第十三話 姫は覚醒する

 **


 「……なんで、最後の最後にそんな傷だらけになるんだ、お前は」


 手足に細かい擦り傷を負った私を、玉ノ井先生が頭を抱えて見下ろす。

 病院──もちろん、〈夢見島ゆみじま〉市内の普通の病院に付き添った先生は、渋い顔で車を運転している。


 「すっ、すみません……」

 「マンションの階段でこけただと?全く……」


 私は、手足に負った細かい傷を見下ろす。


 先日、マンションの屋上で制御の利かない魔力を強引に押さえ込もうとした。

 その時に、弾き飛ばされ、なぎ倒され、叩きのめされてできた傷だ。


 玉ノ井先生は、案の定、私の説明に納得がいかない様子だった。

 しかし、乗用車のハンドルを握った玉ノ井先生は息を吐いた。


 「だが、一緒に生活していて、お前の生活態度に問題がないのは確認が取れた」

 「おっ、お世話様です……」


 私が助手席で頭を下げると「全くだ」と、玉ノ井先生が苦り切る。


 「だが、これだけ傷が絶えない事に関しては、納得がいってない。ただの不注意だとしてもな」


 ハンドルを握る玉ノ井先生が、私を横目に鋭く見やるのに身を縮める。


 「明日川あすかわ、今回のことでよく分かったと思うが、私は自分の受け持つ生徒が問題を抱えていた場合、それを見過ごすつもりはない」

 「……はい」

 「何か隠していた場合、ただではおかない。これだけは覚えておけ」


 私がごくりと唾を呑み込むのに、玉ノ井先生は一しきり睨んだ後、車を停めた。

 そして、助手席の側の扉を開いて私を振り向いた。


 「寮の修繕作業が終わったと連絡があった。今日から、警備員も寮母の方も復帰されるそうだから、お前もまあ……くれぐれも身の周りに気を付けて生活しろ」


 そう言って、車の中から寮の建物を玉ノ井先生は見上げる。


 私は、車を降りる間際、彼女を振り返った。


 「あの、先生」

 「……なんだ?」

 「短い間でしたが、お世話になりました」


 私が深々と腰を折って礼を告げると、玉ノ井先生は軽くうなずいた。


 「……夏休みはまだ残っている。くれぐれも浮かれて怪我をするんじゃないぞ」


 そして、最後にそう言って私の顔を見詰めた。


 〇


 寮の自分の部屋に戻って、持ち出していた勉強道具や私物を元通りに戻す。


 寮母さんにも会って、迷惑をかけたことをお詫びした。

 それから、先に寮に戻っていた他の寮生とも食堂や談話室などで挨拶を交わす。


 土生先輩とも顔を合わせて、「何か大変だったらしいけど、平気だった?」と尋ねられて。うなずいた。


 「うん……ちょっと大変だったけど、なんとかなりました」

 「そう、なんとかなったなら、よかったわね」


 〈土精霊ノーム〉のくりくりとした巻き毛を指に絡め、土生先輩はうなずいた。


 食堂で「やっぱこれだなぁ」と、馴れ親しんだ寮の晩御飯をもりもりと食べて、共同浴場で汗を流し、談話室で軽く土生先輩とテレビで情報収集をした後、自室に戻った。


 反射的に、自分の足元の影を見たけど──


 「あ、そっか……シャド、司三さんと一緒にいるんだった……」


 今は私一人だと思い出して、私はベッドの端に腰掛けた。


 なんだか、馴れ親しんだ寮の部屋に戻ってきたというのに、落ち着かなかった。

 勉強机の上の物の配置を色々と変えてみたり、『コスモスマン』のミニフィギュアの埃を払ったり、姿見の前をうろうろしたりして──


 結局は、もう一度、ベッドの端に腰掛けてスマホを握った。


 アプリを開いて、大きく深呼吸をしてから、『今、お仕事忙しくない?』と、ある相手にメッセージを送った。


 すると、ほとんど間を置かず、すぐに音声着信の通知が来た。


 ──『何か相談でもあるのかい?』


 通話の向こうから、低く凛々しい女の人の声が聞こえた。

 多分、私が一番、馴れ親しんだ相手の声だ。


 私は膝の上で、ぎゅっと拳を握ってうなずく。


 「うん、そうなんだ。ばあちゃん」


 〇


 『……なんだ、まだその事で悩んでいたのか』


 私が魔力の制御が一向に戻らないことを説明する。

 すると、通話口の向こうでばあちゃんが呆れたようにつぶやいた。


 「なんだじゃないよ。私だって必死なんだよ」


 私が唇を尖らせるのに、通話口の向こうのばあちゃんが小さく息を吐いた。


 『前に言った、〈AZテック〉と戦っている連中の手伝いの事か』

 「うん。私、その人たちの事を、待たせてしまっている。……皆、私の事を、信じてくれている」


 ばあちゃんは、向こうでしばらく黙りこくっていたけど──


 『……本当にそうか?クロエがそう思い込んでいる、あるいはクロエ自身がそう思いたいだけじゃないのか?』

 「ばあちゃん」


 私はすっと腹に力を込めて、静かにばあちゃんに言い返した。

 すると、ばあちゃんは再び黙り込んだ後で『悪かった』と、素直に謝った。


 「それだけじゃないよ。……今回の事で、今、私の周りにいる人たちに本当に心配をかけてしまったし……私、自分が未熟だって、心の底から思い知った……」


 私は部屋のガラス窓の前に立って、ばあちゃんに訴えかけた。


 「この先、同じ事が起きないように、私は私にできる事を覚えておきたいんだ」


 「ばあちゃんの知恵を借りたい」と、私はばあちゃんに懇願した。


 躊躇いも物怖じもせずに、ばあちゃんを直接頼ったのは、初めてだ。

 ばあちゃんがその事を覚えているかどうかは分からない。


 けど、ばあちゃんは私の言葉にじっと耳を傾けた後、即座に口を開いた。


 『知恵ならもう与えている』

 「えっ?」

 『クロエ、私は君が思う以上に、君がこの先必要とするであろう知識を教えてきたつもりだ。あとは君がそれを思い出せばいいだけだ。ふむ……そうだな』


 ばあちゃんは少し、通話口の向こうで思案しているようだった。


 『こっそり夜明けの海でも見に行って、一人でゆっくり考えてみればいい』

 「ばあちゃん?」


 ばあちゃんの言葉に私は首をかしげ、その真意を問い質そうとした。

 しかし、その途端、通話口の向こうでばあちゃんが不機嫌そうな声を出す。


 『……あ?なんだ?……おい、その件は当分の間、待たせておけと……。くそっ』


 『私は孫と落ち着いて話もできんのか!』と、ばあちゃんの怒鳴り声が聞こえた。

 何か手近にあった物を壁に投げつけて壊す物音がスマホから響く。


 「あー……ばあちゃん、忙しいのに、ごめん……」

 『あ、いや、違うぞ、クロエ。今のは……っ。だーかーらーっ!その件は当分の間!待たせとけと!言ってんだろっ‼』


 今度は、どしゃん!がしゃん!と盛大に椅子や机を蹴り倒す音が聞こえてきた。


 なおもばあちゃんが暴れ回る音が聞こえたが、私は通話を切る。

 これ以上、ばあちゃんの周りの人を困らせるのは忍びなかった。


 (でも……せっかく、ヒントはもらったんだ)


 私は、窓の向こうの夜闇に沈む東の空を振りあおいだ。


 〇


 スマホで夜明けが見られそうな海岸の情報を調べる。

 今の私でも時間をかければ十分に行き来できそうな距離で、人の寄り付かなさそうな場所を探すと、ちょうと良さそうな所があった。


 そのまま、寮の部屋を脱け出し、すとっ、とベランダから地面に降り立った。

 魔力は使えずとも身のこなしは戻っているから、寮の外壁も軽々と飛び越える。


 寮から少し離れた夜闇の中で、十分に手足の関節をほぐす。


 そうして私は、東の海岸線に向けて一人きりのジョギングを始めた。

 群島連邦の夏の夜は、〈魔族領〉とは全然違って、むわっと湿気がまとわりつく。


 途中で見つけた自販機でスポーツドリンクを買っておく。

 それを『コスモスマン』の缶バッジが付いたリュックに入れ、再び走り出した。


 ひたすらに、東の海に向かって人気のない道を走っている。

 少しずつ、これまで考えていた事、悩んでいた事が、汗と共に流れ落ちるようだ。


 既に日付も変わった頃から走り始めたから、夜明けは確実に近づいていた。


 坂道を登って、越えて、登って、越えて──


 時折通りがかる車や人から、そっと道路脇の茂みに隠れてやり過ごす。

 だが、次第に通りがかる車も人もなくなって──私は本当に一人きりで夜明け前の暁の闇の中を走り続けた。


 (世界に、私一人しかいないみたいだ)


 呼吸を整える為に一度立ち止まった街灯の下で息を吐く。

 スポーツドリンクをごくごくと飲んで水分を補給し、目を見開くと街灯には結構大きな虫が集まっていた。


 呼吸が整うのを待って、私はもう一度、東の海岸に向けて走り出す。


 そして──次第に空が白み始めた頃──


 私は、波の打ち寄せる砂浜に辿り着いた。


 〇


 やや風の強い日で、私の足元の砂浜には白い泡を浮かべた波が打ち寄せた。


 崖の下に小さな砂浜があるだけの場所で、少し〈魔族領〉のばあちゃんの領地にある海岸に景観が似ている。私は、その小さな砂浜を踏み締めて歩き始めた。


 「どうして、ばあちゃんは夜明け前の海を散歩してみろって言ったんだろ」


 そんな事を考えつつ、私は一人、さくさくと足元の砂を踏んで歩く。

 そうしている間に、東の空が白み始めてきた。


 今日も暑いらしいけど、海のそばは潮風が吹いて心地よい。


 ふと、立ち止まって私は東の空が白むのを見た。

 日の出が近いのだ。


 そう見て取った時──ふと、幼い頃の記憶が蘇るのを感じた。


 〇


 あれは、私がまだ幼い頃、ばあちゃんの城の部屋で一人で寝ていた時だ。

 ある日の真夜中、ふとバルコニーに続く窓を叩かれて私は目を覚ました。


 ──ばあちゃん?


 私が目を擦りながらベッドから起き上がると、ばあちゃんが窓の外から私を手招いていた。「ねむいよ~」と文句を言いつつ、それでも私はバルコニーに出た。


 そうすると、漆黒の外套をまとったばあちゃんが私を抱え上げた。


 ──悪いな。しかし、クロエにどうしても見せておきたいものがあったんだ。


 ばあちゃんはそう言って、私の小さな体を胸に抱き寄せた。


 ──向こうに着くまで運んでいくから、ばあちゃんの胸で寝てな。


 いつになく優しいばあちゃんの声に、私は素直に甘えた。

 私がばあちゃんの胸にすがりつくとばあちゃんは微笑み、バルコニーを蹴って夜空に跳び上がり漆黒の外套を打ち振るった。


 ばあちゃんの温もりを感じながら眠って、目が覚めるとどこかの砂浜にいた。


 ばあちゃんは焚火を焚いて、私を自分の外套で包んでくれていた。

 流木の上で、互いに寄り添うように腰掛け、ばあちゃんは話を始めた。


 ──普段は波が荒れて霧がかかって、到底、朝陽など拝めないのだが……。


 ばあちゃんはそう言って、私を胸に抱えて海の向こうの東の空を見た。


 ──毎年、この季節にこうして、不思議な位すっきりと晴れ渡る時がある。


 幼い私はばあちゃんの言葉にまぶたを擦り、ばあちゃんの指差す先を見た。

 すると、本当にばあちゃんの言った通りに澄み渡った空が見えた。


 東のくっきり見える水平線の上に、輝く夜明けの光が見えた。


 ばあちゃんは私をすっと胸に抱え上げて、東の空に向き直った。

 そして、懐かしそうに、少しさみしそうにこんな話を始めた。


 ──ばあちゃんがまだ若い頃、ここである人に教えられた。


 自分が〈魔族領〉の中の小さな世界しか知らぬ未熟な魔族だったこと──

 若い頃に合ったその人が外の世界に目を向けるきっかけになったこと──


 〈魔族領〉を離れることになり、沢山の人、本当に沢山の人と出会ったこと──


 そんな話を私に語って聞かせ、明るくなっていく東の空を眺めていた。


 ──外の世界を見て多くの人々と知り合って、一つ分かったことがある。


 魔族も、確かにこの世界の理の内にある存在だということ。

 多くの種族が暮らすこの世界で、魔族もまたその内にある存在だということ。


 ──〈魔族領〉の中に封じ込められていると、魔族はいずれ衰え、堕落し、滅びてしまう。魔族の剣士だった私の父や、英明な魔族の王であったはずの父の親友がそうだった。


 ばあちゃんが真剣な表情で語るのに、幼い私は唇を尖らせた。


 ──ばあちゃんのおはなしはむずかしいよ~。

 ──ははっ、そうだな。クロエは今日のこの景色をばあちゃんと見たことを覚えていればいい。


 ばあちゃんは愉快そうに笑って、夜明けの光を見た。

 さあっと雲の隙間から顔をのぞかせた朝陽が私たちの姿を照らす。


 ──クロエ、もしいつか〈魔族領〉の外へ出る事があったなら……。


 ばあちゃんはきらきらと輝き打ち寄せる波に足を踏み入れ、私の髪をなでる。


 ──心を開いて多くの人と接しなさい。魔族の魔力は心の力。クロエが多くの人と接して心が成長すれば、それだけクロエの魔力も大きくなる。もし、何か困った事があれば、この事を思い出せばいい。


 そう告げて、ばあちゃんは日の出に目を奪われる私を優しく見詰めた。


 〇


 「……思い出した」


 私は、東の空に昇る太陽を見ながら、足元に打ち寄せる波の音を聞いていた。


 そして、〈夢見島〉を訪れてから出会った、多くの人々の事を思った。


 明日川黒依として出会った、学校の友人や先生、身の周りの人たち。

 クロエ・アスタルテとして出会った、共に戦い信頼する仲間たち。


 私は一人たたずむ砂浜で、自分の足元の影を見詰める。


 私の心が成長すれば、魔力も成長する。

 ばあちゃんが幼い私に朝陽の中で語りかけた、その言葉。


 私は──これまで、自分の魔力が成長しているなんて考えた事はなかった。

 自分の魔力がどうなっているかなんて考えないまま、元のまま扱えると勝手に思い込んでいた。


 「……周りに人はいない。一度……思いっきり、全力で魔力を解放して……」


 そして、今、自分の魔力がどうなっているか、確かめよう。


 白く飛沫を上げる波打ち際に立って、私は深呼吸をして精神を集中した。

 何度か、くるぶしまで打ち寄せる波の感触を感じて──


 私は目を見開き、ありったけの魔力を解放した。


 その瞬間──ぞくっと、自分の背筋を戦慄にも似た高揚感が駆け上がる。


 一瞬、辺りに吹いた風がぴたりと収まり、水を打つような静けさが訪れた。


 そして──


 朝陽の眩い輝きさえも引き裂くような巨大な触手が幾つも姿を現した。

 それは私の周りでうねって、天まで届くような水柱を跳ね上げる。


 「…………」


 こんなの、想像できるわけない。

 元のように扱おうとして、扱い切れるわけがない。


 こんな短期間に、これだけ自分の魔力が成長しているなんて──


 ──でも、これなら。


 私は、自らの影の中に封じられていた膨大な魔力を見詰めて、拳を握る。


 「私……まだ、戦える」

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