2話 ハルモニアと合わないプシュケー
指揮棒が飛ぶ。耳を掠め、後ろに座るユーフォニアムの後輩にぽすりと刺さった。
「ごめーん! 汗で滑って飛んじゃった。どうせならコウサイくんに刺したかったね」
「ね、じゃないですよ。あと数センチでピアス穴が空きそうでした」
「校則違反だからダメー」
「言われなくても着けません」
両手でバツをつくり、タコのモノマネみたいな口で説教を浴びせてきた。浴びるって言うより、かけ湯くらいの勢いだが。
ホリミチケイコ先生は今日も絶好調。
5月上旬。春特有の快適な温かさがつづく、そんな放課後。
全開にされたカーテン。これでもかと日光を浴びた絨毯は日焼けをして、本来の鮮やかさが失われつつある。
週1の掃除では間に合わず、空気中に漂うスパンコールのような埃を、消し去ることはできなさそうだなと思った。
これまた強く照らされた積み重なる楽譜に目をやる。
おそらく夏のコンクールで演奏する楽曲なのだろう。
ホリミチ先生はどうせ難しい曲を選ぶ。今年の夏も去年の先輩たちをなぞるように、激務が待ち受けていることは目に見えた。
ユーフォニアムの後輩が指揮棒を返却したところで、ホリミチ先生は再び話を始めた。
「ようし。指揮棒も手元に返ってきたことなので、息抜きしよっか。今回の自由曲、発表してほしい? してほしいでしょ」
「してほしくないですね」
「さっさとしなさいな」
アズマさんがはぁ、と息を吐きながら呆れた態度を示す。まあ内心わからんでもない。
周りの部員はチラホラと、興味を示す声であったり、ボクみたいに冗談交じりで否定の声が上がっていた。
「えー、まあいいっか。発表します」
妙に上手いドラムロールの口真似をしながら、斜め後ろに積み上げてある楽譜の一番上から1枚を手に取る。
そして全部員に見えるよう、高く掲げ、口を開いた。
「アズマさんの要望の……逆を聞き入れて『ハルモニア〜永続の螺旋にて〜』に決定しましたー。ワーパチパチ」
「先生。まあそんなことだろうとは思ってたけど、嫌がることをするなんてひどいわね」
アズマさんがそれを言うのか。曲がってるぞおい。
彼女が嫌がったのにも理由がある。それはボクにも賛同できる内容だ。
ボクはアルトサックス担当で、アズマさんがテナーサックス。そして楽曲の中盤にはアルトサックスとテナーサックスが掛け合う、デュオパートがあるのだ。
アルトサックスは去年先輩が抜け、後輩のシジョウコウマくんが1名と、ボクの計2名。そしてテナーサックスはアズマさんのみ。
後輩に技術があれば任せてもよいのだが、今年からサックスを始めた彼は天才というわけではなく、ボクと同じように平々凡々だ。
よって、やり込んだ時間がものを言い、ボクがそのパートを演奏しなくてはならないことが決定している。
よりによっていがみ合っているボクたちがだ。ホリミチ先生は本当に意地が悪い。
しかもこの曲以外に挙げられた候補の中に、より難しい楽曲があったというのにこの曲を選んだのだ。
「やりましたね、先生」
「なんとでも言えばいいさ、はっはっはー」
「本当に嫌なんですけど、まあ。やるしかないわよね」
サックスをぶら下げるネックストラップがカチャリと音を立てる。右を向けばアズマさんが深く俯いていた。
悪びれもなく、〝嫌〟をむき出しにする彼女に、ほんの少しだけボクも嫌な気持ちになった。
だから嫌いなんだよ。
しばらく歯医者に行かなかった時の奥歯のような、キュッとした痛み。慣れたと思っていても、感じる時だってある。
でもボクは、無視をすることでしか自分を守れない。
公園に集まってゲームをする子供のように、普通となってしまった異常は、過去抱いた感情を塗り替え、それが妙に心地いい。
どこで間違えたのかといったタイミングに意味はなくて、過去に誰かが通った足跡を辿るようなものであり、行き着く先はそこまで地獄ではないという答え合わせがあった。
だからボクは歩き方を変えないことにしている。
ふと右隣から紙の束、楽譜を渡される。
アズマさんが早く受け取れと言わんばかりの目を向けては、掴もうとする直前、膝に放り投げる。
それを滑り落とさぬよう押さえつければ、少しシワがついてしまった。
パーカッションの楽譜が足りないだとか、トランペットは印刷に抜けがあるだとかで会話が行き交う。
しばらくしてホリミチ先生がざわめく部室を引き締めるために、机をドラムスティックで小気味よく叩いた。
「はーい。とりあえず抜けがある場合は隣の人に見せてもらって。足りないところ刷ってくるから、今から譜読みをしてね」
そう言い残して各パートから要望を聞いた後、ホリミチ先生は部室を出ていった。
クラリネットの方からニッタヨウヘイがこっそりと忍び寄ってくる。相変わらずバレバレだし、もうその展開には飽きているんだよな。
「羨ましい、マジで。オレもア、あれだ。デュオしたかった」
彼が飲み込んだ〝ア〟の先2文字をボクは知っているが、場を乱すようなことは言わないと決めている。
滑りかけた言葉をせき止めるわけでもなく、それを濁流で流してやろうという魂胆だろう。
間も置かず、続けてヨウヘイは喋る。
「でもクラリネットとテナーサックスのデュオの曲、ありましたかね」
「馬鹿ね、あったわよ。私としては消去法でそっちが良かったわ」
「『蒼穹と烏』っていうタイトルだったっけ。俺もそっちが良かったー」
自身の発言をごまかすように、アズマさんを真似て「消去法でね」と、ヨウヘイは付け足した。もっと素直になれば良いのに。
ヨウヘイはおそらくアズマさんのことが気になっているのだろう。または好きかのどちらか。
ボクとしてはどっちでもいい。
ヨウヘイならアズマさんと付き合っても上手く関係を維持できるだろうし、そういった器用さがあるからヨウヘイと友達を続けられている。
ふと気がついたのだが、アズマさんはボクのことが嫌いなくせに、あちら側から話しかけてくることがあるし、話に参加してくることもある。
嫌いという感情は1つの面で構成されているわけではなく、サイコロのように多面体なのだろうか。
ボクは彼女の深層心理を覗き見ることなんて、できやしないからわからないけど。
例えばその理由を尋ねたりでもしたら、せっかく積み上げた関係を元のマイナスにしかねない。
つくづく爆弾のような、いや、地雷原の擬人化だと言えるだろう。
気がつけばヨウヘイはクラリネットパートの後輩に、何やら質問をされたらしくそそくさとその場を立ち去っていた。
「でもハルモニアに決まった以上、ボクたちがやることは1つです」
「そうね、練習あるのみね。不本意ダケド」
「同感です」
アズマさんが耳に髪を引っ掛ける。ああ、この人の所作は美しいと感じた。
ふと耳たぶに目が行く。川で撫でられ摩耗し、サラサラとしそうな耳たぶに1つ。点がある。
ほくろにしては小さいし、傷口にしては形状がおかしい。
「ごめんなさい、その耳たぶにある点みたいなものは何でしょうか」
「あー、そんでキッショい視線を向けてたのね」
耳打ちをしようとしたのだろうか、顔を突然近づけてきたものだから、奥歯の先が乾く。
肌がびりりと震えるような、かすかな羞恥心がボクをのけ反らせるのには十分だった。
アズマさんはボクを避けるくせに、時々こういったことをしてくる。
普段そういった距離感に慣れていないので、やめていただきたいなと思いつつも、多少控えてほしいという程度だ。
だってアズマさんはかわいいので。腹立つけど。
意図を理解したアズマさんは譜面台からメモ帳を取り、何やら書き込んだのち膝の上にメモを軽く投げ置いてきた。
[ピアス穴]
「校則違反なのでダメですね」
「黙っときなさいよ」
「言う相手がいないので安心してください」
「……ニッタくんは?」
「呼んだ? 呼んだよね」
某お風呂好きみたいなことを言いながらヨウヘイがやってくる。
すっごい嬉しそうな顔をしながらやってくる。犬じゃあるまいし。
膝の上のメモ帳を思い出し、急いでアズマさんの譜面台に戻す。
「うーん。呼んではないけどニッタくんの名前は出したわ」
「なになに何の話でそうなったの」
「それをボクの口から言うのは憚られます」
「ふん、気を使ってんじゃないわよ。まあそっちのほうが助かるけど」
再びアズマさんはメモ帳を開き、今度はヨウヘイにメモを見せながら、耳たぶを軽くつまんでクイッと引っ張って見せた。
「ほうほう。直接見たわけじゃないけどたぶん似合ってそう」
「ん、そりゃあんがと」
珍しくアズマさんが照れている。かわいいな畜生めが。
ちょうどそこで部室のドアが開き、ホリミチ先生が戻ってくる。
複数の生徒が「おかえり」と声をかけているのを眺めて、ここの部活はまだ仲が良いのだなと思えた。
「はいただいま戻りました。もうひとつ連絡です。今週の土曜、1日練習の時にそうめん大会を開催します!」
ホリミチ先生が2年前に就任してから、そうめん大会は毎年開催している恒例行事だ。
新入生との親睦を深めるという意味合いが強いが、同級生や先輩との関係を良くするといった側面もある。
「てなことで、デュオパートの2人、アズマさんとコウサイくんの2人に仕切ってもらいます」
「「ちょっと待って(ください)!」」
思わず同時に待ったをかけてしまったことで、さらに険悪な空気が広がる。主にアズマさんを起点として。
「仕切るって言っても、具体的に何をすればいいんでしょうか」
「ちょっと、私やりたくないんだけど」
「それはそうですが、どうせ先生は聞き入れないですよ」
「むぅ……」
「わかってるじゃんっ、コウサイくん」
腹立たしい笑顔を咲かせ、BPM380くらいの速度で拍手をする。
音大を出た人は拍手さえもテンポキープされるものなのだろうか。
やけに正確で少し薄気味悪い。
「めったなことはしないよ。準備と片づけを仕切って、始めと終わりの挨拶をしてくれれば良いから」
「心底めんどくさいわね。大体なんでアレとやらなきゃいけないの」
「そりゃあだってデュオパートをするわけだし、息を合わせる練習だと思って」
「まあそうよね。わかったわ」
さすがに先生からの指示には素直に従うアズマさん。
こう見えてもアズマさんとホリミチ先生は仲がいい。聞いたところによると、親戚なのだとか。
なんだか世間は狭いなと思う。
仕方ない。決まってしまった以上、観念して仕事を全うしますか。
アズマイオリはボクを嫌うし、ボクもアズマが嫌いだが、いつもイオリは傍らに。 然所灯路 @touzui
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