第5話 呼ばれる

その夜、咲はいつもより浅い眠りについていた。

夢とうつつの境を揺れるようにしていると、枕元で「カラン…」と小さな音が響いた。


目を開けると、机の上に置いたはずのペンが床に転がっている。起き上がって拾おうとした瞬間。


「……咲。」


廊下の方から、自分の名を呼ぶ声がした。

それは低くも高くもなく、どこか懐かしさを含んだ響きで、耳にすっと入り込んでくる。


(返事をしてはいけない……)

宮園から注意を受けた言葉が頭をよぎる。だが、不思議なことに、身体の奥から熱が込み上げてきて、まるで糸に操られているかのように立ち上がっていた。


気づけば、足は勝手に扉の前まで進んでいる。

震える指先でノブを掴むと、心臓がドクンと跳ねた。


開けてはいけない。

理性が叫ぶ。だが。


咲は、まるで夢遊病者のように静かに扉を押し開け、廊下へと踏み出してしまった。


廊下に出ると、淡い月明かりが床に影を落としていた。

壁にかかった絵画や古びた家具の影が、普段より不気味に揺れて見える。

夜の空気はひんやりとしていて、微かにカビの匂いが混じる。


静まり返った屋敷の奥から、先ほどの声と同じような足音が、かすかに響いてくる。

咲の心臓は、音に合わせて強く脈打ち、手のひらに汗がにじむ。


(……誰がいるの? でも、行っちゃだめ……)


抗えない好奇心が、咲の理性を一瞬だけ凌駕した。

ふらりと歩き出す足。

心臓が胸を突き破りそうなほどに高鳴る。

指先は微かに震え、息は浅く速くなる。


目の前に、人影がひとつ、ゆらりと揺れて立っていた。

人間のようでもあり、何か異質なもののようでもある。

影の輪郭はぼやけ、足元の月光でわずかに揺らぐ。

その場に立ち尽くす咲の体温が、一瞬で冷え切ったように感じられる。


「高野さん!」


背後から宮園の声。

振り返ると、暗闇の中に立つ宮園の瞳が、冷静でありながらも鋭く光っていた。


「わかっているでしょう? そこは決して入ってはいけない場所です」


咲ははっとして足を止める。

影は扉の向こうへ消え、重く冷たい空気だけが残った。

そして咲は、自分の足元にまだ残る月明かりと、今しがた踏み込もうとした禁忌の階段の感触にぞくりとするのだった。

背中に冷たい汗が流れ、身体が一瞬硬直する。

屋敷の静寂は一層重く、咲を息をひそめさせるように包んでいた。


(なぜ私は、声に導かれるんだろう……。あの影は、一体誰なんだ……)


胸の奥で、理性と好奇心がせめぎ合う。

一歩踏み出すたびに、全身が緊張で張りつめる。

それでも、咲の目は、扉の向こうにまだ残る影の気配を追い続けていた。


その時、廊下の奥から、かすかに不気味な笑い声が響いた。

その声に、咲の全身が凍りつく。

そして、次の瞬間、屋敷の暗闇が、何か得体の知れないものの存在を告げていることを、咲は嫌でも悟った。


(この屋敷には、まだ見てはいけないものが、待っている……)

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