

「……それなら……コンサートに行きたいな」

「そこはいったん音楽から離れようや?」

 天雫が腑抜けた顔で笑い、笑ったかと思うとぐしゃぐしゃと顔を覆った。

「おい、何を泣いている貴様」

「ご、ごめんね。でも……凛は本当に……根っからの、ヴァイオリニストなんだね」

「……もちろんだ。弾きたいさ。……だが今は、その気持ち自体が正しいものなのかどうか自信がない。……インジケーターが反応したことは事実だからな。不破は虫が好かんが、嘘をつくようなやつじゃない」

 朝に少しだけ音階練習をしたが、今は、ヴァイオリンケースを開けるのが怖かった。わたしが弾いていたものは、凶器だったのだろうか。

「……わたしは武藤聖二の血を引いてる。あの色眼鏡が言っていたとおり、無自覚のハウラーかもしれない」

 反射的、と呼べる速度で、天雫が凛の手を取る。

「そんなことない。わたしはここにいるもの」

 天雫との、奇妙な出会いを思い出す。わたしも天雫も、そして千鳥も消えていない。あれだけ合奏したにもかかわらず。彼らがこうして存在していてくれることが、わたしが“武藤凛”であることを証明している。

「そうだ、おまえのリクエストが先だったな、千鳥」

「ア? 何が」

「……遊園地だ。暇だし、行ってやってもいい」

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