【18】傷心の帰還――天雫と千鳥の役割分担
「天雫、おまえ歩ける?」
しばらく天雫の背中をさすっていた千鳥が、気を引くようにてのひらを跳ねさせた。柔らかな金色の髪が頬から離れていく。
「う……うん。だいじょぶ、ごめん」
「これ駅までタクったほうがいいべ。つかまえてくっからこいつ頼むわ。ゆっくりでいいから通りの方向かって来い」
「……わかった、ありがとう」
千鳥と天雫の声が、海を隔てているくらい遠くに聞こえる。こいつらがわたしを置いていけば、このまま野垂れ死ぬんだろうな、と思った。マンションまで自力で辿りつける気がしない。早くうちへ帰って、柔らかくあたたかなものにくるまれて眠りたい。それなのに帰路さえうまく思い出せない。どちらかのてのひらを、手や背中や肩のどこかに常に感じていた。
タクシーを降りるとき、ふらついてアスファルトに膝をついた。斜め掛けにしていたボディバッグを天雫に渡し、千鳥は自分の肩に凛の腕を回して立たせる。
「……アマティは」
「天雫が持ってるよ、こんな時くらい自分の心配しとけ」
凛が発した言葉はそれだけだった。半分ふたりに抱えられるようにして、なんとかマンションへたどり着く。
凛を支える千鳥は、寝室には入らなかった。ドレスのままソファに横たえる。ブランケットがそっとかぶさってくる。離れようとする手首を無自覚に掴んだ。どちらの腕だか、太さでわかる。
「何か、歌ってくれ」
目を開ける気力もなかった。取り縋った手を、天雫の両手が包む。やがてドアの開け放たれたらしい防音室から、ピアノの音がこぼれてきた。グノーの「アヴェ・マリア」。
(そうだ、この音が聴きたかった)
抑えられたタッチ、囁くようなトーン。天雫の声が頭を撫でてくれる。こんなふうに歌ってほしかった。こんなふうに手をつないでほしかった。それだけでよかった。長い間それだけを、わたしはずっと待ち望んでいたのに。
子宮にいたころ、こんな心地よいあたたかさにくるまれていた気がする。まだわたしが、母さまに望まれていたころ。それともその頃から、へその緒からわずかずつ漏れ出す憎悪を糧にしてわたしは育っていったのだろうか。
父の悪意と、母の憎悪でできているこの体。
重くないはずがない。淀んでいないはずがない。
わたしには清潔であたたかな血脈の代わりに、黒ずんで腐臭を放つ害意が流れているのだから。
三度ほど繰り返して弾き、さらにもうしばらく演奏してから、千鳥はピアノの蓋を閉めた。足音を殺してリビングへやってくる。眠りに落ちた凛の顔は青ざめている。これでも先ほどよりはましになった方だ。
「……ひどいね」
「おおなんか、エグすぎて笑ったけど。おまえどこで寝んの?」
「ここにいる。凛、途中で起きて何か飲むかもしれないし」
「だな」
天雫は凛の手を握ったままだ。ソファの置かれたラグに直接腰を折ろす。すぐ傍らに、千鳥が並んだ。
「……千鳥、ありがとう」
「お?」
「凛がお母さんにひどいことを言われた時、言い返してくれて」
「……ああ、別に」
千鳥はわずかに躊躇ってから口にする。
「昔、俺も言われたことあるんだ。“消えてくれればよかったのに”って。一回経験しとくと傾向と対策練れていいな」
「……誰に?」
「生みの親?」
「そんな……そんな、ひどいこと……」
「空人がキレ散らかしてたからな。僕の息子を消してたまるかって、守ってくれたのだけ覚えてる。……あいつみたいに、できてたといいけど」
「めちゃめちゃやってくれたよ。あなたがいてくれなかったらわたし、凛をここまで連れてこられなかったと思う」
「いや、おまえもな?」
ソファの足元、ラグに直接座って顔を見合わせるかたちになる。
「あんなふうに泣いたり、歌ったりは、俺にはできねえから」
「……」
「俺たちはきっとそれでいいんだよ。俺だけができること、天雫にしかできねえことってのがそれぞれあるし、俺にも天雫にもできねえことは凛ができるしさ。それでいいんじゃねえの」
凛の手を包む天雫の手に、千鳥の手が重なる。ようやく乾いた天雫の瞳が、再び潤んだ。
「……うん」
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