第二章:記憶という名の調味料
陽菜との衝突から三週間が過ぎた。彼女は以前と同じように仕事をこなしていたが、以前のような明るさは失われていた。太陽のような存在だった陽菜が曇ってしまったことで、厨房全体の雰囲気も重くなっていた。
怜は陽菜の変化を気にかけていたが、どう接すれば良いのか分からなかった。感情的なやり取りは、彼にとって最も不得意な分野だった。
そんなある日の夕方、Quantum Cuisine に一人の特別な客が現れた。
伊吹雅子。七十二歳。
日本の食文化研究の第一人者として知られ、数多くの料理書を著した文化人類学者である。彼女は月に一度、必ずQuantum Cuisineを訪れる重要な常連客だった。
「怜さん」
営業終了後、伊吹は厨房に姿を現した。怜は深々と頭を下げた。
「伊吹先生、本日もありがとうございました。お料理はいかがでしたでしょうか?」
「相変わらず素晴らしいわ。あなたの技術は毎回、私の想像を上回ってくる」
伊吹の声は優しく、しかし知性に満ちていた。彼女の瞳には、長年にわたって料理を見つめ続けてきた深い洞察力が宿っていた。
「しかし、今日は技術的な評価をしに来たのではないの。実は……お願いがあって」
伊吹は少し躊躇うような表情を見せた。
「何でも承ります」
「最近、体調があまり良くなくて、検査を受けたところ……進行性の膵臓癌と診断されたの」
怜は息を呑んだ。
伊吹は彼にとって、料理人としての師であり、理解者でもあった。
「手術は困難で、化学療法で進行を遅らせることはできるそうだけれど……残された時間は、それほど長くないかもしれない」
伊吹は悲しそうに微笑んだ。
「だからこそ、最後にもう一度だけ食べたいものがあるの。あなたの魔法で、それを蘇らせてはいただけないかしら?」
「どのような料理でしょうか?」
「私が七歳の頃、戦後間もない1950年代のパリで食べた、母の手作りタルト・タタン。母は日本人だったけれど、フランス人の父と結婚してパリに住んでいた。貧しい時代で、材料も満足に揃わなかった。でも、母は限られた材料で、私にタルト・タタンを作ってくれた……」
伊吹の目に涙が浮かんだ。
「不格好で、少し焦げていて、リンゴも煮崩れしていた。でも、あの温かさ、あの愛情の味を、もう一度……」
怜は困惑した。
これまで彼が受けた注文は、すべて技術的な挑戦だった。
より革新的で、より美しく、より驚くべき料理を求められてきた。
しかし、今回は違う。
感情。
記憶。
愛情。
すべて数値化できない、再現不可能な要素ばかりだった。
「分かりました。必ずお作りいたします」
しかし、怜の声には迷いがあった。
伊吹が帰った後、怜は一人厨房に残った。タルト・タタンの材料を前に、彼は途方に暮れていた。
リンゴ、砂糖、バター、小麦粉……すべて基本的な材料だった。彼はこれまで、最高級の食材と最新の技術で完璧な料理を作ってきた。しかし今求められているのは、不完全で、感情的で、曖昧な思い出の味だった。
怜は科学的アプローチを試みた。1950年代のフランスで入手可能だった食材の分析、当時の調理器具の熱特性の計算、戦後の食糧事情を考慮した栄養バランスの推定……
しかし、データを積み重ねれば積み重ねるほど、答えは遠ざかっていくような気がした。
数日後の夜、怜は再びタルト・タタンの試作に取り組んでいた。科学的に完璧なタルトを何度も作ったが、どれも「思い出の味」には程遠かった。
「お困りのようですね」
振り返ると、陽菜が立っていた。
「まだいたのか」
「はい。野菜の下処理が終わらなくて……伊吹さんのお話、聞いてしまいました。申し訳ありません」
陽菜の表情は真剣だった。三週間前の出来事以来、二人の間にはぎこちない空気があったが、今の陽菜の目には純粋な関心があった。
「思い出の味……難しいですね」
「君には関係ない」
怜の返答は以前と同じように冷たかったが、どこか力がなかった。
「でも……もしよろしければ、お手伝いできることがあるかもしれません」
怜は陽菜を見つめた。彼女の目には、昨日までとは違う何かがあった。それは単なる同情ではなく、料理人としての真摯な想いだった。
「何ができる?」
「私、フランスにいた時、よくタルト・タタンを作りました。プロヴァンスの農家のおばあちゃんから教わった、古い作り方で……」
「古い作り方?」
「はい。機械を使わない、手だけで作る方法。レシピもなくて、季節や気分で少しずつ変える……」
怜は眉をひそめた。非科学的で再現性のない調理方法。しかし……
「やってみてくれ」
その言葉は、怜自身も驚くほど自然に出てきた。
陽菜は目を輝かせて頷いた。
「まず、リンゴの声を聞きます」
「リンゴの声?」
「はい。リンゴには個性があります。甘いもの、酸っぱいもの、硬いもの、柔らかいもの……それぞれに最適な調理法があります」
陽菜はリンゴを手に取り、香りを嗅ぎ、手で触り、小さく味見をした。
「このリンゴは少し硬めですね。酸味もしっかりしている。だから……」
彼女は迷いなくリンゴを切り始めた。機械的に均一ではなく、リンゴの繊維に沿って、自然な形で。
怜は彼女の手つきを注意深く観察していた。確かに不正確だった。しかし、なぜか美しく見えた。まるでリンゴと対話しているような、優しい手つきだった。
「砂糖はカラメルにします。でも、完璧なカラメルじゃなくて、少し焦がしてしまったような……戦後の不慣れなオーブンで、お母さんがちょっと失敗してしまったような味」
陽菜は砂糖を鍋に入れ、火にかけた。怜なら温度計を使って正確に温度を管理するところだが、陽菜は目と鼻だけを頼りにしていた。
「もう少し……もう少し……今!」
砂糖がわずかに焦げた瞬間、陽菜は火を止めた。立ち上る香りは、完璧なカラメルよりも複雑で、どこか懐かしい匂いがした。
「これが……思い出の香りかもしれない」
怜は思わず呟いた。その香りに、自分の幼少期の記憶が重なったのだ。
「バターを加えます。でも一気にじゃなくて、少しずつ……お母さんが、娘の様子を見ながら、愛情を込めるように」
陽菜の手つきは、まるで母親が子供を愛でるように優しかった。材料との対話を楽しんでいるようにも見えた。
怜は気づいた。陽菜は技術を超えた何かを持っている。それは経験や知識ではなく、食材や料理に対する「愛」だった。
「タルト生地も手で作ります。機械で混ぜると、どうしても冷たくなってしまうから……手の温かさが、生地に伝わるんです」
陽菜は小麦粉とバターを手で混ぜ始めた。彼女の手は器用に動き、まるで生地と会話をしているかのようだった。
「お母さんが教えてくれたんです。『生地はあなたの気持ちを感じ取るのよ』って。優しい気持ちで触れば、優しい食感になる」
怜はその言葉に、以前ほどの違和感を覚えなかった。科学的根拠はない。しかし、陽菜の作る生地は、確かに彼が機械で作るものとは違っていた。より柔らかく、より温かく、より……人間的だった。
オーブンから立ち上る香りは、バターとリンゴとカラメルが複雑に絡み合った、懐かしい匂いだった。怜は知らず知らずのうちに、深く息を吸い込んでいた。
「できました」
オーブンから取り出されたタルト・タタンは、お世辞にも美しいとは言えなかった。形は不格好で、表面の焼き色も不均一だった。
しかし、それは怜がこれまで見たことのない種類の美しさを持っていた。完璧ではない、しかし温かい美しさ。人間的な美しさ。
「味見してみてください」
陽菜は緊張した表情で怜を見つめた。
怜は一口食べた。
その瞬間、彼の中で何かが変わった。
それは彼がこれまで体験したことのない味だった。
技術的には不完全で、科学的には分析困難。しかし、その奥に隠されていたのは……愛情だった。
陽菜がリンゴに注いだ優しさ、生地に込めた温かさ、そしてタルトを作る喜び。
そして、怜の心に長く封印されていた記憶が蘇った。
母の手作りのお菓子。
不格好だったが、愛情に満ちていた。
科学では再現できない、温かい思い出……
「これは……」
怜は言葉を失った。これまで彼が追求してきた完璧性とは正反対の料理。しかし、なぜこれほど心を動かされるのだろう。
「どうですか?」
陽菜の声は不安そうだった。
「……分からない」
怜は正直に答えた。
「科学的には説明できない。でも……何か大切なものがある。それは確かだ」
陽菜の顔に、太陽のような笑顔が戻った。
「ありがとうございます!」
その夜、怜は一人タルト・タタンと向き合った。分析しようとしても、数値化できない要素があまりにも多すぎた。
しかし、一つだけ分かったことがあった。
料理には、科学だけでは説明できない「何か」が存在する。それは愛情であり、記憶であり、感情だった。そして、その「何か」こそが、人の心を動かす真の力なのかもしれない。
怜は初めて、自分の料理哲学に本格的な疑問を抱いた。完璧性を追求することは正しい。しかし、それだけで十分なのだろうか?
伊吹の求める「思い出の味」を再現するためには、科学だけでは足りない。陽菜の持つ「温かさ」が必要だった。
そして、それは同時に、陽菜という存在が、怜の人生にとって必要不可欠になりつつあることを意味していた。
翌朝、怜は陽菜に声をかけた。
「小鳥遊さん」
「はい」
「伊吹先生のタルト・タタン……一緒に完成させてもらえないか?」
それは、怜にとって生まれて初めての「お願い」だった。そして、彼の人生が大きく変わる瞬間でもあった。
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