第16話 もう1つの名前
海桜の姿が霧のようにほどけ、部屋は静かになった。
ほんの少し前まで、そこに確かに誰かが立っていたはずなのに、今はもう刀夜の影と、机の上の二振りの刀しかない。
夏希が小さく息を吐く。
「……消えちゃったね」
「ああ」
刀夜も短く答えたが、まだ実感が追いついていなかった。
半透明とはいえ、海桜は確かにそこにいた。
喋って、微笑んで、夏希と会話までしていた。
それが今はもう、何もなかったように消えている。
妙な喪失感のようなものが胸を掠めて、刀夜は無意識に氷華へ目を向けた。
「これ、また呼ぶの結構疲れそうだな」
「うん……」
夏希も頷く。
「でも、いないと急に静かすぎる」
その時だった。
『まあ、少し寂しゅうございますね』
「っ!?」
刀夜が思いきり肩を跳ねさせた。
聞こえた。
今、確かに聞こえた。
「……は?」
「刀夜?」
「今、聞こえたか?」
「え?」
夏希が目を瞬く。
「海桜さんの声?」
「聞こえてるのか、お前」
「聞こえてるけど……」
刀夜は氷華をまじまじと見つめる。
『そのように驚かれますと、少々傷つきます』
『わたくし、消えたわけではございませんよ?』
「いや、だって今……」
『半具現を解いただけです』
『刀へ戻ったのでございます』
『お声をお届けする程度なら、この状態でも問題ございません』
あまりにも自然な説明だった。
刀夜はしばらく絶句したまま氷華を見ていたが、やがて深く息を吐く。
「……紛らわしい」
『申し訳ございません』
海桜は本当に申し訳なさそうに言った。
『ですが、わたくしとしては当然のつもりでございましたので……』
夏希が吹き出す。
「ふ、っ……刀夜、今の顔すごかった」
「笑うな」
「だって、ほんとにびっくりしてたじゃん」
「普通するだろ」
『刀夜様は案外、表情が豊かでいらっしゃいますね』
「お前まで言うのか」
『はい』
返事が早い
刀夜は軽く額を押さえた。
夏希はまだ笑いを堪えきれない様子だったが、やがて机の上の日記へ視線を戻した。
「じゃあ、海桜さんもこのまま一緒に見てくれるってこと?」
『はい、喜んで』
『むしろ、そうしていただけた方が刀夜様も読み解きやすいかと』
「それは助かる」
刀夜は素直に頷いた。
「母さんの日記、まだ分からないところだらけだし」
頁をめくる
母の私記は、記録というより本当に日記に近かった。
任務や異骸討伐の記述もあるが、それ以上に家での出来事や刀夜の成長、それから“誰かたち”との日常が多い。
今日は刀夜が縁側で眠ってしまった。
風が気持ちよかったのだろう。
海桜が嬉しそうにしていた。
もう海桜の名は、刀夜にもはっきり読める。
そしてその名前を目で追うたび、氷華からかすかな冷気が返ってくるのが分かった。
「……嬉しそうに、って」
夏希が小さく笑う。
「沙夜さん、普通に海桜さんのこと書いてるね」
『はい』
『沙夜は、わたくしを“ただの刀”としては扱っておられませんでしたので』
その言い方が、刀夜には少しだけ嬉しかった。
母にとって海桜は、力の道具じゃなかった。
ちゃんと日常の中にいる存在だった。
さらに読み進める。
海桜は相変わらず刀夜に甘い。
まだ幼いのだから仕方ないのだけれど、泣けばすぐ側に行くし、眠ればずっと見ている。
そのくせ本人は隠しているつもりらしい。
「……」
刀夜は黙った。
夏希がにやっとする。
「海桜さん」
『はい?』
「めちゃくちゃ過保護なんだね」
『そのようなことはございません』
「あるよね?」
『刀夜様は幼く、危なっかしく、放ってはおけませんでしたので』
「過保護だ」
「過保護だな」
『……否定はいたしません』
海桜の声が少しだけ小さくなる。
刀夜は日記を持ったまま、何とも言えない顔になった。
幼い頃からずっと見られていたというのも落ち着かないが、その視線がこういうものだと知ると、余計にむず痒い。
次の頁で、文の調子が少し変わる。
あの子たちは本当に仲が良い。
海桜が姉のようで、――は妹のように懐いている。
見ていて微笑ましいほどだ。
とくに刀夜のことになると、二人とも揃って過保護になるのだから困ってしまう。
「……妹のよう」
刀夜が止まる。
そこだけまた少し、文字の輪郭が曖昧だった。
海桜の名がもうはっきり見えるようになった分、むしろもう一つの読めない名だけが不自然に目立つ。
「これ、やっぱり同じ名前だよな」
「たぶん」
夏希が頷く。
「こっちだけまだ読めない」
『はい』
海桜が静かに言う。
『そのお名前でございます』
刀夜はその文を読み返す。
海桜が姉のようで。
――が妹のように懐いている。
「……姉妹みたいに仲が良かったのか」
『はい』
海桜の返答はやわらかかった。
『わたくしたちは、争うような間柄ではございません』
『あの子は少し不器用ですが、とても真っ直ぐで……愛らしい子です』
その声音には、はっきりと親愛があった。
刀夜は少しだけ安心する。
昨日の炎の荒々しさだけを見ると、どうしても“危険なもの”として身構えてしまう。
だが海桜の語り方からは、警戒や牽制は感じられない。
本当に大切な相手を語る声だった。
「じゃあ、その子も母さんに仕えてたんだな」
『はい』
『沙夜のもとで、共に』
夏希が日記を覗き込みながら首を傾げる。
「海桜さんが姉っぽいのは分かるかも」
「もう分かるのか」
「だって喋り方が優しいし、落ち着いてるし」
『そのように見えるのでしたら、光栄です』
「でも、妹っぽい方が炎って何かちょっと意外」
「確かに」
刀夜も同意する。
「普通逆っぽい」
『ふふ』
海桜がかすかに笑った。
『そう思われることは多うございます』
『ですが、あの子はああ見えて、案外甘えん坊でございますので』
「へえ」
夏希の声が少し弾む。
「何か会ってみたくなってきた」
『いずれ、きっと』
「その“いずれ”が大変そうなんだよな……」
刀夜がぼやくと、海桜は否定しなかった。
『ええ。少々』
「少々じゃ済まなさそう」
刀夜は再び日記へ目を落とす。
母の言葉の中で、海桜ともう一人はずっと自然に並べられていた。
特別な儀式の象徴でも、ただの霊刀でもなく、まるで本当に家族の一員みたいに。
海桜は刀夜の寝顔を見て安心していた。
あの子も隣にいたけれど、眠そうにしながらも最後まで離れなかった。
二人とも、刀夜のことになると本当に甘い。
海桜が小さく息を漏らすように言う。
『沙夜は、何でもお見通しでいらっしゃいました』
「見られてる側としては複雑なんだけど」
『申し訳ございません』
「いや、海桜言ったわけじゃない」
「でも、何かちょっと分かる」
夏希がくすっと笑う。
「沙夜さん、楽しそうに書いてるよね」
「ああ……」
刀夜も、そう思った。
母はこの時間を大事にしていたのだ。
当主としてでも、守護者としてでもなく、ただ刀夜と、海桜と、もう一人と過ごす時間を。
頁をめくる。
そこでふいに、刀夜の手が止まった。
文の中に、読めない名前がこれまでよりもはっきり現れていたからだ。
__は海桜の後ろをついて回っていた。
海桜も、妹みたいだと少し嬉しそうだった。
ふたりが並んで刀夜を見ていると、本当に姉妹のようで微笑ましい。
とくに__が海桜を慕う様子は、見ていて和む。
「……っ」
輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。
海桜の時と同じだ。
まだ霞んでいる。
けれど、完全な空白ではなくなっている。
「刀夜?」
夏希が顔を覗き込む。
「どうしたの」
「いや……少しだけ」
「見えた?」
「まだ、はっきりじゃない」
刀夜は目を細める。
一文字目は、紅にも見える。
けれど確信が持てない。
焦れば逆に遠のいていく。
『無理をなさらないでくださいませ』
海桜がすぐに言った。
『刀夜様が海桜の名を読めたのは、長く触れてきた冷気と、氷華を通した繋がりがあったからです』
『あの子のお名前まで届くには、もう少し整える必要がございます』
「整える……霊力か」
『はい』
刀夜は小さく息を吐いた。
結局、ここでも必要なのは自分自身の準備ということらしい。
名を知るにも、力を扱うにも、自分の内側が追いついていなければ駄目なのだ。
「じゃあ、今日は無理に読まない方がいいな」
夏希が言う。
「うん」
刀夜も頷く。
「父さんの記録と合わせて、もう少し整理した方がいい」
その時、海桜が穏やかに口を開いた。
『ですが、一つだけ申し上げておきます』
「何だ」
『あの子は、刀夜様を傷つけるための存在ではございません』
『あのことだけで、嫌わないであげてくださいませ』
その声には、姉のようなやさしさがあった。
庇うというより、ちゃんと知ってほしいと願っているような。
刀夜は紅い刀へ視線を向ける。
「……分かってる」
少し間を置いてから、そう答えた。
「怖くないわけじゃない。でも、母さんの日記とお前の話を聞いたら、それだけで決めつける気にはならない」
『ありがとうございます』
海桜の声が、ほんの少しだけ嬉しそうに揺れた。
夏希も静かに頷く。
「私も、そうしたい」
『はい』
部屋に落ちる静けさは、もう最初の頃とはまるで違っていた。
ここには母の記録があり、父の考察があり、氷華があり、海桜がいる。
そしてまだ名も知らない、もう一つの存在へ続く手掛かりがある。
刀夜は日記をそっと閉じた。
「……少し整理しよう」
「うん」
『賛成でございます』
刀夜はその即答に少しだけ眉を上げた。
「……普通に会話に混ざるの、やっぱ慣れないな」
『失礼いたしました』
「いや、別に嫌じゃない」
「海桜さん、もう完全に自然に混ざってるよね」
夏希が笑う。
『いけませんでしたか?』
「ううん。むしろ落ち着く」
『それは、ようございました』
刀夜は氷華を机の上へ置き、父の手記と母の日記を並べる。
次にやるべきことは見えていた。
霊力について、もっと知ること。
そして、もう一つの名へ届くこと。
海桜と、その妹のように懐いていたもう一人へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます