【17】冥との訣別――美しき、微笑み
「ありえねえ、マジで」
ジャケットを早々に脱いで、千鳥は吐き捨てた。
「こんなん音楽界の損失だろ、ほんとナメてんな」
「どうすればいいの? 凛はヴァイオリニストになんだよ、発行禁止なんておかしいよ」
「とりあえず飯食って作戦練るべ、なあ凛」
ついてこない凛にようやく気づいて、千鳥と天雫が振り返る。ふたりの声が耳に入らないように、凛はエントランスに佇んでいた。その肩に、そっと冥が手をかける。
「残念だったわね、凛。……あんなに頑張ったのに」
「母さま……」
ふらふらと振り向く。凜を見つめる冥は――微笑んでいた。
「……母さま?」
突き飛ばされたように、ヒールを不規則に鳴らして凛は後ずさる。
「どうしたの? 凛、わたしに笑ってほしかったんでしょう? ……ほら、今、お母さんこんなに幸せなのよ」
十数年ぶりかの冥の笑顔。そうだ、ずっと見たかった。美術館の奥深くに秘蔵された絵画のように。禁じられた宗教画のように。――ライセンスを取得して、安堵と祝福にみちた笑顔を、見たいと思っていた。
「面白いことを言ってたわね、あなたは誰も傷つけていないですって? それは違うわ、凛。あなたが鳴らすたびに、私は傷つけられてきた。……
天雫の喉の奥で、ひゅっ、と音がした。血の気をなくして凛の腕に取りすがる。
「あなたが生まれるまで、聖二さんは完璧だった。あなたが生まれてから何もかも狂ったのよ。あなたが作曲させ、あなたが演奏させたのよ。あなたが私から聖二さんを奪ったの。あなたがわたしを不幸にしたの。全部あなたのせいよ。世間は聖二さんを悪魔呼ばわりしているけど、私にはわかるわ。本当の悪魔は聖二さんではなく凛、あなただって」
凛の腕を抱きしめたまま、天雫はただ目をみはって冥を見つめている。華奢な腕から伝わる小刻みな震えを、淡々と感じていた。
「去年だって、あなたの受験を止めるためにいろんなSNSで発信して、ようやく諦めたと思ったのに。ライセンスを取ったって、同じことをするだけだと思っていたら……まさか、発行禁止になるなんてね」
可笑しくてたまらないように、冥の語尾は高く揺らいだ。
「ねえ凛、お母さんすごいでしょう? あなたの正体を、ずっとわかっていたのよ。これで、あなたが悪魔だって証明がされたんだもの。明日の結婚式も心配いらないわ、手ぶらで来てくれればいいの。あなたに家族なんかいないってこと、わかってほしかっただけだから」
「いますよ。家族なら」
答えたのは千鳥だった。凛のもう片方の手を、熱い手が力任せに掴む。長いピアニストの指。
「思い通りに凛が消えてくんなくて、残念だったっすね?」
「ええ、そうね。でもこれでやっと、わたしはこの子のヴァイオリンを聴く苦痛から解放されるわ。あなたもありがとう、こんなくだらない茶番劇につきあってくれて」
「世紀の天才ヴァイオリニストの、快進撃の第一歩っすから。……見てろよ、こんなんじゃ終わらねえからな」
「面白い冗談だわ」
笑顔のまま千鳥と敵意をぶつけあう冥に、凜は静かに頭を下げる。
「……気がつかずに、申し訳ありませんでした。でも、わたしは……母さまを傷つけるつもりなど、」
「あなたの“つもり”は関係ないわ。あなたの演奏は、そこにあるだけでわたしには暴力よ。シュティレの人の言うとおりにね」
そう言うと上品に結った髪をなびかせ、冥は振り向かずに歩いていった。開いてゆくばかりの距離を、凛はただ見つめている。視界から冥が消えても、あらぬ方向をずっと眺めていた。
「凛……」
放心した凛の腕を天雫が引く。こわばった笑顔を作っていた。
「凛、かっこよかったよ。本当にすごかった。疲れたでしょ。ね、帰ろ」
遠隔からの中継のように、凛が応えるまでには不自然なタイムラグがある。
「……なんだろうな、脚が動かん」
意識が半分別世界にいるような、曖昧なトーンだった。
「天雫、千鳥、すまなかったな。わたしがもっときちんと母さまの気持ちを汲み取っていれば……こんな、無駄足をさせずにすんだものを」
「こっちこそ、よそんちの事情にクチ出して悪かったな」
「いや……」
返答さえも大儀そうだった。か細い
「……なぜおまえが泣くんだ?」
「凛それ傷ついていいんだよ、こんなの平気なわけないよ」
うなじに絡む、リボンのソルフェリノ。苦しげに泣き声を吐き出す。
「あなたは傷つくことすら取り上げられていた。こんなのあんまりだよ。一番つらいのはあなただったのに」
凛の首に腕を回した。触れ合う頬に涙が移る。
「おい……?」
「ごめんね凛、ごめんなさい。あなたの苦しみを代われなくて。あなたはこんなに苦しんでいるのに。こんなにあなたのそばにいたのに」
震える呼吸とともに華奢な肩が上下する。そうじゃないのに、と思った。騙していたのはわたしのほうだ。天雫が騙されてくれていることが、わたしを強いと言ってくれることが、なけなしの、プライドだったのに。天雫の頼りなげな体温が、それでも凛をあたためる。
(ああそうだ)
先生のもとで、厳しい指導に歯を食いしばっていたとき。まわりから疎まれて苦しんでいたとき。そして去年、ライセンス試験を断念したとき。母さまはどんな時も、決して私に触れようとはしなかった。言外にどれほどの拒否をこめていたことか。薄々気づいていた。知っていたはずなのに、認めたくはなかった。それがこの結果を招いたのだ。完全な自業自得。それはそれとして、なぜこいつはこんなに泣いているんだろう。
(鬱陶しい奴だ)
痩せぎすのわりに体幹は厚かった。天雫はこの体で声を走らせるのだ。一端のソプラノじゃないか。
(あとで誉めてやろう)
か弱いぬくもりに抱きしめられるまま目を閉じる。あんなにも望んでいたはずの冥の微笑みが、烙印のように胸を業火で焼いていた。
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