第8話 魔族同士の和解

 女神たちに「」と啖呵を切ってから数日。

 空は驚くほど静かだった。余計な花も咲かなければ、変な塩もできない。

 どうやら、少しは反省したのか、あるいはヘソを曲げたのか。どちらにせよ、俺にとっては待ちに望んだ「普通の事務作業」に没頭できる時間だ。


 だが、領地運営において、神よりも厄介な問題が一つ残っていた。

 部族間の根深い対立だ。


「……陛下。オーク族のガザと、リザードマンの族長ザッハが、建設中の公衆浴場跡地で一触即発の事態に」


 バルガスの報告を聞き、俺は重い腰を上げた。

「またか」と言いたくなるのを飲み込む。


 1

 現場に到着すると、巨躯のオークと、鋭い鱗を持つリザードマンが、完成間近の石造りの浴槽を挟んで睨み合っていた。


「……いいか、ザッハ! 陛下が仰った『清潔』こそが魔族の新たな美徳だ! 泥だらけの尻尾で入るなど、陛下への冒涜に等しい!」

「黙れ、ガザ。我ら水棲の民にとって、水場は祈りの場だ。お前たちのような獣臭い連中がドカドカと入る方が、よほど陛下に失礼というものだ!」


 どうやら、風呂の「使い方」という、前世でもよくあるマナー論争が発端らしい。

 かつての彼らなら、ここで斧と槍を振り回して血の海を作っていただろう。だが、今の彼らは手を出さない。俺が決めた「領内私闘禁止」のルールが、かろうじて彼らを引き止めていた。


(……ここで俺が裁定を下すのは簡単だ。だが、それでは「俺」という個人への依存が終わらない)


 2

 俺はあえて、彼らの間に割って入るのをやめた。

 そして、近くにいたバルガスにだけ聞こえるように呟いた。


「バルガス。あいつらに、先日配った『労働評価表』を見直してこいと言え。それから、浴場の清掃当番を決める『自治委員会』を立ち上げるようにな」


「はっ? 陛下、仲裁はなさらないのですか?」


「これは、彼らが自分たちの手で解決すべき問題だ。俺の仕事は、彼らが話し合える『場所』と『ルール』を用意することだけだ」


 バルガスが半信半疑のまま、二人の族長に伝令を飛ばす。

 数分後、頭を冷やしたガザとザッハが、気まずそうに顔を見合わせた。


「……ザッハ。陛下は我らに、この場を任せると仰ったそうだ」

「……ふん。自分たちで決めろ、ということか。……ならば、午前は我ら、午後は貴様らという入れ替え制はどうだ? 清掃は共同で行う。それなら文句はなかろう」

「……いいだろう。その代わり、掃除をサボった部族は次回の石鹸配給をカットだ」


 意外にも、あっさりと話がまとまった。

 神の奇跡も、魔王の強権も使わずに。


 3

 その様子を、物陰からこっそりと眺めていた。

 不思議と、黄金リンゴの時よりもずっと大きな達成感が胸に広がる。


(……よし。これが『自立』の第一歩だ)


 ふと、上空から小さな、だが澄んだ溜息が聞こえた気がした。

 それはこれまでの「面白がっている声」ではなく、どこか寂しげで、それでいて感心したような、アストレアの声だった。


『……介入しなくても、物語は動くのね』


 彼女たちは気づき始めている。

 自分が手を貸さなくても、人間(魔族)は案外たくましく、自分たちの正解を見つけ出せるのだということに。


「……だろ?」


 俺は誰にも聞こえない声で、空に答えた。

 魔王領に吹く風は、少しだけ湿り気を帯びていた。

 もうすぐ、この島に初めての本格的な雨期がやってくる。


 それは女神の涙か、それともただの自然現象か。

 今の俺には、どちらでもよかった。

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