第肆楽章
戦災孤児。
よくある身の上だ。スラム街の片隅で、幼きフレドリクは動けなくなっていた。文字どおりの意味で。空腹の余り、指先一つ動かすことすら億劫といった有り様だった。
辺りには、糞尿の臭いが立ち込めている。他ならぬフレドリク自身が垂れ流した結果だ。極度の渇きに耐えかねて、泥水を啜ったために酷い下痢に襲われた彼は、衰弱し、尻を拭くことはおろか、立ち上がって、糞尿で汚れていない所へ数歩歩くことすらできないほどに消耗しきっていた。道を歩く人たちは、誰も彼を助けてはくれない。こんなのは、ごくごくありふれた光景だったからだ。
今日で終わりか、とフレドリクは思った。両親と兄・姉たちを戦争で立て続けに失い、まぁ、今日までよく生きてきたほうだった。浮浪者・浮浪児たちの間で繰り広げられる苛烈な残飯漁りの競争に耐え、残飯が得られなかった日は危険を承知でパン屋へ盗みに入り。ついに見つかり、手足を棒で叩かれ、叩かれ、足の一本が強烈な痛みを発し、走れなくなってからは早かった。
怖かった。こんなになっても、こんなになったからこそ、死ぬのが怖かった。彼は自身の糞尿に沈みながら、震えていた。泣きたい気分だったが、涙は出なかった。余分な水分など、一滴たりとも残っていなかったのだ。
「まだ、生きたい?」
そんな彼を、抱き上げる人物がいた。糞尿に塗れるのも構わず、優しく抱き上げてくれた人が。
ボノ妃。ボルケシア・ノルニル。フレドリクの命を救ってくれた、彼の神様。同時に、ノルニル王国の暗部を一手に預かる、最も闇深い人物でもある。
温かな食事と、清潔な衣服と生活空間。永らく忘れていた幸せを取り戻したフレドリクは、ボノ妃に一生を捧げると誓った。
ボノ妃はフレドリクを愛し、同じように拾ってきた子供たちを愛した。が、それは無償の愛ではなかった。フレドリクが迎え入れられた場所は、王妃が慈愛や戯れのために運営する孤児院などではなかった。国家の未来を支えるための、特殊工作員を養成する場所だったのだ。国中から集められてきた浮浪児たちの中でも、魔術の才能に秀でている者は取り立てられ、より上質な生活を与えられた。
フレドリクは努力した。ボノ妃が喜んでくれるのが嬉しかったから。より上等な服、一人部屋、お小遣い、そしてボノ妃からの『お褒め』という最大の名誉。それらを得るために、幼き少年フレドリクは魔術の訓練に明け暮れた。
『聖歌隊』
という極秘組織がある。ノルニル陸軍にも所属しない、ボルケシア・ノルニル直轄の組織であり、ノルニル王国における最大の諜報機関だ。『孤児院』は、聖歌隊の下部組織であり、聖歌隊員の養成機関でもあった。聖歌隊員は、すべからく頭脳明晰で、見目麗しく、一定以上の武力を持ち、そして魔術に秀でている。
フレドリクは、その聖歌隊に推挙されることができた。ただ、男子のフレドリクが入隊以降も魔術の能力を維持するためには、『性別』を捨てる必要があった。フレドリクは悩んだが、最終的には、入隊することを決めた。フレドリクは手術を受け、男性を捨てた。
すべては、国の未来のために。残酷だとか、そんなことを言っている場合ではないことは、幼いフレドリクにも分かっていた。自分のような不幸な子供をこれ以上増やさないために、必要なことなのだ。
【火球】、【陽炎】、【水球】、【土壁】、【鎌鼬】、【浮遊】、【消音】、【雷撃】、【防護結界】、【治癒】、【思考加速】、【身体加速】、【未来予知】、【過去改変】――それが、若干五歳にして、フレドリクがマスターした魔術の数々だ。
圧倒的な魔術センスを持って生まれ、さらに寝食を忘れて特訓に没頭した彼は、本来は【女神召喚】した状態でなければ使えないはずの三女神の魔術を、女神化無しで扱うことができた。【思考加速】数十倍、【身体加速】数倍、【未来予知】を数秒先まで、【過去改変】をゼロコンマ五秒以内まで。女神化すれば、さらなる威力強化が見込めるだろう。だが、そんなフレドリクにも、弱点があった。
女神化が、できなかったのだ。どれほど魔術を極めようとも、聖歌隊に入隊する意思を固めようとも、『自分の本質は男だ』という意識が邪魔をしたのだろう。
とはいえ、それはあまり問題にならなかった。フレドリクは、【女神召喚】をせずして並の女神召喚師と同等以上の魔術を扱うことができたからだ。女神と同等の魔術が使えるのならば、【女神召喚】というステップを踏まずに魔術を発動させることができる分、むしろ戦闘では有利とすら言える。フレドリクはあくまで諜報活動や個別戦闘を生業とする諜報員であって、隊列を組んで一糸乱れぬ機動で敵集団を圧倒する女神軍人ではないのだから。
最年少の五歳にして聖歌隊入りしたフレドリクの初仕事は、『捨てられたお姫様』を陰ながら警護することだった。フレドリクはこの当時、既に【陽炎】の魔術の応用で姿を消すことができたため、この任務にうってつけと言えた。
フレドリクは、ボノ妃の手引で王城の最奥、最重要機密区画『塔』へと侵入した。侵入してみて、驚いた。なんと、先客がいたのである。『棄却済王女』キリヱスタ・ノルニルに餌付けし、言葉を教え、王女キノとすっかり仲良しになっていた角牛の仮面の男。
すぐにボノ妃に報告したところ、角牛の監視・牽制も任務に加えられた。そこでフレドリクは、正体を隠しつつキノ及び角牛の男――イズール・サンに接触した。こうして、キノ、イズール、フレドリクという、キノの幼少時代を彩る三人組が結成された。
イズールはキノに言葉と、ちょっとした体の動かし方を教えていた。フレドリクは負けじと、キノに魔術と射撃を教えた。キノは頭が良く、魔術のセンスも抜群で、数々の魔術をあっという間に習得してしまった。もっとも、射撃の方は壊滅的で、味方を誤射する未来しか見えなかったため、フレドリクは早々に諦めた。どうもキノは、運動神経が悪いらしい。剣術の天才・イズールがキノに簡単な運動方法しか教えていないのは、恐らく既に剣術指南に失敗したからだろう。
キノと触れ合うようになって、フレドリクはあっという間にキノを好きになった。『センセ、センセ』と懐いてくれる彼女が無性に可愛くて、逢っていない時間ですら、気が付けば彼女のことばかり考えるようになっていた。
どちらがキノをお嫁さんにするのかを賭けて、イズールと決闘したりもした。だが、結果はいつも敗北。それも当然のことだった。フレドリクはキノに対して恋心を抱きながら、同時にこの恋を諦めてもいた。フレドリクには情愛はあっても、性愛はない。性がない以上、本当の意味ではキノと一緒になることができないのだから。
四年前の、空中庭園襲撃事件。王都中が炎に包まれたあの日以降、フレドリクに新任務が与えられた。キノの監視護衛は、『聖歌隊』にとって本務とは言えない、あくまでボノ妃のプライベートな任務に過ぎない。スパイ活動・破壊工作こそ、聖歌隊の本懐だ。フレドリク――いや、『フレデリカ』は、ノルニルの息のかかったレジスタンスに加入することになった。ヤタロウが主催する、あのレジスタンス組織のことだ。
それから、実に四年間。フレデリカは献身的に働いた。レジスタンスにもよく馴染んだ。ヤタロウやジークを始め、レジスタンスたちはフレデリカを快く迎え入れてくれた。多額の資金援助をしてくれているボノ妃のお気に入り、ということもあるが、そういうことを抜きにしても、驚くほど有能だったからだ。アズマの機密情報強奪、兵站線の襲撃、撹乱情報の流布など、フレデリカ加入によってできるようになった仕事は多い。フレデリカはキノのことを忘れ、任務に没頭した。
フレデリカはレジスタンスのメンバーたちに、自分が聖歌隊の所属であることや、浮浪児出身であること、扱える魔術が多岐に渡ることなど、ほぼすべての情報を開示していた。ただ、自身が性別を失っていることだけは絶対に明かさなかった。当然のことだ。いくら国家存亡を賭けてのこととはいえ、国家が幼い少年たちをカストラート(去勢された男性ソプラノ)にしているなど、明かせるはずがない。そのためフレデリカは、あくまで女性を装っていた。
そんなある日――あの、【アマテラス・オリジン】によって三女神の一柱が膝をおらされた、その数日後、フレデリカは驚くべき暗号文書を受け取った。ボノ妃からの指令だ。
『数日以内にキリヱスタ・ノルニル中尉が喉笛の街を訪れる。これを護衛し、心臓破壊作戦を遂行せよ。なお、キリヱスタ・ノルニル中尉の生命を最優先とする』
(キノ⁉ キノだって⁉)
忘れ去っていたはずの恋心が、再燃した瞬間だった。こうしてフレデリカは、魔物に襲われている少女を装って、何食わぬ顔でキノと再会した。
キノがフレデリカの前で女神化を解いた瞬間、(キノだ!)と胸が高鳴った。彼女の裸身を見て、失われたはずの性愛すら思い出すほどだった。四年を経て、強く美しく成長したキノ。
だが、そんなキノの隣に立っていたのは、あのライバル・イズールだった。デュヱットで来ることは知らされていた。だが、まさかその相手が、あのイズール・サンだったとは。情報収集に長けていたフレデリカは当然、『東方不敗』と名高き傭兵の存在も、その傭兵が角牛の仮面を被っていることも知っていた。恐らく、『東方不敗』があの少年イズールと同一人物だろう、ということも。
そこまで知っていたのに、フレデリカは情けないほどの衝撃を受けた。世界中の女神召喚師から『乗られてみたいパイロット、ナンバーワン』と囁かれている最強の傭兵。なるほど、キノに相応しい相手だと言えるだろう。そして、その太く力強い声!
声は、フレデリカの誇りであり、同時にコンプレックスでもある。第二次性徴期を経てもなお高音域歌唱――ヱーテルを活性化させ、数々の現象を起こさせる『魔術』が使えることは、フレデリカにとっては誇りだ。だがその誇りは、異性を愛せなくなってしまったという悲しみの裏返しでもある。フレデリカは、その悲しみから目を逸らすために、ことさら魔術の腕を磨き、その腕前を誇っている。
そんな彼の前に現れたイズールは、男性的な大きな体を持ち、地鳴りのようによく響く声をしていて、何よりキノと非常に仲が良さげだった。喉笛の街でちょっとした観光案内をしていた、あの時。笑顔を装いながら、フレデリカは内心、嫉妬でぐちゃぐちゃだった。だが、
『分からない。この感情が何なのか。それに、この感情を向けるべき相手はもう一人いるンだ』
『へぇ。こんなに可愛い女の子を置き去りにして、そのひどい男はどこにいるんだい?』
『フレディのことを悪く言うな!』
『フレディ? 僕?』
『……すまない。キミによく似た名前の友達がいるンだ。大切な、大切な友達が』
キノが『フレディ』のことを今も大事に思ってくれていることを知り、フレデリカは気を良くした。
キノは明らかにイズールを意識している様子だったが、同時に異性に対する警戒心も抱いているようだった。その点、『フレデリカ』はキノと同性だったため、女友達の距離感であっと言う間に親しくなることができた。気持ちは相変わらず複雑だったが、キノと再び仲良くなれたのは嬉しかった。
キノは以前と変わらずキノで、強くて凛々しくて、そして食いしん坊だった。
フレデリカは、楽しかった。楽しかったのだ。
『左心室』の、天守閣襲撃の時。陣形の都合上、フレデリカは後方にいた。キノがイズールに捕らえられた時、フレデリカと魔銃部隊は天守閣の中頃にいた。そのため、フレデリカと一行は難を逃れた。
身を隠したフレデリカだったが、上階層から激しい戦闘音が鳴り響き、超巨大アマテラスが立ち上がり、そして太陽によって潰され、城が沈黙に包まれたあたりから、自軍が不利な状況に陥っている可能性について考えた。そこで、銃隊の一部を偵察に向かわせ、自身は引き続き身を隠した。
まるで銃隊を――仲間を使い捨てにするようなやり方だったが、仕方がなかった。ボノ妃から、『キリヱスタ・ノルニル中尉の生命を最優先とする』と命令されていたからだ。フレデリカにとって、レジスタンスのメンバーは大切な家族だ。だが、彼らへの愛とボノ妃への忠誠心を天秤にかけた場合、ボノ妃が優先される。この体は一つしかなく、自分にできることは限られている。ならば、より優先度の高いことに自分を使うべきだ。すべては優先順位の問題なのだ。
こうして、斥候からの情報を得つつ天守閣から撤退し、『左心室』の片隅で息を潜め、私情を殺して機会を伺い続けていたフレデリカは、カヱデの決死の行動によってキノが自由を得、脱出したのを目撃した。だが、キノはあまりにも速くとても追いつけるものではなかった。
それでもフレデリカは、人の身で【加速】の魔術を扱うことのできる、王国屈指の魔術師である。【加速】や【浮遊】の魔術を駆使し、キノのヱーテルの残滓を追いかけていった。キノとはだいぶ距離を空けられてしまったが、それでも三女神が掲げる盆の手前にまで到達することができ、ギリギリ、間に合うことができた。
そう、ギリギリだったのだ。本当にギリギリだった。まさか、キノが空から降ってくるとは想像だにしていなかった。彼は咄嗟に展開させた【羽布団】の魔術でキノを受け止め、【浮遊】でその高度を維持した。
「助けに来た」万感の思いをもって、キノにそう語りかけた。「遅くなって、ごめん」
四年も掛かっちゃって、ごめん。
♪
「え……えぇえええええええええ⁉」キノは仰天する。「フレディ⁉ あの、『塔』によく来てくれていたフレディなのか⁉ いや、でも、その顔はどう見てもフレデリカ……」
いろいろなことがいっぺんに起こりすぎて、キノはもはや何が何だか分からない。
「そうだよ、ボクはフレデリカ、そして僕はフレドリク。キミの幼馴染だ」
「いや、でも、だって、おかしいだろう⁉ 私の幼馴染は、男の子だったはずだ。なのに、お前の声は、高い……」
「僕は」フレディが、寂しそうに微笑む。「性別を持たないんだ」
「どういうことだ?」
「考えてみたことはなかったかい? 男性は、女性よりも肺活量に優れている」
フレディは小柄な方だが、それでもキノよりはずっと大きい。
「けど、男性は声変わりをしてしまう。そうなると、男性は高音域の声を失い、攻撃魔術が使えなくなってしまう」
そうだ。それが、魔術世界における最大の制約にして大原則。高音域はヱーテルの活性化、低音域はヱーテルの沈静化。だから、比較的体力の少ない女性が最前線で戦い、男性は女性らをサポートする、という構図が出来上がっているのだ。もっとも男性には、パイロットとして女神を操るか、もしくは『
だが、もしもその原則が崩れたとしたら?
「もしも、男性の肺活量と体力で、高音域を歌える歌唱師が存在するとしたら?」
「ま、まさか――」
「カストラート。それが僕さ」
「ふ、フレディ……」キノは何と言ってよいか分からない。
「まぁ、そのことはいいんだ。もう、何年も前の話で、自分の中で折り合いはついているからね。それに、そのお陰で、こうしてキミを守ることができた。さぁ、反転攻勢といこうじゃないか」
「でも」キノは、表情を暗くする。「魔石はすべて、奪われてしまった」
そう、シノの裏切りによって。
「え? でもキノ、その、輝いているソレは?」
「ん?」言われて見てみれば、コートのポケットが光り輝いている。「これは」
取り出してみた。みすぼらしい、ちっぽけな魔石。国宝【零式ノルニル】のニセモノ――だと思っていたその魔石が、今、神々しいまでの輝きを放っている。
「ど、どういうことだ? まさか、本物だったのか⁉」
キノに魔石を手渡した際のボノ妃の態度から、そして今までろくに起動できなかったことから、キノはニセモノを掴まされたものとばかり思っていたのだ。先ほど、シノが要求してこなかったことも、その考えを補強した。シノもまた、ニセモノだと思っていたのだろう。本物の国宝は、愛する母が自分のために取っておいてくれているのだろう、と。
「その輝きを見る限り、本物に見えるね。僕は本物を見たことがあるから」
「えっ? それはどういうことだ?」
「僕はボノ妃と懇意だから。まぁ、詳しい話はまた今度しよう」
フレディが言いにくそうにしていたため、キノはそれ以上の詮索を止めた。
「でも、だとしたらなぜ私は、こいつを起動させることができずにいたんだろう?」
「たぶん、単純にキノの歌唱の技量が足りていなかったからじゃないかな?」
「なっ――」キノは、文字どおり言葉を失う。
キノは、実は自信家だ。ヱーテル過多な体質ゆえに、イズールのような優れた男性歌唱師がいなければ女神を暴走させてしまう、という弱点は持つものの、【女神召喚】に関しては一家言持っていると思っていた。その自分が、技量不足で起動させることすらできずにいただなんて。そして、よりにもよってボノ妃が、キノには起動させられなかった【零式ノルニル】をあそこまで自由に操れていただなんて。
「こ、この私が⁉ ボノ妃って、そこまで強かったのか⁉」
だが、考えてもみれば当然の話であった。デュヱットは、二人揃ってデュヱットだ。ピノ王はピノ王でイズールを凌ぐほどの剣客だったに違いないが、ボノ妃もボノ妃で超一流の女神召喚師だったのだ。キノの持つ先入観が、いろいろな物事に対する見え方を歪ませてしまっていた。
「でも」キノは国宝を見つめる。「どうして今になって輝きはじめたンだろう?」
「これじゃないかな?」フレディが、辺りに漂う高濃度ヱーテルの粒子を示す。「早朝の、【アマテラス・オリジン】による活動――起立と、蹴りと、転倒を受けて、大地に淀んでいたヱーテル粒子が天高く舞い上がったんだよ。それが、この時間になってもなお、こうして空中を漂っている。これだけのヱーテル粒子だ。【零式ノルニル】が反応するのも無理はない」
「なるほど」キノは頷く。「それにしても、そうか。これが、父と母が【ノルニル・オリジン】から直接賜ったという原初の宝玉。だが、どうしてボノ妃は、これを私にくれたのだろう?」
「直接聞いてみればいいさ。さぁ、召喚してみてごらん。僕は、キノの歌が聴きたい。さっきキミは、『誰のために歌えばいい?』って言ってたけれど。だったらキノ、今は、僕のために歌ってよ。僕のためだけに」
「ああ、ああ! 分かった。私は、フレディのために歌う!」キノはコートを脱ぎ、フレディに預ける。それから、深く深く息を吸い、吐き、再び吸う。腹式呼吸。「【女神召喚・零式ノルニル・ララルララルラルラァーー~~~~ッ!】」
だが、宝玉は反応しなかった。
「大丈夫。続けて」フレディが息を吸う。「【女神召喚・零式ノルニル・パラリパラルラルラーー~~~~ッ!】」
二重唱。無限のヱーテルをその身に秘めたキノの、精一杯の歌唱。無限の才能と強力な肺活量をその身に秘めたフレドリクの、見事な歌唱。二人の歌唱を聴いた【零式ノルニル】が、より一層強い輝きを放った。
「――!」キノは、目を見開く。自身の丹田から計測不可能なほどの量のヱーテルが吸い上げられ、【零式ノルニル】の中に吸い込まれていったからだ。【零式ノルニル】の中で練り上げられたヱーテルが鋼鉄の肉体となって、キノを包み込む。
「……で、できた」キノは、自身を見下ろす。七メートルの巨体。
二本の腕と四本の足。右手に握られた長剣。現在の女神【ヴェルダンディ】。
背中から伸びる、三対の翼。未来の女神【スクルド】。
左腕に装着された円盾。過去の女神【ウルド】。
「できたできたできた! この私が、原初の女神を――うっ」だが、体はすぐに暴走を始める。(くそっ、やはり私は、イズール抜きでは駄目なのか⁉)
「ハッチを開いて!」フレディの声。「早く!」
「りょ、了!」
ハッチを開くと、フレディがコックピットへ飛び込んできた。
「カストラートの力を見せてあげるよ。【喉仏・ヱーテル総量一万・パラリラルラー~~ッ!】」フレディが、歌った。すると、「ほら、どうだい、キノ?」
「えっ⁉」キノは驚愕する。「その声――」
「うん。オォ~~~~ッ!」低い、声。低音域の歌唱が、キノ機の暴走を鎮める。
「どういうことだ⁉」
「疑似喉仏さ」自身の体内から響く、フレディの声。低く太い、男性的な声。キノは、その声に包まれているような心地になって、ゾクゾクする。「このとおり、フレデリカのボクと、フレドリクの僕を行ったり来たりすることができるのさ」
「あはァッ! 何でもアリじゃないか」
「そうなんだ。本当は、たくさんの人に自慢したいところなんだけど、生憎と僕ら聖歌隊は国の恥部でね。今は緊急事態だから開示したけれど、キノも僕がカストラートだってことは秘密にしておいてほしい。さぁ、行こう。各部A/Bに充填を頼めるかい?」
「了! 【各部A/B充填・ヱ―テル百万単位・ララルラルラァー~~ッ!】」
フレディが、ジェットヱンジンを全開にさせながら、背部の翼を鋭く動かす。その直後から、キノ機は彼女自身でも理解できないほどの速さで飛翔しはじめた。キノは、全能感に包まれる。自分は今や、三女神の生き写しだ。そして、フレディさえいれば、【零式ノルニル】を暴走させずに操ることができる。イズールなどいなくとも、自分は依然として最強なのだ!
あっと言う間に、盆の上にまで到達した。
「なっ――【零式ノルニル】⁉」声の方へカメラを向けてみれば、盆の縁で、シノが腰を抜かしていた。その顔が、みるみるうちに絶望に彩られていく。「そんなっ、それじゃ、お母様は……」
シノが、立ち上がった。シノのパイロットと、三人のデュエットも身構える。
「キノォォオオオオッ! その宝玉は、私のものだ! 【返せぇえええええええええええええええええええええええええええ!】」怨嗟の叫びを歌唱にして、シノが全長十五メートルの鋼鉄の飛行機――【伍式スクルド】に変身する。
「はんっ、何が『返せ』だ。これは私が、お前の母君からもらったンだ」
キノが挑発している間に、残り三人の女神召喚師が女神に変じる。【伍式ヴェルダンディ】がニ機と、【伍式ウルド】が一機。
「キノォォオオオオオオオオッ!」
シノがキノの挑発に乗って叫んでいる、その間にもパイロットが冷静にシノのハッチを開き、乗り込んでいく。他の三機のパイロットも同様だ。召喚開始から、ものの十秒で戦闘準備が整いつつある。極めて高い練度と言える。が、
(【思考加速六百倍】。【身体加速六十倍】。……遅すぎる)【加速】の魔術を自在に操るキノからすれば、敵は止まっているに等しい。(【加速】使いを目の前にして、悠長に【女神召喚】しはじめる――その時点で、こいつらはセンスがない。イズールならきっと、無駄口一つ叩くことなく、こちらを叩き斬りにきていることだろう)
だが、キノは待つ。シノ小隊の準備が整うのを。自分を突き落としてくれた――殺意を持って殺そうとしてくれた、その意趣返しがしたかったからだ。
――ドゥッ!
A/Bを全開に噴かせたシノ機が夜空に舞い上がった。実際には、キノの世界では六百倍に間延びして聴こえているのだが。
「どう戦う?」フレディが話しかけてきた。体感が十分の一になった世界で、器用にも。
「シノ、は、生け、捕り」不慣れなキノは、苦労して言葉を紡ぐ。体感十分の一の世界では、気ばかりが先走って、口が追いつかないのだ。「他は、できる、限り、殺さ、ない」
「ふふっ。了」感情のこもった笑い声まで。日頃から【加速】に慣れている証拠だ。やはり、フレディは相当な使い手であるらしい。「いくよ」
フレディが、キノ機を本格的に操縦しはじめる。キノ・フレディ機は地面を強く蹴り、シノ機よりもなお高く舞い上がった。緩慢な動きで――キノたちから見れば、の話だが――上昇中のシノ機に対して、その片翼を叩き斬るべく、剣を振り下ろす。
剣が、シノ機の右翼に触れた。次の瞬間、奇妙なことが起こった。カメラの視界が靄がかったようになったかと思った、その次の瞬間、剣がシノ機の翼をすり抜けたのだ。『斬った』という事実が『なかったこと』にされた。【伍式ウルド】の魔術【過去改変】だ。
(護衛の【ウルド】。相当の使い手だな)
続いて、二機の【ヴェルダンディ】が左右からまったく同時に斬りかかってきた。速い。六百倍の世界ですら、どのように動けば避けられるのか、キノには想像がつかなかった。恐らく数倍から十数倍の【身体加速】を行っているのだろう。かなりの使い手だ。
「キノ、右脇腹に【過去改変】。体感十秒後」
「了!」
フレディが見事な操縦で身を翻し、左から迫る【ヴェルダンディ】の剣を弾き返す。隙が生じた右脇腹にもう一機の【ヴェルダンディ】による刺突が刺さるが、刺さった直後にキノは歌唱し終わっていた。【過去改変】が、キノ・フレディ機に生じた刺傷をなかったことにする。
その頃にはもう、シノ機はキノ・フレディ機よりもさらに高度へと舞い上がっていた。二機の【ヴェルダンディ】によってキノ・フレディ機に生じさせた隙を突いて、上空から振り下ろすような射撃を加えてくる。シノ機は、【伍式スクルド】が持つ能力――数十秒先までを【予知】する魔術を駆使して、キノ・フレディ機の動きを先回りしてくる。さらに、二機の【ヴェルダンディ】がシノ機の動きをよく見たうえで、絶妙なタイミングでキノ・フレディ機を牽制してくる。キノ・フレディ機が【ヴェルダンディ】のいずれかに対して放った攻撃はすべて、下方からこちらを伺っている【ウルド】の【過去改変】によってなかったことにされる。
実に良くできた連携だ。並の女神ならば、瞬殺されていたことだろう。だが、
(あはァッ! 面白くなってきた。――が)
相手は、絶好調のキノと、女性の喉と男性の肺を持つ稀代の天才・フレディだった。
「フレディ、遊びは、終わりだ」
「了」
シノは、数十秒先までの【未来予知】が使える。【未来予知】を駆使して、シノはキノの行く手を阻む。だが、いつの間にか、その動きが逆転しはじめていた。シノがキノの動きを先回りしているはずが、キノがシノに先んじて動き、シノの動きを封じるようになっていった。
理由は、簡単だ。シノは秀才で、かなりの量のヱーテル総量を持ち、ノルニル王国の傑作量産索敵機【伍式スクルド】を使いこなしている。ノルニルの名に恥じない、一騎当千の戦士と言える。が、相手が悪すぎた。
相手は、キノとフレディだった。恐らく人類史上最大のヱーテル総量を持つ化け物キノと、数多のカストラートを排出してきた『聖歌隊』の支配者ボノ妃が、この世で最も愛した天才フレデリカ・フレドリク。この二人によるデュヱットを相手にしたことが、敗因だった。相手にした時点で、シノは負けていた。
キノは、シノのすべてを【予知】した。シノができるのは、たかだか数十秒先までの【未来予知】。だが、無限のヱーテルを持つキノが原初女神の写し身【零式ノルニル】となった今、その予知期間は数分先を優に超える。キノは、シノの動き――キノの動きを予知したうえで先回りしようとしてくる、その動きをさらに予知して、シノの企みのすべてを丸裸にし、端的な言葉でフレディに共有する。キノと以心伝心のフレディは、その巧みな操縦技術をもってシノ機に先回りし、キノの魔術を二重唱にすることで威力を数倍化させ、敵を圧倒した。
外部時間にして、ほんの数分の攻防だった。片翼を落とされたシノ機は、命からがら、といった様相で、【アマテラス・オリジン】が倒れている方向へ全力の逃走を始めた。
無様に逃げるシノ姫を三機の女神たちが必死に援護する。キノ機は低音域歌唱の載った剣で殿の【ヴェルダンディ】を両断。強制【女神送還】されて空に投げ出された男女を危なげなく拾い上げた。
「キノ、どうする?」
(このまま追いかけてもいいが)キノは後部カメラで状況を確認する。武装した女神一個小隊――ウノ司令官が率いる女神師団の斥候がこちらへ上がってきつつある。戦闘音を聞きつけたのだろう。「ここまで、だ。【加速解除・ヱーテル一単位――ラッ】」
世界が、一倍速に戻った。一倍速の視界の中、斥候兵たちはこちらへ攻撃を仕掛けるべきか、判断しかねている様子だ。
(そりゃあ、迷うだろうな)
片やお姫様とそのお付き。片や伝説の【零式ヴェルダンディ】。客観的に見て、これほど敵味方の識別が困難な戦いもあるまい。
だからキノは、剣をヱーテル粒子に戻した。続いて、「【白旗・ヱーテル一単位――ラッ】」白旗を掲げる。非交戦状態を現す、戦時国際法に基づいた万国共通のルールだ。
「国王に」キノは、フレディにだけ聞こえるスピーカーで喋る。「シノのことを話すのは憂鬱だな」
「優しいんだね」
「あんなのでも、妹だったから」
そう、『だった』だ。今はもう、明確な敵だ。……イズールと同じように。
斥候兵たちがキノ機の上下左右前後を取り囲む。キノ機は斥候兵たちに誘導されるまま、『盆』の中に入り、ゆっくりと飛行して、ウノ司令官たちが駐屯する盆外縁部の前線基地に降り立った。
「所属不明機よ、【女神送還】せよ」こちらを見上げるウノ司令官が、そう言った。
「了。【女神送還・ヱーテル一単位――ラッ】】」
七メートルの巨体が消失し、キノとフレディが宙に投げ出される。フレディが空中で器用にキノを抱きとめ、トレンチコートで簀巻きにした。
「ノルニル中尉!」ウノ司令官が、ひざまずいた。「いえ、キリヱスタ王女殿下。ご無事だったのですね。それに、今の機体はまさしく【零式ノルニル】。まるで、チノ王妃殿下の生き写し。ご立派になられましたな」
辺りが大歓声に包まれる。出撃準備中のデュヱット――何百人もの女神召喚師とパイロットたちが、キノを称えているのだ。彼らは、第二の英雄の誕生を、現人神の降誕を、喜んでいるのだ。
「髪も瞳も顔つきも、母上とは似ても似つかないが」
「ははは。そういう意味ではございません。さぁ、国王陛下がお待ちです」
王城、謁見の間。ここに来るのは、初めてだ。
「よくぞ戻ったな、キノ」玉座の父王が、優しげに微笑んでいる。
「ははっ」キノは背筋を伸ばして屋内敬礼を送る。「申し訳ございません。作戦に失敗してしまいました。それに、私の所為で、多数の女神将校たちを……」
キノは既に、事の顛末をウノ司令官に伝えている。この場が整えられる前に、父王にもその概要が伝えられていることだろう。すなわち、イズールの裏切り、心臓破壊作戦の失敗、キノが利用されて【アマテラス・オリジン】を起動させてしまったこと、そしてシノの裏切りについてだ。
「良い。お前が生きて戻ってきてくれただけで、十分だ」父王が父の顔で微笑んだ。一点、国を預かるものの顔になり、「聞いたぞ、【零式ノルニル】の起動に成功したそうだな。来る最終決戦では、一層の活躍を期待する」
「ははっ」
「今は休め。どのみち、壊乱した軍の再編には今しばらくの時間を要するのだから」
――ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
「敵襲か⁉」「陛下をお守りしろ!」突然の怪音に、居並ぶ大人たちがたじろぐ。
「ぶふぅっ」キノの隣でひざまずいていたフレディが、吹き出した。
キノは腹を抑え、真っ赤になる。
「ふっ」父が笑った。「まずは食事だな」
驚くべきことに、そのこじんまりとした食堂にはボノ妃がいた。
「どうしたんだい、キノ? あとがつっかえちゃうよ」
「……あ、あぁ」
キノに引き続き食堂に入ったフレディが、目を見開いた。それから、恭しく礼をする。ボノ妃が、優しく微笑んだ。
(あの女、あんな顔もできたのか)
父王、ボノ妃、キノ、フレディが着席する。給仕が手早く料理を並べていく。戦時らしく、簡素な食事だ。キノの前にだけは、見上げるほど大量の肉料理が出されたが。
「さて。まずは、キミの名前を聞かせてくれるかな、キノのパイロットくん」
「は、はい」フレディが緊張気味に答える。「フレド……フレデリカと申します。名字はございません」
「声が……」父王が目を見開く。隣のボノ妃をちらりと見やってから、「そうか、キミがウワサのフレデリカくんか」
「ウワサ?」
「ああ。ボノからよく、話を聞いていたよ。とびきり優秀な聖歌隊員だと」
「……!」感極まった様子のフレディ。
キノには、よく分からない。が、フレディとボノ妃の間には何かしらの繋がりがあるのだろう。いつか話してくれれば嬉しいな、とキノは思う。
「それではキノ、食べながらで良いから、何があったのかを聞かせてくれ」
「概要なら司令官から聞いたのでは?」
「お前の口から聞きたいのだ」
「……ふん」
キノは、話した。この、十余日の冒険について。レジスタンスたちの勇敢な戦いについて。アズマ皇国の、腐敗した内実について。心臓一円に配備されていた女神たちの数と練度について。……イズールの裏切りについて。【アマテラス・オリジン】の核として使われてしまい、ノルニル王国女神師団の第一波を壊滅させてしまった時のこと。【アマテラス・オリジン】になった時の所感、こちらに勝機はあるかどうかの感触。そして、
「そうか。キノ一人では【零式ノルニル】の召喚には至らず、フレデリカくんとの二重唱によって成功させた、と」
「ああ。【零式】のことでは、その、聞きたいことがあるンだ」キノはややオドオドしながら、ボノ妃に目を向ける。「お前はどうして、私に本物の【零式ノルニル】を託してくれたンだ? お前は、私を疎んじていると思っていたのに。母上の娘であり、『汚れた血の子』である私を」
「そんなこと」ボノ妃が、首を振った。その瞳には、涙が浮かんでいる。「思うはずがないでしょう。私が、キノ、貴女のことを嫌いになんてなれるはずがない」
「それはおかしい!」キノも首を振る。「だってお前はいつも、私に冷たい態度を取ってきた。シノを使って私を虐げてきたじゃないか。知っているぞ、『キノ子』という別称――蔑称を士官学校で広めさせたのも、お前の差し金だったって」
「それは――……」ボノ妃が、父王の方を見る。
「もう良い。『作戦』は失敗してしまったのだから」
「私は」ボノ妃が、キノに向き合った。「チノ妃を――チノ姉様を愛しているの」
「……ふぇ?」予想外の言葉に、キノは束の間、呆けてしまった。
「お姉様はいつだって強くて凛々しくて、どこまでも真っ直ぐで、素敵な人だった。私はそんなお姉様のことを尊敬していて、将来お姉様と陛下の間に生まれるであろうお子のことも、隔意なく愛そう思っていた。けれど、貴女の生まれは、『少々』変わっていた」
「…………」キノの生まれには、二つのウワサがある。一つは、チノ妃が訴えたとおり『処女懐胎した』のだというもの。そしてもう一つは、「戦場で、父の目を盗んでアズマ将兵と交わったというやつか。そんなものはデタラメ――」
「それは私たちが意図的に流したフェイクストーリーよ」
「……は?」
「貴女は、真に、処女懐胎で生まれた。お姉様に付き添い、出産にも立ち会った私が保証するわ」
「だったら、どうしてそんな卑劣なウワサを流した⁉ どうして母は幽閉されなければならなかったンだ⁉」
「貴女のためよ、キノ。お姉様は恐らく、【アマテラス・オリジン】との決戦の前後に貴女を宿した。貴女はきっと、三女神様がお授けになってくださった子なの。貴女の強大なヱーテル総量も、それなら説明が付く」
「おい、ボノ。話が違うでは――」
「申し訳ございません、陛下。ですが、こればっかりは譲れません。それに、こうしてキノは戻ってきたのです。ならば、もう良いではありませんか」
父王とボノ妃が何やら言い争っている。だが、キノはそれどころではなかった。
「……私が、神の子?」キノはひどく狼狽する。(だが、おかしい。私がノルニルの三女神に愛されているのだとしたら、どうしてノルニルはいつも暴走するンだ?)
「そんなことが世間に知られてしまっては、大騒ぎになる」ボノ妃が説明を続ける。「貴女は民衆や軍部に祭り上げられ、『猛き氷の騎士』チルデシア・ノルニルの再来と謳われ、お姉様の再演――つまり、単機で【アマテラス・オリジン】の懐に突入するよう求められるでしょう。お姉様の大切な娘を、そんな危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「だから、一芝居打ったと?」
「そう。不義の子として、出来損ないの子としてのイメージを世間に植え付けることで、貴女を戦場から遠ざけようとした。つらかっただろうと思う。悲しかったろうと思うわ。それでも、死んでしまうよりはずっとマシだと思って。……どこまでいっても、私たちの押し付けでしかなかったでしょうけどね」
(辻褄は合う、か? だが、違和感がある。何か、決定的なことを隠されているような)
それからしばし、キノは探るように会話を続けたが、それらしい答えは見つけられなかった。話題は、キノの冒険譚に戻る。と言っても、あとはシノの裏切りとシノ小隊との戦いについてしか話すべきことは残っていなかったが。
「シノ……」ボノ妃が涙ぐむ。「哀れで、愚かな子」
「せめてシノにだけは、本当のことを伝えておけば良かったンじゃないのか?」今さらだが、言わずにはいられなかった。
「いいえ。真実を知る人間は、少なければ少ないほど良い。お姉様の子供を守るためだもの。仕方がないわ」
(そう、か。ボノ妃にとって、母上はそれほどまでに大きな存在だったのか。実の娘と天秤に掛けることができるほどに)
気が付けば、キノの中でボノ妃に対するわだかまりは消え去っていた。
「ボノ妃」キノは立ち上がり、テーブルを回って、ボノ妃のそばに歩み寄る。おずおずと、ボノ妃の手を取った。「その、……あ、ありがとう。お義母さん」
ボノ妃は、泣き崩れた。
♪
翌未明。
「イズール様ぁ~っ」
天守閣の最奥、『心臓の間』に、甲高い声が響き渡った。
「…………」キノの匂いがかすかに残ったベッドで横になっていた日出は、苛立たしさを隠そうともせず、しかめっ面で起き上がる。「キノはどうした?」
「あんな奴、盆の外に突き落としてやったわよ」声の主シノが、得意満面でそう言った。「今頃は、地面のシミね」
知っている。シノがアズマに亡命してきた際、キノの姿が見えないことに気付いたアズマ将官がシノを問いただし、事前に日出へと報告していたからだ。
「……どうして、そんなことをした?」日出の声には、どうしようもないほどの怒りと憎しみが込められていた。
「イズール様?」そのことに気付けないシノが、無邪気に首を傾げてみせる。恐らく、この女が最も可愛いと思っている角度で。
一方、シノとともに亡命してきたシノのパイロットと二組のデュヱットは、日出の殺気を受けて身構えた。女神召喚師たちは魔石に触れている。
日出は立ち上がり、長巻を抜いた。次の瞬間、シノを除く七人が輪切りになった。
「え? ……え?」彼ら彼女らの血を浴びたシノが、呆然となる。
「どうして! そんな、ことを、した!」
「ひっ」シノが尻餅をつく。「邪魔だったんでしょ、キノのことが⁉ アイツを排除すれば、私をお嫁さんに――アズマ皇后にしてくれるって、そう言ってくれたじゃない!」
「そんなことを言った覚えはない。余は、『キノを連れてこい』と言ったのだ!」長巻を握る腕が、震える。キノが、いない。もう、この世界に、いないのだ。「よくも――」
「ま、待って!」シノがすがりついてくる。「ごめんなさい! 私、何か貴方の気に障ることをしてしまったのね? 謝ります。だから許して、ねぇっ」
「はー……っ」日出は己の責務を思い出し、必死に感情を鎮める。長巻を納刀した。笑顔になったシノに向かって必死に微笑んでみせ、「分かった。一つ、余のお願いを聞いてくれたら、許してあげよう」
「やった! 何? 何をすれば良いの?」
(こんな愚かな女に殺されてしまったのか、キノ?)イズールは懐から勾玉【アマテラス乙式】を取り出す。「これで、女神になってくれないか。お前に乗ってみたい」
「まぁっ、喜んで!」恋する乙女の顔に戻ったシノが、高らかに歌い上げる。
技工はできている。声量も十分だ。だが、何とも面白みのない、薄っぺらな歌だった。
屹立した【アマテラス乙式】のハッチが、開く。イズールは軽々と飛び上がり、シノのコックピットに入り込む。
「あんっ、イズール様っ」
興奮した様子のシノの声に嫌悪を覚えたが、努めて優しい声で言う。「動かすぞ」
「はいっ」
(この女は……)薄ら寒い思いに震えながら、イズールはシノ機を操縦する。(恐ろしいほどに、自己完結している。コイツの配下を殺してみせた時、コイツは狼狽した。だが、今はもう、配下のことなどすっかり忘れてしまったかのようだ。つまりコイツが狼狽した理由は、『配下が殺されたから』ではなく、『自分が殺されるかもしれないから』だったンだ。興味がないンだ、自分と、自分好みの物事以外にすべてに。究極の利己主義者。……おぞましい奴だ)
【アマテラス・オリジン】のコックピットに続く扉は、既に開いている。中では、白衣の男たちが必死の形相でシステムに改修を加えている。先ほどのように、女神召喚師が勝手に魔術を使ったりしないよう、制御する機構を搭載しているのだ。
「用意はできているのだろうな?」
「あ、あくまで暫定処置でございます」白衣の筆頭が、青い顔をして答える。
「失敗すれば、その胴と首が泣き別れになることと思え」震える研究者を捨て置いて、日出はシノ機をコックピットの台座に据え、操縦桿を握る。
「えっ、この視界は何⁉」
シノが戸惑いの声を上げるのと同時に、コックピットのモニタに【アマテラス・オリジン】の視界が映し出された。日出はまず、【アマテラス・オリジン】を起立させようとする。が、動きはひどく緩慢だ。
「……何? ねぇ、何なのこれは⁉」シノが泣き叫んでいる。「え、ヱーテルがどんどん吸い上げられていく。一万、十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億、一兆……こ、こんな量のヱーテル、私、出せたことなんてない!」
「それは、そうだろうな」日出は淡々と事実を口にする。「コイツは、女神召喚師の命を喰らうからな」
「ど、どういうこと⁉ ねぇ、怖い、止めて! 【女神送還・ヱーテル一単位――ラッ】」
だが、シノ機は解除されなかった。研究者たちが追加した機構が働いているためだ。
「か、解除されない⁉ ねぇ、イズール様、お願い、止めて! 私を皇后にしてくれるんでしょう⁉」
「お前、キノを殺したンだろう。我が軍が最も頼りにしていた、最高戦力のキノを。俺の話を禄に聞きもせず、自分勝手に解釈して、私怨のためにキノを殺したンだろう? だったら、お前がキノの代わりを務めるしかない。その罪、その浅ましさを、お前自身の命で補填してもらうしかないだろう」
「お願い、ねぇ、許して! あぁ、あぁぁ……」
出力が低下していく。
「立っただけで、もう息切れか。やはりキノとは比べるべくもない。ほら、歩け、シノ。脚にヱーテルを充填しろ。死ぬまで俺のために働け。死んで償え」
「いや、いやぁっ、いやぁぁああああ! ――ぁっ」
「女神召喚師、気絶しました」研究者からの報告。
「だが、【アマテラス・オリジン】は未だちゃんと動かせている」気絶による強制【女神送還】も発生していない。「改修は成功のようだな。――さぁ、征くぞ」
♪
けたたましい警報音で、キノは目覚めた。
「キノ、キノ!」割り当てられた個室のドアが、激しく叩かれている。その声は、フレディのものだった。「【アマテラス・オリジン】が目覚めたんだ!」
「何だって⁉」キノは飛び起き、ものの十秒で身支度を整えた。ここは王城であると同時に、今や最前線だ。血と硝煙の臭い立ち込める最前線で、顔を洗ったり髪を梳かしたりといった身支度は無意味だ。ただ、いつものトレンチコートを着込めば良い。「状況は⁉」
キノたちが駆けつけた時、戦況は凄惨を極めていた。
千数百機対千数百機。歴史上初となる、空前絶後の大戦力同士のぶつかり合いが、そこにはあった。女神は、弱兵でも一機で歩兵数十人、平均的な将官で歩兵数百人、強者の場合は歩兵数千人に匹敵する。ならば、この戦いは数十万から数百万人同士の大激突に匹敵する。
女神を一機育てるだけでも、十年もの期間と膨大な教育費を要する。たとえ養成機関を用意することができたとしても、育てるべき女神候補生を見つけるのが大変だ。何しろ、【女神召喚】が可能なほどのヱーテル総量――数千単位――を持つほどの逸材が、数千人に一人生まれるかどうかなのだ。
両国とも、国力のすべてを絞り尽くして用意した、千数百機。この戦力を失えば、失った側の国は、無条件降伏を強いられ、皆殺しか総奴隷化の憂き目に合う。これは、そういう戦いだった。
――轟、轟、轟
未明の空が、赤く染まっている。屹立する【アマテラス・オリジン】を取り囲むように空中に展開した千機の【アマテラス乙式】たちが、ノルニル空中庭園に向けて無数の【火球】を投げつけてくるからである。『球』というよりもはや『面』とも呼ぶべき巨大な炎を、『盆』の外縁部に配置された百機の【伍式ウルド】が懸命に防ぐ。一発でも背後へ通してしまったら、王都が炎に包まれる。たった一発の【火球】でも、それが身の丈七メートルの【アマテラス乙式】が発したものならば、人馬を瞬時に炭に変え、家屋の一軒を消火不可能な深刻な火事に陥らせるほどの威力を持つ。
空を覆う【アマテラス乙式】たちの、そのさらに上空には十機の【伍式スクルド】が哨戒し、戦場を俯瞰し、【未来予知】の結果をノルニル女神軍主力に伝えている。
その主力、千機の【伍式ヴェルダンディ】が、アズマ軍へ果敢に白人戦闘を仕掛けていく。アズマの【アマテラス乙式】たちは、自機の数倍から十数倍の速さで空を駆け回る【ヴェルダンディ】に対応できず、次々と撃墜されていく。
一見すると、ノルニルの優勢に見える。が、それは間違いだった。
――ァァァアァアアアアアアアアアッ!
天地を揺るがす怪音。それは、この戦場にいる全員の耳を激しく揺さぶるそれは、【アマテラス・オリジン】の歌唱だ。【アマテラス・オリジン】が、ゆっくりと拳を振り上げる。
(いや、ゆっくりなんかじゃない)千機の【ヴェルダンディ】の一番槍として敵【アマテラス甲式】を相手取っているキノは、側部カメラに映る視界を呆然と見つめる。(あの腕は、速い。だが、敵があまりに巨大すぎて、正確な速さが想像できないンだ)
【アマテラス・オリジン】が、それに倍する速度で拳を振り下ろした。ぱっと白い雲が生じるのが見えた。太陽の女神の拳は、【ヴェルダンディ】の集団を打ち下ろす。たった一度の、拳の振り下ろし。ただそれだけのことで、十数機の【ヴェルダンディ】――一個女神小隊が消滅した。『壊乱』でも『全滅』でもなく、『消滅』した。文字どおり、圧倒的質量で叩き潰されたことによって強制【女神送還】され、中にいたパイロットと、生身に戻った女神召喚師が空中で圧壊したのだ。
人がアリを踏み潰すのと同じだ。十数機の女神。歩兵数百から数千、場合によっては数万人に匹敵する戦力が、一瞬で消滅した。悪夢というほかない光景だ。その光景を目の当たりにして、キノは改めて悟った。これは、決戦なのだ。どちらかの国が滅ぶまで続けられる、絶滅戦争の最終決戦なのだ、と。
【アマテラス・オリジン】が、走りはじめた。三柱の【ノルニル・オリジン】に向かって、だ。三女神が掲げる『盆』は、ノルニル王国そのもの。あの上には数千万人の命が乗っているのだ。突進の一つでも受ければ、盆は引っくり返り、文字どおり国は崩壊する。
巨大な盾を構えた【ウルド】の一個小隊が、突進を食い止めようとして【アマテラス・オリジン】の肩に食らいつく。膨大な量のヱーテルが弾けて、弾けて、大気を震わせる。盾と自機が破壊される、という結果を【改変】し続けているのだろう。だが、あまりの質量の前にはどうしようもなく、最後には【ウルド】小隊もまた『消滅』してしまった。
【アマテラス・オリジン】の肩が、三女神の一柱、現在の女神【ヴェルダンディ・オリジン】の背中に激突した。大質量同士の、衝突。天地を揺るがす轟音とともに、【ヴェルダンディ・オリジン】が決定的に体勢を崩してしまった。
(ああっ)キノは目を覆いたくなる。(王国が、ノルニル王国が!)
盆を支えていた六本の腕のうち二本が崩れ、盆がどうしようもなく傾き、上に乗っていた人々や構造物が落ちていく。落ちていく!
――ラァァアアァアアアアアアアアアアアッ!
その時、【ウルド・オリジン】が叫んだ。いや、それは歌唱だった。その直後、時間が巻き戻っていき、落下した人々や構造物が上へ上へと吸い上げられていき、盆の上に戻り、盆も水平になり、【ヴェルダンディ・オリジン】が体勢を戻した。原初女神による本物の【過去改変】。数千万人もの命を、財産を、国そのものを崩壊から救った、正真正銘の『神の奇跡』だ。
だが、【アマテラス・オリジン】はなおも攻撃の手を緩めない。
――ァァアァァァアアアッ!
歌唱によって業火を纏わせた拳でもって、【ヴェルダンディ・オリジン】の腰を打つ。肉の焼ける嫌な臭いが一斉に周囲に立ち込める。【アマテラス・オリジン】が拳を離した時、女神の腰には痛々しい火傷の痕が残っていた。
(【過去改変】していない……できない? いかに神といえども、【改変】可能な量に限度があるのか?)
それも、当然のことなのかもしれない。何しろ【ウルド・オリジン】は、一個の国を救ったばかりなのだ。キノは先日、足場を失って落下したレジスタンスたちを助けるための【過去改変】に、実に一億単位のヱーテルを使った。咄嗟のことで燃費度外視で歌ったとはいえ、過去を『無かったことにする』には多大な力を消耗するのだ。たった数名の命を救っただけで、一億単位。数千万人の命を救ったとなれば、どれほどのヱーテルを消耗したことだろうか。
再び、【アマテラス・オリジン】が腕を振り上げる。こうなると、ノルニル側は防戦一方になってしまう。そもそも、【未来予知】、【現在加速】、【過去改変】の力を持つ三女神では、現在の女神【ヴェルダンディ】以外には攻撃能力がない。が、当の【ヴェルダンディ・オリジン】は盆を保持するのに忙しい。盆を地面に置けば戦いに参加できるだろうが、そんなことをすれば、盆の上に住む人々は大地を満たす高濃度ヱーテルで瞬く間に中毒死だ。ヱーテルに慣れ親しんだキノならば、あるいは淀んだ大地でも生きていけるかもしれない。が、常人はキノとは異なる。大地を満たす高濃度ヱーテルよりもずっとずっと低濃度の魔物。その肉を喰っただけでヱーテル酔いを起こすのが、普通の人間なのだ。
【アマテラス・オリジン】の拳が、再び【ヴェルダンディ・オリジン】を打ちつける。このままでは、再び【ヴェルダンディ・オリジン】が盆を取り落としてしまう。そうなれば、今度こそ王国はお仕舞いだ。
無論、同空域に展開するノルニル王国の女神師団たちも、その惨況を黙って見過ごしているわけではなかった。だが、超巨大な彼女を守る【アマテラス乙式】及び同【甲式】の群れの合間をかいくぐって【アマテラス・オリジン】の体表に斬りつけても、その体表はあまりにも固く、傷の一つも負わせることができないのだ。
「このままでは、埒が明かない」ウノ司令官からの通信が、キノ・フレディ機に届いた。「頭を潰すしかない。やれるとすれば、貴女方しかいない。頼めますか」
「「了!」」キノとフレディは短く応答する。
敵【アマテラス甲式】を撃破したキノ機は、速やかに後退、ウノ司令官の元へ戻る。
ウノの指揮の元、十機の【スクルド】が集結した。【スクルド】の兵装は回転式機関砲と、四発の単距離空対空ミサイル、そして二発の無誘導爆弾。キノは計四十発のミサイルと二十発の爆弾に、ありったけのヱーテルを注ぎ込んでいく。この爆弾は、かつて模擬戦でシノがキノを爆殺しようとしたものと同じものだ。だが、威力は段違いである。この一発で、村落の一つが地図上から消滅するほどの威力が込められつつある。それが、四十発だ。
「これより、決死の突撃を行う。作戦目標は、【アマテラス・オリジン】の体表を総攻撃し、心臓を露出させることである」キノがヱーテルを充填している間に、ウノが訓令する。「本作戦において、『退却』という言葉は忘れよ。諸君らの犠牲は、けっして無駄にはならないことを約束する」
「「「「「ははっ」」」」」【スクルド】のデュヱットたちが応える。
さらに、護衛として十機の【ウルド】と、露払いのために百機の【ヴェルダンディ】が部署された。盾を構えた【ウルド】たちを穂先として、上下左右を【ヴェルダンディ】が固め、内側に【スクルド】を配した巨大な『槍』が完成する。槍の末端、言わばその槍を【アマテラス・オリジン】の心臓に突き刺す役目を担うのは、【零式ノルニル】。キノ・フレディ機である。
「突撃!」
ウノ司令官自らの号令により、『槍』が発進した。爆炎に染まる明け方の空を、一直線に疾走していく。途中、複数回の【アマテラス乙式】の妨害と、同【甲式】による妨害を受けたが、【ウルド】や【ヴェルダンディ】を犠牲にすることで突破した。槍は、犠牲を出しながらも着実に、一直線に戦場を突っ切っていく。そしてついに、【アマテラス・オリジン】の懐に飛び込んだ。
――ァァアアアアアアアアアアアアアアアッ!
【アマテラス・オリジン】が、寄ってきた羽虫をはたき落とすかのように、強烈な振り下ろし攻撃を繰り出してきた。生き残っていた【ウルド】のすべてが急上昇し、【アマテラス・オリジン】の手の平に体当りした。
さざ波を圧縮したかのような、強烈な破砕音の連続。大量のヱーテルが粒子となって散っていく。【ウルド】たちが全身のヱーテルを掲げた盾に注ぎ込み、【過去改変】を繰り返し繰り返し実行しているのだ。
【ウルド】たちの決死の行動によって、数秒もの間、【アマテラス・オリジン】の手の平が押し止められた。その隙を縫って、『槍』が抜けた。
目の前に。もう、手を伸ばせば届くほどの距離に、【アマテラス・オリジン】の左胸が迫っていた。十機の【スクルド】が、一斉に腹を開いた。と同時に、計四十発のミサイルが発射される。
爆光、爆炎、轟音。キノの無限のヱーテルによって何百、何千倍にも威力を強化されたミサイルが全弾、左胸の体表に直撃した。
攻撃の成果を確かめる暇などない。【スクルド】たちが、一斉に九十度機種上げ。腹の中に抱かれていた計二十発の無誘導爆弾が、透過された。水平方向に。つまり、ミサイルによって荒らされたであろう【アマテラス・オリジン】の左胸の体表に向かって、だ。
キノの視界が、青に染まった。直視できない爆炎。キノは立て続けに【過去改変】を発動させ、自機が溶けて消滅するのを防ぎ続ける。数百倍に【思考加速】した世界で、ゆっくりと、炎が晴れていった。ゆっくりとゆっくりと、煙が晴れていく。
【スクルド】たちの姿は、なかった。【過去改変】を持たない彼らは、爆弾がもたらした破壊から逃げ切れなかったのだ。
(私が、殺した。私のヱーテルが。泣くな泣くな泣くな! キノ、お前は軍人だ)煙の切れ間に、キノは見た。(あれは――……天守閣!)
『左心室』の中心、イズールが【アマテラス・オリジン】を操縦しているコックピットのある建物だ。道は、開かれたのだ。【アマテラス・オリジン】の降臨以来、ただの一度も破ることができなかった女神の体表を、今、破ったのだ。彼ら彼女らの犠牲は無駄ではなかったのだ。
「イズゥゥゥウウウルウウウッ!」
絶叫しながら、キノ機は天守閣に飛び込み、『心臓の間』に入った。
「キノかッ⁉」イズールが、コックピットに設置された【アマテラス乙式】から飛び降りてきた。その顔は、狂喜と狂気に染め上げられている。「ふはっ、あははははっ! お前、生きていたのか! そうだよ、そうだよな、あのお前が、シノみたいな雑魚に殺されるはずがないよなァ!」
「お、お前……」キノは、カメラに映る映像に呆然となる。床に脱ぎ捨てられているその衣類は、「シノを【アマテラス・オリジン】に乗せたのか⁉」キノは、自身が【アマテラス・オリジン】に乗せられた時のことを思い出す。ほんの短い時間だったのに、数十兆単位者ヱーテルを消耗したことを。「そんなことをすれば、シノが死んでしまう!」
「はははっ。相変わらずお人好しだな、お前は。コイツは」イズールが【アマテラス乙式】を見上げる。「お前を殺そうとしたンだぜ?」
「…………」そのとおりだ。しかもシノは、王族でありながら国を売った大罪人だ。
「もうじき死ぬよ、コイツは。死ぬまで【女神送還】できない。骨と皮になって命尽きるまで、【アマテラス・オリジン】の原動力になるンだ」
「お前……お前はっ」キノは、この感情を何と呼んで良いか分からない。
「それにしても、お前、それは【零式ノルニル】か? なぜ召喚に成功している? どうして暴走しない? お前に乗っている奴の力なのか? お前を乗りこなせる奴なんて、俺以外にいないと思っていたのに」
「僕だよ」フレディが言う。「四年振りだね、イズール。イズール・サン」
「お前、フレドリクか⁉ そうかそうか、やはり、フレデリカはフレドリクだったのか。顔もさることならが、銃さばきがそっくりだったからな。それで」イズールが、長巻に触れた。獰猛に微笑む。「二人揃って、何しに来たンだ?」
「お前を殺しにきたンだ、イズール。【思考・身体加速最大――ラァァアアアアアアアアアアアッ!】」
違和感。何兆ものヱーテルを注ぎ込んだはずなのに、世界が停止しない。【思考加速】でたかだか十倍、【身体加速】に至っては、二倍にすら至れない。
(【アマテラス・オリジン】の心臓か!)そう、この部屋は【アマテラス・オリジン】の心臓によるヱーテル吸収範囲内なのだ。(ならば部屋の外に出るか⁉ いや、駄目だ)
キノ機が『心臓の間』から出ていけば、イズールは悠々とコックピットに戻り、再び【アマテラス・オリジン】を動かしはじめるだろう。キノたちがイズールとコックピットを叩きに来たからこそ、イズールは迎撃のためにコックピットから降りたのだ。
「やはりここで戦うしかない」キノは体内のフレディに語りかける。「この部屋はヱーテルを吸われる。大した【加速】は見込めないが、勝ってくれ」
「了!」フレディからの、力強い応答。
こちらは七メートルの鋼鉄の体。相手は巨体とはいってもせいぜい二メートルばかりの肉の体だ。しかもこちらには、弱体化させられているとはいえ、【加速】魔術がある。普通に考えて、圧勝できるはずだった。だというのに、イズールは怯むでもなく悠然と立っている。
そのイズールが、長巻を抜いた。
次の瞬間、イズールの姿がかき消えた。
ぱっと白い雲が生まれ、轟音が響いた。キノは知っている。よく知っている。だが、咄嗟に理解できなかった。これは、音速を超えた時に発生する現象だ。
(馬鹿なッ⁉)その思考に意味はない。驚いている暇などゼロコンマ一秒も存在しない。歌え、速く歌うのだ、自分よ、キリヱスタ・ノルニルよ。「【加速・ラァァアァアアァアアアッ!】」
『心臓の間』を歌唱で満たし、歌唱を百兆単位のヱーテルで満たした。世界が確実に遅くなった。【思考加速数十倍】といったところか。だが、イズールの姿が見当たらない。
(どこにいる⁉)正面カメラ、左右側頭部カメラを確認するも、姿はなし。
「背部A/B最大充填!」
「っ⁉ 了! 【ラッ!】」
フレディが、キノ機の背部A/Bを全力燃焼させた。
後頭部カメラを確認すると、イズールが長巻を振り下ろしたところだった。その切っ先が、キノ機の後ろ足をかすめる。
(加速もなしに音速を超えた、だと⁉ 本当に人間か⁉)
イズールは振り下ろした勢いを殺さず、円を描くような足さばきで、さらに前へと踏み込んでくる。その動きはあまりにも速く、思考が数十倍速になっているにもかかわらず、ギリギリ目で追えるかどうか、といった具合だ。しかも、キノが歌唱で一時的に満たしたヱーテルが心臓に吸収されていくため、思考と身体の両【加速】の力がみるみるうちに減衰していくのだ。
フレディはA/Bと足さばきを駆使して百八十度姿勢を回転させ、イズールに相対して剣を構える。そうして、紙一重の攻防が始まった。七メートル対二メートル。音速対音速。【零式ノルニル】キノ・フレディ機対人間イズール・サン。それぞれの剣が、拳が、蹴りが、互いの肉に傷を付けていく。いずれの攻撃も、相手にダメージを蓄積させることはできるものの、決定打は打てずにいる。
こちらには、数十倍の【思考加速】と数倍の【身体加速】がある。【加速】の力は数十秒と持たない。キノがいくらヱーテルで部屋を満たしても、【アマテラス・オリジン】の心臓に喰われてしまうからだ。だからキノは、数十秒ごとに十兆単位のヱーテルで部屋を満たし、歌唱する。昨日からの連戦で既に何百兆ものヱーテルを消耗したが、キノは未だに、自身のヱーテルの底が見えない。底などないのかも知れない。
速度は、互角。だが、こちらには【身体加速】とA/Bがあり、相手にはない。それでもなお、イズールは速度においてこちらと互角。『東方不敗』。『最強の傭兵』。イズール・サン。
「オォォォォォオオオオオオオオオオオオオオッ!」その最強剣士が、低音域歌唱を載せた長巻でキノ機の前足を斬り裂いた。
キノ機を構成するヱーテルが沈静化され、【女神召喚】を強制解除される気配。だがキノは、あらかじめ予備歌唱を終えていた【過去改変】を歌い上げる。
「【ラァァアアアアアッ!】」
途端、斬り裂かれた前足も、崩れはじめていた肉体も、元どおりになる。
キノは、慣れはじめていた。この、地獄の戦闘に。一手間違えれば、フレディもろとも死ぬ。つまり、ノルニルが、数千万人の国民が、死ぬ。そういう決戦に身を置いて、はや数分。キノはあらゆる私情を捨て、自機と敵の一挙手一投足にのみ全神経を集中することに、慣れはじめていた。キノを縛る過酷な運命が、若干十三歳の少女をして、その精神の境地に至らせしめていた。
敵はさらに数度、低音域歌唱の斬撃による強制【女神送還】を狙ってきた。が、キノはそのすべてを防ぎきった。
敵が、戦法を変えた。一転して、機動的な戦闘を行うようになった。その驚嘆すべき身体能力でもって、壁を駆け上がり、天井を走り、上下左右からこちらに襲いかかってくる。狙いは、こちらの胸部――コックピットだ。つまり、パイロットを串刺しにする戦法である。
だが、キノが【過去改変】で胸部を守りながら数分ほど踊り続けているうちに、フレディもまた、慣れはじめてきたらしい。防戦一方だったのが一転して、イズールを圧倒するようになる。『東方不敗』には、『最強の傭兵』には劣るかもしれない。それでも、フレディもまた、戦いを生業とし、強くなるために生涯を捧げてきた戦士なのだ。
フレディの振り下ろした剣が、わずかにイズールの体勢を崩した。追撃しようと剣を振り上げたフレディに対し、イズールもまた、跳躍しつつ長巻を振り上げた。イズールの踏み込みは、十分ではなかった。過去数百回に渡る斬り結びにおいて割り出した、絶対に相手の剣が届かない間合いをもって、フレディはイズールに剣を振り下ろした。
次の瞬間、剣を握るキノ・フレディ機の右腕が絶ち斬られた。
数百回分のサンプルを重ね、絶対に敵の剣が届かないと確信した、その紙一重まで退いた右腕が。根本から、絶ち斬られてしまった。剣と手首が、くるくると回転しながら中空を舞う。
「【ラァアアアアッ!】」キノは短縮歌唱。次いで脳内詠唱。(【武装召喚・剣】!)
キノ・フレディ機の左手に剣が生成される。咄嗟のことで、【過去改変】するほどの余力はなかった。加えて、この音速超過戦闘のさなかに、悠長に再召喚する余裕は皆無だ。つまり、「腕は戻らない。すまない」
「了。謝る必要はないさ。無駄口は毒だ」
「了」
「分かる?」
何が、などと聞き返したりはしない。フレディが『確実に避けられる』と判断した斬撃が、キノ機に届いてしまった、その理由についてだ。
フレディが全力で後退しはじめる。
「【予知・ララルラルラァアアアアー~~ッ!】」その間に、キノは魔術を使う。未来の女神【スクルド】に許された【未来予知】の力を。数秒先に、キノ機左手首が断ち斬られる未来が見えた。「次は左手首!」
「了!」胸部A/Bの勢いが増す。さらに、フレディが僅かに左腕を引いた。
次の瞬間、音速超過で踏み込んできたイズールが、大上段からの袈裟斬りを繰り出してきた。キノはありったけのヱーテルで周囲を満たし、一時的に【思考加速】を数百倍にまで引き伸ばした。イズールの踏み込みと手元をじっくりと観察する。
イズールが振るうのは、二メートルの長巻だ。刃渡り一メートルのそれを、彼は両腕で保持する。イズールは、右利きだ。右手で縁――柄の刃物側――を握り、左手でかしら――柄の末端――の辺りを握る。左右の手が離れすぎていると力が上手く入らないため、普通、左手はもう少し上、柄の中頃を握る。だが、イズールはこのスタイルを好む。疑問に思ったこともあったが、事実としてイズールはこの握りによって剣士として無類の強さを発揮しているため、キノは大して気にもしてこなかった。だが、今、キノは初めて、この握り方にちゃんとした意味があることを知った。
イズールが、長巻を振るう瞬間。彼の右手が、柄の上を鋭く『滑る』のだ。強固に保持した左手を起点に、振り下ろしの瞬間に右手が滑る。左手の方に、左手にぴったり付くまで。そうすることで、右手がスライドした分、リーチが一メートル伸びるのだ。一メートルである。いくらこちらが七メートルの巨人であるとはいえ、斬撃の瞬間に一メートルもリーチが伸びれば、パイロットは目算を誤るというものだ。
常人がそんな真似をすれば、長巻の重さと遠心力に耐えきれず、長巻は手からすっぽりと抜けて、飛んでいってしまうことだろう。だが、それを実現しているのが、イズールの膂力だ。特に、全体的に緩くしなやかな握りを強固に安定させている、左手の小指の握る強さが異常なのだ。
(この期に及んで、こんな隠し玉を持っていたなんて!)キノは驚愕する。東方不敗。最強の傭兵の名は伊達ではないのだ。「リーチだ! 柄、一メートル!」
「っ!」フレディが、さらに左腕を引いた。
と同時に、イズールの剣閃がキノ機の左手首をかすめて空振りした。
フレディが、数倍に【身体加速】された体でもって、剣を振り上げた。剣を振り下ろし終わったイズールと、あとは振り下ろすだけのフレディ。どう考えても、フレディの勝ちだ。キノはそう思った。フレディもそう思ったのだろう。
だが。
だが、それでも、相手はあの東方不敗だった。イズールは勢いそのままに前転――それも、体や手を地面に付くことなく転回し、かえって遠心力を増した状態でキノ機に斬りかかってきた。
キノ機の左手が斬り飛ばされた。キノ機は両手を失った。剣を失った【ヴェルダンディ】は、無力だ。【零式ノルニル】には三女神の権能が備わっているとはいえ、今は【ヴェルダンディ】をベースにした姿で女神化している以上、機銃、ミサイル、爆弾といった攻撃手段は搭載していない。
「あとは頼んだ」
「え?」
キノ機が――フレディが、両腕を広げた。イズールに向かって、まるで負けを認めるかのように。イズールは、ほんの僅かに躊躇したようだった。だが、この絶好の機会を逃すのはもったいないと判断したのか、最速の踏み込みと跳躍とともに、キノ機の胸部――コックピットに向かって長巻を突き立てた。
「ぎゃあッ」悲鳴を上げながらも、フレディはキノ機を後退させる。つまり、フレディは生きている。コックピットのど真ん中に長巻を突き立てられるのを予測したうえで、あらかじめ身をよじっていたのか。
両手を失ったキノ機は、巧みな操作で両腕を動かし、長巻を根本から叩き折った。
依然として柄を握りしめていたイズールが、落下する。
「フレディ⁉」
「生きてる。けど【治癒】が必要だ。数分欲しい」
フレディは、これを狙ったのだ。自らを囮にして、イズールを誘ったのだ。
フレディは、作戦に成功した。だが彼は、恐らくはコックピット内で重症を負い、回復に努める必要がある。彼は【治癒】が使える。が、【治癒】はヱーテル活性化による魔術の一つ。つまり女性の喉が必要な術だ。フレディは男性の喉による低音域歌唱でヱーテル製の疑似喉仏を消失させ、女性の声に戻った上で【治癒】し、再び疑似喉仏を生成しなければパイロットとして戦線に復帰できない。そのための『数分』なのだろう。
「了。ここからは、私だけで」
剣を――唯一の攻撃手段を失ったイズールは、もはや無力だった。
キノは、殴る。フレディの操縦に比べれば滑稽なほど遅い動きだったが、それでも【身体加速】の効果によって拳は音速を超え、衝撃波が生まれた。イズールは、避けた。が、避けた先には、
「【火球】! 【火球】! 【火球】!」
キノが、コックピット内のトレンチコート――その中で光り輝く【アマテラス丙式】によって生み出した無数の【火球】が、待ち構えていた。
「【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】【火球】! 死ね、死んでくれ、イズールゥゥゥゥウウウウウウウウウ!」
無数の【火球】が、爆発した。爆風に炙られ、イズールが転がる。イズールは焼け焦げている。至近距離での多重爆発がよほど堪えたのか、立ち上がろうとしては体勢を崩し、立ち上がれずにいる。
キノは、さらなる【火球】で退路を塞ぎつつ、イズールの頭部をつまみ上げた。両腕でつまみ上げた。
…………――勝てる。
少し、ほんの少し力を加えるだけで、勝てる。ほんの少し、手指両腕に力を加えるだけで、イズールの頭部を破砕することができるのだ。イズールの。イズールの。愛する男の命を、停止させることが、できる、のだ。
「……イズール」キノは、言った。「……これで、お仕舞いだ」
それは、意味のない発言だった。どうしようもないほどに無意味な発言。一分一秒どころか、コンマ一秒で勝敗が決する音速超過の戦場において、許せざるべき無駄口だった。
が。
必要な数秒でもあった。キノは、その数秒をもって、イズールを、愛する男を殺す決心を固めた。イズールの頭部を握りつぶそうと、力を――
「私を殺した責任を取れぇぇぇええぇえええええええええええええええええええッ!」
轟音とともに、キノ機は弾き飛ばされた。イズールを、取り落とす。キノは、何が起きたか分からなかった。見れば、『心臓の間』が巨大な物体で埋め尽くされている。
(これは……腕?)
腕、腕だ。【アマテラス・オリジン】が自らの心臓に腕を突っ込み、キノを弾き飛ばしたのだ。
「イズゥゥゥウルウウウウウッ!」天地を揺るがすその声は、【アマテラス・オリジン】のものだ。だが、聞き覚えがある。
「その声、まさかシノか⁉」キノは驚愕の声を上げる。シノが、あの意思虚弱なシヱスタ・ノルニルが、【アマテラス・オリジン】の意識を乗っ取ったとでもいうのだろうか。
「憎い憎いニクイ! 私はもうすぐ、死ぬ。私を殺したイズール様、せめて私の願いを叶えろッ! 私に乗って、二人の手で、あの憎き姉を殺させて!」
「シノ!」キノは腹違いの妹シノに語りかける。「お前はノルニル人だろう。イズールはアズマ人、敵だぞ⁉」
「うるさいうるさいうるさいッ! キノ、貴女はいつだって私を否定する! 飄々とした顔をしながら、私が血の滲む思いで積み上げてきた努力を、鼻で笑いながら無に帰する! キノ、私はお前が憎い。私はお前が嫌いだ。お前を殺したい――ッ!」
錯乱している、とキノは思った。シノは、およそ冷静な状況とは言い難い。
(だが、それも当然のことか)
シノは、アズマ皇国によって改造に改造を重ねられた【アマテラス・オリジン】に接続されている。イズールの言葉を信じるならば、あのコックピットは搭乗者――つまりシノ――が死ぬまで、けして女神化を解除させないらしい。つまり、シノの死は確定している。もう、死ぬと分かっている自分の命。なのに今、彼女は生きている。生きて、はっきりとした自我を保持している。その恐怖と怒りとやるせなさは、どれほどのものだろう。
「……は、ははははっ」よろよろと立ち上がりながら、イズールが笑った。「やればできるじゃないか、シノ! 俺は――余は、今ようやく、お前のことが好きになったよ。もっともキノの次に、だが」
そんなシノの、国とか立場とか、そういうものをすべて忘れた先にある唯一の望みが、
「殺せ! キノを殺せぇええ! イズール、イズールゥゥウウウウウッ!」
キノ機が、ひとりでに動き出した。フレディが回復を終え、操縦桿を握ったのだろう。即座にイズールに斬りかかったフレディだったが、
「イズール様は、渡さないッ!」
【アマテラス・オリジン】が必死に自身の心臓内を引っ掻き回す手指に引っかかり、『心臓の間』の外へと――【アマテラス乙式】が溢れる敵制空権下の空へと投げ捨てられた。
――アァァァアアアアアアアアアアっ!
【アマテラス・オリジン】が――いや、シノが、天に向かって慟哭する。
キノ・フレディ機はすぐさま数百倍の【思考加速】と数十倍の【身体加速】を身に纏い、心臓へ再突入しようとする。が、【アマテラス・オリジン】が左手で心臓の穴を覆い隠してしまった。
キノ機は【アマテラス乙式】たちの包囲網を悠々とかいくぐり、【アマテラス・オリジン】の左手に近付いた。何しろ【身体加速】数十倍の力があるため、大した危険はないのだ。そう思って、指の間から入り込める隙間はないか、と検分していたら、
――ゴォォォオオオオッ!
地響きのような轟音とともに、自機が凄まじい衝撃を受けた。【アマテラス・オリジン】の右拳によって殴りつけられたのだ。
「何っ⁉」キノは咄嗟に【過去改変】で損傷をなかったことにする。
フレディはA/Bを全開にして、速やかに退避しようとする。が、それに追いすがるようにして、今度は【アマテラス・オリジン】の左膝による強烈な蹴りがきた。
(どういうことだ⁉)思考を数百倍化させているというのに、まるで反応できないのだ。
――アァァァアアアアアアアっ!
さらに、炎を纏った拳による、音速超過の振り下ろしが迫る。
(この動き、イズールだ!)
原初女神の一挙手一投足が、雲と轟音を伴う。イズールが、まったく無駄のない動きで【アマテラス・オリジン】を操り、キノ機の【身体加速】数十倍の動きについてきているのだ。
「【身体加速百倍・ヱーテル百兆単位・ラァァアアアアアアアアアアアッ!】」
キノ機がさらに倍する速度を得るが、それでもキノ機は殴られ、蹴られ、みるみるうちに損傷を増やしていく。
(……強いッ!)
イズールが強い。四千メートルの巨体になっても自由自在に体を動かすことができる、イズールの戦闘センスが、強い。だがそれ以上に強いのが、シノだ。キノですら、この高速戦闘機動を引き出すことができなかった。ヱーテルオバケのキノですら。なのに、シノはやってのけた。シノのヱーテル総量は、けして常人の域を出ないというのに。
死を覚悟したシノの、自身の体を、寿命を、将来を、人生を顧みないヱーテル出力。『キノを見返してやる』『殺してやる』という、ただそれだけのために人生を捧げた者の、絶望と憎悪に満ちた、おぞましいまでの極大ヱーテル出力。それが、強いのだ。
いつしか、雨が振りはじめていた。雫が鉄の体に触れ、肌を伝い、滑り落ちていく。冷たい雨の中、キノはさんざんに殴られ、燃やされ、【過去改変】も間に合わないほど立て続けに傷を負わされて、両腕も四本の脚もすべて手折られ、損傷過多で召喚状態を維持できなくなってしまった。ここまでやられたのは、生まれて初めてのことだった。
いつしか雨は、土砂降りになっていた。召喚を解かれたキノとフレディは、ぬかるんだ大地へと投げ出された。度重なる戦闘で高濃度ヱーテルは散らされており、キノもフレディも、直ちに呼吸困難に陥ることはない。が、天は紫色の霧――高濃度ヱーテルによって覆われている。あの分厚い霧のお陰で、キノたちはイズールの目から隠れることができているというわけだ。
「どうしよう」キノは、その場で座り込んでしまう。「勝てっこない。どうすればいいンだ……こうしている間にも、ノルニル軍のみんなが殺されているかもしれないのに」
「キノ、それ!」フレディが、驚愕の眼差しで、キノの顔を指差している。
「え?」不思議に思ったキノは、水溜りを覗き込んだ。
そこに写ったのは、二つの小さな太陽だ。二つの太陽が、水溜りの中で輝いている。燦々と燃え盛っている。輝くソレは、無論キノの瞳だ。イズールのものと、同じ。【アマテラス・オリジン】の加護。いや、この輝きは、イズールのものよりもなお――。
「これは」
底の知れないヱーテル総量。その化け物じみたヱーテル総量が邪魔をして、どんな女神も暴走させてしまった。なのに不思議と、【アマテラス】だけは暴走させることなく召喚することができた。
「まさか」
暗い塔に幽閉され続けてきた幼少時代。物心ついた頃から、一度も言葉を発したことのなかった母。抜け殻のようだった母。
「そう、か。そういうこと、だったのか」キノは、理解した。生まれ落ちてから十三年もの年月を経て、今、ようやく、理解した。
「キノ?」
「大丈夫だ。後は、私がやる。フレディは離れていてくれ。できるだけ遠くまで」
「何をするつもりなの?」
「お願いだ、フレディ。この姿は……見られたくないンだ」
「……了」
フレディを見送ってから、キノは大きく息を吸った。キノは、歌った。
♪
「キノはどこだ⁉ シノ、探せ!」
「やってる! けど、霧が濃すぎてヱ―テル波照射が意味をなさない……え?」
ソレは、そこにいた。まるで最初からそうしていたかのように、そいつは立っていた。【アマテラス・オリジン】と同じ、身の丈四千メートルの巨人。顔も姿も瓜二つ。二人目の【アマテラス・オリジン】――【オリジン・セカンド】が、目の前に屹立していた。
【オリジン・セカンド】が、右拳を振りかぶった。次の瞬間、衝撃波を伴った【オリジン・セカンド】の拳が、【アマテラス・オリジン】の左脇腹に突き刺さった。文字どおり、刺さった。無敵を誇っていたはずの体表をあっさりと突き破り、体内にまでの拳が潜り込んだ。【オリジン・セカンド】が拳を引き抜くと、中から人や構造物がこぼれ出てきた。
【オリジン・セカンド】が、今度は左拳を構えた。イズールは熟練の手さばきで、相手の左の振り下ろしを右肘で受け流しながら、左拳で【オリジン・セカンド】の顎を打ち抜いた。【オリジン・セカンド】がよろめく。
「お前……まさか、キノか⁉」
相手は何も答えない。ただ、歌唱した。
――ララルラルラァァアアアアアー~~ッ!
それは、ノルニル式の歌唱法。キノが好む歌い方だった。【オリジン・セカンド】の両腕が炎を纏う。再び、殴りかかってきた。
二柱の神が、殴り合う。【オリジン・セカンド】の拳がぶつかるたびに、【アマテラス・オリジン】の体表がめくれ、中から人や構造物がこぼれ落ちていく。【アマテラス・オリジン】が、アズマ皇国が崩壊していく。二柱のぶつかり合いの余波で、周辺空域を飛んでいる女神機たちが消滅するか墜落していく。
♪
「見て、アナタ」王城のテラスで、ボノはその戦いを見ていた。「お姉様が、戦っていらっしゃるわ」
「ああ」ピノ王が、震えるボノの肩を抱く。「チノが。我らが愛するチノが戦っている」
チルデシア・ノルニル。彼女が身ごもったのは、神の子などではなかった。ボノがキノに伝えたのは、嘘の内容だ。先の大戦で、チノは【アマテラス・オリジン】にとどめを刺したその瞬間に、身ごもった。運命剣『時編み』によって体を停止させられた【アマテラス・オリジン】が、精神体だけを退避させたのだ。今まさに自身に刃を突き立てた、チノの体内に。
キノを身ごもってから、チノの精神は穏やかに死んでいった。【アマテラス・オリジン】に喰われてしまったからだ。今のキノは、【アマテラス・オリジン】とチノが混ざりあったモノ。キノはチノの娘であり、同時にチノ本人でもあるのだ。
ボノとピノ王は、そのことを知っていて、全国民からそのことを隠した。当然だ。敵国の女神を匿うなど、正気の沙汰ではない。だが、二人はそれをやった。それをするために、『不義の子』『できそこない』というフェイクストーリーまで作って。
キノが【アマテラス・オリジン】の心臓破壊作戦に向かってしまったら、キノが【アマテラス・オリジン】の体と同化してしまう恐れがあった。それはつまり、チノの死を意味する。それを何より恐れたボノは、キノを軍事から遠ざけ、キノの栄達を何が何でも阻止しようとした。シノを使ってキノを貶め、ことさらに『できそこない』と吹聴させた。だが、キノは結局、彼女の愛したチノだった。ボノがかつて憧れた、その猪突猛進な行動力と強靭な精神力でもって、キノは心臓破壊作戦の参加権を勝ち取ってしまった。
一方のピノ王は、キノが【アマテラス・オリジン】と同化し、その制御権を奪うことを期待していた。【アマテラス・オリジン】が味方になってくれれば、勝利と戦争終結は確実だ。その場合、キノ――チノは人間としては死ぬことになる。が、ピノ王はそれを受け入れていた。ピノ王とて、チノを心から愛していた。だが、チノの死を絶対に受け入れられないボノとは異なり、ピノは数千万人のノルニル国民の命とチノの命とを天秤に掛けられるだけの理性・忍耐・責任感を持ち合わせていた。王の責務だ。
ボノたちが見守る中、【アマテラス・オリジン】が【オリジン・セカンド】の足元に潜り込み、その脚を払い、体制を崩した【オリジン・セカンド】を抱え上げた。勢いそのままに、【アマテラス・オリジン】が【オリジン・セカンド】の巨体を投げ飛ばした。
【オリジン・セカンド】の体がふわりと舞い上がり、三女神が掲げる空中庭園――『盆』目がけて降ってくる。盆の上では、暴風が渦巻いている。超巨大な質量が空から降ってきたことによる、大量の大気の移動によるものだ。【オリジン・セカンド】の背中が、盆に触れた。盆が勢い良く傾き、ボノもピノ王も、ノルニルのすべての人々も、その体が宙に投げ出され、あるいは冗談のような速度で迫ってくる『地面』によって叩き潰された。
ボノは、手を伸ばした。視界を覆い尽くすチノの背中に、触れたと思った。
意識があったのは、そこまでだ。盆の上の構造物に押しつぶされたのか、遠く大地にまで放り出されて墜落死したのか。盆は【オリジン・セカンド】の下敷きになり、三女神も押しつぶされた。三女神は生きていたが、人間たちの方はそうもいかなかった。ボノもピノ王も盆の上の全国民もアズマ人捕虜も、全員が死んだ。
♪
「っ……」
気が付くと、【アマテラス・オリジン】に馬乗りにされて、首を絞められていた。
「【ガァアァアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!】」キノは【熱風】で敵を押し返しながら、その腹を蹴り飛ばす。起き上がり、自分の掌に無数の赤いシミが付いていることに気付いた。
恐る恐る、振り向く。盆が――ノルニル王国が、引っくり返っていた。ならばこの、無数の赤い点々は何だ? この、一粒一粒が、さっきまで生きていた――
キノは、発狂した。
「【アァァアアアアアアアアアアッ!】」
空に、第二の太陽が生成された。百兆単位だとか千兆単位だとか、そんな細かい単位のヱーテルではない。そんな、人間じみた尺度の力ではない。何京、何垓、何杼、何穰、何溝、何澗、何正、何載、何極、何恒河沙、何阿僧祇、何那由他といった単位の、まさしく神の感覚でもってヱーテルを注ぎ込まれた【火球】が、天に創造された。太陽が、【アマテラス・オリジン】目がけて降下してくる。もはや手加減は必要なかった。
「キノォォォオオォオオオオオオッ!」
「イズールゥゥゥゥウウウウウウッ!」
もっと早くに、こうしておくべきだったのだ。そうすればあるいは、ノルニルは滅ばずに済んだのかもしれなかったのに。
太陽が、死んでいる者も生きている者も、敵も味方も何もかもを飲み込んでいった。大地は燃えた。ヱーテルの淀みも魔物も山も草原も何もかもが。
……後にはただ、大陸のど真ん中にぽっかりと開いた巨大なクレーターと、その中心に横たわる、炭化した巨大な亡骸があった。【アマテラス・オリジン】の成れの果てである。膨大な熱が上昇気流となって、豪雨を降らせている。雨がクレーターを、【アマテラス・オリジン】の亡骸を冷ましていく。
【オリジン・セカンド】の体がみるみるうちに小さくなっていき、十三歳の、キノの体に戻った。キノは静かに、『心臓の間』があった辺りに降り立つ。
瓦礫の中から、イズールが出てきた。全身を炭化させ、片腕がどこかへいってしまったイズールが、フラフラとやってくる。イズールが、キノを抱きしめた。
――トスッ
次の瞬間、キノは背中を刺された。何度も何度も。
「キノ!」フレディの声がした。「止めろぉぉおお!」
フレディが空から降ってきて、魔銃でもってイズールの頭部を撃ち抜いた。イズールが倒れ、それっきり動かなくなる。
「あぁ……あぁぁぁ……」キノは、泣く。赤子のように。冷たい雨が頬を打つが、構わない。「好きだった。好きだったンだ。私はお前を、愛していたンだ。なのに……私はこれから、誰のために歌えばいいんだ?」
真っ青な顔のフレディは、答えてくれない。
静かだった。まるで、世界に自分たち三人しかいないかのようだった。
「イズール」キノは彼の亡骸を抱きしめる。すると、彼の体はボロボロと崩れてしまった。「嫌だ……こんなのは、あんまりだ。神様、助けて、神様……っ!」
その時、奇跡が起きた。ノルニルの三女神がクレーターの中へ舞い降りてきて、しゃがみ込んだ。キノに向けて手を差し伸べてくる。
「神様……? 助けてくれるのか?」
――娘よ。
キノの脳内で、声が轟いた。
――我らが愛したノルニルの民よ。その願いを聞き届けよう。その代わりに……
キノは、悟った。自分は【アマテラス・オリジン】そのものであると同時に、やはり、母チルデシア・ノルニルの娘でもあったのだ、と。母が腹を痛めて生んでくれたことに、違いはなかったのだ、と。
キノは、手を伸ばす。三女神の巨大な指先と、キノの小さな手のひらが触れ合った。途端、三女神が光り輝き、手の平に収まるほどの光の玉に変じた。
「これは……この力を使え、と?」キノは、歌ってみる。が、玉は反応しなかった。「あぁ、なるほど」キノは頷き、玉を飲み込んだ。
玉が喉を過ぎ、胃に落ち、腸の奥へとするする進んでいき、無限のヱーテルを誇る、キノの丹田と混ざりあった。
「――理解した」キノは、解った。この世の摂理を。神の力の使い方を。
キノは、歌った。世界が【改変】しはじめる。巨大なクレーターの上空、誰もいなくなった空間に、幻影が浮かび上がる。それは、過去の光景だ。一秒前、一分前、一時間前、一日前、そして――すべての悲劇が始まった、イズールの裏切りの瞬間、二日前。キノはさらに欲張って、さらに数十分手前の、キノやレジスタンスたちが『右心房』へ襲撃を仕掛ける、その直前にまで遡りたいと考えた。だが、幻影は弾けて消えてしまった。キノは、腹を抑えて座り込む。
「ヱーテルが足りないの?」フレディが話しかけてきた。
「そのようだ」
「なら」フレディがキノの腹部に触れてきた。「僕のヱーテルを使ってよ」
キノは、食べる。フレディのヱーテルを、彼が死なないギリギリまで。
だが、それでも、足りなかった。
「あと少し。もう少しなンだ。何かないか。ヱーテルの原料になるようなモノは――」
「キノ、それ」フレディが、キノの髪を指差している。「まさしくこういう時のために、伸ばしていたんじゃないのかい?」
「そう……そうだ! そうだった! あははっ、気が動転して忘れていたよ」キノはイズールの亡骸を撫で、その手に握られていた短刀を手に取った。イズールに贈ってもらった簪を外し、髪を解く。その髪を、肩口の辺りでざっくりと切った。
キノの、髪。引きずるほど長く伸びた髪。寝ても覚めても一緒にいて、キノのヱーテルに浸かり続けてきた髪は、ヱーテル枯渇時の臨時タンクだ。髪を触媒にするのは、女性歌唱師の常套手段。キノも女性歌唱師らしく、髪を伸ばしていたのだ。ただ、生来のヱーテル総量が化け物のように多かったがゆえに、伸ばした髪を使ったことがなかった。
「【ラッ】」キノは、切り取った髪を燃やす。髪は光の粒子となって、キノの丹田に吸い込まれていく。「……足りた。【過去改変・ヱーテル……キリヱスタ・ノルニルのすべて――ララルララルララルラー・ライラライラライラァーー~~~~ッ!】」
キノは再び、歌った。すべてが滅んでしまった世界の真ん中で、高らかに。
誰のために歌うのか。キノは、キノが愛したすべての人々のために歌った。イズールのために、フレディのために、母の、父の、ボノ妃の、カヱデの、ヤタロウの、マナコの、カラスマの、サルトビの、ジークのために。そして最後に、シノのために。
キノは目を閉じ、イメージする。過去が【改変】されていく。時が巻き戻っていく。二日前と少し前、キノたちとレジスタンスが『右心房』へ襲撃を仕掛ける前の状態にまで巻き戻された。戦いの中で失われた、何千万もの命が、戻ってきた。だが、【アマテラス・オリジン】と【ノルニル・オリジン】だけは戻ってこなかった。ともに、キノが喰い尽くしてしまったからだ。
だからキノは、世界の形を創り変えた。ノルニル王国は、三女神が空中庭園を『盆』の上に退避させる前の状態、すなわち王都ノルニルとその郊外諸村落が当時のまま大地の上にある状態で復元された。そしてアズマ皇国の方は、【アマテラス・オリジン】の肉体をぱっくりと斬り裂いたような形で、体内のそこかしこに形成されていた都市・街・村落を大地の上に再現した。
巨大なクレーターも、塞いだ。大地を汚染していた高濃度ヱーテルは、世界を再構築擦る際の原料となって消え果てた。そう、先の大戦以降、人が住めなくなって十三年が経っていたこの土地は、再び人が生活できる状態に戻ったのだ。
再び目を開いた時、キノはあの『塔』の中にいた。小さな部屋の中には、キノの他にイズールとフレディもいる。イズールの体は綺麗さっぱり治っており、服すら再現されている。
「キノ……?」そのイズールが、呆然と自身を見下ろしている。「これは?」
「こういうことだ」キノは背伸びをして、イズールの頬に触れようとした。が、できなかった。
正真正銘の神、それも【アマテラス・オリジン】と【ノルニル・オリジン】の統合神となってしまったキノは今、ヱーテルの体となっている。いわば【女神召喚】状態であり、肉の体が失くなって、元に戻れなくなってしまったのだ。しかも、何百万人もの命を戻す【過去改変】――文字どおりの神業――をやってのけ、あまりにも多大なヱーテルを消耗してしまったため、今にも消え去ろうとしている。
(まぁ、いいか)キノは、満足していた。
イズールは、生き返った。他の人々も、カヱデやヤタロウを含め、心臓突入前まで生きていた人々は、漏れなく蘇っているはずだ。だから、キノは満足した。自分の歌は、聴かせるべき相手に、ちゃんと届いたのだ。
「悪いな、二人とも。これでお別れだ」
「「駄目だッ!」」二人が、キノの手をぎゅっと握った。
二人の手は、じんわりと、温かい。比喩でも感傷でもない。二人のヱーテルが、命が、キノに注ぎ込まれているのだ。
「や、やめろ! せっかく蘇らせてやったのに、また死ぬ気かイズール⁉ フレディなんて、さっき死ぬ寸前まで吸い上げたばかりだというのに!」
「だったら」ぎゅるぎゅるとキノにヱーテルを注ぎ込みながら、フレディが笑う。「三人が三人ともギリギリ生き残れるよう、キノが見極めてよ」
「少なくとも」イズールも笑う。「お前だけがいなくなるのは、ナシだ」
「だぁあああああああ、もう! お前らは本当に!」キノは頭を抱える。
こうして、幾度目かの奇跡が起きた。
♪
キノたちの戦いは終わった。戦争は、キノの一方的な宣言によって強制的に終焉を迎えた。両国は引き続き、ノルニル側をピノ王、アズマ側をイズールの父であるみかどを頂点として統治し続ける形となり、その上にキノが収まった。
恨みも禍根も何もかもが残ったうえでの、無理矢理の終戦だ。話はそんなに簡単ではなく、そこかしこで様々な不満や紛争の火種が吹き出しそうになった。が、すべてはキノが黙らせた。骨をも溶かす極大の【火球】を見せられた軍人は黙るしかなかったし、汚染から開放された広大かつ肥沃な大地を見せられた民衆は、新たなる神の到来を歓迎した。そうして――。
「もぐもぐもぐもぐ。それで、講和会議に向けての調整は、どんな具合なンだ?」
例の『塔』の一室で、相も変わらず魔物肉と干しキノコの料理をモリモリと食べながら、キノは『直臣』の報告を聞く。
「アズマは問題無しだ」直臣の一人、アズマ皇国担当のイズールが口を開く。「軍部は加護持ち以外の全員を解体し、ノルニル軍と統合。加護無しは全員、新しい土地の開拓に回す。民間人は、できるだけ希望を聴きながら、開拓または街での仕事に従事させる。みかどはキノの寛大な処置にずいぶんと感謝していたよ。ありがとう」
「ノルニルも問題ないよ」いま一人、ノルニル王国担当のフレディが口を開く。「ただ、アズマに比べて人口が多い分、ノルニル人がアズマ人を迫害しないかが心配だ。まぁ、ピノ王ご自身がそれを心配して手を打とうとしてくれているくらいだから、そう酷いことにはならないだろうさ。僕ら暗部もいるしね。というか、キノの命令に逆らえる人なんて、この国に一人もいないよ。その現人神が『両国仲良くしろ』って言ってるんだから」
「心外だ。そこまで横暴じゃないぞ」
「ふはっ」「どの口が」イズールとフレディが吹き出す。
そう。時間経過と大量の魔物肉接種によって、キノは再び、膨大なヱーテルを回復させつつあった。神になったことで、総量上限が爆発的に上昇した有り様である。
イズールはあの日以来、憑き物が落ちたように穏やかになった。やはり、皇子としての重圧が、彼を歪ませていたのだろう。
もちろんキノとしては、彼がレジスタンスを殺害し、キノの心身を深く傷つけたことについて思うところがないわけではない。そのことについて、キノはイズールを監禁して三日三晩話し合った。得られた結論は、イズールの、アズマ国民に対する責任感の強さだった。
父は心を壊してしまい、頼りにならない。ならば自分が、なんとかするしかない。そうしなければ、数千万人のアズマ人たちが全滅か総奴隷化の憂き目を見る。だからイズールは、非情に徹した。断腸の思いでレジスタンスたちを殺し、キノを痛めつけたのだ。その証拠に、国家存亡の重責から開放されたイズールは、ひどく穏やかな顔に戻っていた。
だからキノは、イズールを許した。
「ところで」そのイズールが、ニヤリと微笑んだ。フレディと頷き合ってから、
「「どちらと結婚するつもりなのかな?」」
「なぁッ……⁉」キノは煩悶する。「ほ、保留で。成人するまでには決めるから。というか、こんな体になってしまって、ちゃんと赤ちゃんが作れるのかも分からないンだが」
「このとおり、モリモリ喰ってクソして寝て起きてるンだ。大丈夫だろ」とイズール。
「何なら両方と結婚してくれても良いんだよ?」とフレディ。
「いやいやいやいやいや!」キノは逃げ出した。
戻ってきた平和。
戻ってきた二人の幼馴染。
「賑やかなことになりそうだよ、母上」
母の墓に花を添え、キノは笑った。
タガタメノウタ 明治サブ🍆第27回スニーカー大賞金賞🍆🍆 @sub_sub
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます