第46話 記憶

 人ひとり分から、部屋の一角を満たす規模に。


 音が消えた。重力が消えた。空間が歪んだ。世界に黒い帷が落ちた。


 周囲の石畳が吸い込まれる。窓ガラスが割れる。


 擬似ブラックホールが、最初の起点に触れる。第一の起点が、引き込まれた。糸がぷつんと切れた。


 そして連鎖が一つ、断ち切られた。


 でも、残りの五点が補完しようとした。魔力の流れが速くなって、糸が太くなる。


 速く動かなければならなかった。


 さらに広げる。


 魔力の消耗が急速に増えた。体の芯から引き出されていく感覚があって、反動が深くなった。思考がさらに平坦になっていく。


 でも感知は冴えていた。


 六点の位置が、手に取るようにわかった。


 第二の起点が飲み込まれた。


 第三が飲み込まれた。


 連鎖が乱れ始め、補完の速度が追いつかなくなってきた。残りの起点が過負荷になっていく。


「——っ」


 声が出そうになって、堪えた。


 第四が飲み込まれた。


 第五が飲み込まれた。


 最後の一点だった。上層にある、六番目の起点。


 一番遠かった。


 残りの魔力を全て、擬似ブラックホールに注いだ。


 脳がガクンと揺れ、遅れて、反動がやってくる。足元が僅かに沈む。立っているのか倒れているのか、わからなくなってきた。


 リアンの顔が、浮かぶ。

 

 



 あれ、どんな顔だっけ。

 髪は、目は、肌は、どんな色だっけ?

 声は、匂いは、どんなのだっけ?





 ――リアンって、誰だっけ?




「絶対、出てきてください」


 声が聞こえた。耳にすっと馴染む声だった。そうだ、リアンの声だ。わたしの愛しい妹、リアンの声だ。


 ぼんやりとしていた思考が急激に冴える。わたしは足を踏ん張って、魔力を注ぐ。


 最後の起点に触れた。


 引き込んだ。


 術式の糸が全て切れた。


 連鎖が、消えた。


 そして、静かになった。



 擬似ブラックホールを解除した。


 空間の歪みが元に戻る。世界に光が差した。同時に、全身から力が抜けた。膝、そして両手が床につく。


 頭の奥が重かった。視界が少し歪んでいた。反動だった。思考が戻ってくるのに、数秒かかった。


 感情が少しずつ戻ってきた。


 術式の気配が消えていることを確認した。六点全て、気配がなかった。糸も残っていなかった。


 成功した。


 立ち上がる。


 最初は膝で立った。次に片足を立てた。それからゆっくり両足で立った。


 少しふらついたけれど、倒れなかった。


 扉を探したが、なかった。ブラックホールを展開した場所を中心に大穴が穿かれ、物理的にごっそり持って行かれていた。


 廊下、いや、廊下だった場所に出た。


 人がいなかった。全員避難していた。


 外に向かって歩いた。


 途中で少し足が止まった。壁に手をついて、深呼吸する。


 動けた。殿の門をくぐる。


 夜の参道に、人が集まっていた。


 避難していた神官や職員が、遠くから神殿を見ていた。誰かが「中に誰か残っているのでは」と言っていた。誰かが「もう少し待ちましょう」と言っていた。


 エドヴァルトが走ってくる。


「無事か」

「無事よ」

「術式は」

「消えた。六点全部」


 エドヴァルトが少し目を閉じた。安堵していた。「……よかった」と小さく言った。大きな声では言わなかった。でも確かに言った。


「リアンは」

「ここに——」

「お姉様!」


 声がした。


 次の瞬間、衝撃が来た。


 リアンだった。


 参道の端から走ってきて、そのままわたしにぶつかってきた。腕が回ってきた。強く、抱きしめられた。


 顔が肩のあたりに当たっていた。震えていた。


「……出てきてくれた」

「約束したから」

「よかった」リアンが言った。「本当に、よかった」


 腕の力が強かった。解く気配がなかった。


 しばらくそのままでいた。


 リアンの温度があった。


 干渉実験で何度も触れた温度だった。廃工場の廊下で支えたときの温度だった。ベッドで手を繋いだときの温度だった。


 反動で薄くなっていた感情が、少しずつ戻ってきた。


 温かかった。

「……帰りましょう」とリアンが言った。声が落ち着いてきた。でも腕は解かなかった。

「そうね」

「手を繋いで、帰りましょう」

「……好きにしなさい」


 腕が少しだけ解けた。代わりに手が来た。握られた。

温かかった。


 顔を上げると、参道の外でエドヴァルトたちが待っていた。


 レヴが「遅い」と言った。中二病の口調だったが、声が少し高かった。「全員無事か確認するのに待っていた」

「全員無事よ」

「……当然だ」とレヴが言った。

ミエルが「ジュース持ってきました。みなさんの分」と言った。「落ち着くと思って」

「クールな判断ね」とわたしは言った。

「でしょう?」ミエルが少し嬉しそうにした。


 シリルが「お疲れ様でした、ルネ先輩」と言った。静かな声だった。それだけだった。

エドヴァルトが「今夜のことは明日話す」と言った。「ヴェスペラのことも、術式のことも。今夜は帰れ」

「……わかった」


 祭りの音が、遠くから聞こえていた。


 街の方では、まだ祭りが続いていた。神殿側が「祭りを続けるように」と判断したらしかった。民心を乱さないための決定だったようだ。


「帰りましょう」とリアンがまた言った。

「そうね」


 歩き始めた。


 リアンの手がついてきた。


 夜の参道を歩く。木が両側に並んでいた。星環祭の飾りが、風に揺れる。


「お姉様」

「なに」

「ぬいぐるみ、まだ持っています」リアンが腕の中を見せた。白い丸いものが抱えられていた。「ずっと持っていました。神殿の中でも」

「礼拝堂でも持っていたの」

「はい。お姉様がくれたので」

「……そうね」

「名前をつけました」

「何と」

「ルナ」

少し間を置いた。

「お姉様が取ってくれたので」リアンが言った。「お姉様の名前にちなんでつけるのが一番いいと思いました」

「……好きにしなさい」

リアンが笑った。

参道の石畳が続いていた。

夜の風が吹いた。飾りが揺れた。


 反動がまだ頭の奥にあった。でも手の中にリアンの温度があった。


 それで、帰れる気がした。

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