第7話 母の背中


 炎は、確かに夏希たちへ向かっていた。


 だが――届かない。


「……っ」


 夏希の目の前で、紅蓮のうねりがぴたりと止まる。


 焼き尽くすはずだった熱が、まるで見えない壁に阻まれたように揺らいだ。


 違う。


 壁なんてない。


 止まっているのは、炎の方だ。


 まるで迷っているみたいに。

 まるで、目の前にいる相手だけは焼いてはいけないと、本能のどこかで拒んでいるみたいに。


「な……」


 誰の声か分からなかった。


 武も、すみれも、夏希も、刀夜も。

 誰ひとり、その異様な光景を理解できない。


 だが炎は消えない。

 止まったまま、なおもごうごうと唸り、紅蓮の塊となって脈打っている。


 止まっているだけだ。

 次の瞬間には、再び暴れ出してもおかしくない。


「刀夜……!」


 夏希が刀夜を見る。


 その視線に、刀夜の心臓が凍りついた。


 違う。

 違う、違う、違う。


 見ないでくれ。

 そんな顔で呼ばないでくれ。


 今ここにある炎は、自分の中から溢れたものだ。

 異骸を一瞬で焼き尽くした力。

 そしてその次に、大切なものへ牙を向けた力。


「来るな……!」


 喉が裂けそうな声が漏れる。


 その瞬間。


 どくん、と胸の奥で何かが脈打った。


 止まっていた紅蓮が、再び膨れ上がる。


「っ、下がって!」

 夏希が叫ぶ。

「武くん、すみれちゃん!」


 炎がうねる。

 今度こそ襲いかかる。


 その寸前だった。


 街路を、白い風が吹き抜けた。


 ぞくりとするほど冷たい風。

 冬の夜みたいに凍えるのに、不思議と刺すような冷たさじゃない。

 むしろ、熱を持ちすぎたものを静かに鎮めるような、澄んだ冷気だった。


 次の瞬間、炎の表面に白い霜が走る。


「え……」


 夏希が目を見開く。


 紅蓮の塊が、音を立てて凍っていく。

 暴れようとした炎ごと、巨大な氷の檻みたいに封じ込められていく。


 紅と白。

 相反する二つの色が、夕暮れの中で異様なまでに鮮烈だった。


 最後に小さく、ぱきん、と乾いた音がした。


 それを合図にしたように、刀夜の膝から力が抜ける。


「刀夜!」

 夏希の声。


 駆け寄ろうとする足音。


 けれど、それより先に世界が傾いた。


 視界が遠のく。


 耳鳴り。

 熱と冷気が同時に身体の内側を駆け巡る、得体の知れない感覚。


 地面に倒れ込む寸前、刀夜の目に映ったのは、凍りついた炎の向こうで呆然と立ち尽くす夏希たちの姿だった。


 焼けていない。

 無事だ。


 その事実だけを確認して、意識は暗闇に沈んだ。


 



 夢を見た。


 血の匂いがする。


 冷たい夜気。

 壊れた建物。

 砕けた道路。

 どこかで誰かが叫んでいる。


 その中心に、一人の女が立っていた。


 長い黒髪が夜の中で揺れる。

 白い息を吐き、細身の刀を振るう姿は、美しく、それでいて鬼気迫るものがあった。


 藤嶺沙夜。


 ――母だ、と刀夜は夢の中で理解する。


 だが、そこにいるのは優しく笑う母ではない。

 異骸の群れを前に、守護者として立つ女だ。


 刀が閃く。


 刹那、白い冷気が走る。

 足元から広がる氷が異骸の脚を拘束し、その動きを止める。


 次いで、もう一振りの刀が振るわれる。


 今度は炎。


 紅蓮が蛇のようにしなり、凍った異骸ごと焼き砕く。


 炎と氷。


 相反するはずの力を、沙夜は呼吸するみたいに自然に操っていた。


 その背中は遠い。


 小さな刀夜がどれだけ手を伸ばしても届かないくらい、遠くて大きい。


 ――お母さん。


 呼びかけたいのに、声が出ない。


 沙夜は振り返らない。

 ただ前だけを見て、異骸へ立ち向かい続ける。


 氷で道を作り、炎で薙ぎ払う。

 押し寄せる異骸を切り伏せ、それでも止まらない。


 やがて一際大きな異骸が咆哮を上げ、沙夜へ迫る。


 炎が迸る。

 氷がきらめく。

 その二つが交差した瞬間、夜空に赤と白の光が弾けた。


 あまりの眩しさに、刀夜は目を細める。


 その向こうで、ようやく沙夜がこちらを見た――気がした。


 だが、顔はよく見えない。


 ただ、その口元が何かを言ったように見えた。


 聞き取れない。


 届かない。


 次の瞬間、夢の景色がぐらりと歪んだ。


 炎が遠ざかり、氷が砕け、母の背中も闇に沈んでいく。


 待ってくれ。


 行かないでくれ。


 そう願ったのに、声はやっぱり出なかった。


 



「……っ!」


 刀夜は息を呑んで目を開けた。


 見慣れた天井

 見慣れた部屋


 寮じゃない。


「ここ……」


 掠れた声が漏れる。


 起き上がろうとすると、全身が鉛みたいに重かった。特に胸の奥が焼けるように熱く、同時に芯が冷え切っているような、嫌な感覚が残っている。


 扉の向こうで足音がした。


「……起きたか」


 入ってきたのは、篠原四季だった。


 落ち着いた声。

 だが、その表情にはわずかな安堵が滲んでいる。


「四季さん……」

「無理に起きるな。まだ顔色が悪い」

「俺……」


 記憶が一気に戻ってくる。


 異骸

 武とすみれ

 戦う夏希

 自分の中から溢れた炎

 そして、目の前で止まった紅蓮と、それを封じた白い冷気


「夏希は……!」

「無事だ」

 四季はすぐに答えた。

「三島くんも水原さんも無事。お前が気にしているようなことは、何も起きていない」


 その一言で、胸を締めつけていたものが少しだけ緩む。


「……そうか」


 けれど安心は長く続かなかった。


「俺の、炎……」

「…………」

「あれ、何だったんだ」


 四季は少しだけ黙り込んだ。


 その沈黙が、逆に刀夜の不安を煽る。


「四季さん」

「刀夜」

 低く、しかし柔らかい声だった。

「お前のお母さん……沙夜は、炎と氷を扱っていた」

「……え?」


 思考が止まる。


「守護者としての記録にも残っている。炎で薙ぎ、氷で守る。それが沙夜の戦い方だった」

「炎と……氷……」


 夢の中で見た母の背中が脳裏を過る。

 異骸と戦う姿。

 交差する紅と白。


 あれはただの夢じゃなかったのか。

 それとも、記憶のどこかに残っていたものが形になっただけなのか。


「何で、今それが俺に……」

「分からん」

 四季は首を振った。

「だが、お前が持っている二振りの刀と無関係とは思えない」

「……っ」


 机の方を見ると、そこには見慣れた二振りが立て掛けられていた。

 母の形見。

 抜けない霊刀。


 あれが関係している。

 そう言われると、否定できない何かがあった。


「今日はもう休め」

 四季が言う。

「暦も夏希も心配してる。話は落ち着いてからでいい」

「夏希、いるのか」

「ああ。さっきまでここにいた」

「……そうか」


 来るな、と叫んだ。

 それなのに、やっぱり側にいてくれたのか。


 胸の奥が鈍く痛む。


 四季はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出ていった。


 残された刀夜は、布団の上で天井を見つめる。


 炎。

 氷。

 母の背中。

 自分の知らない力。


 何一つ分からない。


 分からないままなのに、確かなことが一つだけあった。


 もう“何も持っていない自分”ではいられない。


 持ってしまった。

 望んだわけでもない力を。

 大切なものを壊しかねない、危うい何かを。


 そしてその事実は、刀夜の平穏な逃避を許してはくれないのだと、嫌でも分かってしまった。

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