第14話 勇者の力が役に立たない現実
「……はぁ、はぁ、……くそっ、なんだこの岩は……!」
魔王領の北西部、新たな用水路の掘削現場。
そこには、泥にまみれ、額から滝のような汗を流しながら、巨大な岩と格闘する男の姿があった。元勇者、アルスだ。
かつての彼なら、聖剣を一振りするだけでこの程度の岩山など粉々に粉砕していただろう。だが今、彼の手にあるのは使い古された鉄のツルハシ。そして、加護を失った「ただの人間」の筋肉だけだ。
「アルス様! 無理をしないでください!」
聖女リリナが駆け寄るが、彼女もまた、不慣れな包帯巻きの作業と、怪我人の世話で足元がふらついている。神の癒やし(ヒール)が使えない彼女にとって、傷口を洗い、清潔な布で縛るという工程は、魔法よりもずっと時間がかかり、そして残酷なまでに「結果」が見えにくい作業だった。
1
俺は少し離れた丘の上から、その惨状を眺めていた。
「……バルガス。あいつらの進捗はどうだ?」
「予定の半分も進んでおりませんな。特にアルス殿は、力の入れ方が分かっていない。ただ闇雲に道具を振るうだけでは、岩より先に自分の腕を壊しますぞ」
バルガスの指摘は正しい。
勇者たちは「奇跡」という名のショートカットに慣れすぎていた。
本来、労働とはエネルギーの効率的な分配だ。だが、彼らは常に100%の力でぶつかり、すぐに息を切らし、効率の悪さに絶望している。
一方で、隣で作業しているオークの若者たちは、鼻歌まじりに岩を運び出している。
「よお、お兄さん。そんなに力んじゃダメだよ。土の『声』を聞いて、急所を叩くんだ」
「……土の声、だと?」
「そうさ。陛下が教えてくださった『地質学』の基礎だよ!」
アルスが呆然とオークを見る。
かつては一撃で倒せたはずの「雑魚敵」に、今や労働のコツを教わっている。その屈辱と困惑が、彼の表情を複雑に歪めていた。
2
その時、俺の視界の端で、空気がキラリと爆ぜた。
『……ふふ、見てられないわね。ねえアルス君、そんなに辛いなら、少しだけ「筋力増強(フィジカル・アップ)」を戻してあげようか?』
運命の女神ノルンだ。
彼女は、ボロボロになった勇者に「未練」を見せていた。
彼らが再び英雄として返り咲くのか、それともこのまま泥に沈むのか。彼女にとっては、どちらも等しく「面白いエンタメ」なのだろう。
アルスの動きが止まる。
彼にも、女神のささやきが聞こえたのかもしれない。
彼がもし「はい」と答えれば、この岩は一瞬で片付く。だが、それは同時に、俺が積み上げてきた「自立」という名の城を壊すことになる。
(……アルス。選べよ。神の操り人形に戻るか、それとも泥を啜ってでも自分の足で立つか)
俺は手を出さず、ただ黙って見守った。
3
アルスは震える手でツルハシを握り直した。
そして、空に向かって吐き捨てるように言った。
「……いらない。……あいつに、魔王に笑われるのは……もう御免だ」
ガツン、と鈍い音が響く。
岩は砕けなかった。だが、ツルハシの先は確実に、岩の裂け目へと食い込んでいた。
『あら。……フラれちゃった。アストレア、最近の子は可愛げがないわねぇ』
ノルンの気配が、少しだけ不満げに遠のいていく。
俺は小さく息を吐き、丘を降り始めた。
「バルガス。あいつらに、明日は『テコの原理』の講習を受けさせろ。それから、リリナには清潔な水の作り方と、薬草の煮出し方のマニュアルを渡せ」
「ははっ。……陛下。あえて助けず、彼らが自力で気づくのを待つ……。なんと厳しい愛でございましょう」
「愛じゃない。非効率な労働を放置しておくと、俺の隠居後の年金……じゃなくて、国の備蓄が減るから困るだけだ」
俺はあえて冷たく言い放ち、泥まみれの勇者たちの横を通り過ぎた。
アルスと一瞬、視線が合う。
そこには憎しみでも崇拝でもない、新しい「何か」が宿り始めていた。
「……だめがみ。……誘惑するなら、もっとマシなもんを提示しろよ。例えば、一生働かなくていい権利とかな」
俺の愚痴は、作業現場に響くツルハシの音にかき消された。
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