第32話 王女の秘密と、魔族の偏見
シアが家政婦として魔王城に住み着いてから、三日が経った。
彼女の「完璧すぎる家事」は、城内の魔族たちの間で奇妙な波紋を呼んでいた。
「……陛下、あの新しい家政婦ですが。昨夜、食堂の換気扇を分解して、歯ブラシで磨き上げているのを目撃しました。あれは……魔族を凌駕する執念ですな」
バルガスが戦々恐々と報告してくる。
俺は頭を抱えた。隣国の王女が、なぜそこまでしてこの島に執着するのか。
単なる「家事の修行」にしては、彼女の目には時折、悲痛なまでの切実さが宿っている。
1
その日の昼下がり、シアは城の中庭でリリナと向き合っていた。
リリナが子供たちに教えている「正しい手の洗い方」を、シアは一字一句漏らさぬよう、熱心にメモを取っている。
「シアさん、そんなに詰め込まなくても大丈夫ですよ。これは誰にでもできる簡単なことですから」
「いいえ、リリナ様! この『簡単』こそが、我が国には足りないのですわ。……魔法で無理やり病を抑え込み、その代償に民が疲弊していく……。そんな負の連鎖を断ち切る鍵が、この石鹸の泡にあるのです!」
シアの言葉に、俺は物陰で足を止めた。
なるほど、彼女の国は、神の祝福(魔法)に依存しすぎた結果、基礎的な公衆衛生という概念を失い、原因不明の疫病に苦しんでいるという噂があった。
2
「……だが、それを王女自らメイドになって学びに来るとは。お前の国の王様は、よっぽど頭が固いのか?」
俺が声をかけると、シアは肩を跳ねさせて振り返った。
「ま、魔王様! ……お聞きになっていたのですか。……はい、父も兄も、『神の奇跡に頼らぬ治療など異端の業だ』と聞き入れてくれません。だから私は、この目で見、この手で学んだ『現実』を、証拠として突きつけたいのですわ」
彼女の瞳に宿っているのは、かつての勇者アルスが持っていた「使命感」に近いものだった。
だが、その熱意とは裏腹に、城の魔族たちは冷ややかだった。
「……人間が、何を偉そうに。結局、俺たちを『不潔な化け物』だと思って掃除してるんだろ?」
中庭の隅で、若手のデビルたちが毒づいた。彼らにとって、人間の王族が自分たちの住処を磨き回る姿は、一種の「差別的な潔癖症」に映っていたのだ。
3
『あらぁ。せっかくの「教育」も、偏見の壁には敵わないみたいね』
空からノルンの声が降ってくる。
彼女は、シアの情熱と魔族の不信感が激突する瞬間を、今か今かと待ち構えているようだった。
『ねえ魔王様、このままじゃシアちゃん、いじめられて泣いて帰っちゃうわよ? それとも……あなたが「魔王らしいやり方」で、仲裁してあげるのかしら?』
(……仲裁なんて面倒なことはしない。だが、俺の家政婦の仕事効率が落ちるのは困る)
俺は一歩前に出ると、シアに向かってあえてぶっきらぼうに言った。
「シア。お前の国の疫病とやらは、石鹸だけじゃ治らんぞ。……統計(データ)だ。どの地区で、どんな奴が、何を食べて倒れたか。それをテトラとエドワードのところに持って行って、徹底的に分析させろ。……掃除はその次だ」
4
シアは驚いたように目を見開いた後、力強く頷いた。
「……はい! ありがとうございます、魔王様!」
彼女が財務局へと駆け出していくのを見て、俺は背後のデビルたちを睨みつけた。
「……お前らもだ。あいつが磨いた床が綺麗だと思うなら、それは差別じゃなくて『労働』だ。文句があるなら、あいつより速く、正確に掃除してみせろ」
魔族たちは気圧されたように黙り込んだ。
神の奇跡でもなく、王族の権威でもなく、ただの「共通の課題(タスク)」として向き合わせる。
それが俺の、そしてこの魔王領の「やり方」だ。
「……だめがみ。……これでもう、一週間は静かになるだろ。……俺は、今のうちに昼寝の続きをする」
俺の背中に、アストレアの「観測」の光が、どこか満足げに寄り添っていた。
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