静謐な明日

 銃声は一度だけ。

 ザクロの汚れた手が、マリアの白い首筋に触れる寸前、俺は引き金を引いた。

 狙ったのはザクロではない。

 マリアの眉間だ。


 パン、という乾いた音が響き、少女の頭がガクリと後ろへ跳ね上がる。

 後頭部から中身が飛び散り、白いドレスに鮮やかな赤黒い花が咲いた。


 彼女は最期に一瞬だけ、俺を見た。

 驚きではなかった。

 あの安堵だった。施設の扉が爆破された瞬間に一度だけ漏れた、あの表情と同じだった。

 それが何を意味するのか、俺には分からなかった。

 永遠に分からないままだろう。


 糸の切れた操り人形のように、マリアは崩れ落ちた。


「……あ?」

 ザクロが動きを止める。

 目の前から消えた執着の対象。その喪失が、彼を薬漬けの夢から現実へと無理やり引き戻したようだった。

 同時に、麻痺していた痛覚が一気に押し寄せたのだろう。


 ザクロが膝から崩れ落ちる。

 大量の血が、彼の体から急速に失われていく。コンクリートの床に、赤い海が広がっていく。


 俺は駆け寄り、倒れ込むザクロを受け止めた。その体は驚くほど軽く、そして氷のように冷たかった。


「アギト……?」

 ザクロの瞳から狂気の色が消えていた。


「ああ、俺だ」

「マリアは……?」

「死んだよ。仕事は失敗だ。お前は何も手に入れられなかった」

「そっか……失敗か……」


 ザクロは口元から血の泡を吹きながら、かすかに笑った。内臓の破片が混じっている。


「なぁ、アギト。痛いよ。すげぇ痛いんだ。体が……燃えてるみたいだ」

「……ああ」


 ザクロの震える手が、俺の袖を掴む。その握力は、赤子のように弱かった。血に濡れた指が、俺のジャケットに赤い線を描く。


「お願いだ、アギト。俺を処理してくれ。ゴミみたいに、誰にも見つからないように」


 それは最期の願い。


 俺は頷き、ザクロの首に手をかけた。

 脈打つ頸動脈。温かい皮膚。


 ザクロは抵抗しなかった。ただ、俺の目を見つめ、何かを言いかけて――口が動いた。音にならなかった。


 ゴクリ、と喉が鳴り、その光が消えた。


 俺の腕の中で、彼はただの肉と骨の塊になった。




 夜明け前の空は、殴られた後の皮膚のような、ドス黒い紫色をしていた。

 港のゴミ集積場。

 俺はドラム缶の中で燃え上がる炎を見つめていた。


 ザクロとマリア。二人分の肉体が焼ける、脂っこい、甘い臭いが漂う。それは豚肉を焼く匂いに似ていた。人間も所詮は肉なのだ。


 灰が、黒い煙となって空へと昇っていく。

 これで証拠はすべて消えた。組織も全滅した。俺だけが生き残った。


 自販機で買った缶コーヒーを開ける。

 プルタブの音が、やけに大きく、鋭く響いた。

 一口飲む。泥水のような味だ。甘ったるくて、苦くて、舌にザラつく化学調味料の味。何の救いもない味。


 朝日が昇る。海面がギラギラと輝き、カモメが騒ぎ始める。

 街が目を覚ます。人々が動き出し、何食わぬ顔で日常を回し始める。

 学校へ行く奴、仕事へ行く奴、誰かを愛する奴。


 炎を見ながら、俺は今夜のことを順番に思い返していた。


 マリアの最期の表情が、何度も浮かんだ。

 あれは安堵だった。間違いなく。撃たれた瞬間に、何かから解放されたような顔をした。

 死にたかったわけではないと思う。だが、あの部屋から、あの白い花だらけの場所から、誰かに連れ出してほしかったのかもしれない。俺が弾丸で行ったことは、彼女が求めていたこととどこかで重なっていたのかもしれない。


 分からない。

 永遠に分からない。


 もう一つ、浮かんでは消えないものがあった。

 ザクロの、音にならなかった言葉だ。


 口が動いた。確かに動いた。だが何も聞こえなかった。

 ありがとうか。馬鹿野郎か。それとも全く別の何かか。


 廊下で立ち止まり、百合の花を見ていたザクロの横顔が、不意に重なった。あの四秒間の、子供みたいな目が。


 俺はザクロを処理した。頼まれたから。それが仕事だから。

 だが本当のことを言えば、俺は最後まで、ザクロが俺の腕の中で消えていくことを、どこかで望んでいた。マリアに連れて行かれるくらいなら、俺の手で終わらせたかった。


 それは愛だったのか。それとも所有だったのか。

 俺には判断できなかった。


 ザクロがいない世界は、あまりにも静かで、退屈すぎた。狂いそうになるほどの静寂。


 俺は空になった缶を、手の中でゆっくりと握りつぶした。ベコッという無機質な音が、俺の唯一の返答だった。

 それを放物線を描いてゴミ山へと投げ捨てた。

 カラン、と乾いた音がして、それは無数のゴミの中に埋もれて見えなくなった。


「……行くか」

 俺は背を向け、歩き出す。


 ポケットの中で、メモリーチップの角が指先に触れた。


 背後でカラスが鳴いた気がしたが、振り返ることはしなかった。

 俺の影だけが、長く、長く地面に伸びていた。それはまるで、俺を地獄へと引きずり込もうとする黒い腕のようだった。


―了―

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血溜まりの鎮魂歌 森崇寿乃 @mon-zoo

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