第3話 平穏という名の戦場

 魔王城の裏庭。そこは俺が唯一、魔王という肩書きを脱ぎ捨てられる聖域だ。

 手入れの行き届いた芝生の上に寝転び、前世では望むべくもなかった「何もしない時間」を噛み締める。


「……ふむ。光合成日和だな」


 だが、そんな贅沢も長くは続かない。

 コツコツと小気味よい靴音が近づき、俺の視界に逆さまのバルガスが入り込んできた。


「陛下。例の『共通教育機関』の設立準備、順調に進んでおります 。各部族から選出された若者たちが、読み書きと計算を学び始めました 」

「そうか。……揉めてないか?」

「はっ。最初は一触即発でしたが、『陛下が決めたルールを守らぬ者は、次回の米の配給を半分にする』と伝えたところ、皆一様に大人しくなりました 」


(……結局、食い物か。だが、それでいい。高い理想より、明日の飯の方がよっぽど人間(魔族)を動かす)


 俺は満足げに目を閉じた。

 神の奇跡に頼らず、自分たちの労働と知識で社会を回す 。

 この「仕組み」さえ完成すれば、俺がいつ隠居しても、この国は潰れない 。


 1

 だが、その平穏を「退屈」と断じる存在がいた。


 空の上。女神たちの領域である『星の階(きざはし)』。

 そこでは、最年長でありまとめ役の女神アストレアが、水晶に映る魔王領を静かに眺めていた 。


『……面白い子ね。普通、力を持てば誇示したくなるものだけれど』


 彼女は「観測」の女神だ 。

 直接手を貸すことはせず、ただ世界の流れを記録するのが彼女の役割である 。


『エルミナは豊穣を、リュシエラは知恵を与えたがっている。でも、彼はそれを「毒」だと断じ、自分の手足で歩くことを選んだ 』


 アストレアの横で、戦の女神ヴァルシアが不満げに剣を弄んでいる 。


『理解できん。戦わずに勝つなど、魔王の風上にも置けぬ。あの男、力はあるはずなのに、なぜそれを使わんのだ! 』

『それが彼の「戦い」なのよ、ヴァルシア。神の手を借りず、運命という名のレールから降りるためのね 』


 アストレアの瞳に、かすかな期待と、それ以上の「危うさ」が宿る。

 神にとって、自分たちを必要としない世界は、一種の反逆にも等しいからだ 。


 2

「……なんか、視線が痛い」


 俺は背筋を走る寒気に、思わず起き上がった。

 女神たちが俺を「気になる存在」として注視し始めているのは肌で感じる 。


『ねえ、魔王様ぁ。ちょっとだけ、ちょっとだけ運命を動かしてもいい? 』


 空耳のように、ノルンの声が風に乗って聞こえた気がした 。


「断る。……絶対に、余計なことはするなよ」


 俺は空に向かって釘を刺した。

 だが、ノルンという女神は、空気を読まないことを生業としている 。

 彼女にとっての「面白さ」は、往々にして俺にとっての「大惨事」だ 。


 3

 その日の夕方。

 城下町の外れ、普段は静かな海岸線に、一つの「異変」が起きていた。


 潮の流れ。風の向き。そして、あり得ないほどの「偶然」が重なり。

 本来なら別の島へ向かうはずだった一隻の小舟が、魔王領の砂浜へと乗り上げたのだ。


 それは、神が仕組んだ「交流イベント」の序章に過ぎなかった 。


 俺がその報告を聞くのは、数時間後のこと。

 今はまだ、沈みゆく夕日を眺めながら、「明日の昼飯は何にしようか」という平和な悩みに没頭していた。


「……明日は、何事も起きませんように」


 その願いが、最も残酷な形で裏切られることを、俺はまだ知らない。


「……


 まだ何も起きていないのに、予防線のように呟いたその言葉が、夜の帳に溶けていった。

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