【第十話.優しい先生】
ハッと、千紗の意識は現実に引き戻る。
化学室には、アンモニアのかすかな匂いが残っていた。
授業はすでに終わっているようで、そこにあるのはしんとした空気だけ。
だが、依央はまだそこにいた。
白衣姿の朝倉は、薬品棚の前で試薬瓶を整理している。
「……」
依央は椅子に座ったまま、視線はぼんやり窓の外。
なぜだか、千紗の知っているような、強気な顔ではない。
その足元に、千紗は座っている。
「ねえ、依央」
声は届かない。
けれど、千紗には見えている。
依央の足元から床へ伸びる、あの根。
他のみんなとは違う、黒く、湿った、植物のような根だった。
千紗は、そっと息を吹きかける。
するり、と一本ほどけた。
その瞬間だった。
「っ……!」
彼女が急に胸を押さえた。
呼吸が浅いのか、それとも出来ていないのか。
苦しそうに悶え始めた。
「……は? なに、どうしたの?」
心配をする千紗を他所に、依央の顔はみるみる赤くなり、そして次の瞬間。
激しく咳き込んだ。
「げほっ……げほっ……!」
喉を掻きむしるようにして立ち上がる。
「……苦し、っ……!」
皮膚にじわりと赤い斑点が浮かび始めた。
朝倉が振り返り、教え子の異変に気付く。
「どうした?」
依央は答えられない。
呼吸ができないのだ。
喉が、急速に閉じていく。
「……」
朝倉の目が、一瞬だけ細くなった。
「アナフィラキシーかっ!」
彼は迷わなかった。
白衣のポケットに手を入れる。
取り出したのは、黄色と青の小さな注射器。
「動かないで」
依央の腕を掴む。
「エピペンだから」
安全キャップを外し、そのまま、太ももの外側に押し当てた。
「っ!」
ガチッという作動音の後注射器が打ち込まれる。
数秒間、朝倉はそのまま押し付け続けた。
「……よし、いい子だね」
ゆっくり離すと、依央は床に崩れ落ちた。
「……はぁ……はぁ……」
まだ息は荒いが、喉は開いてきている。
「救急車を呼ぶよ」
朝倉は淡々と告げる。
「初期対応はしたけどね。念のためさ」
依央は何も言えない。
ただ呼吸を取り戻そうとしている。
その様子を。
千紗は、ただ呆然と見ていた。
「え。――なに、今の」
彼女の真白な脚を見る。
根が、一本、切れている。
「……私?」
教室の空気は静かなままだったが。
ふと、息も絶え絶えな依央が、千紗を見た。
その瞳の色を表すならそれは、恐怖であると言えた。
◇
千紗は、朝倉に付いていくことにした。
朝倉は、依央を抱きかかえて、比較的人の少ない新校舎西側の階段を一階まで降りてから、渡り廊下を渡って旧校舎の保健室まで運んだ。
いいなあ、依央のやつ。
私だって――。
そう思ってから、いやいや、自分はこの男に殺されたんだと気付いて、首をぶんぶんと横に振ったりしてみたりしながら歩くと、保健室はすぐだった。
すぐに保健の優しいお姉さん先生、木下萌先生が依央を受け取って、119番通報をした。
完璧な対応。
完璧な行動。
相手を落ち着かせる優しい笑顔。
どんな状況でも理路整然としている余裕。
朝倉恒一という男は、完璧な教師だった。
自分がこの人に殺されたという事実すら、何かの間違いではないかと思える程だ。
そんなことを考えながら、イケメン先生を見つめていた訳だが、何かが目に入った。
ちょうど朝倉先生の後ろに、影のようなものが見えたのだ。
「なんだろ?」
目を凝らす。
見えないことは、自分が見ようとしていないことだと、あの子が教えてくれた。
(見なきゃ。二年一組の、秘密を……)
ぼんやりとしたものが、徐々に形を得ていく。
丸い、ボールみたいなのが……。
いくつか見える。
(もう少し、もう少しで)
◇
ぞっ。
◇
時間を置かずに、救急車が到着。
彼は隊員にペコリと頭を下げると、事情を説明するために救急車に乗り込んだ。
千紗は、救急車には乗らなかった。
いや、乗れなかったのだ。
千紗はこの女子高・常盤聖女学院から出ることは出来ない。
しかし、いま『そう』しなかったのは、『それ』が原因だからではない。
見えてしまったから。
優しい先生の後ろに、たくさんの。
たくさんの『頭』が、蠢いていることを。
◇
放課後が過ぎ、誰もいない静寂が、高校を包む。
ひとり、またひとりと教員も退勤し、去っていく。
またしても独りになった千紗は、二年一組の教室にとぼとぼと帰ってきた。
防犯センサーが働いているため、普通の生徒はもう教室に戻れない。
けれど、幽霊になった女子生徒には、関係がない。
窓際一番前、ぷっくりシールの貼られた自分の席に着いて、考える。
昼間見た、『アレ』は、何だったのだろう、と。
朝倉先生の後ろに、無数の頭のようなものが浮かんでいたことを。
泣いている顔だけじゃない。
苦しみを耐えているような顔。
ひたすら何かを嘔吐する顔。
――心の底から、ぞっとする。
心霊映像とかなら、花音や由依、
きゃあきゃあ叫んで、花音なんて、どうしようお家に帰れないなんて言って泣き出す始末だった。
千紗は、冷めていた。
みんな嘘みたいだし、実際嘘なんだと思う。
背筋がぞくっとしたことすらなかった。
だけど、これは違う。
死んでみてわかるけど、霊は実際に存在している。
そして、たぶんだけど。
これが今いちばん恐ろしいのだけれど。
自分よりひどい目に遭った幽霊が、今も、苦しみながらこの学校にいるということなのだった。
そして、そのうち一人と目が合った。
見知った、顔だった。
「……そこにいるの?」
呼びかけるが、幽霊の声は静けさにすらかき消された。
目をこらすが、幽霊の目は人と同じく暗闇では利かない。
はあ。
ため息を吐いて窓の外を見る。
ちょうど、体育の先生で生活指導の高橋先生が、でっぷりとしたお腹を揺すって、駆け足で帰っていくところだった。
「キモいわー」
ぼそりと、つぶやく。
「もう、鳴海さんってば、毒舌ー」
「!」
振り返るとそこには。
月明かりの青い窓辺で。
青陵高のあの赤リボンの子が、柔らかい笑顔を見せて立っていた。
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