三
私は小窓から見える欠けた月を眺めながら、徐に口を開いた。聞きたいことがあるからだ。
「栄太郎」
「なあに?」
場に似合わぬ、春のように陽気な声で返された。月から栄太郎へと視線を戻した私は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「あの男は……聖という男は、何者だ?」
「聖?」
私は頷いた。栄太郎は不思議そうに目を丸くさせているだけで、探りを入れていることには気づいていないようだった。
「聖はねぇ、ひと月ほど前にここに来たかな。雪山で死にかけたところを先生が拾ったらしいよ」
「ひと月前、か」
「うん。その前は何してたのか知らないけど、かなり上等なもの着てたし、高そうな刀持ってたし、品があるから……どっかのお坊ちゃんだったんじゃない?」
栄太郎はそうあっけらかんと言うと、あの男が来たばかりの頃のことを話し出した。
聞く限りでは、かなり疑わしい。あの男が私の知る人物であるということに間違いはなさそうだ。
彼が持っていたという短刀を見れば、確証が持てるかもしれない。
私は栄太郎に短く礼を告げ、立ち上がった。
「ちょ、華純? どこに行くの?」
「そこまで」
「こんな夜中に? 何をしに行くのさ。みんな寝てるよ?」
「そうだな」
私は慌てだした栄太郎を無視し、部屋を出た。
目指すはあの男──聖とかいう男がいる部屋だ。
部屋を出た私は、ここが松下村塾の一室ではなく誰かの家の一室であることに気がついた。廊下を歩いていて、大勢の子供が集まって勉学に励めるような大きな部屋が見当たらなかったからだ。
ここが誰かの家なのだとしたら、あの男は何処にいるのだろう?
「──華純っ!」
大股で廊下を歩いていた私の腕を、追いかけてきたらしい栄太郎の手が掴む。そのまま強く引かれ、否応なしに後ろを向くことになってしまった。
「……離せ、栄太郎」
「やだよ」
栄太郎は唇をぎゅっと引き結ぶと、私の腕を掴む手に力を込めた。そんなにも私をあの男の元に行かせたくない理由が、栄太郎にはあるらしい。
「……何のつもりだ? 私が何処へ行こうと、私の勝手だろう」
「勝手だよ」
「ならば離せ」
「やだよ。だって、行って欲しくないから」
そう言うと、栄太郎はもう片方の手も使って私の腕を掴み、真正面から向き合わせる。
吹き抜ける冷たい風が、癖のある栄太郎の髪をふわふわと揺らした。
「……死にたそうな顔で、どこ行くの」
真面目に質問をしたのだろうが、それに答える時間と心持ちを持ち合わせていない私は、ため息で返した。だというのに、栄太郎は顔色を変えずに私を見つめたままだ。
何なんだ、こいつは。宙を舞う葉のような奴かと思えば、急に真面目になったりして。関われば関わるほど、此方の調子が狂って仕方がない。
「答えてよ、華純」
私は口元だけで笑った。
「……嫌だと言ったら?」
栄太郎は目を細めると、私との距離を一歩縮めた。そして、ぐいっと顔も近づける。
「答えたら、放してあげる。どこへでも好きなところに行けばいいよ。今度は止めないから」
その栄太郎の言葉に何かを足すかのように、視界の端で雪が舞った。
何故こうまでして栄太郎は私の行き先が知りたいのだろう。単なるお節介かと思っていたが、真剣な顔つきを見ると、そうではないのだと思ってしまう。
「……昔の知り合いに似ている男に会いに行くだけだ」
素っ気なく答えた私に、栄太郎は気のない返事をすると、そっと拘束を解いた。
「ふうん、こんな夜更けにねぇ。寝てるかもしれないよ?」
「知るか。叩き起こす」
何が面白かったのか分からないが、栄太郎はぷっと吹き出すと、控えめに笑い出した。
「へぇ、それで、違ったらどうするのさ」
「その時はその時だ。……もういいだろう、私は行く」
栄太郎は納得がいかないとでも言いたげな顔をしていたが、それ以上私が語らないだろうと判断したのか、腕を下ろす。
それを見た私は栄太郎に背を向け、家の外に出た。
外は相変わらずとても寒かった。春の気配を微塵も感じさせないほどに。
(……雪、か)
そういえば、あの人は雪が好きだった。春が一番好きだと言っていたけれど、雪も好きだと言って笑っていた。
あの日、あの男に──実の弟に殺されていなかったら、今頃どうしていただろう。
許婚であった私の手を引いて、雪を眺めていただろうか。それとも、春が待ち遠しいと語っていただろうか。
(……あの男さえいなければ、私は今頃……)
そんな、失った夢の続きを考えていた時だった。
背後から、雪を踏む音が聞こえたのは。
さくり、さくり、と。私へと近づいてくる足音が聞こえる。
栄太郎が約束を破ったのかと思ったが、足音は栄太郎らしくなく、女のように控えめでゆっくりとしている。
通りすがりの女人かとも思ったが、刀を持って歩く音が聞こえたから、女ではないだろう。
ならば、誰なのだろう。吉田寅次郎か綺沙かとも考えたが、二人はこんな夜分に人を訪ねるような人だろうか。
(……誰、だ?)
そう、胸の内で自分に問いかけた時だった。
近づいてくる足音が止まったと同時に、思わず身震いしてしまうほどの寒気を感じたのは。
振り返って、相手が誰なのかを確認すればいい。だがしかし、それは駄目だと警告するかのように私の身体が震えている。
嫌な予感、というのはこういう事を指すのだろう。知ったところで、もうどうにもならないだろうけれど。
私は大きく息を吸い込み、自分を落ち着かせた。そして、右手を刀の柄へと添わせ、ぎゅっと握る。
近づいて来る者が抜刀していることに気づいた私は、弾かれたように背後を向き、切っ先を突きつけた。
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