第一章:太陽が厨房にやってきた
陽菜が Quantum Cuisine で働き始めて一週間が過ぎた。彼女は与えられた作業を完璧にこなしていたが、その間もずっと怜の技術を観察し続けていた。
陽菜のナイフワークは確かに優秀だった。しかし、それは感覚に依存している。均一性を保つための定規も使わず、厚さを測定するマイクロメーターも使わない。すべてが「感覚」という、再現性のない不確定要素に依存していた。
「小鳥遊さん」
「はい」
「その玉ねぎの薄切り、厚さは何ミリメートルだ?」
陽菜は手を止め、困惑した表情を浮かべた。
「え……と、薄切りなので、2ミリくらいでしょうか……?」
「『くらい』では困る。正確な数値を教えてくれ」
怜はマイクロメーターを取り出し、陽菜が切った玉ねぎの厚さを測定した。
「1.8ミリ、2.3ミリ、1.5ミリ……ばらつきが大きすぎる。これでは均一な加熱ができず、食感にムラが生じる」
「でも、家庭料理では……」
「ここは家庭の台所ではない」
怜の声は氷のように冷たかった。
「料理とは科学だ。再現性、正確性、客観性――これらが満たされなければ、それは料理ではなく、単なる偶然の産物に過ぎない」
陽菜は何も言わなかった。
ただ、再び黙って作業を続けた。
しかし、怜は彼女が時折見せる表情が気になっていた。技術への敬意と同時に、どこか物足りなさを感じているような、そんな複雑な表情を。
午前中が過ぎ、昼の営業時間が近づいてきた。怜は本日のスペシャルメニューの準備に取りかかった。
「本日のアミューズ・ブーシュ『存在しないトマト』の調理を開始する」
怜の手にあるのは、見た目は完全にトマトだった。
しかし、それはトマトではない。スイカ、ビーツ、赤パプリカ、そして特殊な酵素を組み合わせ、分子レベルでトマトの味と香りを再現したものだった。
酵素反応によってグルタミン酸の濃度を調整し、リコピンに似た色素を合成。揮発性有機化合物を操作することで、トマト特有の青臭い香りまで完璧に再現している。
「なぜ、わざわざ偽物のトマトを……?」
陽菜が思わず呟いた。
「偽物? 馬鹿なことを言う。これは本物よりも本物だ」
怜は振り返ると、まるで愚かな質問をされたとでもいうような表情を浮かべた。
「自然界のトマトは個体差がある。気候、土壌、品種によって味が変わる。それは『ブレ』だ。この『存在しないトマト』は、理想的なトマトの味を分子レベルで設計し、完璧に再現している。個体差はゼロ。毎回、同じ味を提供できる」
「でも……」
「でも何だ?」
「トマトって、そのブレがあるから美味しいんじゃないですか? 今日のトマトと昨日のトマトが少し違う味だから、季節を感じられるし、自然の恵みに感謝できるし……」
怜は陽菜の言葉に一瞬戸惑った。
これまで誰も、そんな視点で彼の料理を評価したことはなかった。
「……それはセンチメンタリズムだ。感情的で非論理的な思考パターン。料理に必要なのは『再現性』であり、『安定性』だ。客は毎回同じクオリティの料理を期待している」
しかし、その言葉を発しながら、怜の心のどこかで小さな疑問が芽生えていた。陽菜の言う「季節を感じる」「自然への感謝」――それらは本当に無価値なものなのだろうか。
昼の営業が始まった。
怜の料理は芸術品のように美しく、科学的に完璧だった。
前菜の『解体されたフォアグラ』は、フォアグラを分子レベルで分解し、異なる温度と食感で再構築したものだった。口に入れると、まず冷たいムースの食感、次に温かいリキッドが広がり、最後にフォアグラ本来の濃厚な味わいが残る。
メインの『想像上の牛肉』は、大豆プロテインと特殊な酵素を組み合わせ、牛肉の味と食感を完璧に再現した植物性料理だった。環境負荷を極限まで削減しながら、味覚的には本物の牛肉を上回る満足感を提供する。
デザートの『時間の結晶』は、糖分の結晶化プロセスを制御し、口中で段階的に溶解する構造を持つ。食べ進めるにつれて甘味の強度が変化し、まるで時間の経過を口腔内で直接味わうような体験ができる。
客たちは皆、感嘆の声を上げていた。食べ物の概念を覆すような革新的な体験に、誰もが驚きと興奮を隠せないでいた。
しかし、陽菜は客席を見ながら、ある疑問を抱いていた。確かに客たちは驚いている。感心している。しかし、本当に「幸せ」そうに見えるだろうか?
夕方、スタッフの賄いの時間になった。陽菜は厨房の片隅で、小さなオーブンを使って何かを調理していた。香りが立ち上る。バターと卵、そして小麦粉の甘い匂い。それに混じって、ハーブの爽やかな香りも感じられた。
「何を作っている?」
怜が近づいた。
「キッシュです。フランスの田舎でよく作っていた家庭料理で……」
陽菜の声は少し沈んでいた。怜の最初の言葉を思い出していたのだ。「フランスの田舎の家庭料理など、ここでは何の役にも立たない」
「レシピは?」
「え?」
「レシピだ。材料の分量、調理温度、時間、それらの数値データはあるのか?」
「あの……レシピというか、目分量で……」
怜は眉をひそめた。
「目分量? 科学において再現性は最も重要な要素だ。同じ結果を得られない調理など、料理とは呼べない」
陽菜は何も答えず、ただ黙ってキッシュの焼き上がりを待った。彼女の表情には、深い悲しみが浮かんでいた。
師匠のピエール、プロヴァンスの小さなレストラン、地元の人々の笑顔――すべてが遠く感じられた。自分がここで学びたかったものは、本当にこの冷たい完璧性だったのだろうか。
三十分後、オーブンから取り出されたキッシュは、お世辞にも美しいとは言えなかった。表面は不均一に焼け色がつき、形も少し歪んでいる。
しかし、それを一口食べたスタッフたちの顔が、みるみるうちに笑顔に変わった。
「美味しい!」
「なんだか懐かしい味がする……」
「温かくて優しい味だ」
怜はその光景を見て、理解できない苛立ちを覚えた。なぜ、非科学的で不正確な調理方法で作られた、見た目も不完全な料理が、人々を笑顔にするのか。
怜は一切れのキッシュを取り、冷徹に分析した。しかし、口に入れた瞬間、彼の心に懐かしい記憶が蘇った。
母の手作りのオムレツ。
不格好だったが、愛情に満ちていた温かい朝食……あの日は確か……
怜は慌てて、その感傷を振り払った。
「……卵液の凝固温度が不均一だ。……パート・ブリゼのグルテンの形成も、甘い。……塩分濃度も、計算されていない。……これは、料理とは、呼べない。……ただの……」
「ただの何ですか?」
陽菜の声に、初めて怒りの色が混じっていた。
「……食べ物だ。料理ではない」
怜の言葉に、厨房の空気が凍りついた。陽菜の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私の……私のお母さんが教えてくれた大切なキッシュを……そんな風に言わないでください」
彼女は泣きながら厨房を飛び出していった。
後に残された沈黙の中で、怜は自分の言葉の重さを感じていた。陽菜の涙に、なぜこんなにも胸が痛むのだろう。なぜ、彼女の悲しみが、自分のことのように感じられるのだろう。
感情……それは測定不可能で、制御不能で、そして今、怜の心を激しく揺さぶっていた。
その夜、怜は一人厨房に残り、分子構造の美しさに没頭しようとした。しかし集中できなかった。頭の片隅で、陽菜の涙を思い出していた。そして、彼女が作ったキッシュの、科学では説明できない「温かさ」を。
怜は初めて、自分の料理哲学に小さな疑問を抱いていた。完璧性は本当にすべてなのだろうか。感情は本当に不純物なのだろうか。
その疑問は、やがて彼の人生を根底から変えることになる――そんな予感が、静寂の厨房に漂っていた。
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